「──建国伝説は知っているな?」
「は、はい」
「その中での兎の役割は?」
「薬壺を倒して地上に落ちた慌てんぼう……でしょうか」
「はは、まあそういうことになっているな」
あの後、朝の支度のために一度部屋を辞したが、すぐにまた陛下からのお呼び出しがあり馳せ参じた。
庭院をふたりでゆっくりと散歩する。木陰に入ったところで陛下が立ち止まった。
「あれをただの伝説──作り話だと思うか」
「違うのですか?」
「無論だ。本来、兎は粗忽者ではなく英雄とされる。あれは薬を零したのではない。護ったのだ」
お伽話に聞く内容との違いに首を傾げつつ続きを待つ。すると陛下はその表情が予想通りと言わんばかりに話し始めた。
「うんと昔の話だ。金華の地に、月に憧れ恋慕い、月こそ我が命と思い込んだ猫がいた。それは毎夜毎夜、月が出るたびに屋根に登っては月の光を浴び、やがて変化の術を身につけた。手始めに美しい人間に化け、その美貌で数多の人間を騙し苦しめた。それでも飽き足らぬ猫は知恵をつけ、月の源たる妙薬を独り占めせんと、遂には月にまで登ってしまった」
「猫が月に登ったのですか」
「ああそうだ。この猫、妙薬を独り占めせんと月の都を荒らし回ってとうとう薬壺を盗み出す。しかしまだ欲が出たのか、月そのものが欲しくなった。猫は蟇蛙に姿を変えて月を飲み込み始めた」
「な、なんと大胆な」
そこまで執着できるものがあるなんて、ある意味天晴れだ。陛下の淡々とした語り口に惹き込まれて思わず口を挟んでしまったが、無礼とは思われなかったらしく、こちらを見て微笑んでくださった。
「だろう。だが兎は手をこまねいているだけではなかった。あるひとつの壺に月の光を封じ、箒星に乗って壺ごと地上に降りたのだ。その時滴った雫からあの泉が生まれ、国土の礎となった。兎は月の都を離れてもなお月を護る。その魂は輪廻を巡り、力を託せると見込んだ者を護り兎として選ぶのだ。我々月を祀る為政者にとって、護り兎と出会うことは僥倖と言えるな」
ふ、と柔らかく細められた瞳につい顔を逸らす。そんな見つめられ方をされては勘違いしてしまいそうだ。
こほん、と咳払いをして話を戻す。
「……なんて勇敢な兎でしょうか。それで、月はどうなったのでしょうか」
「見ての通りさ」
そこで陛下は頭上を指す。月蝕などなくとも、昼間の空に月は見えない。
「麗しき光の源を失った月は、餡の無い月餅のようなもの。味気ない皮では食う気も起きなくなったのか、蟇蛙は悪戯に食んでは出しを繰り返すだけとなった。これが満ち欠けの由来とされる」
「そんな謂れがあったなんて……どうして、伝説では兎を粗忽者扱いにするのでしょう。こんなに勇敢なのですもの。もっと兎を称えてあげても良いと思います」
懸命に励んだ結果、粗忽者扱いでは報われない。他人事とは思えずに拳を握って訴えれば、陛下は童を見るようなまなざしを私に向けた。
「はは、やはり身内には優しいか」
「み、身内? あのですね、だいたい私が兎と呼ばれる意味が判りかねます。目は赤くなってしまいましたが髪は白くありませんし、何より耳は長くありませんよ」
「ほう。確かに髪は黒いな」
そこで陛下は私の髪を梳く。耳の辺りを撫でられて肩が強ばった。
耳飾りをつけた耳たぶが一気に熱くなる。
「へ、陛下」
「宇辰、と……名を呼ぶことを許そう。我が護り兎よ」
突然の戯れに目を瞬くことしかできずにいると、陛下は促すように耳の辺りを撫でてくる。
「ゆ、宇辰……様」
「ああ。これでそなたは特別だ。枕を交わさずともこれが証。他の妃に臆することはない」
その言葉に朝の一幕を思い出して赤面する。私の体面を保つための気遣いとはいえ、これでは耳まで赤くなりそうだ。
それを知ってか知らずか、陛下……宇辰様の指先は戯れを止めない。
「さて耳は……長いのかわからんな。触れて良いか」
髪の中に手を差し入れられたまま耳の輪郭をなぞられ、ぞくぞくと肌が粟立つ。
両耳を指の腹で優しく撫でさすられれば膝がかくかくと震えてきた。
「……ん? 怯えているのか。なあに、酷いことなどせぬ。勇敢な英雄に縁あるもの同士、労りたいだけだ」
「同士……? もしや、陛下も兎なのですか」
耳への感覚から逸らすために懸命に頭を回転させて問うてみれば、宇辰様は手を止め目を丸くした。
「はは、残念だが外れだ。我ら皇帝は月を祀る神官に過ぎぬ。そうだな、先程の疑問に応えよう。月の源は膨大な力を持つ。地上に住まう権力者がそれをお伽話としてでも市井に広めると思うか?」
「それは……しないですね」
権力争いの元だ。おいそれと宝の地図をばら撒くようなことはしないだろう。
だから兎はひょうきんな粗忽者として伝説に残ることになったというわけか。
「この話を知る者は限られている。帝位を継ぐ者、それに近しい者。それゆえ女官は兎と聞いてもあのような態度を取っていたのだ。許して欲しい」
「そんな、彼女にしてみれば当然ではないですか。そもそも私とて、自分が護り兎と言われても何やら夢物語のようで……」
「証が必要か? 先程見せたろうに」
赤くなった瞳のことを言われてもそれだけでは納得できない。それが表情に出ていたのか、宇辰様は耳から手を離すと再び歩きだす。
「妙薬は試験紙のようなもの。兎は類稀な聴力で月に害成す者を感じ取り、そして月を護る。そなたが昨夜落ちた泉は、伝説の真実を知る者以外にはたどり着けぬ場所だ。あの侍女が彼処に居られたのは、そなたの導きあってこそ」
「それは……そうなのかもしれませんが」
「それに──その耳にはモノの声が聞こえるのだろう?」
言い当てられて目を見開く。
妃のご機嫌取りとして始めた作戦が知られていたなんて恥ずかしい。
「ご、ご存知でしたか」
「ああ。いくら通わぬとはいえ後宮は我が庭。何やら上へ下へと駆けずり回って使い走りをしている忙しない嬪がいると、報告に上がっていたよ」
「それは……大変お聞き苦しいものを……」
皇帝陛下は月にしか興味がないので多少のことは感知されないと思っていたが、甘かった。自分の管轄下を手中に収めておくのは当然のことではないか。
項垂れていると、宇辰様が「失礼」と言いつつ袖を捲ってきた。
「ひゃっ」
「昨夜部屋に運んだ時にも見えたが、やはり傷だらけではないか。治療はしておらんのか。家からの援助は? 後宮付きの薬師も居るだろうに」
「あああのその、よくあることですのでおかまいなく。薬師様の手を煩わせることではございませぬ。舐めておけば治りますゆえ」
「ほう」
そこで宇辰様はにやりと口角を上げた。意地悪を企んだ悪童のようにも見える。
ぐい、と腕を掴まれ袖がずり落ちる。擦り傷だらけの肌がむき出しにされて血の気が引いた。
「いやっ」
ぶん、と腕を振っても体をよじってもびくともしない。
数多の艶やかな妃と比べる事も烏滸がましい、醜い肌をさらしていることが耐えきれない。こんな辱めを受けるなんて、護り兎と呼ばれ分不相応な扱いを受けていても、所詮生まれは卑しいことを思い知らされているのだろうか。
「月鈴、暴れるな。酷いことはせぬと言ったはずだが」
低い声で咎められて喉がひくりと痙攣する。縮こまってしまった肩を抱かれると「本物の兎よな」と小さく笑われた。
その形の良い唇が近づいて──腕の擦り傷に、触れた。
「……!?」
薄い肌を唇で食む。傷口の赤みを移すように吸う。そうして顔が離れた時には──
「傷が、ない?」
何度見ても変わらない。宇辰様が触れたそこだけが、健康的でなめらかな肌に戻っている。
「皇帝は月を祀る神官。兎を労い癒すことも役割のひとつよ」
「そ、そんな、陛下になんと恐れ多いっ、ひゃあ!」
「陛下ではない。宇辰、だ」
腕を掴まれたまま、別の傷に舌が這う。枝が掠めた腕の内側も、橋のたもとに打ちつけた肘も、唇が触れたあとにはただの生白い肌があるだけだった。
「も……もう、充分です、ので」
「まだ片腕しか治っておらぬぞ。これでは沐浴の時にしみて辛かろうに」
「もう慣れております。それより……あの泉についてお伺いしたいのです」
じっと目を見て伝えれば、不服そうな顔をしつつも宇辰様は腕を離してくれた。再び歩きだすとあの牌坊に至る。昨夜と変わらない風景のはずだが、太陽のもとで見るそれからは異様な恐ろしさは和らいでいた。
「これは結界。迷い込んだ者はここで弾かれる」
手を引かれてくぐる。昨日、翠花の息遣いを感じていた背中には何も無く、眼前に案内人がいることが心を落ち着かせた。
しばらく進むと草むらが一瞬きらめいた。
許しを得て駆け寄ってみれば、大きな玉が嵌め込まれた櫛である。
「香麗様の!」
跳ねる兎の意匠も見て取れる。話に聞いた通りの櫛だった。翠花の話では失せ物こそが私を困らせるための嘘だったようだが、少なくともここに櫛があるのなら丸ごと嘘でもないようだ。とりあえず手巾に包んで懐にしまって歩き出す。
ふたつめの牌坊に至る。やはりこちらにも文字が彫られていたのだと気づいた。昨夜は暗くて字のことにすら気づけなかった。
私が目を凝らしていると、宇辰様はその文字を宙でなぞるようにした。
「ここにはいにしえの詞が封じられている。それを口にするのは憚られるので言えぬが……月を尊べ、月の加護の下で我が国の繁栄あり、とでも解釈すると良い」
そう説明を受けて進んだ先には──あの泉がある。
それを目の当たりにした途端、あの猫の鳴き声が頭に響いてきた。
みゃあお。
吸い込まれそうな声に咄嗟に耳を塞いで宇辰様の背中に身を隠す。すると力強い腕に抱きかかえられ、隣へと立たされた。
「今は私がここにいる。あの猫の思うままにはされぬ。安心しなさい」
「は、はい」
鳴き声がするたび、金色の目が映った水面が波打つ。時折跳ねる飛沫がこちらを招いているようで、しっかりと腕に掴まっていなければ今にも泉の底に呼び込まれてしまいそうだ。
「ここは月の加護そのものを象徴する聖域。この場に後宮を建てたのは、下手に神殿を造って猫に察知されるのを避けた先人の知恵だそうだ。太陽は男、月は女。後宮に住まう数多の女人にも祀らせる意図があったのだろうな」
「だから……宇辰様は毎夜後宮にお通いに?」
「ああ。事が起きるとしたら夜だ。帝が通うのだから何もおかしなことはあるまい?」
宇辰様はふと言葉を切って顎を擦る。
「もしや、我が毎夜通う噂を聞いて、何故自分の元に参らなんだと悩んでいたか?」
「い、いいえ!そんな滅相もない!! もとより数ならぬこの身、陛下のお目に留まるとはちいとも思っておりませんゆえ!」
ぶんぶんとちぎれんばかりに首を左右に振って、ついでに腕も振って否定すればするほど、宇辰様は何やらにまにまと意地悪な笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「安心せよ。月狂い色狂いと称されているようだが色狂いの方は外れだ」
「月狂いは認めるのですね……」
乾いた笑みで流せば宇辰様も軽く頷く。この方、ご自分の評価に対して頓着が無さすぎるのではないだろうか。
ふと見上げればゆるく笑っていた表情が引き締まる。
「今までの話で察しているだろうが、我の即位から日を置かずして猫がこの泉を突き止め、再び地上に降り立った。それが月蝕の原因だ。以来、ああして妙薬を誰にも渡さぬと固執している」
「それでは、月は」
はっと空を見上げる。
「もちろん、月そのものが落ちてきたわけではない。ただ、元より光の源を失った抜け殻だ。皮肉なことに、あの猫自体が妙薬を取り込み過ぎて月と一体化している。それが地上に降りたことで、空から月が失われて見える訳だ」
改めて気を引き締め泉を覗き見る。
にわかには信じ難いことばかりだが、こうして目の当たりにしてしまえば信じざるを得ない。
「まだ腑に落ちぬか」
「いいえ、そんなことは」
「そうだな……そなたの耳は持ち主から分かたれたモノの声を聞くことだろう。ならばこう考えてみると良い」
──空から奪われた月の声を聞いた月鈴よ。月を掬い、空に戻すのが護り兎の役目だ。
「そなたが後宮で失せ物探しに励んでいたのは、ある意味で予行演習だったのかもしれぬな」
そう結ばれて空いた口が塞がらない。
私の耳は、とんでもないものを聞いてしまったようだった。
「は、はい」
「その中での兎の役割は?」
「薬壺を倒して地上に落ちた慌てんぼう……でしょうか」
「はは、まあそういうことになっているな」
あの後、朝の支度のために一度部屋を辞したが、すぐにまた陛下からのお呼び出しがあり馳せ参じた。
庭院をふたりでゆっくりと散歩する。木陰に入ったところで陛下が立ち止まった。
「あれをただの伝説──作り話だと思うか」
「違うのですか?」
「無論だ。本来、兎は粗忽者ではなく英雄とされる。あれは薬を零したのではない。護ったのだ」
お伽話に聞く内容との違いに首を傾げつつ続きを待つ。すると陛下はその表情が予想通りと言わんばかりに話し始めた。
「うんと昔の話だ。金華の地に、月に憧れ恋慕い、月こそ我が命と思い込んだ猫がいた。それは毎夜毎夜、月が出るたびに屋根に登っては月の光を浴び、やがて変化の術を身につけた。手始めに美しい人間に化け、その美貌で数多の人間を騙し苦しめた。それでも飽き足らぬ猫は知恵をつけ、月の源たる妙薬を独り占めせんと、遂には月にまで登ってしまった」
「猫が月に登ったのですか」
「ああそうだ。この猫、妙薬を独り占めせんと月の都を荒らし回ってとうとう薬壺を盗み出す。しかしまだ欲が出たのか、月そのものが欲しくなった。猫は蟇蛙に姿を変えて月を飲み込み始めた」
「な、なんと大胆な」
そこまで執着できるものがあるなんて、ある意味天晴れだ。陛下の淡々とした語り口に惹き込まれて思わず口を挟んでしまったが、無礼とは思われなかったらしく、こちらを見て微笑んでくださった。
「だろう。だが兎は手をこまねいているだけではなかった。あるひとつの壺に月の光を封じ、箒星に乗って壺ごと地上に降りたのだ。その時滴った雫からあの泉が生まれ、国土の礎となった。兎は月の都を離れてもなお月を護る。その魂は輪廻を巡り、力を託せると見込んだ者を護り兎として選ぶのだ。我々月を祀る為政者にとって、護り兎と出会うことは僥倖と言えるな」
ふ、と柔らかく細められた瞳につい顔を逸らす。そんな見つめられ方をされては勘違いしてしまいそうだ。
こほん、と咳払いをして話を戻す。
「……なんて勇敢な兎でしょうか。それで、月はどうなったのでしょうか」
「見ての通りさ」
そこで陛下は頭上を指す。月蝕などなくとも、昼間の空に月は見えない。
「麗しき光の源を失った月は、餡の無い月餅のようなもの。味気ない皮では食う気も起きなくなったのか、蟇蛙は悪戯に食んでは出しを繰り返すだけとなった。これが満ち欠けの由来とされる」
「そんな謂れがあったなんて……どうして、伝説では兎を粗忽者扱いにするのでしょう。こんなに勇敢なのですもの。もっと兎を称えてあげても良いと思います」
懸命に励んだ結果、粗忽者扱いでは報われない。他人事とは思えずに拳を握って訴えれば、陛下は童を見るようなまなざしを私に向けた。
「はは、やはり身内には優しいか」
「み、身内? あのですね、だいたい私が兎と呼ばれる意味が判りかねます。目は赤くなってしまいましたが髪は白くありませんし、何より耳は長くありませんよ」
「ほう。確かに髪は黒いな」
そこで陛下は私の髪を梳く。耳の辺りを撫でられて肩が強ばった。
耳飾りをつけた耳たぶが一気に熱くなる。
「へ、陛下」
「宇辰、と……名を呼ぶことを許そう。我が護り兎よ」
突然の戯れに目を瞬くことしかできずにいると、陛下は促すように耳の辺りを撫でてくる。
「ゆ、宇辰……様」
「ああ。これでそなたは特別だ。枕を交わさずともこれが証。他の妃に臆することはない」
その言葉に朝の一幕を思い出して赤面する。私の体面を保つための気遣いとはいえ、これでは耳まで赤くなりそうだ。
それを知ってか知らずか、陛下……宇辰様の指先は戯れを止めない。
「さて耳は……長いのかわからんな。触れて良いか」
髪の中に手を差し入れられたまま耳の輪郭をなぞられ、ぞくぞくと肌が粟立つ。
両耳を指の腹で優しく撫でさすられれば膝がかくかくと震えてきた。
「……ん? 怯えているのか。なあに、酷いことなどせぬ。勇敢な英雄に縁あるもの同士、労りたいだけだ」
「同士……? もしや、陛下も兎なのですか」
耳への感覚から逸らすために懸命に頭を回転させて問うてみれば、宇辰様は手を止め目を丸くした。
「はは、残念だが外れだ。我ら皇帝は月を祀る神官に過ぎぬ。そうだな、先程の疑問に応えよう。月の源は膨大な力を持つ。地上に住まう権力者がそれをお伽話としてでも市井に広めると思うか?」
「それは……しないですね」
権力争いの元だ。おいそれと宝の地図をばら撒くようなことはしないだろう。
だから兎はひょうきんな粗忽者として伝説に残ることになったというわけか。
「この話を知る者は限られている。帝位を継ぐ者、それに近しい者。それゆえ女官は兎と聞いてもあのような態度を取っていたのだ。許して欲しい」
「そんな、彼女にしてみれば当然ではないですか。そもそも私とて、自分が護り兎と言われても何やら夢物語のようで……」
「証が必要か? 先程見せたろうに」
赤くなった瞳のことを言われてもそれだけでは納得できない。それが表情に出ていたのか、宇辰様は耳から手を離すと再び歩きだす。
「妙薬は試験紙のようなもの。兎は類稀な聴力で月に害成す者を感じ取り、そして月を護る。そなたが昨夜落ちた泉は、伝説の真実を知る者以外にはたどり着けぬ場所だ。あの侍女が彼処に居られたのは、そなたの導きあってこそ」
「それは……そうなのかもしれませんが」
「それに──その耳にはモノの声が聞こえるのだろう?」
言い当てられて目を見開く。
妃のご機嫌取りとして始めた作戦が知られていたなんて恥ずかしい。
「ご、ご存知でしたか」
「ああ。いくら通わぬとはいえ後宮は我が庭。何やら上へ下へと駆けずり回って使い走りをしている忙しない嬪がいると、報告に上がっていたよ」
「それは……大変お聞き苦しいものを……」
皇帝陛下は月にしか興味がないので多少のことは感知されないと思っていたが、甘かった。自分の管轄下を手中に収めておくのは当然のことではないか。
項垂れていると、宇辰様が「失礼」と言いつつ袖を捲ってきた。
「ひゃっ」
「昨夜部屋に運んだ時にも見えたが、やはり傷だらけではないか。治療はしておらんのか。家からの援助は? 後宮付きの薬師も居るだろうに」
「あああのその、よくあることですのでおかまいなく。薬師様の手を煩わせることではございませぬ。舐めておけば治りますゆえ」
「ほう」
そこで宇辰様はにやりと口角を上げた。意地悪を企んだ悪童のようにも見える。
ぐい、と腕を掴まれ袖がずり落ちる。擦り傷だらけの肌がむき出しにされて血の気が引いた。
「いやっ」
ぶん、と腕を振っても体をよじってもびくともしない。
数多の艶やかな妃と比べる事も烏滸がましい、醜い肌をさらしていることが耐えきれない。こんな辱めを受けるなんて、護り兎と呼ばれ分不相応な扱いを受けていても、所詮生まれは卑しいことを思い知らされているのだろうか。
「月鈴、暴れるな。酷いことはせぬと言ったはずだが」
低い声で咎められて喉がひくりと痙攣する。縮こまってしまった肩を抱かれると「本物の兎よな」と小さく笑われた。
その形の良い唇が近づいて──腕の擦り傷に、触れた。
「……!?」
薄い肌を唇で食む。傷口の赤みを移すように吸う。そうして顔が離れた時には──
「傷が、ない?」
何度見ても変わらない。宇辰様が触れたそこだけが、健康的でなめらかな肌に戻っている。
「皇帝は月を祀る神官。兎を労い癒すことも役割のひとつよ」
「そ、そんな、陛下になんと恐れ多いっ、ひゃあ!」
「陛下ではない。宇辰、だ」
腕を掴まれたまま、別の傷に舌が這う。枝が掠めた腕の内側も、橋のたもとに打ちつけた肘も、唇が触れたあとにはただの生白い肌があるだけだった。
「も……もう、充分です、ので」
「まだ片腕しか治っておらぬぞ。これでは沐浴の時にしみて辛かろうに」
「もう慣れております。それより……あの泉についてお伺いしたいのです」
じっと目を見て伝えれば、不服そうな顔をしつつも宇辰様は腕を離してくれた。再び歩きだすとあの牌坊に至る。昨夜と変わらない風景のはずだが、太陽のもとで見るそれからは異様な恐ろしさは和らいでいた。
「これは結界。迷い込んだ者はここで弾かれる」
手を引かれてくぐる。昨日、翠花の息遣いを感じていた背中には何も無く、眼前に案内人がいることが心を落ち着かせた。
しばらく進むと草むらが一瞬きらめいた。
許しを得て駆け寄ってみれば、大きな玉が嵌め込まれた櫛である。
「香麗様の!」
跳ねる兎の意匠も見て取れる。話に聞いた通りの櫛だった。翠花の話では失せ物こそが私を困らせるための嘘だったようだが、少なくともここに櫛があるのなら丸ごと嘘でもないようだ。とりあえず手巾に包んで懐にしまって歩き出す。
ふたつめの牌坊に至る。やはりこちらにも文字が彫られていたのだと気づいた。昨夜は暗くて字のことにすら気づけなかった。
私が目を凝らしていると、宇辰様はその文字を宙でなぞるようにした。
「ここにはいにしえの詞が封じられている。それを口にするのは憚られるので言えぬが……月を尊べ、月の加護の下で我が国の繁栄あり、とでも解釈すると良い」
そう説明を受けて進んだ先には──あの泉がある。
それを目の当たりにした途端、あの猫の鳴き声が頭に響いてきた。
みゃあお。
吸い込まれそうな声に咄嗟に耳を塞いで宇辰様の背中に身を隠す。すると力強い腕に抱きかかえられ、隣へと立たされた。
「今は私がここにいる。あの猫の思うままにはされぬ。安心しなさい」
「は、はい」
鳴き声がするたび、金色の目が映った水面が波打つ。時折跳ねる飛沫がこちらを招いているようで、しっかりと腕に掴まっていなければ今にも泉の底に呼び込まれてしまいそうだ。
「ここは月の加護そのものを象徴する聖域。この場に後宮を建てたのは、下手に神殿を造って猫に察知されるのを避けた先人の知恵だそうだ。太陽は男、月は女。後宮に住まう数多の女人にも祀らせる意図があったのだろうな」
「だから……宇辰様は毎夜後宮にお通いに?」
「ああ。事が起きるとしたら夜だ。帝が通うのだから何もおかしなことはあるまい?」
宇辰様はふと言葉を切って顎を擦る。
「もしや、我が毎夜通う噂を聞いて、何故自分の元に参らなんだと悩んでいたか?」
「い、いいえ!そんな滅相もない!! もとより数ならぬこの身、陛下のお目に留まるとはちいとも思っておりませんゆえ!」
ぶんぶんとちぎれんばかりに首を左右に振って、ついでに腕も振って否定すればするほど、宇辰様は何やらにまにまと意地悪な笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「安心せよ。月狂い色狂いと称されているようだが色狂いの方は外れだ」
「月狂いは認めるのですね……」
乾いた笑みで流せば宇辰様も軽く頷く。この方、ご自分の評価に対して頓着が無さすぎるのではないだろうか。
ふと見上げればゆるく笑っていた表情が引き締まる。
「今までの話で察しているだろうが、我の即位から日を置かずして猫がこの泉を突き止め、再び地上に降り立った。それが月蝕の原因だ。以来、ああして妙薬を誰にも渡さぬと固執している」
「それでは、月は」
はっと空を見上げる。
「もちろん、月そのものが落ちてきたわけではない。ただ、元より光の源を失った抜け殻だ。皮肉なことに、あの猫自体が妙薬を取り込み過ぎて月と一体化している。それが地上に降りたことで、空から月が失われて見える訳だ」
改めて気を引き締め泉を覗き見る。
にわかには信じ難いことばかりだが、こうして目の当たりにしてしまえば信じざるを得ない。
「まだ腑に落ちぬか」
「いいえ、そんなことは」
「そうだな……そなたの耳は持ち主から分かたれたモノの声を聞くことだろう。ならばこう考えてみると良い」
──空から奪われた月の声を聞いた月鈴よ。月を掬い、空に戻すのが護り兎の役目だ。
「そなたが後宮で失せ物探しに励んでいたのは、ある意味で予行演習だったのかもしれぬな」
そう結ばれて空いた口が塞がらない。
私の耳は、とんでもないものを聞いてしまったようだった。