◇◇
「まったく。気楽なバツ一生活を楽しむはずだったんだけどな。どうして、こんなことに……」

 蒼国、後宮の大池に、釣り糸を垂らしながら、質素すぎる若草色の深衣姿で、独り愚痴っているのは、沙藩国の元・正妃、紅琳(こうりん)だ。
 三百年の栄華を誇っている蒼王朝の後宮において、貧相な格好で、妃が一人で釣りをしているなんて、前代未聞。由々しき事態ではあるのだが、紅琳にとっては、よくある日課の一つに過ぎなかった。
 そして、背後で飛び交っている……。

「ほら、また出戻り公主が、あんな池で魚釣っているわ。汚らしい」
「あの方、泰楽(たいらく)帝の娘だと言い張って、脅迫して公主の位を手に入れたらしいわよ」
「嫁ぎ先で、好き放題した挙句、側妃を殺そうとして、離縁されたとか」
「あの赤髪は、殺した人間の生血を啜って赤くなったんですって。怖いわ」

 ――なんて、罵詈雑言の嵐も、池のせせらぎと同程度の雑音でしかなかった。

(さすがに、赤髪が生血の色っていうのは、行き過ぎているかな)

 見下されることも、誤解されることも慣れているから、どうだって良い。
 ある意味、見世物状態ではあったが、それも紅琳の狙いではあったので、仕方なかった。
 ――問題は……。

(これだけの事をしていれば、さすがに皇帝の耳にも入ると思うのだが……)

 しかし、何の沙汰もないまま、皇帝から放置されること一カ月。
 事情説明はおろか、目通りすらなく、ただ「妃になるように」としか、命じられていなかった。

(こんな横暴が許されて堪るか……)

 怒りだけは、沸き上がってくるが、実際、どうして良いのか、紅琳にも分からない。
 殺伐とした日々を送る中、紅琳にとっての唯一の癒しは「女神」の存在だけだった。

「紅琳様。また、こんな処で魚釣りですか?」
華月(かげつ)か」

 心の中で勝手に、女神と呼んでいる隣の殿舎の住人・華月。
 彼女は軽い足取りで、紅琳のもとにやって来た。

「紅琳様ったら、こんな池で釣れた魚なんて、食べられたものではありませんよ」

 ふふっと、優雅な笑みで、斜め上の指摘をする。
 眉目秀麗、非の打ちどころもない完璧な美女で、気性も穏やか。
 装いも派手ではなく、地味でもない。
 質の良い生地に、手間のかかった銀糸の刺繍が施された趣味の良い着物を身に着けていた。
 病弱で、大抵、部屋で寝込んでいるのだが、調子の良い時は、こうして紅琳の話し相手になってくれる面白い娘だった。

「確かに、こんな池の魚じゃ、不味そうだしな。川で釣りでも出来たらいいのに。外出許可くらい出して欲しいものだ」
「釣りで外出は、さすがに難しいのでは?」
「……つまらないな」

 紅琳に宛がわれたのは、後宮の北の端に位置している玄瓏(げんろう)宮だ。
 蒼国の皇后や正一品の上級妃たちは、後宮の東、皇帝が執務を行っている内廷に隣接している青観宮の大翼殿で暮らしている。
 もっとも、皇帝の叔母である紅琳にとって、六歳も年下の皇帝の御渡りなんてどうでも良いわけだが、まさか、隣国の王から離縁されたにも関わらず、蒼国の皇帝の妃として、後宮に留め置かれるとは思ってもいなかった。
 しかも、後宮生活で何より大切な妃の階級すら、後で申し渡すと一方的で、未だに、紅琳の身の上は、宙ぶらりのままなのだ。

「そりゃあ、蒼国と沙藩との友好を維持できず、この役立たずって、陛下がお怒りで、私を処刑するつもりで後宮に置いているのかもしれないし、沙藩の元正妃を側妃に娶ることで、沙藩王を刺激したいとか。そんな意味もあるのかもしれないけど、それにしたって、何の反応もないのは困るよ。一体、私で何がしたいんだ?」

 頬杖をついて、澄んだ池の中で揺れているだけの釣り糸を、紅琳は隣に座った華月と共に、憮然と眺めていた。

「うーん。陛下に関しては、先々代の泰楽帝によく似て、後宮に入り浸ってばかりで、政には余り興味がないという噂ですものね。今、政の中心にいらっしゃるのは、先々代の皇帝からお仕えになっていた玉榮様なのだと」
「玉榮……ね」

 紅琳は、眉間の皺を一層深く刻んだ。
 かつては、泰楽帝付きの宦官の一人であったのに、兄の代で、大出世を遂げて宰相にまで上り詰めた、疑惑の多い人物。
 紅琳が嫁ぐ前から、泰楽帝のお気に入りだったらしいが、紅琳が玉榮と会ったのは、つい最近、蒼国に戻った時の挨拶のみだった。
 離縁されて戻ってきた、役立たずの公主に対して、玉榮は欠片も興味を抱いていないようだった。
 まあ、紅琳も玉榮から漂う、甘いような酸っぱいような、独特な香りに、気分が悪くなって、早々に退出したのだが……。

「玉榮に皇帝に取り継げって、頼むか? でも、あの宦官にはもう会いたくないしな」

 後宮での作法も、妃としての行儀も、紅琳は知らない。
 元々、紅琳は父なし子として、人里離れた母の実家で、集落の子として自由奔放に暮らしていたのだ。
 それが……。
 父が皇帝だなんて知ってしまったがために、とんでもない人生を送ることになってしまった。

 ――まったくもって、腹立たしい限りだ。

 紅琳の父は、先々代の皇帝・隆宝。諡は泰楽帝。
 この諡は、嫌味だろう。
 放埓の限りを尽くした帝に対する、最大限の当てつけに違いない。
 要は世の中を乱し、私欲を追求し、己が楽しむことだけを優先した暗愚な皇帝ということだ。
 父の死後、即位した兄も、志は高かったそうだが、在位は短く、流行り病で急逝したらしい。紅琳は沙藩にいて、葬礼すら出席しなかった。

「蒼国に戻ったら、最低な父のことも、公主なんて面倒な地位も全部捨てて、好きな絵を描いて、暢気に生きていこうって思っていたのにな」

 澄んだ池に、赤い朱塗りの橋。
 後宮なんて住みたくもなかったが、絵心だけは刺激される景色だ。
 精々、目に焼き付けて、芸術方面でこの鬱憤を晴らしていくしかない。
 四方から飛んでくる野次を、雑音に変換して、晴れ渡った空を、紅琳は仰いだ。
 その横顔を見ていた、華月がぽつりと言葉を零した。

「私もそういう生活、憧れます。自由に……生きることが出来たら」
「じゃあ、あんたも来ればいいじゃないか」
「えっ?」
「陛下からお許しが出たら、華月も私と一緒に田舎生活をしよう」
「二人で……ですか?」
「憧れているんだろう?」
「ええ、行きたいです。紅琳様と一緒だったら、毎日が面白いでしょうね。二人でずっと……。それが……出来ることなら」

 ――どんなに良いか……と、華月が言いかけたような気がした。
 紅琳の知らない何かが、この娘にはあるのだろう。
 玄瓏宮に入宮したのは、紅琳より先だというし、彼女なりに辛いのかもしれない。
 紅琳は華月を元気づけたくて、出来るだけ屈託なく笑ってみせた。 

「ほら、気軽に話せる友が傍にいてくれたら、私の絵画製作も捗るだろうからな」
「……友? 私が、紅琳様の友で良いのですか?」

 華月が怪訝そうに瞬きをしたので、紅琳は……。

「あんたと会ってから、たったの一カ月だけど、親しみを感じるのは、長さじゃないだろう。私は友にしか、ここまで突っ込んだ話はしないよ」

 素直に告白した。

「嬉しい。有難うございます。紅琳様。私、今の言葉を支えに生きていきます」
「そんな大げさな」

 華月の表情が見えなかったが、紅琳には泣いているように見えた。

(この子、一体……今まで、どういう人生送ってきたんだろう?)

 これほど、紅琳の一言に、感情を揺らしているなんて……。
 「友」と言ったのは、本音だ。
 けれど、実際、彼女が信用できるか否かは別だった。
 確か、華月は正二品の位。
 妃として、それなりの地位を貰っている。
 侍女も多く抱えているし、装飾品も高価なものを身に着けていた。

(だけど、この娘は皇帝の在所から遠い、玄瓏宮にいる)

 病弱で他の妃に疎まれているから、玄瓏宮に閉じ込められてしまったのだと、彼女は惚けていた。

「ああっ! 華月様! また、こんな処に一人でいらっしゃるなんて!」
「……秀真」
 
 華月が憂鬱そうに名を呼ぶのとは逆に、侍女頭の碧 秀真(しゅうしん)が安堵の笑顔で、駆け寄って来た。
 彼女は長く華月に仕えている侍女で、乳母にも等しい付き合いをしているそうだが、紅琳にとっては、心配性で口煩いオバサンだった。

「このような場所、危険極まりないではないですか!」
「大丈夫ですよ。秀真」
「秀真殿。私も含めて二人なん……」
「公主様は、お黙り下さいませ!」

 一応、敬語ではあるが、紅琳のことを蔑んでいることは、ひしひし伝わってくる。

(まっ、変に媚びられるより、良いけどさ)

 バツ悪く、癖の強い赤髪を撫でていると、華月が甘やかな声で笑っていた。

「ふふっ。たまには、こうして、日差しを浴びるのも、身体には良いことでしょう?」
「と、ともかく、一度お戻りください。皆が心配していますから」
「分かりましたから」

 そうして、華月は緩慢に立ち上がると、大柄な秀真の後に続いた。

(可愛いな)

 去り際、彼女はずっと紅琳に手を振り続けていた。

 ―――けど。
 軽く手を挙げ、華月を見送りながら、紅琳は訝しんでもいた。

(どうしてか、あの子から、女っぽいものを感じないんだよな)

 紅琳が他人のことを言えた義理でもないが、不思議だ。

(可憐で、清らかで、優しくて)

 だけど、たまに、無機質で投げやりな感じがするのはどうしてだろう。
 最初、皇帝が紅琳につけた監視役ではないかと疑ったが、違うようだ。
 薄ら、彼女から呪術的な香りを感じるのは、紅琳が母から継いだ血筋のせいだろうか?
 そもそも、紅琳が友人と呼んでいる人間は、常識外の曲者ばかりだから、華月もきっとその類なのだろう。

 ――案の定。
 いつの間にか、秀真を追い抜いて大股で歩き始めた華月は、今までの儚げな微笑を消して、不敵な笑みを口元に浮かべていたのだった。