「……わたくしは、冷泉家に長らくお仕えする女中でございます。そのように頭をお下げにならなくてもよろしいのですよ」
返ってきたのは、思いのほか柔和な声。
そっと顔を上げてみれば、いつの間にかトメの顔からは厳しい色が消え、朗らかな笑みが浮かんでいる。
「怖がらせてしまいましたね。申し訳ございません。士琉坊っちゃまの奥さまとなられる方の人となりを把握しておきたかったのですわ」
「い、いえ、そんな」
「こちらでは、坊っちゃまの身の回りのお世話をさせていただいております。今後は奥さまも。なにかありましたら、なんなりとお申しつけくださいね」
「あ、お待ちください。それはお鈴のお仕事ですので」
するっと割って入ってきたお鈴は、絃の半歩後ろでぺこりと頭を下げた。
「お嬢さまの専属侍女のお鈴と申します。今後はお鈴もこちらに住み込みで働かせていただきますので! どうぞ! よろしくお願いしますっ!」
「あらまあ、活気のあるお嬢さんだこと。若いっていいわねえ」
トメはオホホホホと笑いながらも、お鈴を見る目はどこか据わっていた。
「ならば、あなたはわたくしと同じ立場ということね。いろいろと教えなければならないことがたくさんあるわ。まああなたが不出来でも、わたくしが奥さまのお世話をさせていただくので、べつによろしいのだけれど」
「あははは、なにを仰いますか。お鈴はこれでも十歳から専属侍女なんですよ。お鈴以上にお嬢さまを知り尽くしている人間など存在しませんし、トメさんのお手を煩わせるまでもありません。どうぞご遠慮ください」
バチバチバチッと、ふたりのあいだに火花が飛んでいるような気がして、絃ははらはらする。お鈴はなにかと過激なところがあるのだ。まさかトメ相手に着火したりしないだろうと信じたいが、この様子だと危ういかもしれない。
(でも、トメさんも、けっこう容赦がない……)
士琉は士琉で、頭痛を堪えるように額を押さえて項垂れていた。
目の前で繰り広げられる従者同士の煽り合いに、どうにか呆れを噛み殺しているようだった。なるほど、お鈴に似ている侍女とはトメのことであったらしい。
「ふたりとも、頼むから仲良くやってくれ。せっかくの新婚生活を険悪な雰囲気で邪魔してくれるな」
「「言われるまでもございません」」
ある意味、息はぴったりなのかもしれない。
ふたりの答えが綺麗に重なり、しばし沈黙の帳が降りる。
さすがの絃も気まずさというものを味わいながら、おずおずと切り出した。
「……ええと、ではその、改めまして。お鈴ともども、これからよろしくお願いいたします。トメさん」
「はい、こちらこそでございますわ」
絃に対しての棘は完全に消え去り、トメはにこやかに返してくれた。なかなか癖は強いが悪い人ではないのだろうと察して、絃は内心胸を撫で下ろす。
「そういえば、トメ。気になっていたんだが」
「はい、どうされました?」
「あの履物は誰のだ」
尋ねた士琉の視線の先には、土間の隅に並べられていた男物の履物があった。
形状的には士琉が履いていたものとよく似ていたため、絃はてっきり士琉の予備の私物かと思っていたのだけれど、どうやら違ったらしい。
「そうでした、そうでした。お客さまがいらっしゃっているのですよ。数刻前から客間で士琉さまのお帰りをお待ちになっています」
「……あいつか?」
「ええ、そうでございます。言うまでもありませんが」
即答したトメに、士琉はふたたび眉間を揉みながら天を仰いでしまった。