「いえ……大丈夫、です。少し、緊張してしまった、だけなので」

 軍帽と口布を外した士琉は、漆黒の圧がないおかげか、幾らか受け入れやすかった。
 つっかえながらも声を絞り出した絃は、外から流れ込んできた新鮮な空気に浸る。
 狭い空間で、極度の緊張に晒されていたせいだろう。一度気持ちを落ち着けるために深呼吸をしてみると、わずかながら気分の悪さが和らいだ気がした。

「すまない、無理をさせたな。これから父上……冷泉家の現当主のところへ顔出しに行こうと思っていたんだが、日を改めた方がいいか」

「も、問題ありません。もう大丈夫ですから」

「いや、しかしな」

「どうかお願いいたします。わたしのことは、本当にお気になさらず」

 むしろ、嫁入り先の現当主への挨拶を(おろそ)かにする方が心臓に悪い。
 場合によっては月代当主である兄の顔に泥を塗ることになりかねないし、今後の関係のためにも顔合わせはこの段階で済ませておくべきだろう。

「……そこまで言うなら、致し方ない。早めに済ませよう」

「はい。ありがとうございます、士琉さま」

「だが、本当に無理はしないでくれ。君に倒れられたら、俺の寿命が縮む」

 冗談ではなく、と重々しく付け足した士琉は、苦い茶を無理に飲み込んだような渋面をこしらえていた。どうやら相当しぶしぶ受け入れてくれたらしい。

(士琉さまは、やっぱり怖い方ではないのね)

 感情もそこまで豊かに表現する方ではないのだろうが、朴念仁(ぼくねんじん)のような印象は受けない。まあ、その端麗な容姿ゆえに、機微(きび)がわかりづらい部分はありそうだが。

「立てるか」

 そう差し出された手に頷き、ありがたく己の手を重ねて補助をされながら、絃は駕籠から出る。立ち上がる際に一瞬ふらついたが、すぐに士琉が支えてくれた。

「お嬢さま、大丈夫ですか!?」

 同じく背後で海成に支えられながら外に出ていたらしいお鈴は、瞬時に絃がふらついたことに気づき、血相を変えて駆け寄ってくる。

「だ、大丈夫よ。お鈴は平気? 酔ったりしてない?」

「お鈴は丈夫ですし、なんの不調もありませんけど……」

 心配そうな顔をするお鈴を宥めつつ、絃は目の前に(そび)え立つ冷泉本家を見る。
 立場的には対等であるはずだが、屋敷の趣きからまず月代とは異なった。

(これが、冷泉本家)

 さすが都に置かれている名家だけあり、敷地面積からして比べものにならない。
 月代本家は絃が暮らしていた離れも含めて三棟構成であったけれど、西の小通りを丸ごと支配する冷泉家なら、ゆうにその倍以上はあるだろう。

(わたし、本当に冷泉家に嫁ぐのね……)

 いざこうして対峙してしまうと、現実が嫌というほど圧し掛かってくる。
 またも呼吸を浅くしながらごくりと息を呑んでいると、そばで支えてくれていた士琉が察したのか「そう緊張せずともいい」と穏やかに口を開いた。

「父上はこの結婚に好意的だからな。絃嬢の事情も知っているし、なにも取り(つくろ)わずそのままの姿を見せて大丈夫だ。枯淡(こたん)な方ゆえ、むしろその方が喜ばれる」

「そ、うなのですか? ですがわたし、こんなぼろぼろで」

「そんなことはない。今日も綺麗だ」

 さらりと放たれた褒め言葉に、絃は思わず両目をぱちぱちと瞬かせた。隣ではお鈴が「あらあら」と口許を押さえて、あどけない顔をにやつかせている。
 そんな絃たちの反応を怪訝に思ったのか、士琉は戸惑ったように片眉を上げた。

「……なにか変なことを言ったか、俺は」

「い、いえ」