「食事は摂っているのか」
「え?」
「そなたを抱き上げた時、あまりの軽さに本物の兎かと思ったくらいだ。食の細さを誇る妃は多いが、正直言うと何が誇らしいのかわからん。だから遠慮せず食べるように」

泉から帰るなり部屋に設えられていたのは豪勢な食卓だった。
ほかほか湯気を立てる鍋や野菜の和え物が盛られた大皿、彩り豊かな果実からしたたる蜜は籠をとろりと輝かせている。
目の前に並べられた皿の数々をぼかんと眺めていると、宇辰様に強く言われて呆気に取られたまま箸を手に取った。

どうやら護り兎は皇帝陛下と離れることは許されないらしい。自室に戻ることもままならず、なし崩し的に宇辰様の元で過ごす羽目になった。
入り用なものは揃えてくださるし、どうしても私物でないと駄目なものは翠花が自室から運んでくれた。
突然環境が変わって翠花もさぞ面食らっているかと心配したが、持ち前の明るさに加えた順応力を最大限に活かし、今までと変わらずあれこれ世話を焼いてくれている。

「あたし夢だったんです! 月鈴様が報われて押しも押されぬ寵姫になることが! だからもう嬉しくって嬉しくって……ご実家で怯えながら暮らしていた月鈴様のあんなお姿、もう拝見せずに済むと思うと力が湧いてきます。ああ、陛下と睦まじくされてる今のお姿をこの目に焼き付けて空に写したい! あの御方達も空を眺めて地団駄踏んで悔しがると良いんだわ!」
「ほう、月鈴はそのように酷い扱いを受けておったのか。差し障りなければ聞かせてはくれぬか、翠花よ」
「わっかりましたあ! 陛下の仰せですもの、遠慮なく! 構いませんよね、月鈴様。まずですね──」

翠花曰く酷い境遇の当事者たる私を差し置いて、翠花は微に入り細を穿って、私が実家でどのような仕打ちを受けていたかを宇辰様に語って聞かせ始めた。
このふたり、気が合うというか、宇辰様がうまく誘導するせいで翠花のお喋りが普段の二倍……いや、二十倍にも加速している。
皇帝陛下に対して無礼な口を利きはしないかびくびくしつつも、自分の過去を詳らかにされる話の内容のほうに注意が向いてしまって、せっかく気をそらすために用意された食事も味が分からない。

「それで? その義理の妹とやら、月鈴に何を言った」
「…………いくらあたしがお喋り娘でも、ちょっと口にしたくはないことです。汲んでくださいまし」

私が現実逃避をしている間に、翠花による義母と義妹の悪行告発大会は佳境に差し掛かっていた。正直言って思い出したくないことも多い。流石に翠花も皆までは言えぬことは理解しているようで、一線は保っていたのだなと見直した。
それでもまだ幼かった私が母様を悪し様に言われて腹に据えかね、つい義妹を平手打ちしたくだりになると、宇辰様は「ほう!」と声も高く相槌を打ってこちらを見た。
ひとり食卓に座りひたすら黙々と食事を平らげていた私と目が合う。
とんだお転婆と見下げただろうか。いくら護り兎だなんだと持て囃されたところで、元々高貴なる御方とは縁のない身だ。蔑まれたとて痛くも痒くも──ない。
ただ、一方的に知られてばかりなことに若干の居心地の悪さを感じつつ目を逸らさずにいれば、宇辰様は席を立って近づいてきた。

「な、んでしょう。私の過去など聞いたところで面白くもありますまい。お気を害したのならこれにて──」
「兎は寂しいと儚くなるそうだったな」
「え?」

ふわりと体が浮いた。宇辰様に抱き上げられたのだ。そのまますたすたと振動にまかせて落ち着いた先は、長椅子に腰を下ろした彼の膝の上。

「うえっ」
「食事に集中させた方が良かろうと思ったが、そんな瞳で見られたのなら話は別だ」

ぎゅうと腕を回されて、背中にぬくもりを感じる。

「へ、陛下、あのっむぐ!」

口答えしようと振り向いたところに胡麻団子を押し付けられる。からりと揚がった食欲をそそる香りに思わず団子を食んだ。

「宇辰だ。美味いか」

口に団子が入っているので喋れずに、口を手で覆ったままこくこく頷く。見つめられながらなんとか咀嚼すると、次は茶杯が差し出された。朱泥の器の内側は澄んだ白で、中身の色がよく映える。
両手で受け取って飲み干すと茶杯はあっけなく取り去られた。控えていた翠花が盆を掲げている。お喋りなところはあるけれど、やはりこういうところは立派な側仕えなのだ。

「どのような茶を好む」
「好みは……ええと……」

好むも何も、選ぶ余地などなく生きてきた身だ。どのような選択肢があるかわからず口篭ると、宇辰様は咎めはせずに別の卓から茶壺をいくつか取り寄せた。

「茶とは不可思議なものよ。ひとつの葉から様々な風味を持つものが生まれる。人の手を経て薬ともされるそれらこそ、我が国を成す月の妙薬かもしれんな」

差し出された茶杯の中には、目を見張るような紅の液体が満ちていた。

「月鈴の目に似ているな」
「そうおっしゃられては……飲みにくいです」

どこの世界に自分の目玉と同じ色と言われてそれを飲みたいものがいるというのだ。そう言ってやれば、宇辰様は快活に笑った。

「はは、すまんな。ではこれは我が飲もう」

あっさりと取り上げられた茶杯を傾けた宇辰様の喉仏が上下する。思わぬ所で男性を意識してしまいどきまぎしていると、顔を近づけられた。

「っん」

重なった唇から液体が流れ込む。渋みを感じた気もするけれど、それを飲み下すのに精一杯で、味などわからなかった。
唇が離される。儚くなるぬくもりが名残惜しいと思ってしまったことに戸惑いを隠せない。

「美味いか?」
「……よく、わかりませぬ」

零れたひと筋を親指で拭われる。いとけない子のように扱われることがむず痒い。

「あの……月蝕は収まっておりませぬ。わたくしが護り兎というからには、何か手立てを、策を講じねばならぬのではございませぬか」
「ああ、無論だ。だがな、我は嬉しいのだ」

ぎゅうと宇辰様の腕が回され距離が零になる。とくとくと巡る鼓動が耳にも体にも伝わってくる。

「月を祀る役目は代々の皇帝が受け継いできた。しかし、月を喪う珍事にまみえた皇帝はそう居らん。伝説の教えを説く者は居れど、この重圧は……少しばかり、堪える」

弱々しくなる声に、誰にも打ち明けてこなかった若き帝の本音を感じ取って身を固くする。

「兎は月よりの使者。この凶事を照らす唯一の光だ。きっと月鈴さえ居ればうまくいく。そう思わせてくれる何かがそなたにはある」

──しばし、我に勇気と休息を与えてくれまいか。愛らしい護り兎の月鈴よ。

そうまっすぐな瞳で希うように抱きすくめられては口答えなどできようもない。

「……陛下」
「名前を」
「ゆ、宇辰様」
「そなたの声は……心地よい」

ゆるりと顎を撫でられて上を向かされる。
夜空色の瞳が伏せられるのと同時に、唇が重なった。