ふたつめの牌坊に差し掛かった辺りで女兵達は姿を消した。突き飛ばされて草むらに頭から倒れ込む。後ろ手に縛られているので、庇うこともできずに打ちつけた額が熱い。

「ご自慢の耳でわたくしの心の声でも聞ければ良かったのにねえ」

芋虫のように這って逃げようとすると、髪を掴まれて顔を上げさせられる。

「今代の兎はこんな小娘を選ぶなんて、よっぽど切羽詰まっているのね。おとなしく諦めて月を渡せば良いのに」
「……泥棒猫に渡すくらいなら、小娘にでも縋りたくなるんでしょう」

ぱん、と頬を叩かれて髪が離される。
乱れた髪を振り払いながら懸命に打開策を巡らせた。片方だけ残された耳飾りが、かすかに鳴って意識を繋いでくれる。
捨て置かれた翠花のことが心配でならない。あの状態の彼女が助けを呼んでくれる可能性は低い。ここは時間を稼いで異変を察知した陛下が助けに来てくれるのを待つか、捨て身で反撃するしかない。
しかし、香麗様の地位は絶大だ。それにおそらくここにはいない侍女達が私の悪評を触れ回っている。
例えここで彼女を組み伏せても、捕えられるのは彼女でなく香貴妃に楯突いた私の可能性だって捨てきれない。
しかし、護り兎は私なのだ。この紅の瞳に宿る伝説の影響力を用いれば──

「ああ嫌。折角美しいかんばせを手に入れて貴妃になれたのに、次はこんな凡庸な小娘にならなければいけないなんて」

みゃあお。

香麗様の体が金色の光に包まれる。突然のことに身構えていると──

「どう? 鏡でも見ているようでなくって?」

そこには私が──桂月鈴が勝ち誇った顔で私を見下ろしていた。
くるりと足取り軽くその場で回転した彼女はそれでもやはり溜息をつく。

「貧相な体つき。これでよく陛下を誘惑できたこと。まあでも男のひとりやふたり、わたくしの魅力で如何様にでもできるわね。うんと励んで骨抜きにしてやりましょうっと」
「し、香麗、様、それは」

そこで香麗様は今気づいたとでも言いたい顔つきで私に顔を寄せた。
私そっくりな顔が──否、瞳だけは金色の猫の目をした私が、厭らしく艶然と微笑する。

「わたくしは桂月鈴。皇帝陛下の寵愛を一身に受ける貴妃。そして月の源を糧にいつまでも美しくある伝説の仙女」

──猫は変化の術で月を奪う。

伝説の一文が蘇る。

「月鈴はふたり要らないわ。泉の底にでも沈んでおいで」

ぐいと胸倉を掴まれ立たされる。藻掻く後ろ手に苔むした泉の縁が触れた。
そのまま胸を突き飛ばされて──真っ逆さまに泉に落ちた。



明るい水面が遠ざかる。
泡立つ空気は体を置いてぐんぐん上っては消えていく。
あの夜と同じ光景。
けれど──あの夜とは違う。
呼吸ができる。自分の意思で目が開ける。
そして、いくつもの声が何重にも反響して沈む体を支えてくれる。
がりがりと手首に振動を感じて、縛られていた縄がぶつりと切れた。
振り向けば真っ赤な瞳が一対、二対、三対。数え切れない瞳の輝きと憤りが泉を満たして沸き立っている。
今、水底にいるのは猫ではない。
これは──代々巡る、護り兎の魂だ。

「今代の兎、今こそ月を空に戻す好機だ」

──どうやって。

疑問と共にこぽりと漏れた泡は、音もないのにさざめいて彼らの耳に届いたらしい。

「猫はお前になりすまし、月だけでなくこの国も手に入れるつもり」
「なんたる強欲、だがそれこそが命取りよ」
「猫の守りはがら空きではないか」
「ならばお前こそ兎、と国じゅうに見せつけておやり」
「なに、簡単なこと。やり直せば良い」

──やり直す?

「はじまりの兎は薬壺に月の源を閉じ込め地上に降りた。さあ、再び夜空に月華を!」

耳飾りが意志を持ったように震え出す。
勢いで耳から外れたそれは、私の手の中で泉に満ちた妙薬を吸い込んではどんどんと銀色に輝きだした。

《月二、帰シテ》

銀の光と妙薬のさざめきが共鳴して声になる。
空から落ちた月の声だ。
目の前に現れた兎が差し伸べる手に導かれるまま、耳飾りを握りしめて頷いた。


銀色が弾ける。
白い視界に色が戻る。
泉の中とは違う空気に胸が焼ける。

「う……ッ!?」

咳き込む前に、どすっと背中にひと突き。振り向いてみれば、兎が次々と泉から跳び出しては私を中心に跳ね回る。
足を踏まれたりよじ登られたり好き勝手に動く兎達のせいで、私までくるくる回らされている。そのうちに、ここがすっかり干上がった泉の中心なのだと認識できてきた。
どこからか人のざわめきが聞こえてくる。回る視界がどこかで見たような女官や妃を捉え出す。
ああ、あれは宇辰様?
知らない人の中で見知った顔を見つけられて思わず笑みが零れた。
兎達は何かの音色に合わせて踊っている。
聞き慣れたそれは高尚な楽の音でも祭囃子でもなくて──耳飾りの奏でる音だった。
とろんとした重みのある妙薬を全身に滴らせたまま、ゆっくり泉の縁を跨ぐ。
銀の光を契機にしたこの騒ぎを聞きつけて、泉を遠巻きにして集まった人垣の一角に、尻餅をついた香麗様が──正確には、私のなり損ないとなった香麗様が目を見開いて私を見上げていた。

「返して頂きましょう」

呼びかけると自分のものとは思えない声が出た。
彼女に手を差し出すと、指先から銀の雫が滴ってつんと尖った鼻先に落ちた。
香麗様の輪郭が黄土色の霞に包まれる。悲鳴も上げられぬまま、たちまち彼女を覆い尽くす靄によって誰にも彼女が見えなくなった。
やがて再び銀の雫が滴ったのが合図のように靄が晴れた頃には、美姫の名を欲しいままにしたあの美貌はどこにもなく、ただ金色の目玉だけがぎょろりと目立つ、毛並みのごわついた猫がそこにいた。
どよめきが上がる中で、その猫の姿すら保てなくなったそれは土塊が零れるように崩れていく。
泥の塊になったそれを見届けた私の肩に、真っ白な兎がぴょんと跳び乗った。
そうすることが約束されていたように耳飾りを手渡す。
するとにんまりと赤い目を細めた顔が近づいて──鼻先同士が触れ合った。

「感謝スル」

それだけ言い残して兎は肩から近くの低い牌坊へ、更にもうひとつの高い牌坊へと跳び移る。他の兎もそれに倣う。
皆がその行く先を口を開けて見守っていたはずなのに、気づけば銀木犀の天辺にいた兎達は更に上へ──空へと跳び跳ね、そして消えた。
その余韻を残した夜空に、朧に──やがて輪郭も確かに浮かび上がったのは誰もが望んだ丸い輝き。

長い長い月蝕が──終わりを告げた。

奇跡に魅せられていた私の前に宇辰様が進み出る。肩を抱かれて群衆に向き直った。

「月を喰らう化け猫は潰えた! 皆も見た通り、この者こそが月が遣わした護り兎よ。今宵は空に戻った月を迎える宴だ!」

どっと歓声が押し寄せて目が眩む。ふらつきかけた体を力強い腕が支えてくれた。

「すまぬがもう少しだけ辛抱してくれ」

宇辰様が羽織を手早く脱いで肩に掛けて下さる。布越しに伝わる手のひらの温もりに、体が冷えきっているのだとようやく自覚した。
泉に落ちてずぶ濡れだったのだ。濡れた衣服がぺたりと張りついて体の線が露わになっていたことを思い出して、慌てて羽織の前を掻き合わせた。

「いかに仙女とて、その格好は目に毒だな」

私の狼狽が余程のものだったのか、陛下は群衆に背を向けるように抱き上げてくれた。

月だ仙女だと騒ぎたてる声を遠くに聴きながら、これだけ人が集まっていながら持ち主から離されたモノの声がしないことに安堵する。
あるべきものはあるべき場所へ。
兎の耳は空に戻ったのだと察して、ゆっくり目を閉じた。