***


 鎌切亭(かまきりてい)の扉を開くと、ちりんちりんと心地良い鈴の音が頭の上で響いた。ドアベルの音が鳴ったことで、店員たちが一斉に私のほうへ顔を向けた。

「いらっしゃいませ、お客様。お待ちしておりました」

 穏やかな笑顔と気持ちのよい挨拶で出迎えてくれたのは、三人の若い男性の店員だった。三名とも容姿端麗で背も高く、こじんまりとしたレストランには不似合いなぐらいの美形だ。三人の顔立ちに若干の違いはあるものの、雰囲気はよく似ている。背格好も同じぐらいなので三兄弟だろうか。それとも三つ子? 

「お客様、よろしければお荷物お持ちしましょうか?」

 美形の三兄弟に見惚れる私を気遣うように、ひとりの店員が音もなく歩み寄ってきた。スタイリッシュな銀縁の眼鏡をかけた男性だ。白いシャツに黒のベストとパンツ、紅い蝶ネクタイが良く似合っている。

「す、すみません。道に、迷ったもので。荷物は自分で持ちます、はい。大丈夫です!」

 見目麗しい男性に優しく微笑えみかけられ、なぜだか挙動不審になってしまった。顔が熱くなってくるのを感じる。急に恥ずかしくなり、うつむいてしまった。

「あっ、怪我をされてますね。僕、よく効く薬をもってるんです。よかったら手当てしますよ」

 もうひとりの男性店員が、私の足の怪我を心配してくれた。小さな傷なのに、よく気づいてくれたと思う。

「ありがとうございます。たいした傷ではないので、自分で手当てできます。よろしければその薬だけお借りできますか?」
「わかりました。どうぞこちらに座ってください」

 私の足の怪我に気づいてくれた男性店員の髪はふわふわのくせ毛で、笑顔も人懐っこい。目鼻立ちの整った顔ではあるのだけれど、親しみやすい雰囲気に緊張がほぐれるのを感じた。
 カウンターテーブルの隅に腰を下ろすと、待っていたかのように三人目の店員が温かいお茶を出してくれた。

「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」

 お礼を伝えると、お茶を出してくれた店員は軽く会釈だけして無言で去っていった。くせのないまっすぐな髪をした店員は、キッチンの中へと静かに戻っていく。他の二人に比べると、寡黙(かもく)な人のようだ。

「あいつ、無愛想でしょ? 刀流(とうる)っていうんです。料理人としての腕は確かですけどねぇ」

 人懐っこい笑顔の店員は、小さな壺に入った塗り薬を私に手渡しながら教えてくれた。小さな壺の中身はクリーム色の軟膏(なんこう)のようだ。見たことがない塗り薬だけれど、海外製だろうか。

「その薬ね、殺菌消毒、皮膚の修復や再生にも効果があるんですよ。万能でしょう? 僕の自慢の薬なんです」

 初めて見る塗り薬だけど、邪気のない笑顔でお勧めされると断りにくい気がした。

「すぐに治りますので、遠慮なく使ってください」

 ためらいつつも足の傷にそっと塗り込むと、本当に痛みがすっと消えてしまった。

「ね? よく効くでしょ?」
「本当ですね。ありがとうございます」 
「でしょ? あっ、自己紹介がまだでしたね。僕の名前は紗切(さぎり)と申します。鎌切亭では接客担当です」

 にっこりと笑う紗切さんを見ていると、心が和んで気持ちが温かくなってくるから不思議だ。

「銀縁眼鏡の彼は切也(きりや)です。鎌切亭の店長。ついでに言うと、切也が僕たち三つ子の長兄になるんですよ。そして僕は愛される末っ子です」

 聞いてもいないのに、紗切さんはそれぞれの名前と、彼らが三つ子の兄弟であるという情報まで教えてくれた。

「私は琴羽です。皆さん、やっぱり三つ子さんなんですね」
「僕らが三つ子だって、よくわかりましたね」
「だって顔立ちも雰囲気も似てますし」
「似てますかねぇ? 三人の中では僕が一番イケメンだって思うんですけど、どう思います?」

 自分が一番美形だと、紗切さんはさらりと笑顔で主張してくる。冗談だとは思うけれど、目がきらりと光ってるし、かなり本気の発言なのかな。

「こら、紗切。お客様が困ってしまうような質問をするんじゃないよ。お客様、弟が失礼致しました」

 紗切さんの頭をぽんと軽く叩きながら、店長の切也さんが優しく微笑む。

「琴羽様は当店は初めてですよね。よろしければ鎌切亭のことをご説明させていただきたいのですが」
「はい、初めてです。よろしくお願いします」

 切也さんは軽く会釈をしてから、ゆっくりと話し始めた。

「すぅぷや 鎌切亭はその名の通り、スープが自慢の店となっております。ただし決まったメニュー表はなく、僕たち三兄弟がそれぞれお勧めのスープを順にお出しすることになっております」

 メニュー表がないレストランって、お値段もかなりお高めなのでは……? 財布の中に、お金がいくら残っていただろうか。
 
「御安心ください、お客様。当店はお支払いの金額も決まっておりません。お好みの支払い額を最後にお願いしております」

 メニュー表がなく、支払い額も客が決めていいだなんて。そんなお店があるだなんて驚きだ。

「お話しいただいたこと、よくわかりました。ただ私、今は食欲がなくて。お勧めしてくださるスープを全部いただけるか、わからないんですけど」

 切也さんたちに見惚れていたせいで忘れていたけれど、今の私は「美味しい」を感じない。スープならなんとか飲めるとは思うけど、三種類のスープを制覇できる気はしなかった。

「一皿だけでも結構ですよ。そこはどうか無理なさらず」

 私の不安を察したのか、切也さんは優しく教えてくれた。
 食事を楽しめない人間が飲食店で食事していいものか悩むけれど、切也さんたちの気遣いを無駄にしたくはなかった。せめて少しだけでも頂くことにしよう。

「ありがとうございます。ではお勧めのスープをお願いできますか?」
「かしこまりました。しばしお待ちくださいませ」

 切也さんは静かにおじぎをしてから、カウンターの向こうのキッチンへと入っていった。
 刀流さんが淹れてくれたお茶を飲みながら、店内をゆっくり見回した。店内の壁にはお店のロゴマークらしき三本の鎌の絵が飾られている。三つ子だから、三本の鎌なんだろうか。だから鎌切亭? 店名から独特の注文方法まで不思議なレストランだ。

「お客様、お待たせ致しました。まずはわたくし店長の切也から、お勧めのスープです。付け合わせにミニサラダとロールパンもご用意させていただきました」

 カウンターテーブルの隅に、スープとパン、ミニサラダが手際よく並べられていく。ロールパンは温めてくれたようで、こんがり焼き色が香ばしい。彩り豊かなサラダの上には焼いたベーコンが添えられていて、見た目のアクセントになっている。
 ところがメインのスープを見た瞬間、私はぎょっとしてしまった。スープの色が鮮やかな緑色なのだ。中央にはトッピングなのか、色艶の良いグリーンピースが数粒浮かんでいる。

「あの、これは……」

 嫌な予感がする。グリーンピースが浮かんでいるということは、まさかこのスープは……。

「こちらはグリーンピースのポタージュです。鮮やかなグリーンが新緑の季節にぴったりかと思いまして」

 切也さんは穏やかに微笑みながら説明してくれた。今は若葉が美しい五月だ。季節的にはぴったりなのかもしれない。
 けれど私は、グリーンピースが世界で一番嫌いな食べ物なのだ。
 雄太にも、「グリーンピースが嫌いだなんて、琴羽は子どもみたいだな」ってよく笑われたものだ。それでもグリーンピースが料理の付け合わせに出たときは、彼が全部食べてくれたものだ。
 ……って、私なんで雄太のことを思いだしてるの? 彼との関係はもう終わってしまったのに。

「お客様、いかがされましたか? グリーンピースが苦手でしたら取り下げますが……」

 グリーンピースのポタージュを見つめたまま動かない私を、切也さんは心配そうに見つめている。

「すみません。緑色のスープってあまり食べたことがないので珍しくて。きれいなグリーンですね」
「そうでしょう? この色味を味わっていただくために、あえて他の具は入れておりません。少しだけでも結構ですので、召し上がってみてください。無理でしたらすぐに次のスープと取り換えますから」

 どうやら切也さんには、私がグリーンピースが苦手なことを見抜かれてしまっているみたいだ。
 確かにグリーンピースは嫌いだけれど、最初のお勧めスープとして出してくれた料理を一口も食べないのは、さすがに申し訳ない。せめて少しだけでも頂こう。
 覚悟を決めてスプーンを握りしめると、緑色のスープをそっとすくいとる。トッピングのグリーンピース本体だけは、こそっとよけて。
 私もいい大人なんだから、グリーンピースぐらい克服してみせる。子どもみたいな味覚だなんて言わせないんだから。味覚が鈍くなってる今の私なら、嫌いな食材でもきっと平気だ。

「い、いただきます」

 鮮やかなグリーンが目に眩しくて、軽く目を閉じ、口の中へとスプーンを運ぶ。とろりとした温かなスープが舌の上へと心地良く伝わり、グリーンピース独特の青臭い風味が口いっぱいにひろがって……。

「あ、あれ?」

 苦手な匂いと風味を、口の中に感じないのだ。スープになっているからか、豆ならではのパサつきも感じない。なめらかな口当たりのせいか、するりと喉の奥へと流れ落ちていく。

「お、おいしい……? このスープ、私でも食べられる、の?」

 自分の味覚だけれど、とても信じられない気がする。「美味しい」が消えた私の食生活。ましてや私はグリーンピースが苦手なのだ。なのに今はグリーンピースのポタージュを「美味しい」と感じた。
 ひょっとして私の勘違いなのでは? だって私の鈍くなった舌だよ?
 自分の感覚を疑い、ポタージュを再び口の中へと運ぶ。青臭いどころか、コクがあって優しい味わいを舌の上に感じ、私の体の中へと静かに拡がっていく。
 自分の嫌いな食材だと意識したことで、かえって舌の感覚が戻ってきたのだろうか。音楽の演奏のように、食材たちがハーモニーを奏で、極上のスープという形に調和されているのを感じるのだ。命をいただいてる……。そう思えた。

「おいしい……美味しいです!」

 嬉しくて思わず叫んでしまった。「美味しい」って感じるたび、心に少しずつ力が湧いてくる。体が食べ物を喜んでいるのを感じる。
 ああ、「美味しい」ってこんなにも幸せで大切なことだったんだ。
 
「それはようございました。ご満足いただけて嬉しいです」

 グリーンピースのポタージュを出してくれた切也さんが、ほっとした表情で微笑んでいる。

「すみません、大きな声をだしてしまって」
「いえいえ、結構ですよ。むしろ光栄です」
「実は私、グリーンピースが苦手で。でもこのポタージュはとても食べやすいし、何より美味しいです!」
「ええ。お客様がグリーンピースが苦手なことは気づいておりましたよ」

 銀縁眼鏡を片手でくいっと押し上げながら、切也さんは得意気に説明してくれた。

「失礼ですが、お客様の今の状態を見るかぎり、こってりした油ものよりも、体に優しいものがいいと思いまして。鶏肉をよく煮込んで作ったチキンストックをベースにグリーンピースを軽く煮てからミキサーにかけて網でこし、豆乳で仕上げております。豆乳ならではの優しい味わいがグリーンピースによく合いますでしょう?」
「はい、とても。グリーンピースって食べ方次第でこんなにおいしくなるんですね。雄太にも食べられたよって言ってやらなきゃ……あっ」

 苦手なグリーンピースを克服できたこと、何より久しぶりに「美味しい」と感じられたことが嬉しくて、つい余計なことまで口走ってしまった。
 なぜまた雄太のことを思いだしてるの? とっくに終わってる恋なのに。
 
「すみません、変なこと言ってしまって」
「かまいません。それよりもお辛そうなお客様のことが心配です。もしよろしければなのですが、お話しいただけませんか? 誰かに聞いてもらったほうが気持ちの整理ができたりしますよ」

 第三者に話すことで、自分の気持ちを見つめ直すことができる気がした。有効な方法だと思う。私も人の話をよく聞くから、理解できる。
 今晩これほど雄太のことを思い出してしまっているのは、心に迷いがある証拠だ。

「僕や刀流(とうる)も聞きますよー。愚痴るつもりでお気軽に。でも無理だけはしないでくださいね」

 紗切(さぎり)さんがお茶を追加してくれながら、朗らかな笑顔で話してくれた。キッチンのほうでは刀流さんが料理をしながら、無言でうなずいている。
 切也さん、刀流さん、紗切さんの三人が、それぞれの形で私を気遣ってくれているのがわかる。話してみようか。今晩だけは誰かに話を聞いてほしい。

「では聞いてもらってもいいですか?」
「はい。どうぞ」

 ポタージュを飲み終えたところでスプーンを横に置き、ゆっくり話し始めた。

「実は少し前に六年つきあった彼と別れたんです。お別れしても平気だと思ってたんですけど、このところ食事を美味しいと思えなくて。最近はぼんやりすることも増えてます。自分でもどうかしてるって思いながらも、何もできませんでした。今思えば、とても悲しかったのだと思います。それを認めたくなかったのかも」

 うんうんとうなずきながら、切也さんたちは話を聞いてくれた。

「それはお辛かったですね。心に傷を負われ、体も心も疲れてしまったのでしょう。食事を楽しめなかったのは、お客様の体が、『少し休んで』と知らせていたのかもしれませんね」

 私の体はずっと私自身に伝えてくれていたのだ。心が深く傷ついていると。

「少しお休みをとられるといいと思いますが、難しいですか?」
「まとまった休みをとれたらいいのですが、仕事が忙しくて」
「そうですか……」

 切也さんも悲しそうな顔をしている。
 忙しいのも疲れているのも私だけではないから、無理を言って休みをとるのは申し訳ない気がした。

「仕事なんて、辞めてしまえばいいのに」
「え……?」

 紗切さんが、ささやくように言った。紗切さんのほうへ顔を向けると、いたずらっぽい笑顔で私を見つめている。

「仕事、辞めちゃいなよ、琴羽さん。人間はね、働きすぎなんです。そうでしょ?」
「で、でも。仕事は大切なことですし」
「どうしても働きたければ、僕らと『鎌切亭』で、のんびり楽しく働けばいいんですよ。僕、琴羽さんのこと気に入ってしまいました。ずっと一緒にいたいな」

 にっこりと笑う紗切さんの言葉が、私の心に深く突き刺さる。彼の笑みが私の心を捕らえ、優しく包み込んでいく。

「だけど、今の仕事は私の子どもの頃からの夢で」
「それって体と心に不調をきたすほど大切なこと? 琴羽さんの夢ってなに?」
「私の夢は……あれ?」

 私の仕事って、どんなことだった? 毎日どこで働いていたの? 私の夢って……なに?
 紗切さんの人懐っこい笑顔と言葉を聞いていたら、自分自身のことがわからなくなってきた。
 私、どうしてしまったのだろう?

「琴羽さん、そんなに傷ついてかわいそう。大切にしてあげるから、これからは僕らと一緒にいようよ。ね?」
「大切に、してくれる……?」

 私は今、誰かに大切にされているのだろうか。
 私は自分自身を大切に思えているのだろうか。
 毎日毎日働き続けるだけで、大切にするという意味さえも、もうわからない気がする。
 紗切さんの言葉を受け入れて、彼らと共にいると答えたら。私は楽になれるのだろうか? 
 ならもういっそのこと……
「はい」と返事をしようとした時だった。

「紗切、いい加減にしろ。お客様の心を乱すな」

 ぶっきらぼうな台詞と共に、私の目の前に赤いスープが置かれた。赤いスープを運んできてくれたのは、鎌切亭の料理人だという刀流さんだった。

「これが俺からのお勧めのスープだ。一口でもいいから食べてみてくれ。今のあなたに一番必要なスープだと思う」

 やや乱暴な言葉と共に提供されたのは、赤いトマトスープに玉ねぎ、セロリ、ニンジン、ジャガイモなどの様々な野菜がベーコンと共にたっぷり入った具だくさんのスープだ。傍らにはカットしたバケット。添えられたガーリックオイルが食欲をそそる。

「これ、ミネストローネですよね? でもこれは……」

 ミネストローネ自体は珍しいものではない。他のお店でもよく見るメニューだし、トマト缶があれば家庭でも作りやすいと聞いている。いわば定番のスープだ。

「私、このスープ知ってる……。だってこれは彼の、雄太のミネストローネ……」
 
 ミネストローネはイタリアの家庭料理と言われ、材料や作り方も家庭によって違うのだと、雄太が教えてくれた。
 目の前に置かれたミネストローネには、たっぷりの大豆、ざく切りのキャベツと刻んだ赤ウィンナーが入っていた。仕事に熱中するあまり、食事を疎かにしがちな私のために、このスープだけで満足できるようにと彼がよく作ってくれたのだ。
 雄太は町の洋食屋の若きコックだったから──。

 照れくさそうに笑う、雄太の顔を思い出す。言葉は少ないけれど、とても優しい人だった。仕事のことで愚痴を言う私の長話を、文句ひとつ言わず黙って聞いてくれた。
 そして最後に、私のためにとたっぷりの野菜と大豆が入ったミネストローネを作ってくれるのだ。

「琴羽は大豆が好きだもんな。カフェに行くと、豆乳ラテばかり飲んでるし」

 カフェオレが好きなのに、牛乳を飲むとお腹が痛くなることがあったから、豆乳を使った豆乳ラテをよく飲んでいた。そこから雄太は、「琴羽は大豆が大好き」と思ったらしい。大豆大好きというわけではなかったけれど、あえて私は何も言わなかった。彼の不器用な優しさがなにより嬉しかったから。

「私、今でも彼のことを……雄太が好き。大好き……」

 思いがあふれ出し、言葉になった瞬間。ぽとりと、ひとつぶの涙がスープ皿の前に落ちた。いつしか私の目から、涙があふれていた。

「私、泣いてる? 泣いたらダメって思っていたのに。泣くよりもすべきことが私にはあるって、自分自身に言い聞かせていたのに」

 彼氏と別れるぐらいで泣いていたら、明日も元気に働けない。だから泣くなって思っていた。
 けれど本当は。
 泣きたくてたまらなかったのだ。雄太と別れたくない、お別れは嫌だって叫びたかった。

「泣くことはね、感情の解放となり心が癒やされるそうです。だから思い切って泣いてしまったほうが、きっといいんですよ」

 ハンカチを差し出しながら、切也さんが優しく話してくれた。

「ちょっとしたことでめそめそ泣く人間は嫌いだが、理由がある涙なら文句は言わない」

 ミネストローネに涙がこぼれ落ちないように、そっと奥にやりながら、刀流さんも声をかけてくれる。

「切也も刀流も、気が利かないなぁ。泣いてる女性は可愛いから思わず抱きしめたくなるよ、って伝えてあげなよ」

 紗切さんがにこっと笑いながら言うと、切也さんと刀流さんは不愉快そうに顔をしかめた。

「そんなことを言うのは紗切ぐらいなものですよ」
「紗切の真似なんかできるか」

 兄弟二人からじろりと睨まれた紗切さんは、困ったように両の頬に左右の手を当てた。

「ひょっとして僕って、空気が読めないタイプ……?」

 切也さんと刀流さんが、うんうんと無言でうなずいた。

「ふふっ」

 三人の会話が面白くて、思わず笑ってしまった。涙は完全に止まったわけではないけれど、おかげで気持ちも落ち着いてきた気がする。

「あっ! 琴羽さん、僕のこと笑ったな」
「ごめんなさい。三人とも仲が良いんだなって思ったら、つい」
「いいんですよぅ。女性は泣くより笑ったほうがいいから。それよりさ、琴羽さん。聞いてもいい?」
「はい、何でしょう?」

 涙をハンカチで拭き取りながら、紗切さんのほうへ顔を向ける。

「食べることに興味を失い、何を食べても美味しいと思えなくなったのは……あなたが別れた恋人のことを忘れられなかったから。だから食べることが辛くなってしまった……違う?」

 言われてようやく気づいた。
 私が食事を「美味しい」と思えなくなった理由を。
 食事のたびに、恋人だった彼のことを思い出す。
 笑顔でキッチンに立つ雄太の姿を見るのが大好きだった。デートの日は雄太と一緒に外食を楽しみながら、料理の内容を熱心にメモする彼の姿を見守った。いつか店長になり、町の洋食屋を続けていきたい。将来への夢を語る彼が眩しかった。私も雄太に負けないように頑張ろう。彼の存在に、どれだけ励まされたのかわからない。
 私の食事はいつだって、雄太へと繋がっていたのだ。

「私、ずっと仕事の疲れとストレスから、『美味しい』を感じられなくなったんだと思ってました。でも本当は、自分の気持ちから逃げていたんですね……」

 雄太のことを今も好きだと認めてしまったら、現実はあまりに辛すぎるから。だから強がって、私は平気だと言い聞かせてきたのだ。

「泣き顔を見られちゃったついでに、もう少し雄太とのことを話してもいいですか?」

 切也さん、刀流さん、紗切さんは微笑みながらうなずいた。

「雄太とは六年つきあって、仲も良かったと思います。ケンカもしなかったですし。でも最近はお互い会うことが難しくなっていて……」

 照れくさそうに笑う雄太の姿を思い浮かべながら、ゆっくりと話していく。

「私、看護師として病院に勤務しています。看護師として病気の患者さんを支えたい。子供の頃からの夢でした。仕事にはやりがいを感じていますし、これからもずっと働きたい。けれど世の中はあまりに変わってしまって……」

 マスクが手放せない生活が始まり、総合病院の看護師として働く私は人と会うことも制限されることとなってしまった。外食も難しくなり、気軽に遊びにいくこともできない毎日。
 町の洋食屋で働く雄太とは、お互いの仕事環境を考えて、会うのを控えるしかなかった。

「こんな状況だから仕方ないよね、会えなくてもSNSやメール、オンライン通話で繋がれるから大丈夫。お互いに励まし合いながら仕事を続けました。けれど雄太からの連絡がだんだんと少なくなってきて……。もう終わりかもしれないと予感はしていたんです。会うことも難しい私と、これからもずっと共にいてほしい。そんな都合の良いこと言えませんでしたから」

 雄太のことは今も好き。それはもう隠しようがない思いだった。
 けれど雄太のことを思えば、彼に追いすがるべきではないのだ。

「きっと雄太は、私に愛想が尽きてしまったんでしょうね。看護師としての仕事を優先する彼女なんて、彼には負担だったでしょうし」

 雄太からきっぱりと別れを告げられたのは、きっと彼なりの思いやりだと思う。

「本当にそうでしょうか……?」
「え?」

 話しかけてきたのは、鎌切亭の店長で三つ子兄弟の長男、切也さんだった。

「お話を聞くかぎりでは、琴羽さんの元カレさんは言葉は少なめだけれど、とても優しい方ですよね。そんな方が理由もなく、一方的に別れを告げるでしょうか?」
「でも『ごめん、別れてほしい』ってメールが送られてきたのは事実ですし」
「だからこそですよ。事情があるから、あえて最低限なことだけを伝えてこられたように思います」

 雄太に事情がある? そんなこと考えてもいなかった。

「ここであれこれ憶測していても始まらん。その元恋人に一度連絡をとってみたらどうですか、お客様」

 三つ子の次男、刀流さんが腕を組み、私を見下ろすようにして言った。

「雄太とはすでに終わったことですし、今更連絡だなんて。迷惑になるだけかと」

 元カレに迷惑をかけたくない。何より久しぶりに電話して、雄太に冷たい態度をとられるかもしれないと思うと、怖くて連絡できない気がした。

「はーい、そんな臆病で可愛い琴羽さんに、僕から最後のお勧めスープですっ!」

 三つ子兄弟の末っ子である紗切さんは、真っ白でやや小さめのスープ皿を運んできた。どんなものかとのぞきこむと、再び赤いスープだ。けれどミネストローネのようなトマトの赤ではなかった。
 とろりとした赤いスープには、いちごのスライスがきれいに並べられ、中央にはバニラアイスクリームがお山のように鎮座している。バニラの山の上にはミントの葉がちょこんと可愛らしく飾られていた。

「いちご? これってまさかいちごのスープですか?」
「正解! いちごにグラニュー糖とレモン汁をまぶしてミキサーにかける。風味付けに洋酒をちょびっと。汁状になったらスープ皿に流しいれ、あとはスライスしたイチゴとバニラアイスで飾り付け。バニラアイスをからめながら食べてね!」

 見た目にも可愛らしく、それでいてイチゴのパフェほどの重量感は感じられず、食欲がない今の私でも飲んでみたいと思えるデザートスープだった。

「可愛い……。いちごといえば、雄太とはいちご狩りによく行ったっけ……」

 よく熟した甘いいちごを吟味して摘み取ることに燃えた雄太は、次々と取ってはそのほとんどを私に食べるように言った。私がいちご好きだと知っていたから。山積みのいちごを一人で食べられるわけもなく、二人でお腹がはち切れそうなほどのいちごを笑いながら食べたものだ。
 私が熱を出すと、いちごの手作りアイスをこれでもかと作ってお見舞いにきてくれたこともある。
 甘酸っぱいいちごは、雄太との大切な思い出……。

「いただきます」
「召しあがれ」

 スープになったいちごをスプーンですくい、そっと口の中にふくむ。レモン汁とグラニュー糖のおかげだろうか、甘すぎず酸っぱすぎず、ほどよい甘さ。バニラアイスを添えると味わいがクリーミィとなり、デザート感が増す。小さめのスープ皿だからか、あっという間にいちごのスープを飲んでしまった。

「ふぅ。美味しかった……」

 三杯のお勧めスープによって、お腹が満たされた私は静かに目を閉じた。
 思い出すのは、雄太のことだ。

『琴羽の好きないちごスイーツ、いつか俺の店のメニューにできたらいいな』
『え? それって私に雄太のいちごスイーツをずっと食べてほしいって意味?』
『ええっ! いや、その』
『なに? 食べてほしくないわけ?』
『ち、ちがう! 琴羽にはずっと俺のそばにいて、その……』
『もう。ごにょごにょ言ってたらわからないでしょ?』

 熟したいちごのように真っ赤になった雄太は、恥ずかしそうにうつむいてしまった。
 照れ屋だったからか、自分の思いをきちんと伝えるのが苦手だった雄太。
 そんな人が私にきっぱり「別れてほしい」と告げた。あの時はただ辛くて、黙って受け入れた。けれど真実は違っていたのかもしれない。

「私、雄太に一度連絡してみます」

 ようやく決心ができた。自分の気持ちと向き合うのが怖かったけれど、ようやく前を向けそうだ。

「ええっ、それじゃあ琴羽さん。僕たちとは一緒に働いてくれないの? 元カレさんのところへ行っちゃうの?」

 いちごのスープを出してくれた紗切さんが不満そうに口をとがらせた。

「せっかく誘ってくれたのにごめんなさいね。でも看護師の仕事は辞めたくないんです。私にとって大切な仕事だから」

 病院に勤務していると、様々な事情を抱えた患者や、その家族を見守ることになる。決して楽な仕事ではない。辛い思いをしている人たちに少しでも寄り添っていけたらと願っている。辛い治療に耐え、退院していく患者さんの笑顔を見るのが大好きなのだ。

「切也さん、刀流さん、紗切さん。ありがとうございました。おかげで明日からも仕事を頑張れそうです。あなた方がどういった存在なのかはわかりませんが、心を込めてもてなしてくださったこと私忘れません」

 三つ子兄弟からすっと笑みが消え、じっと私を見つめている。

「お客様、ひょっとしてわたしたちの正体にお気づきですか?」
「正体まではわかりません。でもなんとなくですが、人間ではないのかな? って。でもきっと悪い存在ではないんですよね。だって美味しいスープを三杯も提供してくれる悪者の店なんて聞いたことありませんから」

 闇夜に突然現れた『鎌切亭』という物騒な名前のスープ屋。珍しい名前の美形三つ子兄弟。私の心を見透かしたような話し方や気遣い、体と心に響いた三杯のスープ。奇妙で不思議なことだらけで、私には彼らが人間だとは思えなかった。
 病院で働いていると、たまに見聞きするのだ。この世を去られた方を見てしまったり、人ならざる存在を確認したり。深く追及していると働くのが怖くなってしまうので、できるだけ聞き流すようにしていた。

「さすがは看護師として働いている方ですね。わたしたちの正体になんとなく気づいていても、少しも動じない」
「うん、たいした女だ」
「その度胸、いいなぁ。琴羽さん」

「人間ではないのでは」と伝えても、三つ子兄弟は否定しなかった。それがきっと答えなのだろう。

「ひとつ聞いてもいいですか? なぜスープ屋で人間をもてなしているのですか?」

 私が知りたいのはそこだけだった。彼らが自分の正体を明かしたくないなら、無理に言うことはないと思う。

「それでは琴羽様、わたしたちのことも少しだけ、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 私がこくりとうなずくと、切也さんはゆっくりと話し始めた。

「最初はただの好奇心でした。人間という存在が気になってしまいましてね。わざと転ばせて、足を鎌でちょんと傷つけてやりました。ちょっとした悪戯だったのです。これで人間も歩くのを止めるだろうと。ところが人は、傷つけられて痛いと泣きながらも再び立ち上がるのです」

 切也さんの話を聞きながら、闇夜に『鎌切亭』に出会った経緯を思い出していた。
 足を少しだけ切ったのは、きっと偶然ではないのだろう。私は彼らに導かれて、すぅぷや鎌切亭に来れたのだ。

「だから僕が、自慢の塗り薬で傷を治してあげたんだ。人間の傷口をね。痛みも傷跡をきれいになくなったはずだよ」

 塗り薬が入った壺を抱えながら、紗切さんが穏やかに語る。

「人間に悪戯してケガを負わせることを続けていても、痕も残らず治しているのだから問題はない。そう思っていた。だがある日、俺たちはある存在に見つかり、こっぴどく叱られたってわけだ」

 包丁を手に持った刀流さんが、表情を変えることなく話す。

「ある存在って……?」

 三つ子兄弟が人間ではないことはもう知っているけれど、彼らを叱った存在まではまったく想像できなかった。

「神様ですね」
「神って呼ばれるヤツだ」
「僕たちや人間を、じーっと見てる暇な方だね」

 切也さん、刀流さん、紗切さんは順に、さらりと答えた。

「か、神様……? 神様って、神社とかにいる?」

 彼らがあまりにも自然に、「神様」と言うものだから、私も「神社」ぐらいしか思いつかなかった。

「まぁ、そうですね。大概は神社などにいらして、たまにあちこちに遠征しておられますね」

 なんだか信じられない気もするけれど、切也さんたちが嘘をついているようには思えなかった。

「神様にきつく叱られ、怯えるわたしたち三兄弟を哀れに思われたのか、神様は温かい汁物を出してくださいました。それがねぇ、とても美味しくて。体も心も、ほっこり温まりました。汁物は人間が神様にお供えしたものだと知り、驚いたことは今も忘れません。汁物をすするわたしたちに神様は告げたのです。『それほど人間に興味があるなら、神の眷属(けんぞく)となり、店屋で人をもてなしてみるが良い。人間の心に寄り添い続ければ、おまえたちの求める答えはいつか得られよう』と」
 
 彼らが『すぅぷや鎌切亭』を営むのは、神様の提案だったのだ。
 でもそこまでして切也さんたちが知りたいと思うものは何だったのだろう?

「琴羽さん、最後に質問させてください。あなた方人間は、なぜそれほど強いのですか? 何度転んでも、わたしたちがわざと転ばせても、人間は再び立ち上がり、また歩き始める。琴羽さんも鎌切亭に来店されたときは、心に傷を抱え、お疲れでしたのに。それでも明日も仕事に行かれると言われましたよね。教えてください、琴羽さんはなぜお強いのですか?」 

 切也さんの質問に合わせるように、刀流さん、紗切さんも私をじっと見つめている。彼らは知りたいのだ。人間の強さの理由を。
 人間を代表して私が答えるなんておこがましいけれど、彼らのもてなしのお礼も兼ねて、誠実に伝えてみたい。そう思った。

「私たち人間は、強いわけではありません。傷つき疲れ果て、動けなくなることも多いですから。それでも再び立ち上がるのは、それぞれに守りたいものがあるからだと思います。守りたいものは人によって違いますので、一概に何かとは言えませんが。私が明日も仕事に行こうと思うのは、今の仕事が好きだから、かな。そして今日もよく働いたねって、自分で自分をほめてあげたいんです」

 質問に答えながら、自分自身に言い聞かせているように思えた。
 私は強くなんてない。雄太との別れが辛くて、自分の体の不調から目をそらしていたように。

「私、もう一度だけ別れた恋人、雄太に連絡をとってみます。どうして終わりにしようと思ったの? って聞いてみます。前を向く勇気をくださってありがとうございます。すぅぷや鎌切亭のこと、切也さん、刀流さん、紗切さんのこと、わたし忘れません」

 精一杯のお礼を伝え、ぺこりと頭を下げた。
 彼らに出会わなければ、すぅぷや鎌切亭にもてなしてもらわなければ、疲れ果てた私はもう動くことさえできなくなっていたと思う。明日も頑張ろうと思えたのは、彼らのおかげなのだ。

「お礼を言うのは、わたしたちのほうですよ、琴羽さん。あなたがおかげで人間の強さが、少しだけわかった気がします」

 顔を上げると、切也さんが優しく微笑んでいた。

「人間ってのは、やっぱり面白いな。かまいたちの三つ子である俺たちのおかげで前を向けるとさ」

 きらりと輝く包丁を持ちながら、刀流さんが感慨深げにつぶやいた。

 さらりと話してるけど、刀流さん、気になることを言っていたような……。

「あの、『かまいたち』って何ですか? それがあなた方三つ子兄弟の正体なのですか?」

 どうしても気になった私は、つい質問してしまった。
 聞かれた刀流さんの目がこれでもかと大きく見開かれ、呼吸ができない魚のように口をぱくぱくさせている。

「刀流ぅ~。普段は無口なくせに、余計なことをしゃべるんだから」

 刀流さんのそばに駆け寄った紗切さんが、その頭をぽかんと叩いた。

「す、すまん……」
「すまんじゃないでしょ、ちゃんと話さなきゃ。琴羽さん、刀流が口をすべらせたから正直に話すね。僕ら三つ子の正体は、かまいたちと呼ばれる妖怪です。スマホっていう人間の便利道具で調べてもらえば詳しくわかるけど、人間に悪戯することしかできない、半端者のあやかしです」

 子どもの頃に、子供向けのアニメで見た気がする。つむじ風に乗り、人を切りつけるあやかしを。

「あやかし……だったのですね、紗切さんたち三つ子兄弟は。だから店名が鎌切亭(かまきりてい)だったんだ……」

 ようやくいろんなことが腑に落ちた気がする。

「ありがとうございます。話してくださって。でもこれだけは伝えさせてください。あなた方は半端者なんかじゃないです。今晩いただいたスープは、どれも本当に美味しかったです。素晴らしい料理を作れるあなた方は、半端者であるはずがありません」

 きっぱりと伝えると、あやかし三つ子兄弟は嬉しそうに笑った。見ているこちらまで幸せな気分になる素敵な笑顔だった。
 やがて彼らは横一列に並び、深々と私に頭を下げたのだった。

「本日は、すぅぷや鎌切亭にご来店いただき誠にありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」