客は僕一人だ。嬉しいのに、何も話題を用意してこなかった自分を責めた。

愛さんが、メニューブックと水の入ったグラスを僕の前に置く。

開けられた窓から、雨上がりの瑞々しい空気が流れ込む。

コバルトブルーの海が、太陽の光を白く反射していた。

「と、とりあえずアイス珈琲をお願いします。後でもう一人来るので」

「あら、それは楽しみですね。アイス珈琲、すぐにお持ちします」
キッチンに入っていく愛さんの薄紫のロングスカートがふわりと揺れる。
珈琲を準備する音。食器を出す音。普段ならそこまで気にしない音のひとつひとつが、この店ではBGMの代わりかのように心地いい。

やがて微かに聞こえてくるコポコポと湯を注ぎ、じわりと豆が膨らむ音に、無意識に入っていた体の力が抜ける。

なんだ、無理して話す必要ないじゃないか。

こうして、愛さんが珈琲を淹れてくれる音を楽しむだけで、彼女と会話している気持ちになる。

春の甘やかな風。この店の建つ丘の向こうに広がる海原と淡い水平線。

雨上がりの優しい空色と、眩しすぎない柔らかなレモンイエローの陽光。

ノスタルジーな雰囲気漂う古書の匂い。

さらりとした手触りのテーブル。

初めてこの喫茶店を訪れた時、僕はこの全てに惚れ込んだ。

ひとつひとつが愛おしく、僕はこの空間が好きでここに通っている。

そこに無理矢理に並べた言葉は必要無いような気がした。