まる一週間会社を休んだ。 
ようやくやるべきことが終わり、明日から出社しようと意気込んで、朝起きるつもりだった。 
が、身体が動かない。無理やり腕で支えてベッドの上で上体を起こそうとするも、途端にひどい頭痛に襲われてそのまま倒れ込んでしまう。身体中の感覚を研ぎ澄ませてみると、熱を帯びた体に、痛む節々。これは、発熱に違いない。家に体温計がないから確かめようがないが、そういうことにでもしておかないと説明がつかないのだ。 
もう、仕方ない。 
かたわらに眠る()の横顔を眺めながら、私は再び深い眠りについた——。

◆◇

 彼と初めて出会ったのは、今年の冬に参加した温泉ツアーでのことだ。それまで交際していた彼氏に振られ、心がザワザワと荒波を立てていて、一人旅にでも出ないと自分を保っていられないと思ったから。とはいえ、これまでこの歳——30歳になるまで一人旅をしたことがないせいで、一人宿を予約しようとしたところで怖気付いた。失恋をして旅に出ようとしたのに、一人では怖い。情けないことだが、友人の女性にそのことを話すと、「それならツアーで行けばいいじゃん」という鶴の一声を頂戴したのだ。これまで海外ツアーに参加したことはあっても、国内ツアーを利用したことがなく、どんなもんだろうと旅行代理店に向かった。自分が想像していたよりも、国内ツアーは充実していた。何泊もするものから手軽に一泊で済むものまで様々だ。私は気軽に一日だけ泊まれる温泉ツアーへの参加を決めた。

 温泉ツアー当日。ツアー参加者は同じ観光バスに乗り込んだ。夫婦でツアーに参加する者、学生同士でワイワイはしゃいでいる者、若いカップルなど客層は様々で、私は一人、移りゆく景色を窓から眺めるばかり。目的地である熱海に着くと、いくつかの観光名所をガイドさんと一緒に回った。爽やかな潮風が吹きつける海辺はもちろんのこと、神秘的な大樹から生命を感じることのできる来宮神社、熱海城の天守閣から臨む眺望は絶景だった。夕方前にツアーが終わり、残りの時間は自由行動ということになった。どちらかと言えば人間関係を面倒だと思うタイプだったから、自由行動の時間が長いのはありがたかった。

「あの、今日はお一人ですか?」

そんな私の考えとは裏腹に、自由行動が始まってすぐに声をかけてくる人がいた。
それが、北村健一(きたむらけんいち)という男だった。

「ええ」

「ああ、良かった。それなら一緒に回りませんか?」 

端正な顔立ちをしたスタイリッシュな北村は、丁寧な話し方といい、全身を纏う清潔感のあるオーラといい、大人の色気のある素敵な男性だと思った。しっぽりとした温泉ツアーには向かない気がして、彼の周りだけがなんだが浮き立って見えたのを鮮明に覚えている。普通なら「初対面の人と二人で観光」なんて、返事をしりごみしてしまうのだが、なぜかこの時の私はすんなりと頷いてしまっていた。

「ありがとうございます。僕は北村健一といいます」

天野夕(あまのゆう)です。よろしくお願いします」 

聞けば彼は私よりも5つ年上とのことだったが、腰の低い彼の態度にとても好感がもてた。
普段はどんな仕事をしているのだろう。誰と、どんな会話をするんだろう。一人でこんなツアーに参加するなんて、恋人はいないのだろうか。 彼に対する興味が、私の気持ちを前へと動かした。

 北村と熱海の繁華街や海辺を歩き、話をしているだけで、すぐに日が暮れた。丁寧で物腰柔らかな彼の物言いに、私はすっかり心を奪われてしまっていた。あたりがすっかり暗くなった頃、私たちは宿へと向かった。夕食はツアー客が泊まる旅館での懐石料理だ。海の幸がふんだんに使われた和食を食べながら、北村とこの旅に参加した理由を話していた。

「僕は、ちょっと仕事でつまずいてしまって」

「お仕事は何をされているんですか?」

「これだよ」

彼は首から下げていた一眼レフカメラを持ち上げて答えた。そういば、散策中にも時折かばんからカメラを取り出しては写真を撮っていた。熱心な趣味だと思っていたが、これが仕事だったのか。

「カメラマンですか」

「そうだね。まあ僕の場合はカメラマンというよりは写真家に近いかもしれないけれど」

「それって、カメラマンとは違うんですか?」

「いや、広義の意味では同じだけどね。写真で食ってる人はみんなカメラマン。でもその中でも、より芸術性を追求した写真を撮る人を、写真家というんだ」

「へえ。じゃあ、北村さんには『魅せたいもの』があるんですね」

「おお、いい表現だな。そうそう。僕は自分の作品に、色をつけたいんだ」

写真の話をしている北村の声は弾んでいて、心から写真を愛しているのだということが伝わってきた。彼は先ほどから手に持ったお箸で何かを掴むわけでもなく、私の質問に真剣に答えてくれた。

「天野さんはどうしてここに?」

次は私が話す番だということは分かっていた。しかし、理由が理由だけに彼にどう思われるのか想像すると、背中に汗が滲む。

「……お恥ずかしい話ですが、つい最近失恋をしてしまって」

取り繕っても仕方がない。旅仲間との会話に見栄は必要ないのだ。

「なるほど、傷心旅行というわけだね」

「はい。いい歳した大人が何言ってんだって話ですけど」

「いやいや。僕だって同じようなものだよ。上手くいかないことがあれば、ちょっとそこから逃げたっていいんですよ」

彼が言う「ちょっとそこから逃げたって」という表現が、妙に耳に心地良かった。私は大学を卒業して以来印刷会社の管理部で仕事をしているけれど、社会人になってからというもの、「ちょっと逃げたい」と思うことが増えた。明日の納期から、複雑な人間関係から、上司との付き合いから、いい加減な人事評価から。完全に振り切れることなんてないのだから、少しくらい距離をおいてみたい。北村もきっと、情熱を傾ける写真の仕事をする中でちょっとだけ疲れてしまったのだろう。そう思うと、自分とは違って身なりも振る舞いも格好良い北村が、とても近い存在に思えた。

 北村との出会いは枯れていた私の心に澄んだ水を垂らしてくれた。本来ならその場限りの付き合いだったはずなのに、気がつけば私たちはお互いの連絡先を交換し、温泉ツアーから3ヶ月が経った今でも、ちょくちょく連絡を取り合う仲になっていたのだ。

「天野、何かいいことでもあったか?」

温泉ツアーから帰ってきた週明けの月曜日。職場でいつものようにパソコンに向かってデータを打ち込んでいると、先輩から声をかけられた。

「え、どうしてですか」

「いや、だってさっきから笑ってるから」

「……」 

おかしい。笑いながら仕事をしているつもりなんかまったくなかったのに。側から見たら普通に気持ち悪い人間じゃないか! 

「恋でもしたか? まあ恋も仕事もどっちも大切にしろ」

先輩は「いいこと言ってやったぜ!」というノリで歯を見せて笑って去っていった。
データの入力がひと段落ついたところで、私はデスクに置いてあるマグカップを手に取りコーヒーを一口口に含む。もともとコーヒーは苦いブラックが好きだったけれど、最近はミルクと砂糖を入れるのにハマっている。

「ふう」と一息ついて手慰みにスマホをいじる。LINEの通知を見ると、今日も北村から連絡が来ていた。

「週末、お茶でもしに行きませんか?」だって。彼はお酒を飲むよりも昼間にゆっくりとお茶をする方が好きらしい。珍しい男だと思いつつも、落ち着いた雰囲気の彼にはよく似合うと納得している。私はすかさず「いいですね」と送った。彼と私のLINEのやりとりは基本こんな感じだった。あの温泉ツアーからもう数回彼とこうしてお茶をしている。
メッセージを送り終わると、自然と口元から笑みが溢れた。これだから先輩に突っ込まれるのだ。私はそっと周囲を見回して、誰も自分のことなど見ていないということを確認する。恋をしている時の自分は、たぶん相当格好悪いから。

 北村と約束をした週末が訪れた。お互い独身だからか、休日の時間は有り余っている。

「やあ」

「こんにちは」

待ち合わせ場所の喫茶店に着くと、北村はカメラを手に先に席に座っていた。街中にある昔ながらのその喫茶店では、お一人様のおじさま、おばさまたちが優雅にコーヒーを飲んでいる。マスターは気さくな人らしく、カウンターでマスターと話している大人たちの目は活き活きとしていた。若いカップルはほとんどいなくて、自分たちのような年齢の二人組はこの場所にはちょっと場違いかもしれない。

「マスター、ブレンドコーヒー二つお願いします」

「はいよ」

私たちが喫茶店に来るときはいつもシンプルにブレンドコーヒーを頼む。マスターがその場でじっくりと淹れてくれるコーヒーは、香りだけでもかなり心が満たされた。北村は運ばれてきたコーヒーに、たっぷりのミルクと砂糖を入れる。見た目とは裏腹に甘党らしく、毎度のことだが心の中でつい笑ってしまう。私も彼と同じように、ミルクと砂糖を追加した。

「最近どうですか? 新しい写真は撮れましたか」

「ああ、いま調子がすごくいいんだ」

ほら、と言って彼は手にしていたカメラに収められた写真を見せてくれた。水平線に沈む夕日が海面に一本の光の道をつくっている。彼は風景を得意とする写真家らしく、彼の撮る写真と自分が見ている世界の風景があまりにもかけ離れすぎていて、本当に同じ地球を写し出した写真なのかと疑ってしまう。つまるところ、それほどまでに彼の写真は洗練されていた。

「素敵じゃないですか! 北村さんの写真って、本当に神秘的で好きです」

「ははっ、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」

写真のことを褒められると、北村は少年のように破顔する。これもいつものことだ。そんな彼の表情を見るのが私は好きだった。もちろん、彼の撮る写真が素敵だというのは事実だ。

「きみに写真を褒められるとつい気分が上がってしまうよ。だけどね、最近ちょっと考えてることがあって」

北村はティースプーンでコーヒーをぐるぐるかき混ぜながら、しばらく口を閉じていた。私は何だろう、とちょっとだけ緊張した。

「このまま、風景を撮り続けるだけでいいのかってね」

「どうしてですか?」

「いや、なんとなくだけど。一つしか武器がないよりも、たくさん武器があった方がいいかなと」

「それは確かに、そうかもしれません」

北村の話を聞いて、私はふと元恋人のことを思い出した。彼も、「一つの道を極めるよりも何でも平均的にできた方が安定してていいだろう」という思想の持ち主だったから。

「そう。それでさ、最近気になっている女性がいるんだ」

「え?」

「その人にどうアプローチしたらいいか分からなくてね」

「はあ……」

いま自分の顔を鏡で見たら、相当間抜けな表情をしているのだろう。写真の話をしていたのに、突然気になっている女の子の話をしだす北村が、急に理解のできない生き物に思えたのだ。 私も、彼と同じようにコーヒーをかき混ぜる。それを一口飲むと、ミルクと砂糖を入れているのに、いつもよりも苦く感じた。追加で砂糖を入れようかとも思ったけれど、あんまり入れすぎるともはや私が飲みたいコーヒーではなくなる気がして、やめた。

「つまり、北村さんはその気になる女性と一緒に写真を撮りに行きたいということですか?」

「まあそうとも言うね」

「なるほど」

彼の言動から導き出した自分なりの答えを告げると、彼はゆっくり微笑んでから頷いてみせた。まったく納得はできていないが、「恋が仕事への原動力になる」という経験は自分もしたことがあるため、分からないこともない。

「ちなみに、どういう方なんです? 繋がりとか」

「写真家の知り合いの紹介だよ。いい人がいるって聞いて、この間会ってみたんだ」

「へえ。それで、いい感じなんですか?」

「いい感じか、と聞かれると難しいけど。連絡はこまめに取り合ってるよ」

「それなら、何も心配することないんじゃないですか? このままアプローチしていけば」

「そうかもしれないね。ただ彼女、こういうのに慣れていないらしくて」

慣れていない、というのは男の人に、ということだろうか? それとも恋愛に? どちらにせよ、結構若い人なのかと余計な邪推をしてしまう。

「慣れてなくたって、いいじゃないですか。北村さんがいろいろ教えてあげれば」

「そうだね。ちょっと頑張ってみるよ」

最後の方はほとんど投げやりだった。私は、カップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。苦くて甘い味が口の中に広がる。やっぱり砂糖とミルクなんか入れなきゃ良かった。

 それからというもの、北村からの連絡が来たかと思えば例の女性に関する内容ばかりだった。明日彼女とお茶するんだ。彼女が好きなスポットに案内しようと思う。この間の彼女の笑顔があんまり可愛くて、写真を撮ったけど最高だったよ。ぜひ、きみにも見せたい。まるで初めて恋をした高校男児のように、北村のLINEの文面からは彩りが感じられた。反対に、私の腹の底は黒く塗り潰されていく。その度に、私はクソ、と舌を鳴らした。それが仕事中だったこともあり、先輩から「情緒不安定かよ」と変な目で見られた。悪気のない北村の連絡が、私には悪魔のささやきに聞こえる。彼が紡いだ文章に、いちいち気を持っていかれた。ノートパソコンや手帳、デスクの上に溢れかえった書類たちの存在が、視界に入らなくなるほどに。

「天野さん、貧乏ゆすりなんかして、どうしたんですか?」

声をかけてきたのは今年の新入社員の女の子だ。彼女は筋金入りの「天然キャラ」で、どれだけ人が怒っていようと、悲しんでいようと、毎回同じテンションで言いたいことを直球で口にしてくる。そうでもなければ、明らかに気が立っている先輩に無防備に話しかけてきたりはしない。

「べつに、何も。ちょっと疲れてるみたい」

「疲れで足が震えるって、ちょっとやばいんじゃないですか? 病院行ったほうがいいですよ」

やばい、という抽象的な言葉を仕事中に当たり前のように使える彼女に、私は嫉妬さえ覚えそうだった。しかも、病院って。私だったらイラついている上司にそんなことは言えない。

「そうだね。考えてみるよ」

「そうしてください。健康が一番ですから!」

きっとこの子は、この先どんなに仕事や恋愛で壁にぶつかっても、ひょいとかわして上手く生きていくのだろうな。そういう人の瞳は、全然汚れていない。これまで多くの人間と関わってきたからこそ、分かるのだ。私はデスクの上に常備していたコーヒーをごくりと飲み干した。やっぱり、この苦味がたまらない。あれから砂糖もミルクも、一切入れていない。


 北村が夢中になっている女性に会ってほしいと言われたのは、彼が女性のことをほのめかしてから半年が経った頃だ。すっかり秋の気配が近いた十月。まだ暑い日もあるけれど、ふと全身に吹き付ける風に、金木犀の香りが漂う。よく晴れた日曜日の午後だった。北村にしては珍しく、居酒屋で飲もうという話になった。彼女がサービス業で、土日は夕方まで働いているから、と。私はお酒が好きなので、まったく問題はなかった。

「久しぶりだね」

「……お久しぶりです」

北村が指定したお店は、繁華街に佇む小さな創作料理屋だった。お客さんのほとんどが常連客なんだろう。店員と仲良く話している。内装は木材と緑を基調としており、居酒屋とは思えないほどおしゃれだ。彼が選ぶ店はなかなかセンスがいい。

「初めまして、私、早坂莉乃(はやさかりの)といいます」

「初めまして。天野夕です。今日はよろしくお願いします」

早坂は、艶やかな茶髪と大きな瞳が印象的な美人だった。他のお客さんが、チラチラとこちらを振り返る。煌びやかなオーラを放つ彼女の気配にしばらく圧倒されて、私は何を話したらいいのか分からなかった。

「天野さん、緊張してますか?」

早坂がクスクスと口元に手を当てて笑う。右耳に髪の毛をかける。「大丈夫ですよ」と目を綻ばせる。その仕草のすべてが、私の自尊心を完膚なきまで破壊した。

「ははは、そりゃびっくりするよね。彼女、職場でも相当人気者で困るぐらいらしいから。お客さんにも人気だって。営業成績もいいんだよね」

「そんな、大したことじゃないですよ」

「お仕事は何をされているんですか?」

「アパレル店員です。駅前の『Daisy』っていうお店で働いています。今日も仕事終わりで」

「ああ、なるほど」

確かに、早坂みたいな店員がいれば、誰だって話したくなるものだろう。職場で人気だというのも分かる。早坂の周りだけが、パッと明るく輝いて見えるから。
私は、運ばれてきたビールをごくごくと喉に流し込んだ。「お、豪快だね」という北村の言葉は半分聞こえないフリをして。
早坂はお酒に強いのか、その後三人で談笑しながら飲んでいても顔色一つ変わらなかった。その代わりに、北村と私はどんどん酔っ払い口調になっていく。特に北村はいつになく陽気に笑ったり、私と早坂にお酌したりしていた。

「莉乃ちゃんはしっかりしているね。僕はもうこんなにヘロヘロなのに」

「北村さん、酒は飲んでも飲まれるな、ですよ」

「はは、そんなこと僕にはむりだ〜」

顔を真っ赤にした北村さんは、写真家として写真への愛を語る凛々しい彼とはかけ離れていた。北村も、好きな女性を前にするとこんなに無防備になるのか。グラグラと回転する頭でまだそんなことを思ってしまう。早坂と出会ってからまだ二時間ほどしか経っていないのに、この敗北感は一体何なんだろう。

「北村さんは、早坂さんのことが相当気に入っているみたいですね。うらやましいです」

「ええ? 何言ってるんですか。まあ確かに、声をかけてもらった時には驚きましたけど!」

「だってさ、たまたま訪れた店先にこんな美人が立ってたら、誰だって声かけたくなりますよ」

「またまたあ〜」

二人の関係を破壊しようと何とか探りを入れてみようと試みたものの、結局は二人が自分たちの世界に入り込むのを止められなかった。 北村だけでなく、早坂も北村のことを強く意識している。彼女のキラキラとした瞳が物語っていた。たぶん、私が何もしなければ——いや、何をしていたとしても、近々二人は結ばれるだろう。

「今日はこの辺で失礼しますね」

いい加減に酔いが回っていたし、なによりこの場にこれ以上長居したくなかった。北村は「もう帰っちゃうの?」と言うが、その目は嬉しそうにも見える。そうでしょう。二人きりになりたかったんでしょう。だからあとは二人で楽しんで。早坂が「おやすみなさい」と無邪気に手を振った。私も「今日は楽しかったよ」と控えめに手を振り返す。本当は会いたくなかったよ、という言葉が腹の底で弾けた。


 翌日も、翌々日も、仕事が終わると自宅で酒を飲み続けた。こんなに気持ちが荒れたのはいつぶりだろう。飲むお酒がなくなると、すぐに近所のコンビニへ買い出しにいく。テーブルの上に並んだ空き缶や瓶がむなしく転がって床に落ちた。翌週末、北村からもう一度三人で飲まないかと誘われたけれど、一週間小遣いをお酒に費やしたため、その日は断った。けれど、どうしても北村に会いたかった私は、待ち合わせだと言われた時間に例の創作料理屋に向かった。

物陰からこっそり二人が中に入るのを見送って、近くの公園で3時間ぼーっと過ごした。若者たちが、公園で飲みながらはしゃいでいる。自分が何をしているのか、何をしたいのかなんてこの時はすでに分からなくなっていた。これが夢なのか現実なのかさえ区別がつかないほど、この一週間で心は打ち砕かれた。

夜が更けて、ようやく二人がお店から出てきた。途端、スイッチが入ったかのように私の足はふらふらと二人のもとへと向かう。先週と同じで、北村は泥酔し、早坂は北村を支えるようにして歩いていた。二人に何を話すのかと決めているわけでもない私は、想い合う幸せなカップルに近づく。コロン、と何かが爪先に当たった。公園でお酒を飲んでいた若者たちが捨てていった空き瓶だと気づいた。私はそれを手に取って、二人のもとに駆け寄る。あの女の頭を目掛けて、空き瓶を振りかざした。「きゃあ」という悲鳴と「どうして」という叫び声が響く。 どうして、男のあなたが私を狙うのか。 頭を抱えながら振り返った早坂の顔がそう語っていた。



 ◆◇



 ドンドンドン! 

「ドアを開けなさい。警察だ」

玄関のドアのけたたましい音で、私は目を覚ました。頭が熱い。ぐわんぐわんと視界が揺れていて、今自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。が、かたわらに眠る北村の死に顔を見て思い出す。そうだ。私は一週間仕事を休んだ。彼を縛って動けなくしたあと、ゆっくりと死に追い込んだのだ。それなのに、いまの夢は彼ではなく、早坂の方を殺す夢だった。本当は私は、どちらに消えて欲しかったんだろう。早坂か、北村か。分からない。でも一つだけ分かっていることは、男性しか愛せない男の俺が、本気で恋したのが北村だった。

「早坂さんを、写真のモデルにしたかったんだ……。恋愛感情なんかない。風景ばかり撮ってきた僕の新しいチャレンジだったんだ。本当だよ」

死に際に彼が呟いた言葉を、私は信じていないわけではなかった。確かに彼は早坂のことを、「慣れていない」と言った。それは恋愛に、ということではなく、写真のモデルに、という意味にもとれる。一瞬、彼を殺すのをためらった。でも、それ以上に私は嫉妬心で狂ってしまっていた。たとえ写真のモデルとしてしか早坂のことを意識していなかったとしても、彼女の方にはその気があったかもしれないのだ。

「私は——俺は、あなたを愛してたんだ」

彼に伝えたいと思う言葉があるとすればそれだった。私にとって一世一代の告白に、心臓がうるさいほど音を立てた。告白の返答次第では、彼を解放しようとさえ思っていたのだけれど。

「……気持ち悪い」

北村は獣を見るような目で私のことを睨みつけた。その目が私を鬼へとかえした。身動きの取れなくなった北村に、最後の一撃を食らわせた。テーブルの上に置いてあった空の酒瓶を大きく振りかざすと、彼の命と一緒にガラスの欠片が飛び散った。夢の中で早坂を殴った時の感触と同じだ。息絶えた彼の周りには、持て余した愛の欠片がそこかしこに散らばっていた。私はついにそれを拾うことができなかった。

 バン、とドアが開く音が聞こえる。力づくで警察がドアを開けたのだ。ドタドタと警察が上がり込む。ベッドの上の布団をめくり、そこに眠る彼の様子を確認する。袋の鼠、というわけか。

「天野夕さん、北村健一殺人容疑の件で署までご同行願えますか」

身体を押さえつけられ、腕に手錠をかけられた。もう逃げ場なんかない。警察に身体を引きずられながら見た虚ろに開く北村の瞳が、私に笑いかけているようだった。