遙か昔、月に棲む兎が秘伝の薬壺を倒してしまった。
とくとくと流れ出たそれはやがて月の大地をすっかり満たし、溢れた妙薬は箒星に乗って地上にまで伝い降りた。
慌てた兎も転がり落ちて、薬の上を跳ね回る。そうして踏み固められた薬が大地になった。

幼い頃に聞かされた建国のお伽話が真実だとするならば、私達は、月の加護を踏みしめて暮らしている。

先代の皇帝陛下が崩御されて国が乱れた。
しかしあるひとりの青年が後ろ盾を得て即位する。
諍いの世を捨て、手を取り合い国を発展させていこうと希望に満ちた演説を響かせた彼だったが──この若き帝の治世は前途多難なようだ。

ある夜を境に、月は空から姿を消した。

朔も、弓張も、望もなく、空には月の欠片にも満たぬ光しか持たぬ星々が溜息とともに撒き散らされているばかり。
月の妙薬から成る国土が荒れるのは、当然と言えば当然か。光を失った夜空の下で人心は乱れ出す。
いかにして月を取り戻すべきか──新帝とその優秀な側近達は、今も頭を悩ませている。


「気持ちを落ち着かせる薬湯です」
「ありがとう」

広い広い後宮の外れの狭い一角に私の住まいがある。
嬪とは言え、さしたる後ろ盾も持ち得ぬまま入宮した私には似合いの設えだそうだ。
最低限の手入れだけ済ませた艶のない黒い髪に何の変哲もない黒い瞳。木登りなんぞしているせいで肌には生傷が絶えないし、肌身離さず身につけているのは母から受け継いだ乳白色の耳飾りの片割れだけだ。
侍女とそう変わらない装いしか出来ぬのだもの、この扱いも然りだろう。

「薬湯を済まされても少し休んでから沐浴しましょうか。あんなに高い木に登られたんですもの! あたしなんてまだ胸がざわざわ致します」

胸に手を当てて大きく深呼吸している翠花の気遣いは有難いけれど、首を横に振る。

「駄目よ。決められた時間は守らないと。律を乱しては貴方まで罰を受けるわ」
「そうですかあ……毎夜、皇帝陛下は後宮にいらっしゃるけれど、どうせこちらにはお渡りなどありませんのに。こういうの杓子定規って言うんですよね。あっいけない、また喋り過ぎてしまいました!」

そそくさと一礼して、翠花は沐浴の支度を整えるために部屋を出ていった。
碗を両手に持ってぐいと呷る。苦味が口じゅうに広がらないように舌をすぼめて飲み干した。


そう。帝は毎夜、後宮通いを欠かさない。執務にもそちらにもお励みとは熱心なことで、と口さがない輩の陰口を聞いた事がある。
それについてはどうとも思わない。世継ぎを儲けるのはお役目でもあるし、そのために私たちは後宮に集められたのだから。
しかし未だどなたにもご懐妊の兆しはないそうだから、とんと実にならぬことばかりお好きな色狂いの月狂い──とも言われていることには流石に眉をひそめざるを得ない。
世の中すべてが思い通りになどなるはずがない。それは皇帝陛下でも市井の民でも同じことだ。

しかしどんな因果があろうが、空にあるものはそこになければならぬのだ。
当然とも呼べる理を失った都は歪んでいる。占わずして凶兆と断言する占師。飛び交う飛語は聞くに絶えないものばかり。
いくら御子を宿せば一族の地位も確たるものになるとはいえ、そんなところに愛娘を遣りたい親はそういない。

今の後宮は二極化している。
この混乱に乗じて帝に取り入り、成り上がらんとする野心に燃える妃。
様々な事情により入宮するしかなかった肩身の狭い妃。
もちろん、私は後者だ。
前帝の臣下とはいえ中枢にまでは潜り込めず、皇位継承の後見争いを指を咥えて見ているしかなかった半端な官吏が、その気の弱さを慰めてくれた妾に産ませた娘。
それが私、桂 月鈴(クイ ユーリン)なのだから。


父の正妻は気の強い人で、実家も代々続く商館だ。機を見る才はあるようで、彼女の娘──私には義理の妹にあたる──を入宮させると息巻いていたが、月蝕が起きたことで即座に方針を変えた。
わざわざ不吉な皇城に愛娘を送らずとも、より手近で確実な縁談を掴ませて富を得る。
そして捨て駒である私を入宮させて臣下としての対面を保たせる。後宮で私の身に何があったとしてもお構い無しだ。
そして万が一──これは本当に万が一なのだが、私が帝の寵愛を得たとしたら万々歳だ。これ見よがしに寵姫の親族だと、鼻息荒く父を出世街道に押し込むだろう。
どちらに転んでも義母は損をしないのだ。この肝っ玉と図々しさを父が持っていたら、と優しいばかりの細い背中をなじったこともあったが、今はそんなことはどうでもいい。
私は、ここで生きていかねばならないのだ。
そのためなら顔も知らない帝より、日々顔を合わせる身分高き妃達のご機嫌伺いをせねばならない。
そのための武器が──この耳だ。

かたんと扉が動いた。翠花かと思い目を向けると、見知らぬ侍女達を引き連れた妃が立っている。扇で口元を隠しているが、大きな瞳から発せられるまなざしがぎらぎらとこちらを焼くようだ。

「貴方の噂を聞いたの。わたくしのお願いも聞いてくださる?」

急いで椅子から降りて頭を下げる。
私に、断る理由などないのだから。


翠花に状況を伝える間もなく連れ出された先は庭院だった。

「わたくし、この髪が自慢なの」

香麗(シャンリー)様と名乗ったこの方は悩ましげに首を傾げる。結い上げられた黒髪がしなやかに揺れた。

「お気に入りの櫛があってね。月を愛でる陛下のお気に召すようにと、兎の意匠を凝らしてあるのよ。嵌め込まれた玉が陽の光に照らされて宝珠のよう」

夢見がちに語る彼女の後について歩くと、整えられた木立が段々と自然の有り様に任せた──言うなれば野放図な一角にさしかかる。そこで香麗様は足を止めた。待ち構えていたかのように烏がひと声鳴く。

「最近、烏が増えてきたわ。縄張り争いでもしてるらしく気が立ってるもの。光るものに目が無くって節操がないのよねえ……」

一羽だった鳴き声が次第に重なり、厚みを増した濁り声を響かせる。仲間への鼓舞か、はたまた敵への威嚇か。
開いた扇の向こうで、まだ見ぬ玉より爛々と光るまなこがこちらを見た。

「その兎、必ずやその御髪に舞い戻らせてみせましょう」

両膝を着き目を伏せる。ここからはこの耳だけが頼りなのだ。