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俺が微妙にキレてしまったあの朝以来、聖女は行動を自重するようになった。
計算されたものではなく、素直な笑顔も見せるようになり、それに影響され徐々に魔王城の雰囲気も変わってきているような気さえした。
「なんだ……?」
ふと、俺は通路の真ん中で立ち止まる。
いつもと変わらない城の中に違和感を覚え、四方八方と確認して見るが、特におかしな所はない。
なんだ? なにが違うんだ〜?
キョロキョロとつい周辺を見回してしまう。
「魔王さま、いかがなさいましたか」
そんな俺の奇妙な行動に、通りがかった侍女長が声をかけてきた。
「いや……なんか城の中がいつもより綺麗じゃないか?」
清掃は毎日行われている。今日が特別、気合い入れて掃除をしたというわけでもないだろうに、なぜか新鮮に見えた。
すると、なにが面白かったのか侍女長はくすくすと口を手で隠し静かに笑い始めてしまう。
「おそらく、花や飾り物が増えたからでしょう。近ごろ聖女さまがお手伝いをなさって下さるのですよ。お世話になりっぱなしも悪いからと、予算内で少しでも魔王さまの気分が軽くなるようにと」
最近、政務で疲れていたのを聖女は知っていたらしい。
城の内装や、装飾の配置など、細々としたことは侍女たちに任せてしまっている。そこに聖女が手伝いに入ることに何の問題もないのだが。
「そうか……なんか、嬉しいな」
聖女を思い出し、つい顔が緩んでしまう。
「あらあら、まあ……」
侍女長が何やら物珍しげに俺を見ていたが、たぶん悪い意味ではないので気にしないでおいた。なんか温かい目で見られてるし。
そういえば、今日はまだ聖女の姿を見ていないな。俺は朝食を摂らずにやる事をやっていたし、城の中では行き違いになっていたようだ。
「あ、魔王さま!」
そんなことを考えていたからだろうか。聖女が廊下の曲がり角から姿を現した。
「お仕事お疲れさまです。お体は大丈夫ですか? なんだか最近お疲れの様子なので気になっていたんです」
「ああ、大丈夫だよ。侍女長から良い話も聞いたことだしな」
「良い話、ですか?」
聖女は小首を傾げていた。
べつに掘り返すこともないだろうと、もう話題には触れずに、ふと聖女の目の下に隈があるのを発見し一歩前に足を動かした。
「ま、魔王さま?」
「ここ、なんか隈になってないか? どうしたんだ?」
つい気になって、親指の腹で触ってしまった。
「こ、これは……昨日の夜に侍女さんたちのお部屋にお邪魔して……縫い物を手伝っていたものですから」
おずおずと聖女が顔を俯かせてしまった。隈を見られるのが恥ずかしいのだろうか。そんなの俺だって徹夜すれば濃いのが出来るぞ。気にしなくていいと思うけどな。
「侍女たちとうまくいってるなら安心だな」
なんかうちの侍女ってみんな我が強いというか、男の俺たちは逆らえない空気感がある。身分とか力関係なく、女ってのは強い生き物だ。捲し立てられると腰が引けてしまう情けない有様。
聖女がその我の強さに染まらないことを祈ろう。
「けど、無理はしないように、な?」
ポンっと頭に手を乗せる。
さらりとした髪が指に絡まるう。うわ、聖女の髪ってサラッサラだな。手触りがよくてつい撫でたくなるが、そこはグッと堪えた。
「……ま、ま、ま、ま、魔王さまっ!!」
「……聖女?」
「私、ちょっと、し、しふれいひます!」
突然、ガタガタと古びたネジ巻き人形のような動きをしだした聖女は、呂律が回らない口調で来た道を引き返してしまった。
「なんだ? どうしたんだ聖女は。よくわかんねぇな」
「――今のはあんまりですわ魔王さま!!」
「うわっ」
「聖女さまがお可哀想ですよー!」
知らず知らずのうちに俺の周りには侍女たちが集まっていた。侍女長も訳の分からないため息をこぼし、不憫そうに聖女が走った方向を見守っている。
「乙女にあんなに気軽に触れるなんてっ!! 魔王さまはデリカシーに欠けていますわっ」
「はあ!? 触れるって、少し頭に手を置いただけだろ!」
「頭だけじゃないです! 頬を指でなでなでと撫でまくったではありませんか!」
「撫でまくった!? 軽く隈を突っついただけだ!」
そんなことを言ったら、この間侍女の肩に付いていた埃を取ったことや、侍女長の髪にくっ付いていた虫を取るために触れたこともデリカシーに欠けるっていうのか。
しかし、それはどうやら違うらしい。終いには「私共と聖女さまも同等に考えないでくださいまし!」と息巻かれる。
よく理解できないまま、俺はそれに頷くしかできなかった。
……はあ、本当にこの城の侍女たちは強い。
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そういえば、最近になって聖女は「勇者を倒してください」と言わなくなった。
城の農園で栽培している野菜の様子を見ながら、草むしりをしていた俺がふと思ったことである。
最初の頃は何かにつけて「あの勇者を――」と言葉を続けていたというのに、どうしたのだろうか。
なにか企んでいる素振りはないので害はないと思うが、城に乗り込んできた当初を思い返すと、かなり聖女も変わったなと思う。
「魔王さま? こんなところで何をしているんですか?」
と、考え事をしているとタイミング良く聖女が通りかかった。
空の洗濯籠を抱えた聖女は、それを地面に置いて俺の元へと走ってくる。
「草むしりだよ。ここの農園は俺が育ててるからな」
「ふふ、そうなのですね。……土いじり、なんだか懐かしいです」
聖女は、近くに植えられたトマトの苗の葉に優しく触れた。
しかし不意に、聖女は寂しそうな顔をした。
「私が聖女になる前、母と兄、妹の四人で暮らしていたんです。畑仕事で誰が一番草を多く取れるか競争をして、一番だとその日の夕飯のおかずが少しだけ増えたりして……なんだか思い出しちゃいました」
「そうだったのか」
聖女は教会で育てられたと聞いていた。家族と離れて暮らすようになり、心細かったに違いない。
「あ、暗くなるような話でもないんですけどねっ。今は手紙だけですが、家族とは連絡も取っていますし。ただこういうの久しぶりに見たなぁと思って」
と言いつつ、聖女はチラチラと農園に目を向けている。素直じゃないなと軽く笑ってしまったが、それなら話が早い。
「なら、少し草むしりを手伝ってくれないか?」
「え? い、いいんですか!?」
「こっちがお願いしてるんだけど」
「あっ、そうですね……ええと、もちろんお手伝いさせていただきます!」
嬉しそうに聖女は俺の隣にしゃがみ込むと、手が汚れることも気にせず草をむしり始めた。
……今更だけど、年頃の女の子に草むしり手伝えってのは無神経過ぎたか? この前も侍女たちに「デリカシーがない」と一方的に小言を言われ続けたというのに、こんな場面を見られでもしたらどんな顔をするか。
いや、なんで俺がそんなに気を使わないといけないんだ。一応、城主は自分なんだぞ。……いや、でも女を敵に回すのはのちのち絶対に痛い目を……。
「魔王さま?」
「……あ、ああ」
いきなり黙ってしまった俺の様子が気になったのか、聖女は不思議そうにこちらを見ていた。
その手にはこんもりと、今しがた抜き取ったばかりの雑草が集められている。
「えへへ、こんなに抜いちゃいました。もうこの辺りの土はスッキリですよ」
「はは、本当だ」
こんなに生き生きとした聖女を見るのは始めてかもしれない。
俺は杞憂だったかと、聖女の柔らかな笑顔を見返して思った。
「……って、夢中になるのもいいけど、それじゃ暑いだろ?」
晴天となった今日、作物には良いかもしれないが、人にはちょっとばかし暑すぎる。
それなのに聖女は帽子すら被らず直射日光に当たりっぱなしだった。
「これ、格好悪いけどないよりマシだと思うから、ほら聖女」
「わわ、もう魔王さま。いきなりびっくりしますっ」
「ごめんごめん、でも似合ってるじゃないか。その麦わら帽子」
「……それ、褒め言葉として受けとっていいんですか?」
「何言ってんだ当たり前だろ。可愛らしいよ」
「……!」
つばの広い麦わら帽を被った聖女は、お世辞抜きで可愛らしいと思う。
聖女として教会に連れて行かれなければ、こんな風に農作業に勤しむただ一人の女の子として生きれた人生もあったのかもしれないな。
極薄の聖女服装備で俺を説得しようとしていた当初より、何倍も好感が持てた。まあ、俺の好みの問題だけど。
「にしても、その帽子だけじゃさすがに腕までは隠せないよな。せっかくの白い肌が焼けるのは勿体ない」
「そ、そんな……べつに普通だと思いますけど」
「いや、かなり違うぞ? ほら、俺のと比べるとさらに違いが」
白い腕に、自分の腕を寄せて色の違いを比べてみた。透明感のある陶器のような肌と、俺とじゃ雲泥の差だ。
「うわ、聖女の腕は細いな。これでよく侍女たちの手伝いについていけてるよ」
「わ、私だって力はあるほうなんですよ。魔王さまが言うほど細くもないですし」
「うーん、そうなのかな」
もっと寄せて大きさ比べをしようとすると、腕同士がトンっと軽く当たる。
「あ、悪――」
「……」
だが、俺が言葉を言い終えるよりも早く、聖女は立ち上がっていた。
「聖女? うわ、顔が赤いぞ!? まさか暑さのせいで」
「違います! 暑さのせいではありませんから問題ありません! あの、わ、わわわ私……侍女長さんに呼ばれていたのを忘れていました。お先に中に入らせてもらいますね。魔王さまも暑さにはお気をつけてーー!!」
相槌を打つ間もなく、聖女は置いていた洗濯籠を持ちあげると、城の中へと一目散に走っていってしまった。
「……なんなんだ? まあ、あれだけ走れる元気があるなら大丈夫なのか」
「あまーーーーい! 甘酸っぱいッス魔王さま!!」
聖女の走る後ろ姿を見送り、ぼけっと突っ立っていると、物陰からヘッツが編みカゴを抱えて飛び出してきた。いつからいやがったお前は。
「もう甘酸っぱくてオレの舌がおかしくなりそうっス!」
「酸っぺぇのはてめーがバクバクつまみ食いしてるラズベリーのせいだろうがっ!!」
収穫の手伝いを任せていたはずだというのに、カゴの中にあるラズベリーの数は手に収まるほどしか入っていなかった。
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ある満月の夜のこと。
光の妖精たちが、ルナタュラという花の上で密やかに祭りを催していた。
ルナタュラは月光を浴びて光り輝く春の花である。その光が好物な光の妖精は、こうして年に一度か二度、集っては光り輝き楽しく飛び回っているのだ。
せっかくだからと、侍女たちに聖女を連れてご覧になってはと提案され、俺は彼女を誘い庭園に訪れていた。
侍女たちのあの必死さ……狂気にも似ていて恐ろしかった。
「わあ、とっても綺麗です」
光が踊る神秘的な光景に胸を打たれた聖女は、感激した様子で眺めている。
『ふわふわ〜』
『ふわわ〜』
聖女の存在に気がついた光の妖精たちが、綿毛のようにふわふわと浮いて一斉に近寄ってきた。
「あれ? どうしたんですか? ふ、ふふ。なんだかくすぐったいです」
「光の妖精は聖女の魔力が好きなんだ」
「魔力にですか? 人間領で妖精を見かける機会はなかったので、会えて嬉しいです。それに凄く可愛いですっ」
「ただの光の玉だけどな。可愛いように見えて、ちゃっかり魔力を吸い取ってるし。特に角を出しっぱなしだともう……群がってくるからな。光の妖精に限らず」
俺には角があるが、普段から出さずにいる。魔王にとって角は魔力の核となる部分。心臓の次にそこを突かれたらただでは済まなくなる。
また、角は常に魔力が微弱に漏れ出しているため、嗅ぎつけた妖精が食べようと寄ってくるのだ。
「魔王さま、角があったんですか? 全然知りませんでした」
「角は出さなくても困らないからな」
「そうでしたか……でも、少し見てみたい気が……い、いえ! なんでもありません」
ほぼ言ってるけどそれ。べつに角を見たって面白いことなんてないんだけどな。
「ほら、角」
俺は頭部にある二本の角を出して、聖女に見せてみる。
「え……? いつのまに!?」
「な、大したことないだろ」
「そんなことありません! えへへ、なんだか角が生えた魔王さまって、ちょっと可愛らしいです」
「それは初耳だな……可愛くはないだろ」
「可愛いんです!」
いつにも増して強情だな。男に可愛いって、こっちからしてみれば素直に喜んでいいのかわからないんだけど。それもこんなごつい角で。
「本当に可愛らしいですよ? 魔王さま」
「可愛い可愛いって、俺からしたら聖女のほうが――」
光の妖精に照らされた聖女は、魅入るほど美しく、綺麗で。そんな光の妖精たちを見つめる慈愛に満ちた微笑みは、とても愛らしく感じた。
「私が、どうかしましたか?」
「いや……」
いつもなら考えずに思ったことを言ってしまうのに、なぜか今はそれができなかった。
夜だからか? 雰囲気に呑まれてか? こう、心臓あたりがむずむずと痒くてじれったい。
「はい、角は終了」
「しまうのが早すぎます!」
異論は認めない。
俺は少しの間、聖女の顔を見ることができなかった。
しばらく光の妖精たちの踊りを眺め、お互いの間に心地よい沈黙が訪れた。
「――最近、勇者を倒せって言ってこないんだな」
「え……?」
聖女は目を丸め、花から俺に視線を移す。
「……今も、倒して欲しいという気持ちに変わりはありません。叶うならば魔王さまのお力を借りたいと、思っています」
でも……、と聖女は続けたが、その先が言葉として紡がれることはなかった。
彼女はただ、俺の顔をじっと見つめたあと、目を細めて笑うだけだった。
「……なあ聖女。訊いてもいいか?」
「? なんでしょう」
「勇者の城に、お前も住んでいたって言ってたが……その、えっとだな」
自分から切り出しといてなんだが、少し言うのが躊躇われた。
すまねぇ、侍女軍団。
やっぱり俺はデリカシーの欠片もない男だ。
俺は意を決して、聖女問うた。
「聖女は、無理やり勇者に……夜を共にと強制されたりしていたのか?」
「へ……?」
うわー! 言ってしまった! ちくしょう言わなきゃよかったッ!
言ったそばから俺の心は激しく後悔の渦に引きずり込まれている。こんな話、聞きかないほうがお互い気分も悪くならないというのに。
夜を共に……それはつまり閨事が交わされていたかどうか。
女を囲ってハーレムにするぐらい欲深いという話だった勇者が、聖女に手を出さずにいられていたのだろうか。
滞在日数がまだ浅かったとき、平気で肌を晒し、俺を説得しようとしていたあの行動。それらを思い返すとどうしても何も無かったとは考えられない。
だが、聖女は勇者をハゲだの変態だのと嫌悪感を表すほど毛嫌いしている。
そんな相手に、もし無理やり手篭めにされていたのだと、聖女の口から聞きでもしたら俺は……。
――俺は? なんだっていうんだ?
「あ、あの」
俺の問いに刮目する聖女は、ほんのりと顔を赤くしていた。
……どういう意味での赤面なんだ。
その顔に、苛立ちを感じた俺は堪らず腕を引き寄せたくなった。
「……魔王さまが思われているようなことは、ありませんでした。とはいえ、私が成人したあたりからですと、勇者はそれしか考えていないようでしたが」
「本当に、何もなかったって?」
「私は聖女です。そう簡単にいかないということは、勇者も知っていますから。あとはお酒で酔わせたりして……代わりに私は鑑賞目的で生地の薄い衣服を着せられていましたが」
「そう、なのか」
やっぱりあいつただただ最低野郎だな。
再確認したところで、聖女はずいっと俺に一歩近づいた。
「魔王さま、なぜそんなことを訊かれるんですか?」
「それは……」
実を言うと俺もよくは分からない。
なにか期待のこもった目を向けてくる聖女に、うまく言葉が出てこなかった。
ただ、
「数日で帰ると思っていたけど、聖女がここへ来てからかなり経つ。城のやつらだってお前がいることが当たり前になってるし。侍女たちなんか最近は俺よりお前に従ってるし。聖女の存在が当たり前になってるみたいなんだよ。…………俺もそれは同じなんだ。だから、当たり前になってるやつが、好き勝手に弄ばれてたなんて気分が悪いからな」
「ええと、つまりどういう事なんでしょう……」
「単純に腹が立つ」
うん、そうだ。答えは簡単だ。
聖女が勇者に好き勝手されるっていうのは、腹が立つんだ。
もう知らないなかでもないからな。
「魔王さま……それは」
「どうした?」
「腹が立つなんて、どうしてそう思われたか考えました?」
「ああ、聖女は……魔界にとって大切な客人だってことだよ」
もじもじと両手を組む聖女に問い返せば、聖女はぱちくりと瞳を瞬かせ固まった。
「……魔王さまの、ばか」
「え、なんて?」
「なんでもありません!」
聖女は拗ねたように、また光の妖精たちに目を向けてしまった。もう俺の顔を見ることはない。
……ああ、良かった。
もうこれ以上、見られていたら危なかった。
「……」
どうやら、俺にとって聖女は――。