「滝本さん、今から帰るの?」

帰ろうとしていた僕に、職員用のエレベーター前でチヨさんが声を掛けて来た。

「あぁ、チヨさん。そうですね、明日は朝食の前に来ますよ」

時刻は七時ちょうどだ。急いで帰れば、店で珈琲の一杯くらい飲めるだろう。

車いすに座ったチヨさんは「そうなのぉ」と、嬉しそうに笑みをこぼす。

明日は早番なのだ。六時には家を出なければならない。

「あのね。時間は掛かってるけど、前に言ってたミモザの刺繍。いま作ってるから、もう少し待っててね」

「勿論ですよ。無理のない程度でお願いします。楽しみにしていますね」
エレベーターのドアが開く。乗り込もうとした時、向かいのフロアから男性の利用者さんがふらふらと歩いて来た。

「あれ、正明さんどうしました?」

僕は一度乗り込んだエレベーターから下りて、閉まるボタンを押す。
チヨさんも何事かというように「あれまぁ」と呟いた。

「帰りの船が来るって聞いてるんだけど。愛媛まで遠いから、そろそろ乗らんと間に合わんわ」

僕はその言葉に「あぁ」と心の中で苦笑した。

いつもこの時間になると、故郷である愛媛に帰ると言ってうろうろしてしまう事を、彼のフロア担当の職員から聞いた事があるのを思い出した。

「正明さん、僕お話聞きますよ。一緒に行きましょうか」

肩からずれて来た鞄を、もう一度仕事モードに頭を切り替えるようにしっかりとかけ直す。

「お兄ちゃんも大変ねぇ」

チヨさんは「やれやれ」と、自分の部屋があるフロアへと入って行った。