その日からユウミと私と母の三人での生活が始まった。とはいえ母はずっと仕事に行っているので、ほとんどユウミと私の二人暮らしだ。春休み最終日になっても彼女の記憶は治らず、思いの外ユウミとの暮らしが長引いていて少し焦りを覚えていた。
春休み期間は昼ごはんは自分で作るようにしているので、私はユウミの分もご飯を作って彼女の前に差し出した。

「美味しそう〜いただきますっ」

目を輝かせてその日私がつくったチャーハンをむさぼり食べるユウミ。記憶を失った家出少女だというのに、どうしてそんなに毎日天真爛漫に前向きに生きられるのだろうか。元気いっぱいの彼女を見ていると、彼女とは正反対に恋人の死の事実が大きな黒い塊になって広がっていくのを感じた。佳道の死の直後、一番深い悲しみに沈んでいた私も少しずつ前を向けるようになると思っていたのに、実際は逆だった。時間が経てば経つほど、彼との思い出の記憶が薄れていく気がして、途方もない孤独感に襲われるのだ。

「ねえ結奈、聞いてもいい?」

チャーハンを食べ終えたユウミが「ごちそうさま」と行儀良く手を合わせて、食器を洗う私の背中に問いかけてきた。私は濡れた手をタオルで拭いながら振り返りもせずに「なに?」と聞いた。

「結奈には大切な人がいたの?」

幼い彼女の口から、「大切な人」などという艶かしいワードが出てきたことに、私は思わず肩を揺らした。ゆっくりとユウミの方を振り返ると、いつもと変わらない大きな瞳を瞬かせ、食い入るようにして私を見つめていた。

「う、うん」

素直に答えざるを得ない。それぐらい、彼女のまっすぐな瞳に射竦められてしまったからだ。

「そっか〜。でも、今はその人はいないんだね」

「……」

なんということだろう。
これまでの私と母の会話から、私が大切な人を失い落ち込んでいるということは推測できたかもしれない。しかし、彼女が私の機微に気がついているとは思ってもみなかった。推定小学生の彼女の前では上手く取り繕ってきたつもりだったのに。私の心の蕾は知らない間に花弁へと成り代わっていたらしい。いや、たぶん綺麗に咲いてはいない。すぐに枯れてしまっている。

私が黙っているのを見て、ユウミはそれを肯定の意だと受け取ったんだろう。
「つらいね」と一言呟いて目を伏せた。
どうして? そんなふうに、自分のことのように私の気持ちをすくいとることができるんだろう。私が彼女と同じ年頃だったころ、誰かの気持ちを推し量るなんて、そんな利口なことはしていなかった。毎日友達を遊ぶことだけを考えて、宿題なんて面倒だからやりたくないって逃げ回っていた記憶がある。大体、小学生なんてふつう皆そんなものだろう。
だけど、ユウミは違う。
彼女は幼い顔立ちとは裏腹に、大人のような反応を見せることがあった、
彼女が小学生かどうかは不明だが、私よりは年下だということは分かる。それなのに、どうして大切な人を失った悲しみをこんなふうに共感してくれるんだろう。

「ね、良かったら聞かせて。結奈の大切な人のこと」

「佳道は……」

私は、気がつけば彼女の前で佳道のことを洗いざらい話していた。
この二年間、共に過ごした相棒だということ。付き合う前よりも付き合ってからの方が大好きになったこと。彼は私の理解者で、どんなときも味方になってくれたこと。私がクラスメイトにいじめられそうになったときは、真っ先に庇ってくれたこと。
高校二年生の3学期が終わる頃に、事故に遭って死んでしまったこと。
真昼間の自宅の中で、テレビも音楽も何も音がしない空間で、私はひたすら喋り続けた。話しながら、自分はこんなにも誰かに話を聞いてほしかったんだということに気がつく。

「私は、佳道と結婚したかった。それぐらい大好きだった。結婚できなくても、ずっと一緒にいたい……いたいよ。どうしてこんなに痛いの」

胸が、心臓が、私の骨が、身体中を流れる血液が。
彼がいない現実に悲鳴を上げて押し潰されて砕けてしまいそうだった。
こんな経験、今までにしたことがなかった。父親は物心がつく前に母と離婚をしているので、父がいなくなって寂しいという気持ちはない。

「手を、つなぎたい。抱きしめてどこにも行かないでって言いたい。今日はずっと私と一緒にいてって。事故に遭うなんて思ってもみなかったの。時間が戻って欲しい。やり直したい。あの日をやり直して、彼と一緒に学校に行く。車にぶつかりそうになったら、私が守ってあげる。何度も何度も、そう思った……」

肩を震わせながら話す私に、ユウミはずっと「うん」とか「悲しいね」とか共感の言葉をくれた。母親にも、学校の友達にも話したことのない胸の内だった。そもそも私には心を開示できるような友達がいない。だからこそ、佳道を失ったとき途方もないくらいの孤独感が襲って来たのだ。私には彼のいない高校生活があと一年残っていて。彼のいない人生が計り知れないほど残っていて。
彼一人に依存していた自分が悪いのかもしれないが、失ったものが大きすぎて、きっと友達がいても私は同じようにどん底に堕ちていただろう。

「ごめん、こんなこと話して……。なんか、止まらなくなった」

いつのまにか溢れ出ていた涙を洋服の袖でごしごしと拭った。年下の女の子にみっともないところを見せてしまい、急に羞恥心が押し寄せて来た。
けれど私の心配をよそに、ユウミは凛とした眼差しで私を見つめていた。母親とも思えるぐらいの寛大なその表情が、私の心を溶かしていく。

「ありがとう。聞けて良かった。結奈の気持ち」

ユウミの言葉は、固い氷を溶かす温かいお湯のように、不思議と胸に浸透する。ユウミの言葉には特別な力が宿っているかのようだった。
佳道がいなくなった淋しさがなくなったわけではない。
だけど、ユウミのおかげで今、佳道がいない現実に生きる自分を少しだけ受けいれられるような気がした。