私が灘店長に告白して数日後、金曜日になった。
 私は傷心のままでも、気力を振り絞って街へ行く。
 今日は有給をとって、仕事を休んだので、今日の予定は「金曜日の二十四時の予約」のみだ。
 有給をとったのは、今日の深夜に会う灘店長に謝るため、詫びのお菓子を買おうと思っての事だった。
 お菓子を買うために、百貨店の方へと足を運ぶ。丁度、喫茶・ワイドハートも、百貨店の近くなので、少しだけ店の前を覗いてみよう。
 喫茶・ワイドハートは、昼の街中に静かに立っていた。窓からチラッと灘店長、見えるかな?
 喫茶店に近寄ってみると、扉に張り紙がしてあった。

 【こちらの店は閉店致しました。長らくの御愛顧ありがとうございました。】
 喫茶・ワイドハート/店主

 薄暗い店内を覗いても誰もいない。棚に所畝ましと並んでいた瓶やグラスは無くなっていた。ガランとした店内がやけに淋しい。
 狼狽えても、閉店は閉店なのだ。
 私は突如、心の癒しを失ってしまった。
 失恋の失意に追い討ちをかけるような閉店。
 灘店長は、居心地が悪くなったのかもしれない。
 私は、取り敢えず百貨店へ行く。お菓子ではなく、ハンカチを買いに行きたい。
 オフィス街には、幾つもの飲食店があるけれども、何処へ行っても、喫茶・ワイドハート程の名店は見つからないだろう。
 百貨店の重たいガラス扉を押して、中へ入る。フロアを確認して、三階にある紳士婦人服・用品売場へと、エスカレーターで上がって行く。
 三階の紳士婦人服・用品売場には、立派なスーツや婦人服が、悠々と展示されている。
 私はハンカチを買おうと婦人用品売場へと寄った。その時だった。
 
 「蜜実ちゃん!蜜実ちゃんじゃないか!」
 振り向くと、紺色のスーツに山吹色のネクタイを絞めた灘健児さんがいた。髪型も纏めていて、何時もの野生のはねっ毛ヘアーではなかった。兎に角、トップクラスのオフィスにいてもおかしくない出で立ちなのである。
 「灘…さん?」
 もう、店長ではないので、さん付けで呼ぶ。
 「灘店長でいいよ。今日も予定空けてくれてたんだね。ありがとう。」
 「会えて良かったよ。今日は特に会いたかったから。」
 灘店長の優しい言い方に、私はときめいてしまう。
 「今から時間ある?」
 「は、はい。有給とったんで…。」
 「なら、一緒に車に乗ろっか。来て欲しい所があるんだ。」
 私は灘店長に手を引かれる。百貨店の屋上にある駐車場まで連れていかれると、なんだか高級そうな車に案内される。
 シートベルトを静かに絞めて、車を颯爽と運転する灘店長は、最早別人に見える。
 文字盤がサファイアブルーに光る、銀の腕時計を付けている腕はやはり太くて、灘店長なのだけど。
 運転する灘店長の横顔を見つめる。顔つきが真剣だった。
 無言のまま車に乗っていると、トンネルを抜けて、遠く遠くへ車を走らせる。
 街を抜け山を抜けると、長閑な海町へと出た。
 市街地には、古くからの日本家屋が何軒も残っていて、ああ、ここはあの観光地か。
 「そろそろ降りるよ。」
 車は白い木製の建物の横にある駐車場に停まる。
 降りると、新しく建てられた喫茶店があった。
 看板を見ると大きく【喫茶ワイドハート】と書かれている。
 看板の文字を読んだだけで、私は元気になってしまった。
 「新しく海辺の観光地で店をやることにしてたんだ。」
 店の付近には、海水浴場がある。波の音が心地好く耳に届いてくる。
 灘店長は車の中から、白いクーラーボックスを取り出す。
 「おいで、蜜実ちゃん。」
 新店の扉を開けて、灘店長は中へと案内してくれる。
 新店の天井は高く、部屋の広さが倍以上に思える。大きなガラス窓からは大自然の景色が一望できる。まさに広大さのある店だった。
 座席も前より多い。白を基調として、配色よく家具が置かれている。
 「なんだか、前より繊細でお洒落で、照れちゃう。」
 「そうかな?前からお洒落だったけど。」
 日が落ちている。夕方も過ぎようとしていた。
 店の明かりを付けると、カウンターもちゃんとあった。前の店から持ってきていた瓶やグラスも既に設置してある。
 灘店長はカウンターへと入ると、スーツの上着を脱いで、何時も通りにエプロンを装着する。
 ワイシャツを腕まくりをして、厨房の方へと入る。その前に。
 「今日は、俺からの特別メニューを出させてよ。」
 何時もと違った紳士な声で、私に告げる。
 スーツ姿の正装をしている灘店長に合わせて、私も姿勢を正してカウンター席へと座る。
 店内には、微かな波の音しかしない。
 厨房からは、繊細な調理音が聞こえてくる。
 私は待っている間に、店のメニュー表を読む。
 以前よりモダンでお洒落に変わった喫茶メニュー。結構種類が豊富。
 全てのメニューに目を通した後、メニュー表のしたの方に、何か書いてあることに気づく。
 【某百貨店グループ系列・喫茶ワイドハート】
 金の箔押の文字で、そう書かれてある。
 某百貨店グループとは、さっきまで居たあの百貨店だ。
 一体、どういう事なの!?戸惑う私の前に、灘店長が現れる。
 「お待ちどうさま。」
 何時もよりも軽やかに上品に厨房から出てくるスーツ紳士な灘店長。
 メニュー表を顔の前にしている私を見た灘店長は、精悍な顔で私を見つめる。
 「今日の特別メニューは、【キウイと蜜柑の蜂蜜タルト】だよ。召し上がれ。」
 コトリと、レース細工のしてある白磁の小皿に盛られた、可愛いタルトが私の前に置かれる。
 キウイも蜜柑も、きっとこの町のものなのだろう。小麦粉も近くの町で作っているので、この地域で育った食材のお菓子だ。温かな陽の香がする食材達。黄金色の濃厚な蜂蜜が、たっぷりタルトにかかっている。
 「頂きます、灘店長。」
 私はタルトを小分けして、口へと運ぶ。
 タルトは果物の瑞々しさと蜂蜜の甘さで、まるで花畑の中にいるかのような華やかな味わい。
 私は澄ましながらも、ニコニコしてしまう。
 灘店長は、少しだけ緊張している。メニュー表の方へ目をやってから、私の方へと向く。
 「蜜実ちゃん、食べながら聞いて欲しい。」
 「俺自身の事なんだけど。」
 海岸から波の音が聴こえる。夜の静寂の中で、今夜は灘店長自身の身の上話を聞いた。

 灘健児。彼は某百貨店の創始者一族なのだ。
 でも、健児は次男で、彼の兄が百貨店の経営は継いだ。健児は将来の余裕があったので、面白いからオフィス街で喫茶店を経営してみた。
 健児は喫茶店での個性的な人々との出会いを楽しんだ。何より、喫茶店の接客仕事は健児の寂しさを埋めてくれた。
 好きだと思ったこの仕事を続ける為には、ギリギリ黒字の稼ぎしかない現状ではなく、親の百貨店を頼るしかなかった。親の紹介で、経営に関して戦略性のある提案も出来るラジオDJの中島ナカジにも頼る事となった。
 日曜日の二十四時は、兎に角、経営案を練りに練った。
 そして来週、新店喫茶・ワイドハートがオープンするーーー………。

 灘店長のワイドハートへの想いを聞いていると、自然と胸が熱くなった。じんとする。
 「で、本題なんだけど。」
 「そんな必死な中で、蜜実ちゃんと居る、金曜日の二十四時は特別だったんだ。君に癒されてたよ。」
 灘店長は、スッとカクテルを差し出す。
 「カクテル【モーニング・グローリー・フィズ】です。」
 白いフワフワの泡に黄色が綺麗な、優しそうな色合いのカクテルが出てきた。
 ワイングラスの根元には、リボンが結わえてある。
 「…カクテル言葉は、コレなんだ。」
灘店長はメニュー表に書いてある、カクテル言葉を指差す。
 私は率直なカクテル言葉に目を丸くする。
 「わかったわ。」
 私は満面の笑みを浮かべる。
 「…店で泊めてくれてたもんね。」
 「そういうんじゃなくて、清く正式に!あれは、蜜実ちゃんだけが、喫茶店から遠い所に住んでたからタクシー代が可哀想で…。」 
 私はフフフと笑った。
 

 カクテル言葉【モーニング・グローリー・フィズ】…貴方と明日を向かえたい


 ワイングラスにリボンで結わえてあった、プラチナの指輪を受け取る。
 私は上機嫌でスマホを操作して、颯君にメールを入れる。
 『本日を持って私、灘蜜実はローゼス化粧品を寿退社いたします。お世話になりました。』

 店に流れ始めるラジオでは、中島ナカジくんが、新店・ワイドハートを熱心に宣伝してくれていた。