何かが聞こえる。
モノの声ではない。

「……しょう、ああ、まさか…………なんて!」

ぱたぱた、バタバタバタ。
これは翠花の足踏みだ。
焦る時に走り回る癖のある彼女の、精一杯の静かな動揺だ。
たくさん心配をかけてしまって申し訳ないのだけれど、うまく体が動かない。
よほど疲れているのか自室の寝具がいつもより快適に感じる。ふかふかの綿が詰まったあたたかな布団にさらりと肌触りのいい敷布。
枕の高さも絶妙な塩梅で、これは眠くなくとも寝てしま──

「まさか皇帝陛下だったなんて!」

途切れ途切れだった意識がきゅううと引き絞られて凝縮した。反動で目の前がぱっと弾ける。
夜明け前の薄明かりでもわかる高い天井、広い室内。見たことの無い煌びやかな装飾の数々。目に映る何もかもに混乱して呼吸が浅くなる。
そんな私に気づいたのか、翠花が寝台に乗り上げて覗き込んできた。

「月鈴様!」
「翠花!」

いつもならはしたないと窘めるけれど、唯一の見知った顔にどっと安心感が押し寄せるまま身を起こした。
着たことのないなめらかな肌触りの夜着に、まだ湿り気の残る髪が絡みつく。
感極まってお互いにしがみつくように固く抱き合っていると、扉の閉じる音がした。

「これはまた……随分と仲の良い主従であることだ」

突然聞こえてきた微笑混じりの男の声にはっと身を固くする。翠花が素早く私を離すと寝台から離れて膝をついた。

「皇帝陛下におかれましては月鈴様をお連れ頂きましたこと、心から感謝を──」
「良い」

翠花の口上を手で遮った男が近づいてくる。
長い黒髪は結い上げてはおらず、ゆったりとした夜着の上に臙脂の羽織を纏っていた。
まなじりの穏やかさは才気煥発というより温厚篤実といった印象を受ける。
それでも寝室に翠花以外の他人が──それも男が居ることに居心地の悪さを感じていたけれど、それよりも先に問いただすべきなのは。

「…………皇帝、陛下?」

自分の口から出た言葉を聞いて、頭がようやく事実を認識できた。
男が頷く。さらさらとした黒髪が燭台の灯りを受けて夜明けの色に染まっている。

宇辰(ユーチェン)……名前くらいは聞き覚えがあるか?」
「ええと……それはもう、はい」

嘘だ。入宮したとはいえお目通りなど叶うものかと鷹を括っていたから、皇帝陛下に関する情報は色狂い月狂いくらいしか仕入れていない。
私の片言の返事を嘘と見抜いたのか緊張ゆえの狼狽と見たか、どちらにせよ皇帝陛下は瞳の奥でふっと笑った。

「まあ良い。そなた、名前は」
「桂月鈴と申します」
「そうか。名までが“兎”なのだな」

ほう、と感心したように息をついた皇帝陛下は寝台脇の椅子に腰掛けると手を伸ばしてきた。親指の腹で目の下あたりを撫でられる。突然のことに面食らって動けない。それでも“兎”とは何のことかわからず恐る恐る問えば、皇帝陛下は翠花に目配せした。彼女が恭しく差し出した鏡を見てみると──

「……え?」

真っ赤な目をした私が映っていた。
病のように白目が充血している訳では無い。
瞳そのものが赤い。これでは本当に兎の目だ。

「え? なに、どうして、これ、わたし」

目が乾くほど見開いて鏡に顔を寄せてみたり、遠ざけて瞬きを繰り返しても何ひとつ変わるはずもなく、どこまでも兎の目をした私が鏡の中で途方に暮れている。

「泉に満ちた妙薬の効果だろう。今までは黒い瞳だったのだな」

大混乱で泣きそうな私とは正反対に、何もかもお見通しといった皇帝陛下はしたり顔で頷いている。椅子に掛けた陛下にもたれるように体を抱きかかえられている、この状況が何なのかも理解できていない。

泉の妙薬で目が赤くなる? 兎ってどういうこと? 私は跳ねもしないし、小さくも白くもない。強いて言うなら耳が良いけれど、兎は失せ物の声を聞いたりしないはずだ。

「へ、陛下。何かご存知なら教えてくださいませ……私に、何が、起きているのでしょう」

縋れるのは皇帝陛下だけ。あまりの心細さに袖を握って見上げれば、陛下は小さく息を飲んだ。

「……ああ、ゆっくり話をしよう。だが今は時が──」

そこで扉の向こうが騒がしくなる。いつの間にか燭台の蝋燭が小さくなっており、窓から射し込む光が強くなっていた。

「朝のお支度でございます」

扉が開く。恭しく手水鉢を掲げた年嵩の女官を筆頭に数人が控えている気配がした。

「──まあ。伽をお命じでしたのね。珍しいこと」
「えっ」

とんでもない勘違いをされて思わず声が上がる。私の声があまりに調子外れだったものだから、女官は眉をしかめてこちらを見た。

「あまり見ぬ顔ですね。こともあろうに寝台を独占してひとり寝こけているとはなんという体たらく。もしや陛下に手数をかけたのではございましょうな。良いですか、後宮に住まうものは猫の子一匹たりとて陛下のもの。駄々を捏ねて気を引こうなど、妓楼の駆け引きめいたものは──」

勘違いを訂正する暇も与えられずに気炎荒くまくし立てられて顔が引きつっていると、皇帝陛下が女官の視線から私を遮るように腕を回す。胸に抱かれるように抱え込まれて、陛下の装束の模様すら満足に見えない。

「そう叱るでないよ。月鈴が怯えてしまう」

そのひと言に、女官が憮然とした。再度口を開きかけたところに皇帝陛下は遮るように言葉を続ける。

「ようやく見つけた兎を、柄にもなく貪ってしまったところでね。この子は嵐の後で怯えているようなものさ」
「えっ」
「駄々を捏ねるというなら見てみたいものだが、そこまでの駆け引きはまだ早い。なに、手ずから仕込むというのも一興だがね。その頃にはお前もこの兎がいかに愛らしいか理解できるだろうさ」
「!?」

勘違いの上に更に誤解を植えつけるようなことを滔々と述べられた皇帝陛下はそこで少し体を離すと、私の頬を包んで顔を挙げさせた。
私にしか聞こえない小声で「合わせなさい」と囁かれ、ここを乗り切る芝居なのだと納得する。顎の痙攣のような頷きで了承を伝えれば、陛下はその夜空のような瞳をすうと細めた。星の瞬きが近づいてきて──唇が、熱くなった。
きゃあと翠花が短く悲鳴をあげる。
唇を擦り付けるようにゆっくりと熱が移動して端をちろりと舐められる。喉の奥で生まれた悲鳴は上唇を吸われて窘められた。
唇と共に言葉も吸い取られてしまった私を満足そうに見下ろし眺めてから、ようやく陛下は顔を離した。

「尊き月華が失われている今、泉より出でたこの娘──桂月鈴こそ、建国伝説に謳われる護り兎に違いない。この愛らしい紅色のまなこがその証よ」

そのひと言で女官の背後に控えていた侍従達に緊張が走ったのが感じ取れる。

「伝説通り、護り兎の資質を備えている。丁重に扱うように」

穏やかながらも重々しく張りのある声で告げられた言葉に、誰が異を唱えられるだろうか。
腕の中で固まりながら、平伏す人々の頭頂部を他人事のように眺めていた。