士琉が自覚なく『今日も』と言ったことを悟った絃は、じわじわと恥じらいに襲われた。己の頬が赤らむのを感じながら、忙しなく視線を彷徨(さまよ)わせる。

(綺麗、だなんて……)

 胸中を支配するのは、引きこもり生活のなかでは知り得なかった感情。どう処理すべきかわからず混乱していると、かたわらでお鈴が感嘆(かんたん)にも似た息を吐いた。

「いやあ、旦那さまはわかっておられますねえ。まあ、お嬢さまのお美しさは誰が見ても天下一品ですけど。お鈴はやっと世界にお披露目できて嬉しいです!」

 なぜか両手で頬を押さえながら愉悦(ゆえつ)に浸るお鈴を見て、士琉は苦笑した。

「お鈴は絃嬢が好きなんだな」

「そりゃあ、お嬢さまはお鈴のすべてですからっ。──というか、旦那さま。いつまでお嬢さまを『絃嬢』って呼ぶおつもりですか? 奥さまになられる方なのに」

「っ、いやそれは」

「まったく、じれじれですねえ。お鈴はむずむずして仕方がないですよ」

「…………。お鈴は、俺の知る侍女によく似ているな……」

 やりづらい、と士琉は苦々しく呟いて前髪をかき上げた。
 ついそれを凝視してしまった絃は、またも変な動悸(どうき)に襲われて不自然に目線を行ったり来たりさせてしまう。

「ああ、このような場所で立ち話をしている暇はないか」

 それをどう勘違いしたのか、ふたたび近くに寄った士琉に右手を掬い取られる。
 こちらを見下ろす眼差しは至極穏やかだ。

「早く父上に挨拶を済ませて家に帰ろう。冷泉の本家では気も抜けないだろうから、これから生活する家はべつに用意してあるんだ」

 そうして大門に向かい歩き出した士琉に、絃は面食らいながらついていく。どうして手を繋ぐ必要があるのかはわからないけれど、それを訊ねる勇気はなかった。

(でも、士琉さま、とても優しく握ってくれている……?)

 そういえば、弓彦や燈矢も、よく手を繋いでくれた。
 されど士琉の手は、彼らとはまた違う感触がする。
 手袋越しでもわかる、無骨で硬い、戦う者の手だ。

(……すごく安心するのは、どうしてかしら)

 慣れないはずなのに、どこか結界に似た安心感があった。
 ああ大丈夫だ、と心が勝手に油断してしまう。
 それがまた不思議で、歩きながら悶々と理由を考えていた絃は知らなかった。

「……折れてしまいそうだな」

 耳の淵をほんのりと赤く染めた士琉が、ぽつりとそう呟いていたことを。



 絃が通されたのは客間ではなく、冷泉家の現当主──冷泉桂樹(けいじゅ)の私室だった。
 最初こそ驚いたものの、部屋に入ってすぐその理由を察した。
 桂樹は、部屋の中心に敷かれた(しとね)で横になったまま、こちらを出迎えたからだ。
 頬骨や手首の筋がはっきりと浮き出るほど痩せ細った体躯(たいく)。血の気が窺えない土気色の顔。縁が黒く落ち窪んだ目。ひび割れた唇の間から漏れる隙間風に似た呼吸音。
 どこからどう見ても、彼がなにか重い病を患っているのは明白だった。

(とても、つらそう……。冷泉家のご当主がご病気だなんて知らなかった)

「──お初にお目にかかります。月代十七代当主の妹、絃と申します」

 動揺をどうにか呑み込みながら、絃は市松の畳に座して丁寧に頭を下げる。すると桂樹は、こちらが心配になるほどよろつきながら上背を起こした。

「ああ、当主の冷泉桂樹だ。……こんな見苦しい状態ですまないね。遠路はるばるよく来てくれた。月代のお嬢さん」

「あの、どうかそのままで……。こちらのことは気にせず、休まれていてください」