うーと、ユウミが唸り眉を寄せる。私は彼女をおんぶして階段を降りる。玄関で靴を履き扉を開けると、外は雪が降っていた。だけど私は止まらなかった。ユウミに私の上着を被せ、そのまま歩き出す。後ろを振り返っても母はついて来ない。私の言葉にショックを受けたのかもしれない。でも今は、母のことは考えたくなかった。
一歩踏み出すごとに頬に冷たい雪が当たってその度に身体を縮こませた。
まるで夢の中にいるような感覚だった。フラフラとした足取りで何も考えずにつつじヶ丘公園の丘を登る。他に行くあてはない。何かに導かれるような感覚でたどり着いた公園で、私は目を疑った。

ない。
桜の木が、視界から消えていた。
いや、正確に言うと、切り株だけ残して綺麗に伐採されていた。

「どうして……?」

予定では2月末だと書いてあった。まだあと数日は残っている。
慌てて駆け寄ると、捨て置かれたような桜の木の切り株の上に雪がチラチラと落ちる。

「そんな……」

2月末、という言葉を私は2月28日のことだと解釈していた。でも違った。末、と言っているだけで正確に何日など書いていなかった。何かの理由で予定が早まったのかもしれない。今日市役所で公園課の人たちが渋い顔をしていたが、もう桜の木はとっくに切られた後だったのだ。そう思うと、自分が訴えてきたことが滑稽でやるせなくなった。

「結奈……」

切り株の前で呆然と立ち尽くしていると、背中からユウミが私を呼んではっと我に返った。
そうだ、ユウミはどうなるの!? この桜の木が切られたら、ユウミは——。


ドサッという音と背中から彼女が滑り落ちる感覚で、心臓が激しく鳴った。とっさに振り返り、彼女の姿を確認する。上着の中でぐったりとか細い息をするユウミの姿が目に飛び込んできた。私は彼女の身体をかき抱く。

「ユウミっ、ユウミっ!!」

うっすらと目を開けて私を見つめるユウミだったが、焦点が少しずれている。彼女の存在が本当に桜の木とリンクしていることを裏付けているようで辛かった。

「……結奈、聞いて。私はもうすぐ……」

「いや!! それ以上は言わないでっ」

彼女が何を言おうとしているのか、言葉にされなくても分かる。ユウミがこの桜の木だというなら、彼女の命はもう……。
駄々をこねる子供みたいに首を激しく振る私をなだめるかのように、ユウミはゆっくりとした動作で私の頬に触れた。その手がひんやりと冷たい。外に気温は1度ほどだから当たり前だったのだが、私にはその冷たさがユウミの存在を否定しているように感じられた。

「お願い、聞いて」

切実な彼女の声に、我を忘れていた私は「なに?」と聞き返した。彼女が何かを伝えようとしているのに、私が耳を塞いでいてはダメだ。
冷たい雪がより一層激しく降り続く。でも、今は雪の冷たさよりも大事な存在をまた奪われる恐怖の方がよっぽど身に堪えていた。

「私ね、今までここでたくさんの人たちの言葉を聞いたの。桜ってさ、たくさん並んで咲いてたらお花見とか、楽しい気分にさせてくれるけれど、私は一本だけ。私を見た人たちはなんだか感傷的な気分になるんだろうなぁ。みんな、いろんな悩みを持っていた」

ユウミの言葉を聞いて、私は去年3月の終業式の日にこの桜の木を見つけた時のことを思い出した。たった一人で花を咲かせる桜が、その時の孤独な自分に似ている気がしたのだ。

「その中には、愛する人を失った人や病気で先が長くないと涙ながらに訴える人がいて、私はそんな人たちの話を聞く度にひどく感情移入しちゃって。気づいたら涙の代わりに花を散らしてしまうんだ」

桜の花はよく儚いものに例えられる。咲いている時期は人々の心にも花を咲かせるのに、一瞬で散ってしまうから、切ない気持ちにさせられる。ユウミも、そんな桜の木の一つだった。

「昨日ね、熱にうなされながら思い出した。去年の1月だったかな……ここにね、秋葉佳道くんって人がやって来たの」

「えっ」

ユウミの口から佳道の名前が出てきて衝撃を覚えた私は何度か瞬きをした。彼女には佳道の話を聞かせていたので名前を知っているのは不思議ではないが、どうして佳道が真冬にこんなところに来ていたのか分からなかった。

「花も咲いていない冬の時期だったから、どうしてだろうって思った。これまで私に話しかけてきた人たちはみんな、花の咲いている時にやって来たから。だから私は枝ばかりの私の身体を撫でて寂しそうに私を見つめる彼のことが気になってた。しばらく彼は何かを考え込むようにしてここに座ってたんだけど、やっと口を開いてくれた」

そこでユウミはふぅ、と深く息を吐く。これから重大な告白をしようとしているのが分かった。同時に、彼女の身体がどんどん冷たくなるのを感じて、私は思わずもう一度強くユウミを抱きしめる。

「佳道くんは、こう言ってた。『俺の命はもう長くないんだ』って」

「どういうこと……?」

佳道が亡くなったのは交通事故が原因だ。まさか事故を予知していたなんてことはあるまいし、なぜ彼はそんなことを言ったんだろう。

「その日の前日に、彼は病院で多発生骨髄腫っていう病気の診断を受けたんだって、言ってた。ステージが進んでて、あと数年しか生きられないかもしれないって医者から言われたんだって……」

「多発生骨髄腫……」

ユウミの口から告げられる真実はあまりに衝撃的で、私は我を忘れそうになった。
嘘だ。彼が病気だったなんて。だってそんなこと、私は一言も聞いていない。

頭が混乱して理解が追いつかない。けれどユウミはそんな私の心中を知っているかのように言葉を紡いだ。

「佳道くんは、自分には恋人がいて、その人に病気のことを話せないんだって打ち明けてくれた。自分がもしいなくなるようなことがあったら、彼女は——結奈は、きっと立ち直れないからって……」

「佳道……!」

彼が、そんな苦しみを抱えていたなんて、私はまったく知らなかった。知らずに彼の隣にいた。その間、佳道は全然私に心配をかけなかったし病気のことを気づかせることすらしなかった。
佳道は結果的に交通事故で亡くなってしまったけれど、もしかしたら病気で亡くなっていたかもしれなかっただなんて。
そんなの……そんなの、あまりにも救いがないじゃないか。

「佳道くんがね、その時に結奈のこといろいろ話してくれた。たぶん、誰にも話せなかったんだと思う。桜の木なら、話したところで誰も聞いてないから大丈夫だって思ったんじゃないかな。私、彼の話を思い出したの。伝えてもいい?」

胸をぎゅっと抑えると、心臓の鼓動がランニングをした後のように激しく鳴っていた。佳道が私に残してくれた言葉を、ユウミは今口にしようとしている。
聞きたい。
彼が私に、何を思っていたのか。
最後の瞬間、まったく彼と言葉を交わせなかった私にとって、それは一筋の希望の光に思えた。
私はユウミの目を見つめ、ゆっくりと首を縦に動かした。

「結奈と、結婚したいんだって、言ってた。まだ高校生でこんなこと本人に言うのは恥ずかしいから聞いてくれって。結奈は自分にとって、人生で一番大好きになった人だって。絶対に離れたくないんだって。結奈が悲しい時は隣にいるんだって。楽しい時は笑っていてくれるだけでいいって。結奈を、幸せにしたかった」

最後の言葉は、ユウミの口を借りてまるで佳道が本当に私に向かって話してくれているように感じられた。私は、懐かしさと切なさがこみ上げて目尻から溢れ出る涙を抑えることができなかった。

「佳道っ……」

彼と初めて出会った瞬間に、ときめきを覚えた時のことを思い出す。
初めて話をした日、想いを伝えあった日、大好きだと抱きしめた日、私がクラスメイトにいじめられて守ってくれた日、数えきれないほどの大切な言葉を思い出す。
佳道が私のことを、本当に大切に思ってくれていたことを知って、佳道がいなくなって立ち止まっていた自分が情けなく、悔しく感じて。
私はたまらなくなってユウミの胸に顔を埋めた。
彼女が私の頭を撫でる。佳道が、ことあるごとにそうしてくれていたように。

「佳道くんは、結奈のことを一生懸命に語ってくれたよ。大好きだって気持ちが溢れてた。だから私も幸せな気持ちと切ない気持ちでいっぱいになった。結奈に、佳道くんの言葉を伝えたくて、私は人間の姿になっていたんだって、今気づいたの」

だからユウミは一年前、私の前に姿を現したのだ。

「でも記憶が消えちゃって、今まで伝えることができなった。本当にごめんなさい」

謝る彼女に、そんなことはないと私は首を振る。

「嬉しい……嬉しいよ。佳道の言葉、今になって聞けて嬉しい。本当にありがとう」

雪に濡れた髪の毛が頬に張り付いたまま、私は彼女を今までで一番強く抱きしめた。
ユウミは満足そうに目を細めて微笑んだ。その笑顔を、私はこの先一生忘れることはないだろう。
そして彼女は、大きく息を吸う。この世界に生きていたという証を味わうかのように、肺いっぱいに空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
その呼吸に合わせて、彼女は私の腕の中から姿を消した。
桜の切り株が、瞳を満たす涙でぼやけて揺れた。