天に御座す黄龍帝が創りし中つ国には、白、黒、赤、青の四龍が治める国がある。
 中でも特に広く豊かな大地を持つ龍湖国(りゅうここく)は、白黒対の龍が治める国だ。
 河川は整えられ、気の流れも淀みない。
 豊潤な大地は住まう人々も豊かに育み、長く戦もない龍湖国は今まさに栄華を誇っていた。
 中でも皇帝の住まう首都・湖仙(こせん)にはこの世のすべてのものが揃うとも言われている。
 他国との流通も盛んで、金や銀、そして宝玉など、様々なものが皇帝に献上された。
 それらに彩られた豪華絢爛な宮廷は、奥に行くほどに煌びやかとなる。
 龍の子孫でもある皇帝の後宮。
 その端の宮にて、李紅玉(りこうぎょく)は溜息をついていた。
「はぁ……困ったわ」
 呟く唇は小さく愛らしく、水分をたっぷり含んだ艶やかな髪は烏の濡れ羽色。
 肌理細やかな白い頬はほんのりと朱に染まっている。
 そして何より印象的なのは稀なる黄金(きん)の虹彩。
 天の黄龍帝が地上の繁栄を願い遣わしたという瑞祥の娘が持つ色だ。
 銅鏡を覗き込みその色を確認し、紅玉はまた溜息をつく。
「はぁ……ついにまじないが解けてしまった」
 何度確認しようとも、もう黄金の虹彩が変わることはないのだろう。
 最後にもう一つ息を吐いた紅玉は、諦めたように銅鏡を伏せた。
 瑞祥の娘には良きものを呼び、悪しきものを避ける力があるという。
 その力は皇帝に嫁ぐことによって地上への恵みとなるらしく、紅玉は生まれ落ちたその瞬間から皇帝の妃となることが決まっていた。
 その取り決め通り十五になる年の善き日、紅玉は後宮入りをしたのだが……。
『このような呪われた娘を寄越すとは……瑞祥の娘とは思えぬ、李侍郎の顔を立てて追い返すことはせぬが、皇后どころか四夫人の地位も与えられぬ』
 瑞祥の娘を迎えるからと直に出迎えてくれた皇帝の言葉を思い出し、紅玉はもはや怒りも忘れただ呆れる。
 確かに当時の自分は目の周りに緑色の特殊な染料でまじないを描いていた。
 そのまじないのせいで瑞祥の娘の証である黄金の虹彩が茶色になってしまっていたことも『瑞祥の娘とは思えぬ』と言われた要因であろう。
 だが、仕方なかったのだ。
 瑞祥の娘は地上に恵みをもたらす者。それ故、生まれた瞬間から人だけでなくあらゆる生き物から祝福される。
 紅玉が生まれた瞬間邸の外には小鳥たちが集まり言祝ぐかのように揃って囀り始め、野犬たちは瑞祥の娘の誕生を知らせるかのように、都中で遠吠えを響き渡らせた。
 他にも普段はあまり鳴かぬ猫が絶え間なく鳴いたりと、寡黙な父が後に『正直煩かった』と告げるほどだ。
 その後も、母がある朝目覚めたら熊猫が赤子の紅玉をあやしていたことがあり、食べられてしまうのではないかと悲鳴を上げてしまったと後に苦言を聞かされたものだ。
 そういった困りごとが続いたため、両親は懇意にしていた道士に頼み瑞祥の娘としての力を封じた。
 そのまじないは紅玉が自身で力を(ぎょ)することが出来るまで消えぬと言われたが、流石に後宮入りするまでには消えるだろうと両親も自分も楽観視していたのだ。
 だが初めの後宮入り予定だった十四の年になってもまじないは消えず、一年延ばしてもらっても消えなかったため諦めて事情を伝えた上で後宮入りした。
 だが、その事情は皇帝本人には伝わっていなかったらしい。
 故に、紅玉は皇后どころか妃としての最下級・正五品の才人という地位に置かれてしまったのだ。
 初めこそはその事情を伝えようと色々手を尽くそうとしていた紅玉だったが、皇帝の好色ぶりを見聞きし、彼を取り巻く女の闘いを見続け皇后になろうという思いは消え去ってしまった。
 むしろなりたくないという思いが日に日に強くなり、自分が瑞祥の娘であることを隠し通すことばかり考えるようになった。
 父に文を書いたことも何度かあったが、特に権力欲もない父は皇帝の皇后になりたくないと零すと『お前の思う通りにするといい』と任せてくれた。
 幸か不幸か、一見不気味なまじないのせいで気味悪く見られていた紅玉は呪われた妃として扱われ、いつしか後宮内で起こった不幸ごとは紅玉が呪ったせいだと噂されるようになった。
 あえて否定しなかったこともあり、今では悪女として後宮内では扱われている。
 とはいえ曲がりなりにも皇帝の妃の一人だ。自身の宮から出なければ謗言を聞くこともなく不快な思いをすることもない。
 宮が後宮の隅にあることをこれ幸いと、趣味の菜園をこっそり作りながらひきこもり生活を満喫していた。
 紅玉には瑞祥の娘として皇帝の皇后となり地上に恵みをもたらすという使命があるが、現状も一応“皇帝の妃”なのだから大きな問題はないだろうと安寧の日々を過ごしていた。
 ……いたのだが。
「今になってまじないが解けるなんて……流石にこのままずっと隠し通すことは出来ないわよね」
 嘆息し、悲し気に柳眉を寄せる。
 今までも公の場では顔を面紗(おもぎぬ)で隠していたため、まじないが解けたこと自体は隠し通せるだろう。
 だが、瑞祥の娘は地上の全てのものに祝福される存在。それには動物だけでなく当然人も入っている。
 今まではまじないで抑えられていたそれが解放されてしまったのだ。悪女と罵られている自分だが、何かきっかけさえあれば好意的に取られるようになるかもしれない。
 万が一にも皇帝に気に入られてしまえばすぐに瑞祥の娘と知れるだろう。そして、なりたくもない好色な皇帝の皇后にされてしまう。
 白龍帝と呼ばれる皇帝・王白儀(おうはくぎ)は齢二十九の美丈夫だ。
 多くの妃が彼に本気で恋をし、寵愛を得ようと争いを繰り返す。
 そんな女たちの頂点に立ちたいとは紅玉はどうしても思えなかった。
 長い睫毛を軽く伏せ、細く息を吐いた紅玉は意を決したように表情を引き締める。
「やはりあの方法しかないわ」
 いつかまじないが解けてしまったら。そんな考えはこの二年常にあった。
 だからこそ、そうなったときの対処法はいくつか考えてあったのだ。
「善は急げと言うし、早速行動に移しましょう!」
 拳を握り立ち上がった紅玉は、目的を実行するために裳裾を翻した。



 後宮内でも外朝にほど近い質素堅実な宮。質素と言えど、壮麗で雄偉なこの宮は黒龍殿(こくりゅうでん)と呼ばれているこの国で二番目に位の高い者が住む宮だ。
 龍湖国は白黒対の龍が治める国なので、白龍帝と黒龍帝の二人の帝が皇帝として立つ。
 建前上は同等の存在とされているが、皇帝が二人いては混乱を招くため白龍帝を第一位、黒龍帝を第二位の権力者と定めていた。
 いっそ国を二つに分けてしまえばいいのだろうが、二つの龍の血は混ざりあい皇族に受け継がれている。
 二分しても両方の国で白龍帝と黒龍帝が現れることになり、争いの火種が増えるだけなのだという。
 故に二人の皇帝を立てるしかないのだが、人の世とはままならぬもの。
 人の欲や情に流され黒龍帝が謀反を企てたという話は歴史を顧みるといくらでもあった。
 そのため、黒龍帝は国の第二位の権力を持ちながら不幸の象徴のように扱われている。
 昨今に至っては、巷で話題の物語に黒い(みずち)が水を淀ませるという描写があり尚更印象が悪くなっている様に思えた。
 そんな不人気の黒龍帝・王黒呀(おうこくが)の宮に、月のない闇の中紅玉は人目につかぬよう忍び込んだ。
 黒呀にある頼みを聞いてもらうためなのだが、衛士もいるはずなのにここまで止められることもなく来れたことに何とも複雑な気分になる。
(これも瑞祥の娘としての力なのかしら? でも私を認識した衛士の一人は幽鬼だのなんだのと呟いて青い顔をしていたから別の理由もありそうだけれど)
 何にしても複雑な気分ではあった。

 煌びやかさはなくともよく見れば凝った意匠の彫刻が施された扉を前に、紅玉は深く息を吐く。
 これからこの宮の主に頼むことは通常女人から口にすることではない。
 頼みを口にした時点で敬遠されてもおかしくはないが、自身が考えうる最良の策は“これ”だと思ったのだ。
 意を決し、もう一呼吸置いてから声をかけようとした直後、(へや)の中から低く鋭い声が発せられた。
「誰だ?」
「っ!……妃嬪が一人、李才人と申します。夜遅くに申し訳ありません、ですがどうしても貴方様にお願いしたき事があるのです」
 思わぬ問いかけに息を呑んだが、すぐに取り直し望みを口にした。
 ここで追い払われてはどうすることも出来ない。
 とにかく頼みを聞くだけはして欲しいと願いながら返事を待った。
「……まあ、よかろう。許す」
 入室の許可にほぅと息をつき、面紗を落ちぬよう整えてから失礼の無いよう細心の注意を払って扉を開ける。
 中に入り、扉を閉め一歩進んだところで膝をつき頭を垂れた。
 周囲から厭われていても相手は白龍帝に次ぐ権力者。才人という最下級の妃が気軽に声をかけていい相手ではない。
 房に入ることは許されたが、言葉を発することは許されていない。
 紅玉は頭を垂れたまま黒呀に声をかけられるのを待つしかなかった。
「……」
 無言の中、見定めるような視線を感じ汗が滲み出した頃、やっと黒呀の方から言葉が紡がれる。
「して、願いとはなんだ? 地位は高くとも疎まれているこの黒龍帝に何を願う?」
 自嘲の笑みを感じ取り、紅玉は思う。
(ああ、この方は諦めておられるのだわ)
 周囲に厭われ疎まれることを是としないまでも、否定しようと思わないほどには諦めているのだ、と。
 それを少し悲しく思うが、同時に悪女と呼ばれようとも否定してこなかった自分と似ているように思え親しみのようなものを感じる。
 だからだろうか、口にするには勇気がいるだろうと思っていた願いを紅玉はするりと言の葉に乗せることが出来た。
「……ふた月後の中秋節(ちゅうしゅうせつ)の催事にて、私を選んで欲しいのです」
「………………は?」
 数拍の間を空け返ってきたのは戸惑いの声。
 分かっている。このようなこと、女人から頼むなどはしたないと思われても仕方のないことだ。
 だが、自分が白龍帝の皇后にならずに済み、それでいて地上へ恵みをもたらすという使命を果たすにはこれしかない。
「御前にて(おもて)を隠したままとは申し訳ありません」
 今更ながら顔を隠していたことを謝罪した紅玉は、面紗をめくりあげ(おもて)を――その黄金の虹彩を黒呀に見せた。
「っ⁉」
「お頼み申し上げます。此度の中秋節にて黒龍帝である貴方様は自身の皇后をお決めになるでしょう? その黒龍皇后に、私を――この瑞祥妃を選んでくださいませ」
 息を呑む黒呀に、今度は子細を省かず願う。
 そう、齢二十となる黒呀は次の中秋節の催事にて伴侶を決めることが定められていた。
 家族の団欒を楽しむ日でもある中秋節は、生涯を共にする妻を迎えるのに相応しいと数代前の皇帝が決めたらしい。
 そのような催事の前にまじないが消えたのも天命であろう。
 疎まれていたとしても黒龍帝は龍湖国のもう一人の皇帝。建前上だけとは言うが、瑞祥の娘を娶る人物としては申し分ない。
 白龍皇后になりたくない以上、黒龍皇后となるしかないのだ。でなければ残るは国外逃亡という手段しかなくなる。
 それに、白龍帝より下位に置かれている黒龍帝には後宮がない。つまり、黒龍帝の妻は皇后一人だけなのだ。
 もちろん愛妾を囲っていた黒龍帝もいるが、今代の黒龍帝である黒呀にその様子はない。
 唯一の妃として娶ってもらえるかもしれないというところも、紅玉にとっては魅力的であった。
 そういった理由から、紅玉は型破りなことは重々承知で黒呀に求婚したのだ。
 黒呀は切れ長な黒曜石を思わせる漆黒の目を驚きで見開き、薄い唇をうっすらと開かせている。
 驚きも露わなその表情には愛嬌すら覚え、紅玉はつい可愛らしいなどと思ってしまう。
 流石に殿方へ向けるには相応しくない感情だと心中に押し込め、改めて黒呀の姿を見た。
 緩く一つに纏められ肩にかけられている真っ直ぐな黒髪は、身じろぎに合わせて毛先がさらりと揺れる。
 線の細い面差しではあるが、確かな男を感じる力強さもある。
 白龍帝は色気だだ漏れの妖艶な男性だが、黒呀は内面に色を秘める部類の美丈夫らしい。
 二人が並び立てばさぞ映えるだろうと思える顔立ちであった。
 流石は対の皇帝というところなのかもしれないと、紅玉は感嘆の吐息を零す。
 龍の血を継ぐが故の人とは思えぬほどの美しさ。
 その(かんばせ)が驚きから困惑へと変わった。
「少し待て……まず、何故瑞祥妃が下級妃なのだ?」
 相当惑っているのか、額に手を当て形の良い眉を中央に寄せる。
 黒呀は一つ一つの仕草が繊細で美しく、紅玉はつい彼に見惚れてしまう。
(白儀様より、このお方の方が私は好ましいわ)
 単純な好みの問題だが、求婚した相手が好みの男性だというのは喜ばしいことだろう。
「数年前に瑞祥の娘を迎え入れたという話は聞いた。立后は成されていなかったが、いずれはそうするつもりで四夫人に収まっていると思っていたのだが……」
 問いかけというよりも情報を整理するかのように言葉を紡いだ黒呀は、ひとしきり呟いた後にまた紅玉を見た。
「その黄金の虹彩。瑞祥の娘なのは間違いない……ならば何故才人なのだ?」
「それは――」
 改めて問われ、紅玉は事情を話す。
 まじないをかけていたこと、後宮入りの際の白龍帝の言葉、そして本日ついにまじないが解けてしまったこと。
 白龍帝の初めの言葉や、この二年後宮で過ごし見聞きした女の諍いのせいですっかり白龍皇后になりたくないと思ってしまったことも含めて伝えた。
「人を呪う悪女と噂される私ですが、まじないが解けてしまったからには遅かれ早かれ瑞祥妃であることは知られてしまうでしょう。そうなっては嫌でも白龍帝の皇后にされてしまいますから」
 だから貴方に求婚したのだと、紅玉は膝をついたまま黒呀を真っ直ぐに見上げる。
 淀みない視線に黒呀は苦く笑いため息を吐いた。
「ああ、噂の悪女とはそなたのことだったのか。そのような噂を放置するとは……まるでどこかの誰かの様ではないか」
 自分と同じだと思ったのかもしれない。
 優しさを宿した困り笑顔は、先ほど紅玉が彼に親しみを覚えたときのものと同じに思えた。
 それを密かに嬉しく思う紅玉は、だがふと疑問に思ったことを問う。
「李才人と聞けば皆悪女と申しますのに……貴方様は後宮のことを気にしておられないのでしょうか?」
「……まあ、あまり興味はないな」
「今の後宮にいる妃の中からご自分の皇后をお決めになるのに?」
 黒龍皇后は白龍帝の後宮から選ばれる。
 国中の美姫や才女が集められるのが後宮だ。身元も確かな者しか妃として扱われないため、白龍皇后に次ぐ地位の女性には後宮妃の中から選ぶのが相応しいのだ。
「……望んだ娘を選べぬなら誰を選んでも同じと思っていたからな」
「それは……」
 淡々と話す黒呀の言葉は望む娘がいるということだろうか。
 そして選べぬということは、すでに白龍帝のお手付きになっているということだろうか。
 そのような悲しい恋をしている相手に自分は求婚しているのかと、紅玉は胸に重石を乗せられたかのような気分になる。
(ああ、でもそれならば納得ね)
 黒呀が愛妾を持たない理由。それはその叶わぬ恋を胸に秘めていたからなのだろう。
 気が落ち込み、紅玉はしばらく黙り込んでしまった。
 だが、同じく無言であった黒呀からの視線を感じふと顔を上げる。
「っ!」
 何か、強い感情を乗せて自分を見つめる黒曜石の目に息を呑む。
(これは見定められているのかしら?)
 何にしても、今は気を抜いていいときではないのだと思い出す。
「私は兄と敵対するつもりはない。本来ならそなたは兄の皇后となるべき娘だ」
 静かに語る声は淡々としているというのに、強い眼差しは変わらず紅玉を射抜く。
 その眼差しのまま立ち上がった黒呀は、夜着である薄い袍の裾を払うようにして紅玉へと近付いた。
「それでもそなたは兄ではなく私の妃となりたいと申すのだな?」
 すぐそばで見下ろされ、圧を感じる。
 自分の願いは黒呀の望むものとは違うのかもしれない。
 だが、紅玉とて生半可な覚悟で求婚をしたわけではない。
 黄金の目に確固たる意志を込め、見上げた。
「はい、黒龍帝である王黒呀様の妃になりとうございます」
 はっきりと告げると、怖いほどだった黒の瞳に甘さが宿る。
 ふっと優しい微笑みとなった黒呀は手を差し出し紅玉に立つよう促した。
 素直にその手を取って立ち上がった紅玉に、黒呀は男らしく力強い笑みを向ける。
「了解した。次の中秋節の催事にて、私はそなたを唯一の妃として娶ろう」



「嫌だ、毒婦が本宮に来ているわ」
「しっ! あまり見てはいけませんよ。呪われてしまいます」
「まったく、離宮にずっと籠っていればいいのに」
 本宮に近付いただけで、妃嬪のみならず女官や宦官にもこの言われよう。
 噂を放置していたとはいえ見事な嫌われっぷりだ。
(まあ、今はこの方が都合がいいのだけれど)
 紅玉は面紗の中で小さく嘆息し、昨夜の黒呀との会話を思い出した。

 前代未聞な紅玉からの求婚を受け入れてくれた黒呀は、そのための条件を二つ提示したのだ。
 一つは中秋節まで紅玉が瑞祥妃だということを内密にする事。
 二つ目は地位を上げる事だ。
 一つ目の条件は元より婚姻がなされるまで隠し通すつもりだったので問題はない。
 だが、二つ目は考えてもいなかったので少し驚いた。
「建前上のものだとしても黒龍皇后は最高位の白龍皇后に次ぐ高位の女性となる。才人では指名した時点で苦言を呈す輩が現れかねない」
「あら、そうだったのですね」
 自分が瑞祥妃だと知られれば地位など問題にはならないだろうが、正式に婚姻がなされるまで知られるわけにはいかない。
 となれば黒呀の言う通り位は上げておいた方がいいだろう。
「私もそなたを迎え入れられるよう努力しよう。だからせめて正三品の婕妤(しょうよ)まで上り詰めてくれ……ふた月では難しいかも知れぬが」
 大変なことを望んでしまうなと申し訳なさそうに口にした黒呀は、伸ばした手で紅玉の髪に触れた。
 軽く撫でてから耳にかけ、その男らしい硬い手は離れて行く。だがその際耳に指先が触れ、紅玉は何とも気恥ずかしい気分になった。
(な、何だか想い人にするような仕草だわ)
 夫婦になろうというのだから問題はないのだろうが、黒呀は想う相手がいるはずだ。自分との婚姻は契約のようなものなのだから、今の行動に甘さがある様に感じたのはきっと気のせいなのだろう。
「私も出来る範囲で手助けはしよう。……頼んだぞ」
 黒曜石の瞳に強い意思を宿した黒呀に、紅玉はしかと頷く。
「はい。私の使える力全てをもって、ふた月で成り上がってみせましょう」

 やるべきことを思い出しながら無意識に黒呀の指が触れた耳に手をそえる。
 くすぐったい胸の内に気づき、はっと手の位置を戻した。
(嫌だわ、これではまるで恋する乙女ではないの)
 黒呀に対して好意はあるが、それを恋情にしてはならない。彼には叶わぬ恋の相手がいるのだから。
 自身に言い聞かせ、胸に宿ったほのかな温もりを振り払う。
(私は使命を果たせればいいの。辛いと分かっている恋などする必要はないわ)
 地上に恵みをもたらすために龍帝の皇后になるのが使命だ。その上で出来る限り幸せでありたいと願って黒呀に求婚した。
 彼の皇后であれば女の諍いに巻き込まれることもなく、唯一の妃として大事にしてもらえる。
 恋情は向けられなくとも、黒呀ならば自分をないがしろにはしないだろうと昨夜確信出来た。
 だから、今は約束した条件を満たすことに集中しよう。
 改めて決意した紅玉は、目的の人物がいる殿舎へと足を進めた。



 咲き誇る様相の蓮の花が美しい池の近くに、目的の人物はいた。
 少し変わった日除け傘の陰にいるのは、柔らかな飴色の髪をゆったりと結い上げた儚げな女性。
 真白の肌は透き通るように美しいその人は大きく膨らんだ腹を撫で慈しみの笑みを浮かべている。
 彼女の名は楊淑妃。現在白龍帝の第二子となる子を身籠っている四夫人の一人だ。
 後宮で上りつめるには皇帝からの寵を得るのが一番手っ取り早い。だが、白龍帝の皇后になりたくない身としてはその方法を取るわけにはいかない。
 ならばどうするか。
 権力者に気に入られればよいのだ。
 皇太后も皇后もおらぬ現在の後宮では四夫人が最高位の正一品である。上から順に瑛貴妃、楊淑妃、伯徳妃、招賢妃で、一番の権力者は白龍帝の第一子となる明蓮公主を産んだ瑛貴妃だ。
 順当にいけば瑛貴妃に取り入るのが普通なのだろうが、紅玉は瑛貴妃をどうしても好きにはなれない。
 黒髪に赤い紅がとてもよく似合う美女だが、後宮内の不審死には彼女が係わっているのではないかと言われるほどに権力欲が強い。
 紅玉が後宮入りしてからは、瑛貴妃が係わっているであろう不審死は呪われた妃である紅玉がもたらしたものだと言いふらしてもいた。
 自分が悪女と呼ばれる一番の原因となった人物だ。好きになれるわけがない。
 そういった理由から瑛貴妃の次となる権力者・楊淑妃に取り入ろうと決めたのだ。
(それに、白龍帝の御子を宿している淑妃様は今一番危険にさらされている状態ですもの)
 恩を売るには丁度良くもあるし、何より赤子が殺されてしまうのは悲しい。
 純粋に守りたいと思える相手でもあった。
 紅玉は驚かせないようゆったりと淑妃に歩み寄り膝をつく。
「失礼いたします、楊淑妃様。お声をかける無礼をお許しください」
「なっ⁉ 李才人⁉」
「汚らわしい、近寄るでない」
 楊淑妃がその翠の目に紅玉を映すより先に、周囲の侍女たちが騒ぎ出した。
 分かってはいたが、楊淑妃と会話すらさせてもらえないとは……。
「分かっておるのか? 淑妃様は大事な御子を宿しておられるのだぞ?」
「そなたのような呪われ妃が近付いて大事があったらどうしてくれる。去ね!」
「……大事なきよう、お守りしたいとお声掛けさせて頂いたのです」
 ため息を吐きたいのを耐え、なんとか話が出来るようにと落ち着いた声音を心掛ける。
 だが、「どの口が!」と侍女たちのまなじりはつり上がる一方。これは出直した方がいいかと思い始めたときだった。
 カァーカァー!
「きゃあ!」
 突然二羽の鴉がバサバサと羽音を立てて楊淑妃に向かってきた。
「なっ! 淑妃様⁉」
 二羽の鴉は興奮状態で手が付けられず場は騒然となる。
 紅玉も驚きはしたが、このままでは楊淑妃が危険なのは明白。考えるより先に動いた。
「おやめなさい! この方はお前たちの子を害してはいません!」
 楊淑妃と鴉の間に入り叫ぶ。
 彼女が使用している傘の飾り――黒羽を一枚取り鴉に差し出した。
「これはお前たちの子の羽根なのですね? ですが害したのは別の人間です。この方を害することは許しません」
 紅玉の言葉に二羽の鴉は悲し気に「カァ……」と鳴くと、差し出された黒羽を咥え飛び去って行く。
 辺りに静寂が訪れる中、紅玉は元いた位置に戻り近付きすぎたことを詫びた。
「失礼いたしました。ですがあのままでは危険と判断いたしましたので」
「なっ⁉ 何を! 今のもお前が近くに来たせいではないのか⁉」
「呪われし悪女め! 淑妃様までも呪うつもりか⁉」
「……おやめなさい」
 楊淑妃を助けたという状況の中でも侍女たちは紅玉を非難する。そんな荒ぶる侍女の声を制するように、柔らかな落ち着いた声が通る。
「李才人、助けて下さりありがとうございます。ですが何故あの鴉たちは私を襲ったのかしら?」
 一番恐ろしい思いをしただろうに、冷静に事を見ている楊淑妃に紅玉は内心感嘆した。
 優しくたおやかな印象の女性だが、流石は淑妃の地位にあるということだろうか。肝が据わっている。
「それはおそらく、その傘についている黒羽の飾りのせいと思われます。その羽根はあの鴉たちの子のものだったのでしょう……子を害されたと思い襲ってきたのだと思われます」
 鴉は情の深い生き物だ。親から子への愛は特に。子鴉に石を投げつけた男が目をえぐり取られたなどという話も聞いたことがある。
「何と⁉ だがこれは淑妃様のご実家から送られて来た品のはず」
「ええ、確か出入りの商人が厄祓いのまじないがかかった品だと……ご両親が淑妃様を害するとは思えませぬ。だとしたら……」
 楊淑妃の落ち着いた声音のおかげだろうか。紅玉を敵視してばかりだった侍女たちは冷静に分析し始めた。
「そう……ならばやはり私はあなたに助けられたのね。感謝いたします、李才人。……して、私に話とは?」
 柔らかな声音。だが、紅玉は厳しく人を見る気配を感じ取る。
 緊張をほぐすために一息つき、紅玉はゆっくり口を開いた。
「私を淑妃様の側に置いて頂きたいのです。私が側にいれば、先ほどのように貴女様への悪意をはね退けましょう」
「それはつまり私を守りたいということかしら? でも何故? 私を守ることであなたに利があると?」
 単純に厚意で、とは思わないのだろう。
 実際今回地位を上げるために彼女へ取り入ろうと思わなければ、紅玉は後宮の勢力争いに係わるつもりはなかったのだから間違ってもいない。
「はい。少々事情があり位をもう少し上げたいのです。淑妃様をお守りし、御子を無事ご出産できるよう努めますので、正三品・婕妤の位を授かるよう尽力していただきたいと思っております」
「まあ、正直なこと」
 望みを取り繕うことなく告げた紅玉に、楊淑妃はころころと鈴を鳴らすように笑う。
 回りくどい物言いは逆効果だと判断したからなのだが、間違ってはいなかったらしい。
「良いでしょう。私も御子を守るためならばどんなものでも利用するつもりです。無事御子が生まれた暁にはあなたの位を上げるよう進言致しましょう」
 面紗越しでも楊淑妃が悠然と微笑んだのが分かった。
 主が決めたことに侍女たちも文句は口にしない。気配からは不満がひしひしと伝わってきたが……。
 楊淑妃に受け入れられ安堵の息を吐くと、紅玉は契約の文言を口にする。
「感謝いたします。……誓約をもって、この力は成されるでしょう」
(そう、瑞祥の娘としての力――良きものを呼び、悪しきものを避ける力を)



「聞いたぞ。見事なものだな」
 自身の離宮に戻る途中聞き覚えのある声に呼び止められた。
 見ると、金糸で品の良い刺繍が施された黒地の袍を身に纏った黒呀が供もつけず待ち構えている。
 簾のような(りゅう)を垂らした冕冠(べんかん)をつけたその姿は黒龍帝のみが許されている朝服。
 昨夜見た夜着姿とは違う色気と凛々しさに、紅玉は思わず心臓を跳ねさせてしまう。
偶々(たまたま)でございます」
 頭を下げ礼を取り、意図せず早まる鼓動を誤魔化すように淡々と言葉を紡いだ。
 偶々とは言ったが、瑞祥の娘は良きものを呼び、悪しきものを避ける力を持つ者。
 あの子鴉の黒羽をあしらった傘を楊淑妃が持っていたのは偶々だが、あの場で親鴉が襲ってきたのは瑞祥の娘としての力が働いたからかもしれない。
 楊淑妃に気に入られなければと思う紅玉にとってはある意味好機となったのだから。
 襲われたときに紅玉がいなければ大事になっていた可能性もあるため、今回の場合はどちらにとっても最良だった。
 子を害されて興奮状態だった親鴉達には、瑞祥の娘である自分以外の声が届くとは思えなかったのだから。
「だとしても好機をものにするよう尽力したのだろう?……良くやったな」
 褒めたたえた黒呀は紅玉の手を取り礼の形を崩すと、そのまま引き寄せた指先にそっと口づけた。
「なっ⁉ 黒呀様⁉」
 瞬時に紅潮するのが自分でも分かる。
 紅玉は思わず引いた手を守るように胸の上に置いた。
 面紗があって良かったと切実に思う。今の顔は、きっと人に見せられないほどおかしな表情になっていただろうから。
「と、突然何をなさるのですか⁉ このような、口説くかのように……」
「何が悪い? 妻にと望む女を口説くのは寧ろ当然の行為だと思うが?」
「っ!」
 黒呀の口から“妻にと望む”という言の葉が紡がれて驚く。
 紅玉の方からの求婚だった。
 他に思う女性がいる黒呀は、瑞祥妃を不幸にするわけにはいかぬという思いだけで求婚を受けてくれたのではないのか。
 恋情は向けられなくとも大事にしてくれるだろうと思っていた。だが、このように口説く真似事までされるとは……。
「……私を妻にと望むのは私が瑞祥妃だからではないのですか?」
 黒呀の些細な行動一つ一つに心奪われそうになる紅玉は、冷静さを取り戻すためにそんな問いを口にした。
 当然肯定の言葉が返ってくると思った。紅玉が恋情を抱いても、同じ思いを返されることはないのだから。
 だが、心のどこかで期待してしまっていたのだろう。否定の言葉を口にしてくれると。
 だから……。
「……そうだな、瑞祥妃だから望むのだ」
 肯定の言葉に、紅玉の胸はずきりと痛んだ。



 清らかな霞漂う桃源郷。
 柔らかな風に揺られる柳に、穏やかな流れの川で戯れる水鳥。
 建築物は傷むことなく整えられ、金を使わずともどこか光り輝いている。
 不変の美しさは安らぎを与えてくれるが、どこか物悲しい。
 それは、黄龍帝が治める天界の様相だった。
(ああ、これは夢だわ。紅玉として生まれる前の、天界での記憶……)
 人々は皆地上での生を終えると天界へと還る。罪を犯したものは回り道をする羽目になるが、最後に行きつく先は皆黄龍帝の御許である天界なのだ。
 通常は天界での記憶を全て忘れて生まれるが、瑞祥の娘はその使命を全うするため僅かに記憶がある。
 黄龍帝から直々に受けた勅命。
 瑞祥の娘として地上に行き、龍帝の妃となり地に恵みをもたらせとかの御方は仰った。
 それが為されなくば、土は衰え、水は濁り、疫病が流行る。地上は荒廃の一途を辿るであろう、と。
 その地上の衰えは次代の瑞祥の娘が現れるまで続くのだ、とも。
 その重責に慄いたのを覚えている。同時に、その使命を全うしなければと強く思った。
 おそらく、歴代の瑞祥の娘はこの記憶だけを持って生まれ落ちるのだろう。
 だが、紅玉にはもう一つ覚えている記憶がある。
 黄龍帝から使命を与えられ、恐ろしくとも必ず成し遂げなければと勇んでいたときだ。
 下界の地を見下ろせる池のほとりで膝を抱え丸くなっている男の子を見つけた。
「どうしたの?」
 彼の背中が悲し気に見えて、つい声をかけてしまったのだ。
 男の子はもうすぐ地上に生まれ落ちる予定なのだが、次の生を穏やかに過ごせるのか自信がないと落ち込んでいた。
 どうやら特殊な家に生まれるらしい。
 悲しそうな彼を元気付けたくて、紅玉は自分が次の瑞祥の娘だと告げた。
「私が龍帝の妃となれば地上には恵みが溢れるわ。だから落ち込まないで、あなたの幸せも願うから」
 使命とは関係なく、男の子に元気でいて欲しいと純粋に思ったのだ。
 きっと、このときの思いがあるから紅玉は使命を全うしようと純粋に思える。
 仕事としての使命が、紅玉自身の願いにもなった瞬間だった。
 紅玉の言葉を聞いた男の子はやっと笑顔を見せてくれ、口を開く。
「ありがとう。なら、私があなたを――」
 ……そこで夢は途切れる。
 あの男の子は何と言ったのだったか。
 目が覚め、臥榻(がとう)の上でしばらく思い出そうと試みるが、考えれば考えるほど霞のように掴めなくなってくる。
 流石に諦め、紅玉は起き上がった。
 古びた木戸をがたがたと鳴らし開けると、柔らかな温かさの朝日が迎えてくれる。
 朝はまだ温かいと思えるが、昼に近付くにつれ夏の日差しで熱くなっていくだろう。この日差しが柔らかくなる頃には秋となっているだろう。
 秋には中秋節がある。黒呀が皇后に自分を選んでくれると約束した催事。
 瑞祥妃だから選んでくれると言った彼を思うと、やはりずきりと胸が痛む。
 紅玉以外の女性に叶わぬ恋をしている黒呀。そんな彼に自分も叶わぬ恋をしてしまったのかと自嘲する。
 だが、叶わなくとも好いた人の妻になれるのだ。
 彼が自分に向けるものが恋情でなはくとも、口説く真似事までしているのだからなにがしかの愛情はあると思う。
(それならやはり、私は白儀様より黒呀様がいい)
 痛む胸の奥にある恋情は、もう消すことなど出来ないのだから。
 自身にとって少しでも幸せな婚姻となるように。
 夢の男の子が、この地上のどこかで幸せに笑えるように。
 紅玉は改めて黒龍皇后となる覚悟を決めたのだった。



 楊淑妃の側につくことを許されてから約ひと月。
 初めは警戒し敵意ばかりを向けていた侍女たちは、今ではその警戒を解き態度が軟化していた。
「李才人様はお話してみると案外普通のお方なのですね」
 素で出てきたような侍女の言葉に面紗の中で紅玉は苦笑いする。
 下級妃と言えど仮にも皇帝の妃に対して“案外”とはずいぶんな物言いである。だが、初めの敵意しか向けて来なかった相手の言葉だと思うとむしろ喜ばしいとも思えた。
 もとより紅玉は噂のように人を呪い殺したことなどない。ごくごく普通の娘なのだ。
 悪女と呼ばれるようになったのも、瑛貴妃の策略のようなもの。
 後から知ったが、紅玉が力を抑えるためにまじないをしていた事情が白龍帝に伝わっていなかったのは、瑛貴妃の父である尚書令・瑛宗苑(えいそうえん)の思惑だったらしい。
 娘を皇后にと望む故に、瑞祥の娘である紅玉の存在が邪魔だったようだ。
 それを知った頃には紅玉もすっかり白龍皇后になる気も失せていたため、瑛貴妃の噂と共に放置してしまった。
 下手に行動を起こすと本格的に消されてしまう可能性もあったので、まじないが消えて白龍皇后にされかねない事態になるまで離宮に引きこもっていたのだ。
 噂のせいで離宮付きの侍女は紅玉を敬遠し食事を運ぶ以外は寄り付かなくなったが、身の回りのことは基本的に出来るのであまり問題はなかった。
 そのように誰とも関わらずに過ごして来たのだ。李紅玉という妃がどういった人物なのか知らない者の方が多いだろう。
 そんなことを思い返しながら楊淑妃の食事の準備を進める侍女たちを見ていた紅玉に、「そういえば」と淑妃の声がかかる。
「中秋節もそろそろね。私は参加出来るか分からないけれど」
 あなたは参加するのでしょう? と話しながら淑妃は臨月の腹を撫でた。
 中秋節まではあと約ひと月。今にも生まれそうな腹を見ると、確かに参加は無理そうだと思う。
 「はい」と短く返す紅玉に、淑妃は頬に軽く手を添えた。
「此度は黒龍皇后が決められるでしょう? 出来れば見ておきたかったわ」
 白龍帝の子を身籠っている淑妃が選ばれることは勿論ない。
 だが、白龍帝の対となる黒龍帝の皇后だ。この後宮から選ばれるということもあり気になるのだろう。
「誰が選ばれたのか、後で教えてほしいわ」
 紅玉が知らせるより先に侍女が知らせるだろうが、それでも紅玉の口から聞きたいと淑妃は言う。
 ならば話しに来ようと思う。そのときには、瑞祥妃であることも明かせるだろから。
「は――」
 チューーー!
 はい、と返そうとしたが、耳障りな鳴き声に遮られる。
 何事かと騒がしい場に目を向けると、床を一匹の鼠がぐるぐると走り回り侍女達が逃げ惑っていた。
 だがそれも長くは続かない。鼠はまた苦し気にチュー! と鳴くと、今度はぱたりと動かなくなってしまったのだから。
 泡を吹いて、ピクピクと痙攣し、沈黙した。
「……これは」
 鼠の死骸を見て黙してしまった場に、淑妃の掠れた呟きが響く。
 瞬間全てが動き出した。
 惑っていた侍女たちは淑妃の目から鼠を隠し、乱れた場を正していく。
 そんな中、淑妃の筆頭侍女が近付き状況を説明した。
「汁物に毒が混入していたようです。毒見が匙ですくったときに少々粗相してしまい、床に零れた汁を鼠が口に入れた様なのです」
「まあ……それでは毒見役も無事に済んだということね。良かったわ」
 毒を盛られたことは今回が初めてではないのだろう。
 淑妃の安堵した様子から、犠牲になった毒見役もいたのかもしれないと推測する。
「……その鼠は私が処分いたしましょう」
「え?」
 整然と場を清めていく侍女たちに紅玉は告げた。
「淑妃様のお側にある穢れは早々に祓わなくては。淑妃様、本日は失礼してもよろしいでしょうか」
「ええ、許します。ありがとう、李才人」
 許可を得た紅玉は淑妃に退室の礼を取り、清めていた侍女から布に包まれた鼠の死骸を受け取る。
「よろしくお願い致します」
 流石に死んだ動物の処理は嫌だったのだろう。侍女は幾分安堵した様子で包みを渡した。
「では、失礼致します」
 もう一度退室の礼を取った紅玉はすぐさま淑妃の宮を出て離宮へと向かう。
 鼠の死骸の包みを大事そうに抱え、足を速める。
(……ごめんなさい)
 胸の内で謝罪を繰り返しながら離宮へと急いだ。



 離宮の片隅の土を掘り、死骸を包みごと埋めていく。
 墓石代わりに手ごろな石を見繕っていたときに、今は来て欲しくなかった人が現れた。
「それは、もしや毒死したという鼠の死骸か?」
「っ!」
 鴉の事件のときといい、一体彼はどこから話を聞きつけてくるのか。
 分からないが、今は来ないで欲しかった。
 今彼に優しくされては押し込めていた感情が溢れてしまいそうだから。
 紅玉は喉に力を入れ、揺れた感情を無理矢理押し込めると声の主に向き直り礼を取った。
「黒呀様、貴方のような方が穢れに近付いてはなりません。今日のところはお引き取りを」
 感情を押し込めたせいで淡々とした物言いになってしまったが、致し方ない。
 早く帰って欲しいと願う紅玉だったが、黒呀は軽く跳ね除けた。
「瑞祥の娘であるそなたが弔っているのだ、問題なかろう?」
 しかもそのまま暮石代わりの石を共に見繕おうと紅玉の側にしゃがみ込む。
 品のいい黒の袍に冕冠を乗せた姿の黒呀は、上質な袍の裾が汚れるのも厭わず真面目に選んでくれる。
 そんな姿にも優しさを感じ、目元から雫が溢れそうになった。
 黒呀は鴉の一件のときだけではなく、こうして頻繁に紅玉に会いに来ている。
 その度に口説かれたり労われたりと紅玉の恋情を深めさせていくのだが、今この時ばかりはその優しさが辛い。
(だって、この鼠が死んだのは私のせいなのに……)
「紅玉? どうした?」
 動かぬ紅玉に様子がおかしいと気付いたのか、黒呀は土のついた手を払い立ち上がる。
 背に清めた手を添え、労わる様に撫でられ紅玉はもはや感情を押し込めるのが困難な状態になっていた。
「……優しくしないでくださいませ」
「紅玉?」
「その鼠が死んだのは私のせいなのに……このような私に優しくしないでくださいませ」
 鼠が卑しくも落ちた料理を食べてしまうことはままある。
 だが、今回に限っては自分の瑞祥の力が働いたからとしか思えなかった。
 紅玉は淑妃と誓約した。良きものを呼び、悪しきものを避ける力を成すために。
 今回は悪しきもの――毒を避けるために、鼠が引き寄せられ犠牲になったのだろう。
 毒見役が亡くなっても臨月の淑妃には精神的な負担となっただろうから。
「この鼠が意地汚く零れた汁を口にしただけなら私も淑妃様のように単純に安堵出来たでしょう。ですが、この子は私の願いを叶えるために犠牲になったのです。この子が死んだのは私のせい……こんな罪深い女に優しくなさらないでっ!」
 一息にまくし立てた紅玉は、それ以降言葉が紡げなくなる。
 感情的にならないよう押し込めていた罪悪感が溢れ、雫と共に嗚咽のみが零れた。
 黒呀は感情を荒げた紅玉に驚きつつも、背を撫でる手を止めない。
「罪など無い、そなたは淑妃を守ったのだ。鼠は哀れかも知れぬが、瑞祥の娘の力となったのだ。天界にて安寧を得られよう」
「っ! だから、優しくなさらないでください!」
 悲痛に叫び、不敬だと思ったが黒呀の手を払った。
 今は本当に駄目なのだ。黒呀の優しさに……慰めの言葉に縋り付きたくなる。
 縋り付いて、その優しさに愛を感じ溺れたくなる。
 自分以外を思う黒呀に、これ以上心を傾けたくないというのに。
「貴方様は私が瑞祥妃だから妻にと望んで下さったのでしょう? それ以上を求めてはくださらないのに、優しくしないでくださいませ」
 溢れた感情は普段押し込めていた思いすらも曝け出してしまった。
「これ以上、貴方様への思いを募らせるようなことをしないでくださいませ」
 一度口に出してしまった思いは涙となってぽろぽろと零れ落ちる。
 紅玉の嗚咽のみが聞こえる中、黒呀は静かに口を開いた。
「確かに私はそなたが瑞祥妃だから妻にと望んだ。だがそれは、そなたが瑞祥の娘としてこの地上に生まれ落ちると言ったからだ」
「……え?」
 予想もしていなかった言葉が出てきて涙が止まる。
 今、黒呀は何と言っただろうか。
 自分が、瑞祥の娘としてこの地上に生まれ落ちると言ったからだ、と?
 だがその言い方は、生まれる前……天界でのことだと受け取れる。
 そして、その言葉を口にしたのは……。
「天界での記憶は皆消えてしまうものらしいが、時折僅かだが残っていることがあるのだそうだ」
「……」
「私にも一つだけ残っている記憶がある。黒龍帝として生まれ落ちることに不安を覚え地上を見下ろしていたとき、声をかけてくれた少女の記憶だ」
 胸の鼓動が、ゆっくり、だが確実に大きくなっていく。
 黒呀の言う記憶とはもしや……。
「少女は私を元気づけるために自分が次代の瑞祥の娘だと明かしてくれた。そして、私の幸せを願ってくれると」
「あの男の子は、貴方様だったのですか……?」
 まさか黒龍帝となる者だとは思いもしなかった。
 天界にはすべての魂が集まる。地上で再び出会える確率はかなり低い。
 何より、通常は天界での記憶はない。
 だというのにお互い記憶を持ち、再び出会えた。
 運命すら感じる再会に、心が昂り先程とは違った涙が滲む。
「龍帝であるならば瑞祥の娘と出会える確率は高い。だから、私はそなたと約束したのだ」
「約束? 私が黒呀様の幸せを願うという約束のことですか?」
 どことなく違う気はしたが、それ以外に約束をした覚えがなく問い返す。
「そこは覚えていないのか」
 と少々残念がる黒呀だったが、すぐに笑みを浮かべ紅玉の手を包んだ。
 優しく温かなぬくもりに、守られているような心持ちになる。
「私の幸せを願うと言ってくれたそなたに私は約束をした。そなたが私の幸せを願ってくれるなら、私がそなたを幸せにしようと」
「っ!」
 つんと、鼻の奥が痺れるような感覚に言葉が出なかった。
 黒呀の言う『瑞祥妃だから』というのは、天界にて約束をした相手だからということだったのだ。
 それを知り、紅玉は救われた気分になる。
 黒呀は、“瑞祥妃”という肩書きだけで自分を妻にと望んだわけではないのだ。
 胸に宿るぬくもりに早くも幸せを感じていたが、続いた言葉はそれを上回った。
「とはいえそなたがどの国に生まれ落ちるかは賭けだった。同じ龍湖国に生を受けたと報が入り喜んだのも束の間、この国では瑞祥の娘は白龍帝の皇后となることが決まっているではないか」
 悔し気な声音。面紗の向こうに見える表情からは眉を寄せている様子しか分からない。
「兄は好色で多くの妃に手を出している。皇帝としては正しいのだろうが、そんな兄にそなたを奪われるのは悔しかった。……だが、無理に奪おうとした場合確実に争いが起こる」
 悔しげな声が悲痛なものになり、紅玉の手が更なる熱に包まれた。
「地上に恵みをもたらし、私の幸せを願ってくれると言ったそなたは争いなど望まぬであろう? だから、私はそなたを諦めるしかなかった」
「え……?」
(私を……諦める?)
 繋がりそうな糸がゆらゆらと揺れる。期待が絶望に変わらぬようにと自衛する心がその糸を掴ませてくれない。
 だが、黒呀への思いを強めた今、その期待を消すことは出来なかった。
(黒呀様は私を諦めると言ったの? 白龍帝に奪われるのを悔しいと思いながらも、争いを望まぬであろう私を思って?)
 確認のように心の内で繰り返すと期待は膨らんでゆく。
 膨らんだそれを泡のように弾けさせたくなくて、紅玉は思わず熱くなった黒呀の手を握り返した。
 紅玉の行動に少々驚いた様子の黒呀は、険しかった顔を柔らかな笑みへと戻す。黒曜石の目に甘さが宿った気がした。
「ひと月前、白龍帝の妻になりたくないと言い私の元にそなたが来たとき、私がどれだけ嬉しかったか分かるか?」
「黒呀様……」
「諦めるしかなかったそなたが自ら私の元へ来たのだ。夜中だったこともあり正直本気で夢かと思ったぞ?」
 あのとき、黒呀は叶わぬ恋をしているのだと思った。だから自分にその思いが向けられることはないのだろうと。
 だが、黒呀の話では……もしや。
「ではその……黒呀様の想い人とは?」
「想い人? そなたしかおらぬが?」
 他の可能性など皆無だと言わんばかりに答えた黒呀。あまりの喜びに、紅玉は息を詰まらせた。
 期待が現実に代わり、揺れていた糸が繋がる。
 高揚した感情は滲むだけだった涙を雫に変えて紅玉の頬を濡らした。
「……紅玉」
「っ、は、はい」
「顔が見たい」
「み、見せられる顔をしておりませんっ」
 拒否するが、黒呀は少々強引に紅玉の面紗の裾に手をかける。
 あっ、と思った頃には布がめくり上げられ、目の前の端正な顔がはっきりと見えた。同時に、泣いているみっともない顔を見られ羞恥から頬を朱に染める。
 化粧は薄いとはいえ、崩れているに決まっている。だというのに、黒呀は宝石のように美しい目を細め喜びの笑みを浮かべた。
「……美しい……綺麗だ、紅玉」
「黒呀、さま……」
「一度は諦めたが、そなたは私を選んでくれた。……ならば、私は約束の通りそなたを幸せにするよう尽力する」
 面紗の中に入って来る黒呀を紅玉は軽く驚きつつも受け入れる。
 近付く顔に、どうしようもなく胸が高鳴った。
「もう遠慮はしない。そなたは誰にも渡さぬ」
「っ、あ……」
 何かを、伝えたいような気がした。
 だが言葉を紡ぐ唇は塞がれ、泉のように沸き上がる思いが心を満たす。
 思いを交わせぬと思っていた相手からの愛のある口づけに、紅玉は溢れる思いを涙に乗せる。
 喜びの雫がまた一筋頬を濡らした。



 それから半月後、楊淑妃が産気づいた。
「才人っ、李才人っ」
「はい、ここにおります」
 陣痛の合間に呼ばれ、側に寄る。
 玉の汗を浮き上がらせながら、いつになく不安気な淑妃に寄り添う。
「恐ろしいの、私は無事子を産めるかしら? 死ぬことなく、この子を抱けるかしら?」
 柔らかな印象でありながらいつも気丈な淑妃の弱音。
 出産は母子共に命に係わるものだ。白龍帝の子を身籠ったのは瑛貴人と楊淑妃以外にも多くいる。
 だがそれは様々な理由で生まれることなく死に絶えた。
 それを見聞きしてきたであろう淑妃が不安がるのはもはや当然のこと。
「大丈夫です、淑妃様」
 紅玉は苦しみに耐える淑妃の手を取り、陣痛の波の間に優しく伝えた。
「貴女様は私と誓約しました。良きものを呼び、悪しきものを避ける力は成されております」
 そう、淑妃が紅玉を側に置くと決めたあのとき誓約は成された。
 あの瞬間から瑞祥の力は淑妃にも影響を与えているのだ。
「才人? それは――」
 目を見開いた淑妃は勘づいたのかもしれない。だが聡い方だ、紅玉の意図や現在の状況を読み取って口を噤んでくれるだろう。
「無事のご出産を願っております」
 最後にそう告げて紅玉は離れる。
 そして、楊淑妃は無事に男の子を出産した。
 赤子でありながら白髪で生まれたその子は次代の白龍帝。
 その喜びの知らせは宮殿内に収まらず、即座に首都・湖仙どころか国中に知れ渡る。
 紅玉は次代の白龍帝が誕生するまでをお守りした働きを評価され、楊淑妃の嘆願もあって早急に正二品・昭儀へと位を上げられた。
 ……そして、産後で休息中の淑妃不在の中。
 中秋節の催事が執り行われた。



 蓮の花の形に切られた西瓜や多くの果物が並べられ、赤い蝋燭に火が灯される。
 芙蓉の菓子を切り分け、皆夜空に煌々と光る月を見上げた。
 桂花酒が振る舞われ、宴もたけなわとなった頃。
 例年にはない儀式が行われる。
 二十の年を迎えた黒龍帝が自らの皇后を決め婚姻するための儀式だ。
 礼部尚書の宣言の後、白龍帝が黒龍帝である黒呀を促す。
「“黒龍帝・王黒呀よ。其方の皇后はどちらに?”」
 問いの形をした儀礼の文言。
「“只今連れて参りましょう”」
 同じく儀礼の文言で答えた黒呀は立ち上がり、真っ直ぐ九嬪の座る場所へと――紅玉の元へと足を進めた。
 黒地に金の刺繍が施された袍に、旒を垂らした冕冠。黒龍帝のみが纏える朝服の裾を優美に払いながら目の前に来た黒呀に、紅玉は面紗の中で安堵し表情を緩めた。
 約束はした。思いも交わせた。
 だが、この一番大事な時に来てくれなければ? と不安にもなっていたのだ。
「李昭儀、こちらへ」
 瞬間、静かなはずの月夜の儀式がざわりと騒がしくなる。
 黒呀の元に向かいながら耳に届いた声は様々だ。
 不人気な黒龍帝が選んだのが元最下級妃であることに安堵するもの。
 逆に黒呀の美貌を目の当たりにし、自分が選ばれなかったことを嘆くもの。
 呪われた妃を選ぶことを忌避するもの。
 最後の者達からは「黒龍皇后に相応しくないのではないか」「下級妃のままなら苦言を呈することも出来たというのに」などという声も聞こえてきたため、黒呀の言う通り位を上げておいて良かったと思う。
 黒呀の元へ行き差し出された手に自分のそれを置くと、彼も幾分安堵したような息を吐いた。
 自分が感じていた不安と似たようなものを彼も抱えていたのかもしれない。
 面紗で隠れて見えない笑みの代わりに、黒呀の手をぎゅっと握る。その手を握り返され、供に白龍帝の御前へと向かい礼を取る。
「……“黒龍皇后に望まれし娘。名は?”」
 未だに紅玉を呪われた妃と思っているらしい白龍帝も、驚きを隠しきれず儀式の文言を口にするまでに間が空いた。
 楊淑妃の出産に尽力したことで多少は評価が上がったようだが、黒龍帝に望まれるほどとは思っていなかったのだろう。
「李紅玉と申します」
 今から白龍帝の妃・昭儀から黒龍皇后となるのだ。昭儀の位を返上する意味を込めて、ただ名を口にする。
「“李紅玉。そなたは黒龍皇后となることを望むか?”」
「“はい、望みます”」
 決められた文言を儀式に則って口にしてゆく。
 だが、白龍帝は――いや、黒呀の兄・白儀は兄として納得できなかったのであろう。
 皇帝としての顔を僅かに崩し、確認の言葉を黒呀に投げかける。
「黒呀、本当によいのか? 黒龍皇后は白龍皇后に次ぐ地位を持つ。そのような地位を持つ相手が民に認められぬ者だと其方の評価にも影響するのだぞ?」
「白龍帝――いえ、兄上。全てを理解した上で私は紅玉を選んだのです。彼女だけは貴方にも渡せない」
「っ」
 独占欲とも取れる言葉に、紅玉は面紗の中で目が潤むほどに顔を熱くさせた。
 嬉しいとは思うが、それ以上に恥ずかしく照れる。
 だが面紗を取る前で良かったとも思った。でなければどんなに顔を俯かせていても耳が赤いことは知れただろうから。
「……そうか」
 そう言った白儀の声は、困惑か戸惑いか少々揺れていた。
 弟の惚気に当てられたようにも聞き取れて、少々白龍帝への印象が変わる。
 今のやり取りを見るに、思っていたよりこの兄弟の仲は悪くないのかもしれないと感じた。
 深く息を吐き白龍帝としての顔に戻った皇帝は、儀式の流れに戻る。
「“白龍帝・王白儀の名を持って、黒龍帝・王黒呀と李紅玉の婚姻をここに認める。そして、李紅玉の黒龍皇后としての立后をここに宣言する!”」
 満月の下、厳かな儀式は執り行われた。
 白龍皇后立后の際には盛大な催し物も行われるが、黒龍皇后立后はこのように簡略化されてしまっている。
 黒龍帝が蔑ろにされてしまっているという証明でもあるが、今の紅玉にとっては寧ろ有難かった。
 白龍帝の宣言により婚姻と立后は成立する。あとは、紅玉が宣言するだけだ。
「有難う御座います……これで龍帝との婚姻が成立致しました」
 礼の型を崩し、紅玉は面紗を外す。
 この宣言は、瑞祥の娘としての使命を全うするためのもの。その証である黄金の虹彩を隠していては様にならない。
「っ! そなた、その目は……」
 息を呑む白龍帝以外にも、対面し紅玉の顔が見える位置にいる者は皆驚きを露わにしていた。
 白龍帝の隣に座る瑛貴妃などは驚きだけでなく少々顔色も悪い。
 その様子から、瑛尚書令から紅玉が瑞祥の娘だということは聞いていなかったのかもしれないと思う。
 各々の驚きが覚めてしまう前に、紅玉は瑞祥の娘としての宣言を口にした。
 「良きものを呼び、悪しきものを避ける力……婚姻の誓約をもって、この力は地上への恵みと成るでしょう」
 言い終え、小さな口元に笑みを浮かべる。
 これで、自分と黒呀を引き離す者はない。
 引き離したが最後。次代の瑞祥の娘が現れるまで地上は荒廃の一途をたどってしまうのだから。
「そなたが、瑞祥の娘……? それでは、私は……」
 驚きと後悔を滲ませ、白龍帝が手を伸ばす。
 だが、その手が紅玉に届く前に黒呀の手がその身を攫った。
「白龍帝よ。言ったであろう? この娘だけは貴方にも渡せぬと」
 紅玉を閉じ込めるように腕に抱いて告げる黒呀。
 渡さぬという言葉通りの態勢に、紅玉は自身の名の玉と同じ色に頬を染めた。
「……そうか」
 自身の愚かさも自覚していたのだろう。白龍帝は諦め、軽く瞼を伏せ黙す。
 白龍帝が納得の意を示したことで他の者も異を唱えることは出来なくなった。
「では、中秋節らしく新たに妻となった我が妃との時を楽しむ事とします。御前を失礼してもよろしいか?」
 退出の意を告げた黒呀に、白龍帝は無言で頷き許す。途端、紅玉の視界が揺れた。
「え? きゃっ!」
「しっかり掴まっていろ」
 すぐ近くに聞こえた低い声に動悸が激しくなるのを感じる。
 抱きかかえられていると気付いたときには、もう黒呀の足は歩みを進めていた。
「こ、黒呀様? 私、歩けるのですが」
「こうさせてくれ。誰かに攫われぬよう、捕まえておきたいのだ」
 声を掛けることも出来ずにいる周囲の視線を浴びながら、二人は催事の場を後にする。
 そのまま黒呀の宮へと向かう二人を邪魔する者はいない。
「紅玉……私はもうそなたを幸せにする権利を手放す気は無い。それが例え天に御座す黄帝だとしてもだ」
「まあ、それは流石に不敬ですわ」
 あまりの言葉に驚くが、その思いは伝わった。
「……ですが、私も他の誰でもなく、黒呀様に幸せにして頂きとうございます」
 恥ずかしくて消え入りそうな声になったが、黒呀の耳にははっきり聞こえたらしい。
 愛おし気に額に口づけられた。
「そなたを幸せにすることが私の幸福だ。必ず幸せにすると約束しよう」
 誓いではなく、約束。
 だが自分達二人にとってはどんな誓約よりも強い契りとなる。
 紅玉はすでに幸福に包まれていることを実感しながら、喜びの涙を滲ませ答えた。
「はい、私も貴方様を幸せにするとお約束致します」