「お初にお目にかかります。子規堂 七海と申します」
私、子規堂七海は、努めて華麗に、そして優雅で優しい雰囲気を保って、深く、お辞儀をした。
これからどうなろうとも、今は今、やるべきことを果たすだけ。
長年培ってきた抜群の演技力で、真実を隠すことが出来ている。我ながら上出来だ。
「七海さん、顔を上げてください。俺は、氷織 颯霞と申します。よろしくお願いします」
あちらも、本音ではない。演技をしているのがこちらにバレバレだ。
「はい」
国内最高の軍隊を率いる隊長だと言っていたものだから、もっと厳格なお方なのかと思っていたわ……。
七海の婚約者、氷織颯霞は想像していたよりもずっと、ほんわかとした優しい人だった。
紺色の着物に藍色の羽織を着ていた。それはどこかの童話に出てくる若旦那様のように美しい。
なんだか、拍子抜けね……。今日は婚約者同士の初めての顔合わせの日。お母様たちはとても喜んでいらしたけれど、私の心の内は晴れることを知らない。
もともとこの婚約は政略結婚なのだ。お互いが望まない結婚など、しないほうがいいというのに。氷織颯霞は、容姿、才能、文学とどれをとっても申し分のない完璧なお方だ。
第一印象は、冷たくもキレイな瞳が印象的だった。言葉や表情は巧みに誠実さを醸し出しているけれど、鋭く光った一瞬の眼光を、私は見逃さなかった。
銀色掛かった白髪の髪色に、肌は陶器のように白くて、男性とは思えないほどの美しさだった。
その見た目に反して、内面は温厚で優しそうな人ときた。両親はますます颯霞のことを気にいるだろう。
「七海さん。俺と君はこれからお付き合いをする、という関係になる。そう思ってもいいのですか?」
「はい。問題ありません」
優しく、綺麗な微笑みを湛える。長年そうして演技をしてきたせいで、もうこの笑みは意識せずとも普通に出来るようになってしまった。
私は、この一点の曇りもないキレイな瞳に一体どう映っているというのか。ちゃんと、優しい女性に見えているだろうか。
他人には知られていない、私のもう一つの顔。あまつさえ、それは両親にも知られていない。
───私は、あの二人の、本当の子供ではないのだから。
「七海さん、気分転換にどうですか。庭を眺めるというのは」
「はい。こちらもそうしたいと思っておりました」
颯霞と七海は外用の履き物を履いて、和風の日本庭園に足を踏み込んだ。真紅の鯉が綺麗に整えられた池を優雅に泳いでいる。
ジャリ、ジャリという砂の心地の良い音が静かな空間に響く。立派な松の木が陽光を浴び深緑に染まり、綺麗な水面が太陽の光に反射してキラキラと光っている。
「とても、趣深いですね。何でしたっけ?昔の言葉は。…あっ、そうそう…」
「「をかし」」
颯霞の低音の耳に心地良く響く声が、七海の声に重なった。七海は少しだけ驚いた。
颯霞は先程から、ぼんやりとした面持ちで庭を見ていたので自分の話など聞いていないと思っていたのだ。
しかし、颯霞はしっかりと七海の話に耳を傾けてくれていた。二人は微笑み合って、優雅な一時を過ごした。
「貴女は、この庭が気に入ってくれましたか?」
少しの緊張が颯霞から漂っている。その象徴に、さっきまでとは違う改まったような敬語。
この庭は、有名な庭師に頼んで颯霞が七海にとわざわざ作らしたものなのだろう。
「はい。とても、気に入りました」
これは、本音だった。ここに来てから初めての……。七海は改めて苦笑してしまった。自分はこれほどまでに、人を騙す人間だったのかと。随分と落ちぶれてしまったものだ。
私も、自分の心のままに生きてみたかった。
利用される人間ではなく、しっかりと、自分の意思を持つのを認めてもらえる人間に。なりたかった。
こんなにも良くしてくれる人を、騙すことなど本当はしたくない。でも、今この時にも、私を監視している人物はいるのだ。それだけ、私に託された任務は重大なものだから。
「七海さん。これからは婚約者として、私を頼ってくださいね」
すぐには反応することが、出来なかった。彼は優しい微笑みを私に向けてくれていた。それだけで、何だかとても泣きたい気持ちになったのだ。
「はい」
彼の一つ一つの行動が、私の胸に優しさとなって染み込んでくる。
「あの、颯霞さん……。私にここまで良くしてくれたのは、貴方が初めてでございます」
颯霞は一瞬、目を瞠った。そしてゆっくりと瞳を伏せて、再び口を開いた。
「七海さん。この婚約には多少の強引さもあったかと思います。七海さんはこの婚約を望んでいなかったかもしれません。ですが俺は、貴女が俺の婚約者で良かったと思っています。少しの後悔もありません。私は、貴女と、七海さんと、幸せになれるという自信があります」
その瞳、口調には一切の曇りも陰りもない。とても嘘を付いているようには見えなかった。
私は、こんなにも気遣ってもらっても良い人間なのだろうか。
この人と一緒になるということは、いつか、この人をひどい目に遭わせてしまうということだ。本当に、それで良いのだろうか?
「私も、そうなれることを願っています」
気づいたときにはもう、遅かった。私の口からは颯霞さんとの婚約への承諾と取られる台詞が発せられていた。
いつか後悔する日が来ると分かっていても、私は結局冷たい人間なのだ。今は私情を押し殺して、国のためになる行動を一番にと考えている。
そんな私を、絶対に誰にも知られてはならない。でも、この氷織颯霞になら、知られても良いと不覚にも思ってしまっていた。
◇◇◇
颯霞とのお見合いの日から三日ほどが過ぎたある昼の日のこと。
七海はある任務を遂行するため、森の奥に隠れて存在している、大きな屋敷の前にいた。門兵に用事を伝え、大きな門をくぐり抜ける。
ここへ来るのにはまだ慣れていない。厳格な雰囲気が漂う屋敷全体に気圧されるのはいつものことだ。
西洋の家の作りをしているこの屋敷は、いつもの綺麗さを保ったまま、何百年も存在し続けている。
私が屋敷の立派で豪華なドアを開こうとすると、それは勝手に開かれた。
ああ、長くここに来ていなかったせいで忘れていたけれど、ここには少数だけれども立派な執事が待機しているんだったわ……。
屋敷の中に靴を履いたまま入る。広い玄関の正面には、大広間へと続く長い廊下があった。私はその廊下を通ることなく、螺旋階段を使った。その方があのお二人方のいる書斎に近いからだ。
書斎へと向かい、その扉の前で一つ深呼吸をする。ドアをノックしてから、こう告げた。
「リリー様。ノア様。子規堂七海、只今参りました」
深く、深く頭を下げる。あのお二人方が顔を上げろと言うまで、私は一切動じてはならない。そういう決まりだ。
「七海。待っていましたよ」
「顔を上げなさい」
優しく声をかけてきたのはリリー様。そして、厳格な雰囲気を全身に纏い、顔を上げろと言ってきたのはこの屋敷の主であるノア様だ。
「氷織颯霞との婚約が決まったことを直接伝えに参りました」
「ああ」
ノア様は一瞬にして難しそうな顔になり、眉をひそめる。屋敷の外から聞こえてくる葉の揺れる音が妙に鼓膜に響いた。
「あちらは何も怪しんではいなかったか?」
「はい。その可能性は断じてありません」
「……ああ、それなら良いのだ」
ノア様は瞳を伏せて、机上に広げてある報告書に何やら書き足し始めた。おそらく、本部へと送る密告書だろう。それよりも、と七海は思った。
リリー様とノア様は本当に日本語がお上手だわ……。
思わず感嘆の声を出しそうになったが、それは心の中だけに留めた。二人は、日本人ではない。
それなら、一体何人だというのか。それはまだ言うことなんて、到底出来ない。
「七海」
よく通るノア様の声に私はそちらの方へ体の向きを変える。
「はい」
「お前に、次の任務が届いた。この封筒を確認しなさい」
ノア様が手渡してきた封筒にはとても高価であろう金箔が散りばめられていた。私はそれを慎重に受け取り、中身を取り出した。
任務書が書かれた用紙に一通り目を通し終えて少し、安心した。これならば、まだ私に出来ることだったからだ。
『氷織颯霞との交際期間中に、お前は決して奴に入らぬ情など抱いてはならない。そして、必ず奴がお前に特別な情を抱くように仕向けろ』
少々荒々しい命令口調の任務書。この人は、一体いつになったら私を開放してくれるのだろうか。そこから逃げ出そうとしない私が悪いのかもしれない。
でも、逃げたところで相手は帝なのだ。
私は逃げたところで帝に後を追われ、殺されるだろう。
反逆者として帝の目に止まり、手に入るかもしれなかった自由さえも、失ってしまうかもしれない。
そせん、私はその程度の人間だ。こうやって任務に従っていながらも、その本当の意味は自分にはそれが一番良い道だからだ。
私は今日の用事を終え、屋敷を後にした。少しでも早く、ここから抜け出したかった。森から出たところで、何だか体から鉛のような重い感覚がなくなった。
「一体、何が正しいって言うのよ……っ」
泣きそうになるのを必死にこらえる。頭を抱え、しゃがみこんでしまった。昔から剣技を叩き込まれた私の手は、決して女性の手とは思えないほどに、分厚く丈夫になっていた。
女性のように、華奢な体でもない。長身の体に程よくついた筋肉。今は綺麗な着物を身に纏い、醜い本当の自分を隠しているがそんなことをしても意味がないのだ。
ああ、まるで私は───囚われた鉄槌のようで、便利な剣のようではないか。
絶望で覆い尽くされるのは、まだこの時ではないというのに。私の心は、こんなにも脆くて弱かったのだろうか。
頭を抱え、随分と長い時間が経っていたその時、───
「七海、さん……?」
とても驚いたような声が私の鼓膜に響いた。私はその声を聞いた瞬間、はっとして慌てて立ち上がる。
「あ、あら……颯霞さん。こんにちは」
「七海さん。こんな所でどうしたのですか?凄く辛そうだったんだけど……」
その瞳は私を心配そうに見つめていた。
頭を抱えてうずくまっていたところを見られてしまったというのか?
私は、何という失態をしてしまったのだろう。どうやって取繕えばいいのか。さすがの私も、すぐには思いつけなくて愛想笑いを浮かべるしかない。
「今日はとても暑いではありませんか?それで少々暑さにやられてしまっただけなのです」
「本当に?今日はもう十一月です。暑さにやられるわけがありません」
「それよりも、颯霞さんこそなぜこんな所におられるのですか?」
「俺は今日隣町に行く予定なのです。車はあちらの方で待機させています」
確かに、彼はいつも着ていた和服ではなくて、洋装をしている。長身で細身の彼にその漆黒色のスーツはとても似合っていて女性顔負けの美しさだった。
おそらく、隣町へと行く際に私を見かけたのだろう。
「良ければ七海さんもご一緒にどうですか?」
彼は優しい微笑みを浮かべてそう言った。正直とても驚いた。先程のことで私への訝しさが増したと思っていたのに。
「……っ、はい!是非行きたいです」
「後、色々と七海さんのことに踏み込みすぎてしまい不快な思いをさせてしまいました。ただ、俺は心配だったんです」
「いえ、そんなことは全くございません。ただ、少し心が乱れてしまって……。偶にですが、あるのです。今回のようなことが」
「そうなのですか……」
彼は再び心配そうに眉を下げ、こちらに向けて手を伸ばしてきた。彼の行動の意味が分からなかった。
「躓いてしまっては七海さんが怪我をしてしまいますので。お手をどうぞ」
その意味が分かった途端、私の頬はぽっと火が付くようにして赤くなった。
私の手など、とても女性のものと言えるものではない。彼はそれに気づいてしまうかもしれない。
でも、ここで身を引いてしまうのは何だか嫌だった。彼に触れたいと、思ってしまった。
「ありがとう、ございます」
恐る恐る手を伸ばし、ゆっくりと彼の手に重ねた。男の人の手というのは私が想像していた以上に大きくて、安心する。
彼の手が私の手を優しく包み込む。今、私は真っ赤になってしまっているかもしれない。
こんな小さなことで動じることなどなかった私が初めて、気恥ずかしさを覚えている。
「七海さんの手はとても綺麗な手をしていますね。剣術をしていたりしますか?」
彼は私の手を、綺麗な手だと言った。でも、それよりも、彼にはすぐに、この手に触れただけで剣術を叩き込まされた手だと分かってしまった。
恥ずかしさとやるせなさのあまり胸が詰まり、思わず手を離そうとする。
けれど、どう力を入れても私の手は彼の手から逃れることが出来ない。私は思わず颯霞さんのこと睨んでしまった。
「七海さん」
「あ、あのっ!離して、…」
「もしかして君がさっき蹲って泣いてたのはそれのせいですか?あの、だったら……」
「離してください……!」
自分にとって最大のコンプレックス。それを、颯霞さんに触れられてしまって、冷静でいられるわけがない。だって颯霞さんは、今までの人たちとは全く違ったからだ。
先程も、私のことを悪く言うことはなかった。心の底から心配してくれて、事情を聞き出そうとした。それに全く嫌悪を感じなかったのは、それは颯霞さんの優しさだと分かっていたから。
でも、優しさ以外の言葉なんて聞きたくない。
───また、傷付きたくない。
「七海さんっ!俺の話を聞いてください……っ!」
颯霞さんの低くて怒ったような声が思ったよりも近くで響く。私ははっとして、颯霞さんの瞳を見つめた。
「貴女は、何をそんなに怖がっているのですか。貴女はもう、俺の恋人なんです。俺は、剣術を叩き込まれた七海さんに、決して女性のように傷一つない手ではない七海さんに、惹かれたのです」
その瞳は本気だった。私は、一体何てことを思ってしまったのだろう。颯霞さんのことを優しい人だと思った。
そんな考えを押し捨てて、この人が私を悪く言い放つ未来を想像した。なんて愚かな行いなのだろう。
「で、でも、私の体は決して女性のように小柄ではありません。この手も、綺麗には程遠いほどなのです。私なんかが、颯霞さんに受け入れてもらえるわけが、……」
「七海さんは、初めてお会いした時からとても可憐で美しい女性だと思っています。それに、その傷ついてしまった手も、私にとってはとても大切なものです。それは、七海さんの努力の証だと思うからです。俺は、そんなかっこいい七海のことを尊敬しています」
颯霞さんの温かい手が、私の手を優しく包み込んでいた。胸から溢れ出してしまうほどにいっぱいになってしまった嬉しくて、温かい気持ちを今すぐ誰かに伝えたい。
「信じても、よろしいのでしょうか……?」
「はい!俺は、嘘を一番嫌う人間だということを噂で聞いていないのですか?七海さんが誰に何と言われていようと、俺はそんなことを当てにしたりなんかしません。俺は、自分の見たものを信じようと、決めたのです」
「はいっ、……」
◇◇◇
彼女は一体、どんな秘密を抱えているのか。子規堂七海という女性が、一体どんな人なのか。
初めて会ったあの日から、あの人のことを考えてしまう自分がいた。
可憐でとても美しく華やかさを纏った彼女を初めて見た瞬間、正直とても驚いた。
淡紫色の着物の下に何重もの衣を纏い、菖蒲の花が優雅にも美しく描かれている。
金色の糸を刺繍針で丁寧に丁寧に縫っていったような、そんな鮮やかな模様の刺繍もその女性にはぴったりで思わず張り詰めていた気が少しだけ、緩んでしまった。
そして同時に、嫌悪感をも抱いていた。今まで俺の周りにいた女性たちは皆、ケバケバしく、いつも鼻にくる香水の匂いが漂っていた。
そのせいで、女性に対して嫌な印象を抱いてしまっていたのだ。
……だから彼女も、それらと同じだと、信じて疑わなかった。
「お初にお目にかかります。子規堂七海と申します」
一つ一つの所作がとても綺麗で美しい。彼女がゆっくりと顔を上げて、お互いに目が合った時。
彼女の艷やかな黒髪が宙を舞い、ふと見えた寂しそうな微笑み。
彼女は、今まで生きてきた中で出会った人たちとは、何かが違うと直感した。それが何かはまだ分からない。
けれど、計り知れないほどの、大きくて重い、責任を背負っているように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
◇◇◇
いつの間にか、肌寒く感じる季節は予期する暇も与えないほどに早くやって来た。車の中は温かいと言えど、今日の外気温は十五度ほど。
「七海さん。体調は大丈夫ですか?寒くはないですか?もし体調が悪ければ気になさらずに言って…」
「あ、あの……本当に大丈夫ですから」
颯霞さんは先程からこの様子。1分経つごとに同じ質問をされている気がする。颯霞さんは重度の心配性だということが判明してしまった。
それにとても過保護だ。これでは外の景色を楽しむことさえ出来ない。別に迷惑というわけではないが、何か策を考えなければ。
「颯霞さん。これからゲームというものをしませんか」
我ながら、突拍子もない提案だと心の中で苦笑する。でも、颯霞さんは少し興味を持ってくれたようだ。
「ゲーム、というと?」
「あっち向いてホイっていうゲームです!」
「七海さん。俺、ゲームというものを今までしたことがないのですが、…」
「ふふ、そうでしたか。でも、大丈夫ですよ。何せこれは私が生み出した遊びですからね」
それから私は颯霞さんに"じゃんけん"というものを教えた。
じゃんけんの種類はグー、チョキ、パー。
グーはチョキには強いけれどパーには弱い。
チョキはパーに強くて、グーには弱い。パーはグーには強いがチョキに弱い。
じゃんけんというものを知らない人と出会うのは初めてで、少し新鮮な感じがした。
でも、それもそうだと思い至る。颯霞さんは国内最高の隊を担う人で、家柄は由緒正しい氷織家。
任務遂行のため、氷織颯霞を調べるついでに氷織家のことも調べてみた時のことだが、氷織家の者は外界との接触を強く拒んでいるということだった。
その理由までは調べようとはしなかったけれど、知ってみるのも悪くないかもしれない。
「それでは、ゲームの説明も一通りすませたことですので、始めましょうか」
「七海さん。ここで少し提案があるのですが、ただあっち向いてホイをするだけでは何だか物足りないと思ったので…先手5点を取った方のお願いを聞く、というのはどうですか?」
「はい。とても良いと思います」
私が快く了承すると、颯霞さんはとても嬉しそうに微笑んだ。初めは少し冷たい印象を受けた颯霞さんの瞳は、今はとても柔らかく私を見つめている。少しずつ颯霞さんの気持ちが私へ向いてきているのを実感する。
私もそれに応えたい、だなんておこがましい願いなのだろうか。颯霞さんとなら、結婚しても良いというほどに、私はもう、こんなにも颯霞さんに特別な情を抱いてしまっている。
でも、その感情の名を口にすることは許されない。これは、決して許されることのない、儚い恋なのだから……。
「最初はグー、じゃんけん…ポン!」
「やった!七海さんに勝った!」
「じゃあいきますよ~!あっち向いて…ホイ!」
「うわぁ、……ハズレた」
「次は私の番です…!」
そうやって私たちは隣町へ着くまでの間、ちょっとしたゲームをして遊んだ。彼の意外な子供らしい一面を見ることが出来て、とても心が満たされた。
勝敗は颯霞さんの手に渡った。正確には、颯霞さんが勝つように仕向けた、という方が正しいのだろうか。
颯霞さんは私が思っていたよりもとても良い人で、ただの時間つぶしのゲームにも快く、楽しそうに付き合ってくれた。
「七海さん。お願い事を、します」
「はい」
少し緊張した。颯霞さんの真剣な瞳に映る私の顔は緊張で固まってしまっている。颯霞さんも少し緊張しているのか、ごくんと唾を飲み、喉仏が大きく動いた。
「子規堂七海さん。これからも、ずっと、……俺の隣に居てください」
彼は愛おしいものを見つめるような瞳で、私を見つめていた。ずっと、一緒に…か。
それは、私が応えることの出来る願いなのだろうか。
「そうなれると、いい……ですね」
颯霞さんの瞳を見て話すことが出来なかった。それは、私にやましいことがあるから?
それは、きっと違う。
……もしも今、颯霞さんの瞳を見つめてしまったら、その瞳に全てを見透かされてしまいそうになるから。それは、何だか怖かった。
曖昧に答えた私に颯霞さんの表情に不安が滲んでいく。
なぜ、この人はこんなにも真っ直ぐに生きられるのだろう。
嘘偽りのない本当の自分をさらけ出しても、彼はきっと、沢山の人に好かれる。
でも、自分は、そんな彼の隣を歩けるほど良い人間ではない。
「あ、颯霞さん。着いたみたいです」
颯霞さんの私を見つめる真っ直ぐな瞳から逃れるように、私は車から外に出た。隣町は私の住んでいる都会よりもずっと離れたところにあった。
颯霞さんは車を降りてから暫くの間、複雑そうな顔をしていたが、私はそれを見ていないふりをした。
「七海さん。これから軍の屯所に向かいます」
「はい」
「あの、……ここまで来させてしまったのですが、迷惑ではなかったですか?」
颯霞さんは自信なさげに目を伏せる。いつも凛としていて少し冷たくも感じていた瞳に今は不安の色が滲む。私はそんな様子の颯霞さんを見て、一瞬だけれど目を見開いた。
「いいえ。迷惑などそんなことはありえません」
そう言って、自然と出てきた微笑み。我ながら、だめだなと思った。颯霞さんとの間に私情など一切抱いてはいけないのに、感情というものはそう簡単に制御できるものではないと、今、初めて知った。
もう、どうしたら間違いで、どうしたら正解なのかが分からない。真っ暗で何もない道を、一人で彷徨っているみたいだ。
そして、誰が、こんな展開を予想できていただろうか。屯所に向かう途中、颯霞さんは突然振り返って、私の方に目を向けた。その瞳は、真摯すぎて、何だか少し怖かった。気づかぬうちに背筋が伸びる。
「七海さん。…俺に、七海さんを抱かせてくれませんか」
空耳、だったら良かったのに。そうだったのなら、私はまだ、大丈夫だったのに。颯霞さんと隣町へ行った後、そこからどうやって自分たちの住む都会に帰ってきたのか、全く覚えていない。颯霞さんも終始真顔で、何を考えているのか分からなかった。
◇◇◇
「は、い…。あの私、初めて、なので……」
颯霞さんの顔が嬉しそうにくしゃりとなる。私がまだ初めてだと知り、喜んでくれているのだろうか。
颯霞さんの屋敷の寝室にて。恐らく今、私は人生で最大の羞恥を味わっている。
「もちろん、優しくするつもりです。もし止められなかったら、本当にすみません」
こんなにも恥ずかしい言葉が、自然と口から出てきてしまう颯霞さんが半ば信じられない。細身だと思っていた颯霞さんの体は、私が思っていたよりも大きくて、程よい筋肉が付いている。色が他の人よりも断然白いのは、譲ることが出来ないが。
「七海さん、…大丈夫ですか」
颯霞さんも、早く欲求を抑える苦しみから解き放たれたいだろうに、こんな時までも、私の気持ちを最優先してくれる。この人は、なんて良い人なのかしら。
「は、い。私も、颯霞さんの全部、欲しい、です…」
そう頬を赤らめて呟くと、颯霞さんの柔らかそうな唇が私の唇を塞ぐようにして優しく重なる。
「…っん、」
颯霞さんの舌が口の中に入ってきて、口の中も犯されている気分だ。
でも、それも何だか心地よくて、人の体温の温かさに激しく安心する。颯霞さんといる時、颯霞さんと一つになっている時、私の胸はどうして、こんなにも温かくなるのだろう…。
私の初めてを捧げてもいいと思えた相手は颯霞さんが初めてだ。……なんて、颯霞さんには絶対に言わないけれど。私がそんなことを言った暁には、天にまで昇ってしまいそうなほどに喜んでしまうと思うから。
なんて傲慢で自意識過剰な考えなのだろう。そんな風に心の中で思うが、そんなことを忘れさせられるくらいの甘い痛みが私の体全体を蝕んでいく。
蝶の毒に侵されたようにして、私の脳内は彼と今繋がっていることだけしか考えられない。
私は颯霞さんの首に腕を絡ませて、抱きついた。
「七海、さん……?」
「颯霞さ、…あっ……キス、したい。キス、してください」
私がそう言うと、颯霞さんが激しく驚いたのが伝わってきた。
「七海さん、…っそれって、俺のこと…好きになってくれたってことですか……?」
私はその質問には答えたくなくて、颯霞さんの唇に自分の唇を重ね合わせた。颯霞さんの灰色の瞳が、目が、大きく見開く。でも、それは一瞬の出来事で、次の瞬間には、貪り合うような、激しいキスが始まった。
「んっ…ぁ、……んん」
「ななみ、さん……っ。愛しています、本当に心の底から、貴女だけを、」
颯霞さんは何度も何度も私に深いキスの雨を降らす。その声音は少し切なげで、颯霞さんの心の籠もった告白を今だけは素直に受け取りたいと思ったのだ。
「颯霞、さん……っ」
───そんな甘くて苦い初夜を、私達は過ごした。
◇◇◇
眩しい太陽の光が、カーテンの隙間からこちらを照らしている。私はその眩しい光で目を覚ました。起きた時、自分が真っ裸になっていて驚いたが、昨夜の颯霞さんとの情事を思い出して、顔が火照ってしまった。
「ん、……七海さん。おはようございます」
「え、えと……はい。おはようございます」
「七海さん。なんであの時、キスしてくれたんですか」
颯霞さんの綺麗な顔が、私に近づいてくる。それにあたふたしていまう私を楽しんでいるかのように、颯霞さんの表情は意地悪だ。
「ねぇ、七海さん。どうしてですか」
お互いの唇の距離が、もう僅か1cmほどになった時、私は観念して、今の自分の想いをさらけ出してしまった。
「私は、颯霞さんのことを、とても良い人だと思っています。私に無償の優しさを与えてくれて、それにとてもかっこいいです……。私は、颯霞さんと、なら……結婚しても良いと思ったんです」
たどたどしくなってしまったけれど、これは全て、嘘偽りのない私の本音だ。颯霞さんにこんなことを伝える予定など一切なかった。
一切なかったのに、純粋に期待してくれていて、私を信じてくれる颯霞さんに本音で向き合わないということは、出来なかった。
「それってやっぱり、……俺と同じ気持ち、ということでいいんですかっ?」
颯霞さんは、やっぱり可愛い。こんなにもかっこよくて、綺麗なのに、それだけではなくて、可愛ささえもを兼ね備えてしまっているなんて、少しずるい。
そんな風にキラキラとした、小さな子供のような瞳で期待されてしまうと、断ることなんて、出来なくなってしまう。
颯霞さんはどこまで私を困らせたら、気が済むのだろう。もちろん、彼が私を困らせようとしているなんて、毛頭ないと思ってはいるが。
「は、い……」
恥ずかしすぎて、死んでしまいたいと思うほど私にとって自分の本音を伝えるということは難し過ぎた。いや、慣れていなかった。
「七海さんっ……!」
「わっ、…そ、颯霞さん……?どうしたのです……んんっ」
突然、颯霞さんから唇を塞がれた。そしてそれは、一度や二度の口づけではなくて、お互いの唇は離れることなくどんどん深くなっていく。
お互いの体は密着していて、裸のせいかいつもよりも体温を近くに感じる。
「七海さん、……好きです、大好き……」
「んぁっ、…。んっ」
颯霞さんはそう言いながら、私の首元に噛み付いた。昨日の一晩だけで、私の体にはもう“颯霞さんのもの”という意味を表すキスマークで埋め尽くされていた。
颯霞さんは、支配欲求がとても強いということが、あの一晩だけで身に染みて分かってしまった。
「だ、だめ…です……っ!今、は」
「じゃあ、今じゃなければいいんですね?」
昨日同じ、獣のような瞳に捕らわれて、ダメと言ってはいけない雰囲気が漂う。それはまるで危険信号のように、私の脳内に刻まれた。
「は、い……」
◇◇◇
今日は、颯霞さんの屋敷に住み始める日。颯霞さんとの初夜から3日程の日が経って、私は只今、仮嫁入りの荷造りをしているところだ。
仮、というのはまだ私と颯霞さんの正式な結婚が行われていないからだ。
森の奥にひっそりとして建っている、書院造の屋敷に私は一人で住んでいる。
国内最高の令嬢とされている私は幼少期から、琴、笛、生花、舞、文学と色々なことを両親から教え込まれた。と言っても、その両親は本当の親などではないのだが……。
あの二人夫婦は私が本堂の娘だと、思い込んでいる。その経緯はまだ話すことは出来ないが、この機密情報がもし外部に漏れてしまうという愚行が見られた場合、私は殺される。
そして、私の周りにいる仲間も、殺されてしまう。そして、颯霞さんも私のことなど虫けらのように扱うかもしれない。
颯霞さんは私を包み込むように抱きしめて眠っていた。私、今まで、颯霞さんの腕の中で眠ってしまっていたの……!?
またもや私を襲った羞恥心のせいで、中々颯霞さんの顔を見ることが出来ない。
なぜなら彼は、今、すごく愛おしそうに私を見つめてくるんだもの……。
初めて颯霞さんとお会いした、あの時のお見合いの日。私を見る颯霞さんの眼差しの冷たさと、今とでは全く違いすぎていて、頭が混乱してしまう。
私が、颯霞さんを傷つけてしまう日が来るかもしれない。色々な不安を抱えたまま、私は今日、この日まで生きてきた。
大切な人がいる。愛おしいと思う人が出来た。守りたいと思うけれど、純粋な気持ちでそれを実行することが、出来ない。私は、悪い人間だ。
この世で一番、皮肉で、みっともなくて、恥しかない、悪者、……。
誰かに優しさを、本当の優しさを、与えられたことなど一度もなかった。温かい目で、私を見つめてくれた人など、この17年間、一人もいなかった。
でも、颯霞さんだけは、颯霞さんだけは、そうではないと思いたい。信じてみたい。それだけで、こんなにも心が、満たされるのだから……。
私は自分の荷造りを終えて、外衣に着替える。淡い水色や濃い青色などが使われているアヤメの花が、繊細に描かれた着物。自分には、水色が一番合うのだ。
………今日はなんだか、寂しくなってしまうほどに辺りが静かだ。風の音も、鳥のさえずる声でさえも、聴くことはできない。半分、気持ちが下へ傾きかけていた、その時。
「七海さん。お待ちしていました」
そこには、優しく微笑んでいる、颯霞さんがいた。突然の出来事に、頭が追いつかなくて目を見開く他ない。
洋装をした颯霞さんは車に寄りかかって私を待っていたみたいで、その目が優しく細められた。今日も今日とて、とてもお美しい姿に思わず目が眩む。
「あ、あの…颯霞さん。どうして、…」
「七海さんをお迎えに参りました。さすがに好きな女性を歩いて越させる男など、底辺でもありえません」
「あ、ええと……」
颯霞さんの整った綺麗な顔を見ていると、3日前の夜のことが思い出されてしまう。
血走った目と獣のように激しかったあの日の颯霞さん。愛おしそうに私を触る、あの手付き。
思わず、顔が真っ赤に染まった。
「七海さん…?大丈夫ですか、顔が真っ赤です」
こういうところで鈍感な颯霞さんに、少し不満を抱いてしまう。国内最高の隊を担う人なのだから、頭の回転は常人よりも遥かに速いはずだろうし、その鈍感さが嘘ではないから、憎めない。
「な、なんでもありません!」
やや不満を含んだ声を発した私に、颯霞さんは目をまん丸くして笑った。
「ふふっ、七海さん、駄々をこねる子供のようです」
「か、からかわないでください!」
こっちは心臓が持ちそうにないんです!という意味を込めた瞳を颯霞さんに向ける。彼は未だに楽しそうに笑い続けている。
「颯霞さん。この荷物を車に入れてもらってもいいですか。私を笑った罰です」
怒気を含んだ声でそう告げると、颯霞さんは締まらない緩んだ頬のまま、嬉しそうに頷いた。こんなにも感情を揺さぶられてしまうなんて、らしくない。
颯霞さんは、いつも私が想像していることの斜め上のことをしてくる。急に真剣な顔をして、抱かせてください、だなんて言ったときはさすがに驚いてしまって声さえ出なかったものだ。
「七海さん。これで荷物は全部ですか?俺が思っていたよりも少ないですね…」
「あ、いえ。本当はまだ中にもあります。しかし、それらは琴や花瓶やお裁縫道具などと重いものなので、…迷惑かなと思いまして、……」
お稽古の道具を持っていきたかったのは山々だが、颯霞さんに迷惑はかけられない。そう思って、半ば諦めていたのだが…。
「迷惑だなんて、そんな言葉、もう二度と言わないでください」
途端に怖い顔をして、颯霞さんの背後に黒い霧が押し寄せたと、思った。怖気づいて少し下がろうとした私の腰を、颯霞さんが素早く抱き寄せる。そして次の瞬間には、唇を塞がれてしまっていた。
「んっ、……!?」
一度や二度の口付けじゃない。これはもう深すぎるほどの口付けだ。颯霞さんの舌が私の舌と絡みついて離さない。私の唾液を全てを飲み飲むかのように、ごくんと大きくて立派な喉仏が上下に揺れた。
息が出来ないほどの口付けをされて、さすがに限界だった。しかし、私が唇を離そうと身をもがくと、颯霞さんが私を抱きしめる力を強くする。
「七海、さん。もっと俺に、頼って。俺を独占して。束縛してよ。他の女とかなんか目も合わせちゃだめだっていうくらい、俺に七海の嫉妬をくれ」
「へ、……?」
甘くて深すぎる口づけの合間に、颯霞さんらしくない口調で、声音で、そう言われる。しかも今、七海って私のことを呼び捨てした。
本当の颯霞さんはどっちなの?
獣のように飢えた瞳で私を見つめないでよ。そんなに寂しそうな顔して、私に口付けしないでよ。
「七海。好き。大好き…。こんな気持ち、初めてなんだ。だから、……俺から離れていかないで、俺をずっと好きでいて」
私のちょっとした言動が、颯霞さんをこんなにも不安にしてしまうなんて……。
恋人として、婚約者として、失敗じゃない……!
颯霞さんは、きっと普通の人たちのように愛情を受けて育ってこられなかったのだろう。
国一番の隊長という肩書に加え、そんな国民からの重圧を背負い、どれだけ肩身の狭い毎日を過ごしてきたのだろう。そう考えてしまうと、とても胸が痛む。
「颯霞さん。これからは、ちゃんと颯霞さんのことを頼ります。私は、貴方の妻になる者として、相応しいのでしょうか」
「何言ってるんですか。殺しますよ?貴女は、もう俺だけのものです。七海さん以上に素晴らしい女性はこの世に存在しません。俺から離れていくようでしたら、七海さんを殺して、俺も死にます。だから、絶対に俺から逃げないでください」
狂気じみた言葉。その覇気にまたもや怖気づいてしまったが、それが颯霞さんの本音だと思うと、なんだか嬉しくなってしまう。
こんなにも私のことを愛してくれて、強すぎるほどの束縛をしてくれる。こんな風に思ってしまう私は、結構Mだったりするのだろうか?
一人でそんなことを考えながら、小さく吹き出した。
こんなにも幸せな日が、ずっと続けばいいのに……。
颯霞さんを傷つけてしまう日が来ることなんて、今日は忘れて、颯霞さんにいっぱい愛してもらいたい。
そして、私も心から、颯霞さんを愛していると、伝えたい。
私達の行き着く先は、こんなにも明るいものではないかもしれない。颯霞さんと一緒になったことを後悔する日が来るかもしれない。
でも今は、ずっと、颯霞さんの腕の中で、安心できるところで、静かに存在したい。
そう思ってしまっては、だめなのでしょうか……?
◇◇◇
颯霞さんと仲直り出来たあと、私は颯霞さんに琴やら花瓶やら色々な大道具を車まで運んでもらって、一息ついていた。
先程までの狂気じみた颯霞さんはもうそこにはいなくて、いつもの穏やかで優しい颯霞さんがいた。
「七海さん。眠っていてください。俺の屋敷まではまだまだ遠いですから」
「あ、では…」
何から何までしてもらって申し訳ないのは山々だが、先程ちゃんと約束したのだ。
颯霞さんを頼ると。
颯霞さんは迷惑だなんて思っていないのだから、私は私のしたいことをやればいいと。
そう言われても、そう簡単に出来ないのが長年の習慣だ。いつも下の身分だった私は、頭を下げること、謝ること、迷惑をかけないこと、……などの沢山の『遠慮』を叩き込まれてきたのだ。
そう簡単に、その悪い癖が治るとは到底思えない。
私はゆっくりの目を閉じて、眠るよう努力する。しかし、努力するまでもなく、私は颯霞さんの静かな運転のおかげで、すぐに深い眠りに落ちていた。
◇◇◇
「……さん。…七海……起きて……さい」
「ん、……」
俺は七海さんを起こそうと、優しく肩を揺さぶる。それでも七海さんは、寝ぼけたように俺の名前を囁き、また夢の中へ入っていこうとする。
「颯霞さん~……」
少し掠れた、七海さんの甘えたような声。それだけで、俺の理性が揺らいで下半身が反応してしまいそうになる。しかし七海さんは、さらに追い打ちをかけるように、寝ぼけ眼で俺に抱きついてきた。
「は、……!?七海、さん…?」
「ん~、……私は、なんで言うことを聞かなきゃだめなんですか~…!こっちはそれどころじゃないんですー…!」
何だか分からない寝言を叫び、力尽きたように俺に体を預ける七海さん。俺は取り敢えず七海さんをしっかりと座らせ、車から降車する。
そして右の助手席の方へと移動する。この車は外国製のもので、普通は左が助手席、右が運転席となっているが日本製の車とは左右が反対なのだ。
「七海さん。失礼しますね」
一度断りを申してから、七海さんの膝の裏に腕を回す。そしてお姫様抱っこをするように、七海さんを抱き上げた。起こすと申し訳ないから、自分で勝手に運んでおこうと考えたのだ。
七海さんはいつまでも穏やかに、眠り続けている。とても穏やかで、優しい表情だ。
すっと通った鼻筋に、綺麗に整えられている眉毛。ぷるんとした柔らかな唇に、長い睫毛。
俺の屋敷に行くためだったのか、化粧もしている。透明のように白い頬。閉じられた瞼にはピンク系統のアイシャドウが付けられている。
はっきり言って、七海さんの顔は俺の好みだ。今まで女性に興味さえ抱いていなかったのに、七海さんに出会ってからは、自分の好みも明確になっていった。
屋敷の前にそびえ立つ、金で作られた門に近づくとそれは勝手に開く。この屋敷には、色々な魔法のような仕掛けが施されているのだ。
玄関も同じく、勝手に開き、何も敷かれていなかった床には、赤いカーペットがすばやく現れる。
「旦那様、おかえりなさいませ」
沢山のメイドや執事が俺の帰りを迎え入れる。長すぎる廊下に綺麗に一列に並んで、綺麗な背格好で御辞儀をするその姿は、軍隊の人たちととてもよく似ている。
俺はそれを軽く受け流して、廊下の一番奥にある私部屋へ向かう。
七海さんは俺の腕の中で気持ち良さそうに寝息をたてていて、自分の中にある男の欲求というものがくすぐられる。
入った先にある部屋は水色が基調とされた簡素な部屋。必要最低限のものしかこの部屋にはなく、ベッドにソファ、デスクや椅子など本当に寂しいくらい、何もない。
昔はこの部屋に閉じ込められるようにして勉学に励んでいたな……。
そう懐かしむように考えた後、七海さんをゆっくりとベッドに下ろす。今日からは七海さんもこの屋敷で住むのだと考えたら、嬉しくてたまらない。頬が四六時中緩んでいそうだ。
今まで、数え切れないほどに婚約者が父上の手で移り変わっていた俺は、嫌悪していた女性のこともあまりよく知らない。これまでの婚約者とは、口を利くことすら御免だった。
女性は何を好むのか。七海さんにどんなものを贈ったら、喜んでくれるのか。七海さんは俺に甘えてほしいのか。
それとも甘えたいのか。これ程ないほどまでに七海さんに対し、愛という感情を知ってしまった今と前とでは、見える世界が全く違う。まるで、そう。天と地の差があるのだ。
「七海さん、……大好きです」
そっと七海さんの耳元で、極限までに低めた甘い声で、そうつぶやいてみる。そうした後、何だか気恥ずかしくなって七海さんから離れようとすると、突然左手首を掴まれた。
白くて細い綺麗な七海さんの手が、俺の腕を掴んで離さない。そして次の瞬間には、俺は七海さんと同じベッドの上にいた───。
「は、……!?」
七海さんの綺麗な顔がドアップで俺の前に現れる。押し倒されて、る……!?
「颯霞さぁん~……わたし~、颯霞さんとほぉんとうに結婚したいんですう……。でもぉー、リリー様とぉ、ノア様がぁ……それを許して……くれ、な……ですぅ……」
ま、まさか七海さん……酔ってしまってる!?
でもいつお酒なんかを、……。あ、もしかしてあれ…か?
七海さんが飲んでいたお酒らしきもの。容器が普通のものとは違っていたからそこで気づくべきだった……!
しかもリリー様とかノア様とか一体誰のことを言っているんだ……?
まさか、七海さんの御両親、……とかか?
でも、そうなると一つの疑問が浮かんでくる。
それは、この縁談自体、七海さんの御両親と俺の両親の意見が一致したからこその政略結婚だったのだ。
今はお互い相思相愛になって、幸せに結婚できる未来があるというのに、あちら側がこちらとの縁談を拒んでいるのだとしたら……?
そうしたら、もうこちらに勝ち目などないのではないか。氷織家は初代当主の頃から位の高い貴族だったが、それ以上の権力を握っていたのは、実は子規堂家なのだ。
国一番のお嬢様。
国一番の権力を持つ家柄。
今では七海さんの御両親がこの国を担っていく者なのだ。
「七海さん。起きてください…!さっきのは、さっき言ったことは一体どういうことなんですか……!」
俺の中で、嫌な想像が広がっていく。やっと大切な人を見つけられたと思ったのに。また、俺から……大切なものを奪っていくのか……?
………そうだ。七海さんとの婚約が破棄にならないようにするためには、その方法は一つしかない。それは、
七海さんを孕ませること。
子供さえ妊娠すれば、あちらといえども無理矢理婚約破棄することもないだろう。これまでの情事だって避妊具を使わずにしていた。
それなら今までと変わりなくすれば、妊娠する未来も近い。
俺は眠っている七海さんを自分の方へ抱き寄せて、その柔らかそうな七海さんの唇に、自分のものを重ねる。
舌を入れると、七海さんの舌が自分の舌に絡みついてくる。口づけがどんどん深くなっていき、七海さんは苦しそうに眉を顰める。
「ん、颯霞さん……?んんぅ、……ん、苦し」
「あ、起きましたか……?先程言っていたことは、一体何のことですか?」
寝起きの七海さんは、いつもの可憐さが消え、可愛さが倍に増していたが、俺は今、それどころじゃない。
「……?何の、ことですか?」
もしかして覚えていないのだろうか。でも、そうか。自分が寝ている間に言っていた寝言など、覚えている者の方が常人ではない。
でも七海さんは、いつも抜かりない完璧な人だ。夢の内容くらい、覚えているだろう。
「リリー様やノア様という人たちのことです。先程、そう呟いていました」
俺は端的にそう言う。すると、七海さんからは予想外の反応が返ってきた。真っ白で綺麗な顔がどんどん真っ青になっていくのだ。何事だ、と思った。
その名を知られては、何かまずいことでもあるのではないか。そう勘ぐってしまう。
「え、えと……あの、それは颯霞さんには関係のないことです。そうむやみに干渉されると、あまり良い気はしません」
真っ青だった顔色が、だんだんと通常の顔色に戻っていく。今、完全に境界線を引かれてしまったな……。
「それは、俺には言えないようなことですか」
関係ない、と言われると少し寂しさを感じてしまう。俺にとって七海さんはもう、ただの他人ではないし、それどころか結婚したいとまで思っているのだから。
でも、七海さんは俺と同じ気持ちではないと言われているようで、少しだけ心臓がえぐられる。
「七海さん…?」
「あ、……はい」
こんな七海さんは、珍しいな…。いつもはボーっとすることなんて絶対にないのに、今の七海さんは少し、魂が抜けてしまったように感じられる。
「颯霞さん。いつまでもこうしているわけにはいきません。今日は、颯霞さんのご両親にご挨拶に参ったのです」
今は、それどころではないというのに。俺はあなたに、寝言の内容を話して欲しいのに。
七海さんはきっと、自分から折れるということを知らない女性だ。それはやましいことからくる行為ではなく、七海さんのプライドが高いからであろう。
「あ、……はい」
今、完全に境界線を引かれてしまったかな……。俺はそう一人、落ち込む。今日は、俺の両親に七海さんを紹介する日だ。
今はちょうど正午で、約束の時間まではあと少し。
「颯霞さん。私は別に、境界線を引いたわけではありません。ですが誰にも言えない秘密があるということは必ずしも私だけだということはないでしょう?」
まるで俺の心の中を見透かしたような言葉だった。こうやって何度か体を重ねて、七海さんは俺の心まで見透かしてしまえるようになったのだろうか。
「そう、ですね」
何も反論出来ずに俺はただ一度頷いた。だって、今七海さんが言ったことは正論だったから。誰にだって、他人には言えない秘密がある。
それは当たり前で、当たり前過ぎて今まで忘れてしまっていたことだ。
俺の返答を聞いて満足そうに頷いた七海さんは、きちんと背を正して俺の腕に七海さんの腕を回す。
「行きましょうか。颯霞さん」
ふわっと微笑んだ表情が大輪の薔薇よりも美しかったことは俺だけの秘密だ。
◇◇◇
「いやぁ、七海さん。遠い所からよく来てくれたね」
「ふふ、私も嬉しいわぁ」
金を基調としたヨーロッパ風の雰囲気が漂う洋室の一角で、私は背筋をピンと正して良い婚約者を演じていた。
ふんわりとした柔らかい笑みを湛え、見ている人全員が好気的な視線を寄越してきた私のこの笑顔。
見ているだけで嫌な気持ちが全て浄化されていくような、荒れ狂っていた心の海が穏やかに凪いでいくような、そんな気持ちにさせられる。
もちろん、そんなことを私は知る由もないが。
ただ、そう噂されてきたことは知っている。私はやはり、自分への評価が高い人間なのだろう。そうでなければ、自分の噂もこの耳へは入ってくるまい。
「氷織 縁壱様、氷織 茉吏様。今日は私めを如月家へお呼びいただき誠にありがとうございます」
七海はそう言って、両の手の指先を綺麗に合わせ、深く深く御辞儀をする。凛とした声音。立派な正装を纏った七海が綺麗な着物の裾を床を擦る趣のある音を奏でる。
それは意図的ではなく、ごく自然に。
「そんなに畏まらなくてもいいんだよ、七海さん」
颯霞さんのお父様である縁壱様は優しい声音でそう囁いて、私の肩に手を置いた。軍服のよく似合う、立派なお方。かつてはこの日本国を世界的に進化させた軍隊の元総監督であった偉人。
それが、颯霞さんのお父様なのだ。
「七海さんのお話は颯霞から耳にタコができるのではないかというくらい沢山聞いておりましたよ。颯霞の言う通り、本当にお美しい方ですごく驚いておりますわ」
そう言って茉吏様はお上品に笑った。
「恐縮な限りです……」
七海はそう言ってもう一度深く頭を下げた後、真っ直ぐに氷織夫婦を見つめた。その目はあの見合いの日に見た一点の曇もない綺麗な颯霞の瞳と酷似していた。
その内側から溢れ出ている淑女としての自信。その自信は傲慢さを通り越して、もはや心地良くも思えてくる。
自信はこの時代を生きる人間にとって最強の武器だ。時に美しく、しなやかで、危険が迫るとその隠していた牙を剝く。なんて恐ろしいものなのだろう。
「婚約式に挙式、結婚式にとこれから色々と大変だろうが颯霞がきっと七海さんを手助けしてくれると思うから安心しなさい」
耳に心地よく響く縁壱様の低い声。私はそれに笑顔を浮かべて上品さを纏った仕草で頷いた。
「はい。そうおっしゃっていただけてすごく安心しましたわ」
私はそう言って、一輪の薔薇が咲いたようにふわっと可憐に笑った。
◇◇◇
ノア様やリリー様の前以外では良い婚約者を演じなければならない。あの人たちが思う、こうあるべき姿でいなければならない。私はこの国の反逆者であり、裏切り者なのだから───。
どんなに心の中で悔やもうとも、私が今していることはもう取り返しのつかない重大なことだ。それを知らずに私のことを好きでいてくれる颯霞さんや颯霞さんの御両親には本当に心が痛む。
けれどいつかは、こうやって人を思う心さえ私は手放さなければならなくなるのだ。そう心に強く刻んで、一度決めたことを曲げない決心を私は今、ここでする。
「二人の婚約式の取り決めをしなければならないね。どうかな、私はもう近々開催したいと思っているのだが」
国一番の軍隊を率いる隊長と、この国で最も高い位についている名家のお嬢様の婚約。それはこの国にとって、とても喜ばしいことで、とても重大なことでもある。
「俺もその考えに賛成です」
私の隣で颯霞さんがそう言ったのが聞こえ、私は何とも居た堪れない気持ちになった。苦虫を噛み潰したように唇を噛み、三人には気付かれないほどに拳を強く握る。
「縁壱さん、颯霞もそう言っていることだし、もう日程を決めてしまいましょうか」
「そうだね、茉吏。……七海さんはどう思う?」
穏やかな優しい声でそう尋ねられ、私は一瞬思考が停止した。けれど、すぐに反応して「私もそれで良いと思います」と笑顔で返した。
そんな取り繕った笑顔の裏で、私は本当にこれでいいのかと、自分自身に問い掛ける。
もしも選択を誤れば、颯霞さんのことを深く傷つけることになるのだから。
「…ん、七海さん。どうかしましたか?顔色が悪いですが、」
「……っあ、いえ。別に何でもありません」
颯霞さんは心配そうな声でそう言った。意図せずに俯きがちになっていた顔を勢いよく上げた。
そこには、心配そうに眉を下げている茉吏様と、少し訝し気にこちらを窺う縁壱様のお顔、そして颯霞さんの私を労わるような憂いな表情があった。
「……っ、」
その様子を見た途端、私は何も言えなくなった。私はこの人たちに、これからどれだけ酷い行いをしてゆくのだろう。
それを考えるだけで、虫唾が走るほどに寒気がする。私には、人間としての気持ちがないのか。そう問い詰めてしまいたくなるほど、私は非情だった。
「七海さん、本当に平気なのかい?もし具合が悪いのなら今日はもう休んだ方がいい」
縁壱様にそう言われ、私は素直に頷いておく。颯霞さんが私の肩を抱いて立ち上がり、縁壱様の書斎を後にした。
去り際、颯霞さんが御両親に「七海さんは俺が寝室に連れて行くから」とだけ伝えて、大きくて重たい扉を閉めた。
◇◇◇
「……あの、颯霞さん。本当にありがとうございます」
私は多分、颯霞さんが私の異変に気付いてくれなければ今もあの場で死ぬほど心地の悪い思いをしていたのだろう。
そして、自分のことをこれでもかと言うほどに妬み、蔑み、忌み嫌っていただろう。
「……はい。あの、七海さん」
「……何でしょう」
「俺は、七海さんが何かを抱えて苦しんでいるのならそれを吐き出せてもらえる人になりたいと思っています」
「……」
「勿論、無理に話す必要はありません。……ただ、本当に七海さんのその悩みが、一人では抱えきれなくなるほどに大きなものとなった時に、俺は七海さんの側にちゃんといるということを分かっていてもらいたいんです」
私の世界は、酷く冷たかった。人の心の温かさを知らなかったから、そんなものに触れたことがなかったから、私はどんな酷い仕打ちにも耐え抜くことが出来ていた。
……でも、貴方の優しさを知ってしまったら、その陽だまりのような温かさを知ってしまったら、───。
私はきっと、………。
……きっと、“弱くなってしまう”。人を傷付けることに、悲しみを覚えてしまう。私はやっぱり、あの人たちの忌み子なのだから……。
◇◇◇
昔から体が弱かった。よく話す子でもなかったし、人よりも秀でた才能を持っていた子でもなかった。両親の期待に応えられない私は、“いらないもの”だった。
体が弱い上に、鬼を倒す“異能”さえも使えないどうしようもない子だった。沢山の子たちからいじめられ、仲間はずれにされ、挙句の果てには両親にさえ、無視され虐められた。
幼き子供の言うことは時に大人よりも残酷で、私の心は抉れた。この時の私は、自分は欠陥品なのだと、そう思い込んで生きていた。
『七海、今日からお前に剣術を教えてやろう』
そんな私に、父がある日優しい顔をしてそんなことを言ってきた。その顔は、酷く気味が悪かった。何を考えているのか分からない暗く濁った瞳で見つめられ、私はただ頷くしかなかった。
父の機嫌がいい時は、大抵良くないことが私の身に起こる。
『これがお前にやる刀だ。大切に使いなさい』
渡された刀は重かった。屋敷の庭の草木がキラキラと陽光に反射した透明の刀に映えていて、それがこの上なく美しかった。
私はその日から木刀を使い体を鍛え始めた。父が私に与えてくださったんだ、認めてくれる最後の機会を……。
そう思いながら、私は早朝から晩まで体が疲れていることも構わずに鍛え続けた。そんな私を、弟妹たちはこっそりと草の陰から覗き見て、嘲笑っていた。
いつもはとても窮屈に感じていた気持ちの悪い視線たち。だけどこの頃の私はそんなもの眼中にも入らなくなるほどに、刀を振るうことだけに熱中していた。
『ふっ……はぁっ、はぁっ……!!』
何度も何度も刀を振るっていた私の手は、やがて大きな豆が出来て、それが治る頃にはもう既に分厚く硬い剣術をしてきた立派な手になっていた。
子供の時は、それが誇らしくて仕方がなかった。
ドサッと庭の草むらに転がり、私は春の夜の星空を見ていた。父がくれた刀をとても大切そうに握り締めて……。
病弱で布団に寝ていたばかりの日々。そんな日々を抜け出して、私は今、確実に強くなっている。もう私は、何の期待もされない可哀想で惨めな子供なんかじゃない───。
……そう、信じていた。
そう、信じていたのに───。
『全く、あの子はいつになったら成長するのですか。あの出来損ないは私たちの家系に泥を塗っているだけですよ満代さん』
『優笑、そのような言葉は慎みなさい。あの子は十分頑張っているんだ』
『でも貴方…』
『あの子たちにもきちんと言っておくんだな。七海を馬鹿にするなと。月に茜に光にそれから何だ?数が多すぎて分からん』
私の母は、短気な人だった。父はそんな母の家に婿として迎え入れられたのだ。
それだからか、父と母の間に序列関係が生まれ、必ず一番じゃなければ気が済まない母がこの子規堂家の当主として最も偉い位置に着いていた。
『あの子は私たち子規堂家の恥です。今すぐにどこかへ嫁がせて追い出すべきなんですよ』
『…はぁ、何を言っているんだ優笑。だから言っているだろう、七海は私の実の娘なのだぞ。そのようなことが出来ようものか』
母が私を理由もなく忌み嫌うそのわけ。弟妹たちがそんな母を倣って私を馬鹿にするそのわけ。それは、
私が母の実子ではないから───。
『優笑、考えるのだ。あのような者を嫁がせて、我々に相手側から迷惑書が送られてきたらどうするのだ。きっと婚約も長くは続くまい。面倒事は増やしたくないのだ』
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で何かが砕け散る音がしたんだ。私を庇ってくれているようだった父の言動は、ただ面倒事を避けるためだけの、表面だけの嘘だったということ……。
なぜ、そんなことにも気付かなかったのだろう。ちょっと考えれば、簡単に分かることだったのに。父に少しでも実の娘を思う気持ちがあると期待した自分が馬鹿だった。
愚かだったのだ───。
両親の会話を偶然耳にしたその日から、七海は全ての希望を失い、また前のような惨めな生活に戻りつつあった。
一日でも鍛錬をサボってしまったら、体は重く動かなくなる。そこから私の体にずっと隠れて潜んでいた病気が、徐々に私の体を蝕んでいった───。
『あれはもしかすると異能を発するかもしれない。このまま剣術を続けさせれば、体も丈夫になり子規堂家も今よりもっと飛躍出来よう』
父が本当に見ていたのは、夢見ていたのは、私の気持ちなどではなくて“異能”……。
ただ、それだけだった───。
私はまだ、知らなかった。本当は、私は父の実の娘でさえないということを。汚い大人たちの手駒にされ、私はこの二人の娘としてこの日本国に生きていたということを……。