動きを止めたまま思考に耽っていた俺を訝しく思ったのか、幸枝さんが気遣わしげな視線を送ってくる。
 俺が幼かった頃に比べると、丸みを帯びて皺の増えた顔。それだけの時が過ぎているのだ。いつの間にか──母が死んでから、数年の時が経っている。
 こちらが望まなくとも自然のなかで時は刻まれ、貴重な時間を喰らっていく。

「あまり無理はなさらないでくださいね。顔色もあまりよくないようですし……」

「ああ、いや、大丈夫だよ。べつに、なんでもないから」

 つい突き放すような刺々しい言い方になってしまった。
 俺はどうも、幸枝さんを母に重ねてしまいがちで嫌になる。これが反抗期なら、まったくもってお門違いだ。彼女はなにも関係ないのに。

 幸枝さんは優しい。こんな俺にも分け隔てなく接し、俺を俺として見てくれる数少ない人間のひとりだ。それでも、母ではない。
 いっそのこと父や兄たちと同じようにぞんざいに扱ってくれた方が、幾分気が楽かもしれないとすら思う。
 じゃあ戻るね、と小さく言い置いて炊事場を出ると、変わらず朗らかな声で「頑張ってくださいね」と背中に声がかけられた。
 振り返ることもせず、俺は持ってきたペットボトルの側面をぎゅっと握りしめる。
 どうして俺は、こうなんだろうか。この家にいると、やることなすことすべて、俺を取り巻くすべてがままならない。本当に、なにもかも、腑に落ちない。
 もやもやとした気持ちを抱えたまま、廊下の角を曲がった。しかし直後、突然目の前に壁が現れて俺は顔面から衝突した。考えごとのせいで反応が遅れたらしい。

「うわ、びっくりした。結生か」

「っ……ハル、兄」

 次男の千代春。長男とは年子で、俺とは九つ離れている兄だ。
 存在からどこか優艶な雰囲気を纏うハル兄は、こんなにも暑いというのにしっかりと和装を着こなしていた。うちの人間は普段から和装なのだ。俺以外。

「なんだか久しぶりな気がするな。元気だったか、結生」

 同じ家に住んでいて、そんな問いかけが出てくること自体おかしい。
 うちの異常さは、こういうところだ。
 お家元なだけあって、日頃から多くの人間が出入りする。家族以外の人間が、平気で敷地内を歩いている。だからこそ、この家は気が休まるところがない。
 俺が普段からアトリエに籠りきりなのも、こういった特殊な家庭環境が背景にある。