『五時十五分、愁、迎え』
──愁とは名前だろうか。いったい、誰の。
一瞬だけ胸の内をじわりと渦巻いた黒い靄。そんな醜い感情を抱くことに自分で驚き面食らう。詳しく聞きたいような、聞きたくないような複雑な心境で「へえ」と小さく答えた俺に、小鳥遊さんは陰りのない笑顔で振り返った。
「じゃあ先輩! また明日!」
「……うん。気をつけて」
「先輩も、集中しすぎて真夜中までいるとかやめてくださいね! 今日は私、いつもみたいに連れ戻してあげられませんから」
思わず、その言葉に意表を衝かれた。
連れ戻す、とは沈んだ状態から俺を持ち上げることだ。
そういえば小鳥遊さんが入部する前は、絵を描くことに集中しすぎて気づいたら夜中だったことがあった。一度ではなく、数回。学校の屋上ならまだしも、ふらりと学校を出て目の付いたところで絵を描いていると、わりとやらかしがちなのだ。
そのたびに俺は行方を探されて、危うく警察沙汰になりかけたこともある。まあ、大抵は過保護な兄が必要以上に騒ぐからいけないのだが。
ああでも、そうか。思い返せば、ここ一年はそういうことがない。
本来の終了時間に合わせて切り上げて、あとは家のアトリエで描く、という規則正しいルーティンが確立されている。
「……そうか。いつも小鳥遊さんがいたから、俺は時間を忘れずに……」
彼女とは家の方向が違うため、一緒には帰れない。けれど、毎日部活を終えた後は校門まで一緒に歩く。その道すがら、何気ない話をする。
そこまでが日常だ。今日はそんな日常がないから、こんなに寂しいのか。
なるほど。そんな小さな時間の積み重ねで、俺は小鳥遊さんに惹かれたのか。
「俺ね、小鳥遊さん。君がいなかった四月の間、実は一度も終了時刻を過ぎるまで絵を描いてたことないんだよ。むしろ早めに切り上げてたくらいで。……だから心配ないよ、って言えたらカッコいいんだろうけど」
あの一ヶ月は驚くほど集中できなくて、絵がまったく描けなかった。あんなことは春永結生の人生では初めてのことで、正直途方に暮れていたくらいである。
だというのに。
「たぶん、ね。俺、小鳥遊さんがいる日常に、慣れすぎちゃったんだと思う。ほら、君が帰ってきたとたん、嘘みたいに描けるようになったでしょ」
さすがにそれが示す意味をわからないほど、俺も鈍感ではない。