現在と当時では、そもそも状況が異なる。異なるからこそ、当時の自分の浅はかさが罪として圧し掛かってくる。逃れられない、逃れてはならない罪として。
「絃」
名を呼ばれ、ふらつきながら顔を上げる。
立ち止まった弓彦は、どこか困ったような面持ちで絃を振り返っていた。繋いだ手はそのままで、一歩、引き寄せられる。
「大丈夫。なにも起きないよ」
「……わかって、います。ちゃんと、頭ではわかっているのです」
絞り出した声が、ひどく震えていた。
「でも、わたし……とても、怖いです。兄さま……」
「うん。だけどね、ほら見て。もう出口だから」
弓彦が視線を流した先には、またも小さな木戸があった。
長らく使われていなかったのか、くすんだ緑の蔦が面妖に絡まっている。
その直前には、記憶の通り左右に分かれた道。あの日、絃がお鈴と燈矢に連れられて進んだ方角へは、さすがに目を向けられそうになかった。
「右は鬼門。左は本邸へと繋がる道。そして真っ直ぐ進めば目的地だ。今日の絃はあの日と違って、右へ曲がらず真っ直ぐに進むんだよ」
「真っ直ぐ……」
「そう、真っ直ぐ。だからあの日を繰り返すことはないね」
弓彦はふたたび歩き出しながら絃の手を引いた。そして身を屈めながら木戸を押し開けると、絃の手を離して自分は脇に避ける。
「今度は私が後ろにいるから。そうすれば怖くないだろう?」
「……ありがとうございます、兄さま」
優しいようで、とんだ鬼の所業だ。これから月代を出て嫁ごうというときに、無理やり絃のトラウマを引き出そうとするだなんて。
弓彦の目的はなんとなく理解できるけれど、さすがにこれはあんまりだ。
(でも、前に進むためには、確かに必要なことなのかもしれない)
──外に出たら恐ろしいことが起きる。
絃のなかに根づいたその意識を変えるには、あの日の出来事をなぞっても異なる結末に辿り着くことを覚えればいい。
そうして〝必ずしも恐ろしいことが起きるとは限らない〟と新たな認識を植えつけてしまうのが手っ取り早い。
あまりに荒療治だが、ようするにそういうことなのだろう。
ほんの少し歩いただけなのにどっと疲れてしまい、絃は眩暈を覚えながら、わずかに身を屈めた。小柄なため通るのに苦労はしないものの、背負う弓の先端が引っかかってしまわないように、細心の注意を払いながら外へ出る。
そうして屈めていた身を起こそうとした、そのときだった。
「あ……っ」
先に踏み出していた右足から、突然すべての力が抜け落ちた。全身の血が急激に地へ吸い込まれるかのような感覚に陥り、身体が前のめりに倒れる。
刀同士が擦れるような甲高い耳鳴り。同時に消え失せる、平衡感覚。
「──絃嬢!」
ふいに、焦燥まじりの声が空気を切った。直後、危うく顔面から地面に倒れ込もうとしていた絃の身体は、何者かにがっしりと受け止められる。
その衝撃で、一瞬遠のきかけていた意識が逆流するように舞い戻った。はっとして足を踏ん張り、なんとか身を起こして体勢を整える。
ふわり、と。優しく、ほのかに甘い白檀の香りが鼻腔をくすぐった。
(いったい、なにが起きて……)
混乱したまま顔をもたげると、全身を漆黒で染めた男と目が合った。
目深に被られた軍帽。顔の半分を覆う口布。薄手の革手袋。艶やかな革沓。