八百万の神々に守護されし四季の美しい国、日本。
 しかし四季の美しい風景は、干ばつ、水害、飢饉、大地震、津波、そして絶え間なく続く戦によって、幾度となく危機に晒されていた。
 人心の移ろいとともに広がる(けが)れが国に病を呼び、少しずつ、少しずつ腐敗が広がっていく。
 そんな中、愛おしい国を憂いた八百万の神々は、地上に〝生き神〟を降ろすことに決める。
 選ばれたのは十二柱の神、『十二神将(じゅうにしんしょう)』。
 騰蛇(とうだ)朱雀(すざく)六合(りくごう)匂陳(こうちん)青龍(せいりゅう)貴人(きじん)天后(てんこう)太陰(たいいん)玄武(げんぶ)太裳(たいじょう)白虎(びゃっこ)天空(てんくう)――。
 平安の世を陰陽師である安倍晴明とともに生きた彼らは、人の子の営みをよく知っていた。
 人の子と同じ肉体を持ち〝生き神〟となった彼らは、国を守護し繁栄へと導く。
 それはすなわち、美しい四季の巡りが国を彩るその裏で、彼らが命と引き換えに穢れと戦った証でもあった。

 時は流れて、令和を迎えた現代――。
 強固な結界が張り巡らされた『神世(かみよ)』と呼ばれる特区に、十二の神々とその末裔は暮らしていた。
 神世は神域であり、禁足地である。
 しかし神々や末裔である眷属(けんぞく)でなくとも 、一部の許された人の子たちだけが足を踏み入れることができるという。
 その代表となる人の子は、神々を支えることを唯一許された存在――〝巫女(みこ)〟であろうか。
 特別な異能と美貌を持ち崇められる神々は、穢れの多い現世(うつしよ)()ち神とならぬよう、ひとりの巫女を選ぶ。
 日本の総人口、一億二千四百万人の中で、霊力が目覚める人の子は一握り。
 その中で〝巫女見習い〟となって神の目に留まり、神の巫女として選ばれる者はさらに少数となる。
 人の子が神の巫女に選ばれることは、とても名誉なことだった。

 ――そうして、今。
 数十年ぶりに『巫女選定の儀』を迎えた講堂で、軍服のような詰襟の制服を着た青年の革靴の音だけが響いている。
 暗闇のような漆黒の髪に、凍てつく氷のように冴え冴えと輝く青い瞳。誰よりも神々しく、けれど冷酷な印象を感じざるをえない恐ろしいほどの美貌の青年――竜胆(りんどう)は、うつむくひとりの少女を目にした途端に、ふっと甘い微笑みを浮かべた。
 竜胆は少女の手を優しく取ると、彼女を強引に引き寄せて、その勢いのままに胸元で抱きとめる。
「ああ、やっと見つけた。〈青龍の巫女〉……いや、俺の唯一の〝(つがい)〟」
「…………っ」
「今日から君は俺のものだ。これから先、俺から片時も離れることは許さない。いいな?」
「そ、その……、なにかの間違い、です。私は、巫女見習いでは……っ」
「俺にとって、君が君でありさえすればいい」
 竜胆は少女の意識を絡め取るように、青い瞳で見つめる。
 そして、そうするのが当然のように唇を奪った。
「嫌だと言うのなら、今すぐ君を(さら)って閉じ込める。神の独占欲をなめないでくれ」
 神のものとして選ばれし巫女は、末永く神に仕え、神の絶大なる庇護のもとで過ごすことになる。
 もしも神の巫女に選ばれた人の子が、神のたったひとりの絶対的な愛しい存在と呼ばれる〝番様(つがいさま)〟として(めと)られたならば、深く深く底なしに甘やかされて極上の溺愛に包まれる、誰よりも幸福な未来が待っているだろう――。


   ◇◇◇


 百花女学院(ひゃっかじょがくいん)高等学校のカフェテリアには、朝から優雅な雅楽の音色が響き渡り、寮生活を送っている生徒たちを出迎えている。
 古風な刺繍が施されたアイボリーのセーラー服を身にまとった少女たちは思い思いに席に着いて、カフェテリアで提供されている美味しい朝食を楽しみながら、「今日の『巫女選定の儀』で神様に選ばれたらどうしよう!」と頬を染めつつ、興奮気味にお喋りに花を咲かせていた。
 そんな中。日当たりの良い窓際の特別席から、賑わいに水を差すバチンッと頬を叩くような音が響いたかと思うと、少女の甲高い金切り声がヒステリックに叫び出す。
「無能な名無しのくせに、神々に仕える私の命が脅かされたっていいっていうの!?」
 頬を力の限り()たれた(すず)は、痛みに震える身体を叱咤(しった)しながら、急いで冷たいリノリウムの床に(ひざまず)いて頭を下げた。
「……申し訳ありません、日菜子(ひなこ)様。すぐに口を付けますので、お待ちください」
 ここ、百花女学院には霊力が発現した〝巫女〟の適正を持つ六歳から十八歳の少女たちが日本各地から集められ、扱い方や伸ばし方、神々への仕え方や礼儀作法までを学んでいる。
 その百花女学院高等部内で『現在最も将来有望な生徒』ともてはやされているのが、鈴の異母妹の日菜子だ。
 日菜子はたいそう機嫌を損ねた様子で、椅子の肘掛けに頬杖をつく。
 もしふたりが一般的な女子高校生であったならば、日菜子は鈴にとって同じ十六歳の姉妹でしかないかもしれないが、ここでは〝巫女見習い〟と〝使用人〟。
 鈴は巫女見習いでもなく、日菜子の使用人としてだけの(・・・・・・・・・・・・・)存在価値が認められて(・・・・・・・・・・)、日本屈指の百花女学院に入学が許可された生徒である。
 明治時代に開校され創立百五十年を超える巫女養成機関では、創立以来、同年代の使用人が巫女見習いに付き添い学院に通うのは当然で、巫女見習いである主人の着付けや授業の準備、衣服の洗濯、寮や教室の掃除などを日々担う。
 巫女見習いが研鑽に励めるよう、側仕えとして全力で陰ながらサポートするのが務めだ。
 いくら同じ春宮(はるのみや)家という、神々から四季姓を頂戴した名家に生まれた姉妹であろうと、主人である日菜子の命令に使用人の鈴は逆らえない。
 その上、日菜子は艶めく栗色の巻き髪が自慢の、豊満な肉体を持つ華やかな美人。
 対して鈴はといえば、パサついた艶のない灰色の髪に、青白い肌、触れたらぽきりと折れそうな儚い身体しか持ち合わせていない。
 姉妹の格差は、誰から見ても歴然としていた。
 しかも鈴は、幼い頃から春宮家当主によって真名を剥奪されて育った〝名無し〟である。
 真名を剥奪されるなど、あり得ないことだ。
 明治時代から百五十年以上変わらず閉鎖的な女学院内で、『相当な大罪を犯したに違いない』と人々に揶揄される鈴の存在価値は、ただの使用人よりももっと低い。
「見て。またあの名無しの使用人が、日菜子様のご機嫌をそこねてるわ」
「過去におぞましい罪を犯した罰が日菜子様の使用人になることなら、逆に天国よね」
「本当よ。あの美しくて気高い日菜子様のお側にいられるんだから」
「もしもわたくしが使用人でしたら、あんなヘマはしませんのに。日菜子様がかわいそうですわ」
「ええ、まったく。名無しを使用人に迎えた日菜子様は、本当に懐が深くていらっしゃいます」
 今この時も、カフェテリアにいる巫女見習いたちだけでなく他家の使用人たちでさえもが、鈴の行動をクスクスとあざ笑っている。
 この業界で強い権力を誇る春宮家の優秀な令嬢と、衣食住を約束され学校にも通わせてもらえている幸運な使用人のやりとりに、口を挟むような教師はいない。
 名家ともなれば女学院への寄付金額も莫大なものになる。
 時代錯誤な校風や使用人の存在に対して疑念を感じる心のある教師たちがいたとしても、平穏に人生を終えるために、そして自分自身の家族を守るために、誰もが見て見ぬ振りをするしかなかった。
「毒味はあなたに任された大役なの。さあ、名無し。特別な食事なのだから、味わって食べるのよ?」
 好奇の目に晒され、クスクスと嫌な笑い声が聞こえる中――表情を無くした鈴はうつむいたまま、まるで家畜に与える餌のように床に放置された木製の粗末なお皿にそっと視線を向ける。
 日菜子のテーブルに配置された銀のトレーに載せられているのは、さながら高級フランス料理店の食事だ。
 前菜は、色鮮やかなエディブルフラワーと季節の葉野菜で彩られた、サーモンとホタテのマリネ。ドレッシングとしてジュレとバジルソースが絵画のように添えられている。
 オマール海老を贅沢に使った濃厚なビスクには湯気が立ちのぼり、黄金に輝くとろとろのオムレツからはトリュフの芳醇な香りが漂う。
 メインは、宝石のように輝く真っ赤な苺とブルーベリーが上品に飾られたふわふわなパンケーキだ。
 これは各学年の主席の生徒にカフェテリアが提供しているもので、他の巫女見習いよりも何十倍も豪華な朝食である。
 一般高校と同じく三年生が最高学年なので、他にふたりの生徒が同じメニューを食べていることになる。
 朝食だけでなく、昼食、夕食も学年主席である日菜子には豪華なものが提供されていた。
 キラキラとした食事は他の生徒たちから羨望の的で、それだけで日菜子が特別視される存在だとわかる。
 しかし、鈴の朝食はといえば。
 毒味という名目で、すべてのメニューからひと口ずつを、日菜子の手によってごちゃごちゃにかき混ぜて盛られたものだけ。
 どんなに努力して命令を誠心誠意こなしていても、わがままでヒステリックな日菜子の命令が尽きることはない。それをすべてこなしていたら、いざ使用人用の食堂へ赴いた時には、全員に等しく提供されているはずのサンドイッチやお弁当にはまずありつけないからだ。
(……文明が発達しているこの現代日本で、本当の意味での毒物を盛る生徒なんて、いるはずもないのに)
 そんなことがあったら、すぐに警察沙汰だろう。百花女学院が警察に通報してくれれば、だが。
 そうでなくても、毒物を回避したいのなら、銀製の食器を毒味役の使用人に使わせる。
 過去に巫女を多く輩出してきた春宮家の令嬢ともなれば、当然の知識だ。
 しかし日菜子は銀食器を使用せず、粗末な木製の食器をあえて鈴に使わせている。
【銀は毒を退け、五彩は呪詛を祓う。木椀に罪偽り無し。】
 それは皮肉にも、神々に仕える者たちの間で昔から言い伝えられている言葉に則ったものだった。
 言葉の本来の意味は、『銀製の器は毒があれば変色する。五彩の磁器は呪詛があればひび割れる。木製の器にはどちらの効果もないが、それを差し出す者にもともと悪意はない』というものだ。
 だが、霊力を操る巫女見習いを育成する百花女学院で、言葉の意味をそのまま信じる者はいないだろう。
 清らかな霊力は時に、呪詛をかけるために使われる。
(……どんなに呪詛が盛られていようと、変色したり割れたりしない木製の器では、結局なにもわからない)
 つまりは、そういう(・・・・)意味なのだ。
 どんな毒や呪詛が含まれていようと、それで異母姉の鈴が苦しもうと、日菜子にとってはどうだっていい。
 木製の器を差し出す日菜子自身に悪意はなく、ただ過去に大罪を犯した無能な名無しに仕事を与えている心の広い主人――というのが、日菜子が作り出す他の生徒への印象だった。
(……日菜子様よりも先に春宮家に生まれてきたことが私の犯した大罪だというのなら、せめて、どこか遠くへ捨ててくれたらよかったのに)
 鈴の母は『神嫁になるのでは』と名前が挙がるほどの女性だったらしいが、春宮家との政略結婚が決まり、輿入れして鈴を産んで程なくして亡くなった。
 父は母への情の欠片もなかったのか、その数日後には愛人だった継母と結婚。
 すでに身ごもっていた継母は、鈴の母と数ヶ月違いで日菜子を出産した。
 鈴の最も古い記憶は、三歳の頃。祖父と父と継母に囲まれ、真名を剥奪されたあの儀式の時だ。
『春宮鈴――。今よりお前の魂に刻まれし真名を剥奪する。これより先は〝名無し〟として、日菜子のために生きるのだ』
『恨むなよ、名無し。こうなったのも、日菜子より先に生まれてきたお前のせいだ』
『ああ、あなた! これでわたくしの可愛い日菜子が、春宮の名を背負う巫女になれるのですね……!』
 背中にはその時の術式が今も大きく刻まれている。
 それ以来、鈴は『霊力の欠片もない、無能な名無し』と春宮家で虐げられ続けてきた。
 剥奪された真名は、十数年経過した今も誰かに握られている。それが祖父か、父か、はたまた日菜子なのか。鈴にはなにもわからない。
 真名を握られるのは魂を掴まれているのと同じことになる。鈴の預かり知らぬところでなにをされるか、想像するだけで恐ろしい。
 かと言って、結界の張り巡らされた春宮家の敷地からは家出もできない。
 ただひたすら、異母妹に、家族とも呼べぬ家族に(かしず)くしかなかった鈴は、それでもこうして義務教育を経て高校に通わせてもらっているのだから……と震える指先をきゅっと握りしめて、再び額突(ぬかず)くしかなかった。
(日菜子様のお皿だけでなく毒味用のお皿にも、黒い(もや)が立ち上ってる。わざわざ毒味なんてしなくても、この朝食に呪詛が仕込まれているのは明らかなのに……どうしていつも配膳されてしまうんだろう)
 霊力の無い無能な鈴に、呪詛を祓うことなどできない。
 そのため今日も鈴は、『日菜子様、こちらのお食事には――』と、すでに朝食に呪詛が含まれていることを伝えようとしたのだが、『また呪詛が見えるだなんて嘘をつく気!?』と、日菜子の機嫌を損ねるだけで終わってしまった。
『違います、本当のことです……っ。このお食事はとても危険で……!』
 勇気を振り絞ってそう言い募ったところ、頬に平手打ちをされてしまった。
 日菜子の口ぶりからするに、この黒い靄は鈴以外には見えていないのかもしれない。
(……呪詛を受けすぎた代償のようなものなのかな)
 そうだとしても、カフェテリアのシェフは百花女学院卒業生だけで構成されているし、配膳係も百花女学院に通っている生徒たちによる学内アルバイトだ。どこかで誰かが異状に気がついていてもおかしくない。
 だがいつだって、呪詛がかけられた食事は日菜子の元へ届けられる。
 誰よりも潤沢な霊力を持っていると評価されている優秀な日菜子であれば簡単に祓えそうなものだが、彼女は十数年前に『霊力を無駄に使いたくないわ』と言い放って以来、ずっとその行為を嫌がっている。
 というのも、仕込まれた呪詛を払って術者を炙り出す一番簡単で便利な方法が……鈴が日菜子の身代わりとなって、このまま呪いを受けることだからだ。
 あらゆる恐怖を盛り合わせたようなお皿を前に、これから自分の身に降り掛かる最悪の事態を想像して、鈴の顔は蒼白になった。
「何をしてるの? 早くしてくれないと、名無しのせいで朝のお祈りに遅れてしまうわ。名無しは無能だから、神々へのお祈りの大切さがわからないのでしょうけど」
 華やかな化粧をして美しく着飾った日菜子の言葉に、周囲からはクスクスと鈴を嘲笑する忍笑いが聞こえてくる。
 木製の食器にごちゃ混ぜに盛られている朝食の禍々しい様子に、鈴は唇を真一文字に引き結び、ゴクリと固唾を呑んだ。
「ちょ、頂戴いたします」
 床に跪いたまま、深く息を吸い込んでから意を決して礼をし、カタカタと震える指先で箸を持つ。
 ごちゃ混ぜにされて、なにがなにだかわからない食べ物に、鈴は恐る恐る口を付けた。
 咀嚼したところで、味なんか感じない。
 食べ物を『美味しい』と思う感覚はとうの昔に失っていた。
(見た目は禍々しいのに、舌を焼き切るような感じはない……? これなら見た目よりも弱い呪詛なのかも。良かった、今日は苦しまずに済むかもしれない)
 鈴はわずかにホッとしながら、冷え切っていた食べ物を嚥下した。
 ――刹那。ありえない熱さが喉を焼く。
「ゔ、ゔ……っ!」
 カラン、とリノリウムの床に木製のお皿と箸が転がる。
 鈴はその場にどさりと崩れ落ち、喉を両手で抑えた。
 日菜子の朝食に仕込まれていた呪詛が喉を通り、食道を通り、胃に落ちる。
 火傷をするような灼熱が肌の上を這いずりまわり、血液を沸騰させた。
「ふーっ、ふーっ」
 息もできないほどの痛みに涙が溢れる。
 その瞬間、左手の甲が黒炎で炙られ、呪詛を仕込んだ術者の名前がジリジリと音を立てて現れながら焼きついた。
(……っ、どうして……)
「まあ! 私の大切な名無し……! 大丈夫? 身体は平気?」
 日菜子はわざと大げさに驚き、傷ついた様子で鈴を見下ろす。
 呼応するかのように、カフェテリア内はざわざわと騒めきだした。
「誰が日菜子様に呪詛を……」
「怖いわ、学年主席に呪詛をかける生徒が今ここにいるってことでしょう?」
「まさか日菜子様が、『巫女選定の儀』に出られないようにするために?」
 生徒たちは怖がるばかり。床に倒れたまま静かに涙を流しながら苦しみに悶えている鈴には、誰も手を貸さない。――カフェテリアの二階席に座っていた、背の高い少女を除いては。
 長い黒髪を高く結い上げたハンサムな少女は制服の裾をはためかせながら、パルクールの要領で二階から一階へ飛び降りてくると、すぐさま鈴へ駆け寄った。
「大丈夫かい!? 名無し、今すぐ治療を……ッ」
「……(あさひ)、様」
 真っ青な顔で鈴を抱き起すと、彼女は「〝祓い(たま)え、清め給え、我が身にその呪詛を移し、この者の身を守り給え〟」と一心不乱に祝詞を紡ぐ。
 その様子を日菜子は『興醒(きょうざ)めだわ』とでも言いたげな様子で席に座ったまま眺めていた。が、すぐに悲しむそぶりを演じながら、「名無し、それで相手は誰なの?」と、旭と呼ばれた少女の腕の中で息も絶え絶えの鈴へ聞く。
(……どうしてなのですか)
 旭の祝詞のおかげで呪詛の痛みが引いていく中、唇を噛み締める。
(この十一年間、彼女の存在はどこか心の支えだった。巫女見習いの生徒も使用人の生徒も、すべてを平等に見てくれる……正義感の強い方)
『名無し。今日はクレープワゴンが来ていただろう? さあ、誰にも秘密だよ』
『で、でも。私、いただけません』
『生徒会長たるもの、生徒の健康には気を配りたいんだ。これっぽっちじゃ、足りないかもしれないけれど』
 彼女は狙ったように鈴がひとりでいる時にやって来ては、生クリームとチョコレートたっぷりの苺クレープを差し入れてくれた。
(……この方が術者だと信じたくない)
 けれど〝無能な名無し〟として鈴が唯一できることのひとつが、祖父によって施された背中の術式による〝呪詛破り〟だ。
 今まで生きてきた中で、(ただ)れた傷跡として身体のあちこちに刻まれていく犯人の名前が間違っていたことなど、一度もなかった。
 鈴は新たな涙をこぼしながら、日菜子を見上げる。
「こ、こちらの、呪詛は……――夏宮(なつのみや)旭様の、ものです」
 犯人の名前を聞こうと静まり返っていたカフェテリア内に、鈴のか細い声は思いのほかよく響いた。
 ハッと、誰かが息を詰める音がする。
 三年生の主席をおさめる夏宮旭の名前に、騒めきが一層強くなる。
 夏宮家の長女は四季の名を冠する名家に相応しい人格者と評判だった。それが、なぜ、と。
「そう、夏宮旭先輩ね。名無し、ご苦労様。お祈り前に少し忙しくなりそうね」
 日菜子はクスクスと笑って、目の前で鈴を抱き起こしていた長髪の少女を見据える。
「もちろん先に学院長室へ行って、待っていてくださいますよね? 夏宮生徒会長?」
「……ああ」
 旭は諦めたように笑うと、「すまないね」と一言だけ鈴に向けて呟く。
「霊力の細部まで緻密に計算して、彼女に向けた呪詛をかけたつもりだったんだけれど……勉強不足だった。君に迷惑をかけたね」
 旭は壊れ物に触れるかのように、鈴の頬に手を添える。
 そして彼女は名残惜しそうに鈴から離れると、彼女の使用人とともにカフェテリアを後にした。
「はぁ……。この朝食はもうダメね。名無し、新しいものを作ってもらえるようにシェフへ頼んできてくれる?」
「……はい」
「日菜子様、私たちが先にシェフに頼んでおきましたわ!」
「こちら新しい朝食をお持ちしました!」
「毒味の必要がないように私たちで祈祷いたしますわね!」
 日菜子の取り巻きをしている巫女見習いの少女たちが我先にとやってきて、その使用人が新しい朝食のトレーをテーブルに置いていく。
 日菜子は「ふふふっ、ありがとう。有能なあなたたちの姿勢を、うちの使用人にもぜひ見習わせたいものだわ」なんて笑ってから、湯気の立つ作りたての朝食の前で両手を合わせた。
「ちょっと、名無し。いつまでここにいる気? 早く着替えて準備をしてきてちょうだい。ボロボロの使用人を連れてたら、主人の私が神々に疑われるわ。そんな薄汚れた制服で今日の儀式に来たら許さないんだから」
「……はい、日菜子様」
 鈴は震える両脚に必死に力を込めて立ち上がって頭を下げてから、その場を離れる。
 満身創痍の状態で向かう先は、学生寮。日菜子の部屋の隣に作られた、使用人用の小さな部屋だ。
(制服を着替えたら、すぐに講堂へ行かなくちゃ)
 部屋に戻った鈴は粗末な箪笥から包帯を取り出すと、爛れた左手の甲に手早く巻きつける。
 使えなくなった衣服から切り出して手作りした包帯は、洗濯しながら何度も使っているせいでボロボロだが、これしかないのだから仕方がない。新しい傷は血が滲んでいるので、ないよりは少しマシだった。
 それから予備の制服に着替えるために、急いで汚れた制服を脱ぐ。
(もしも今日、日菜子様が神様の巫女に選ばれたら……私は、どうなってしまうんだろう?)
 神様に選ばれた巫女様と、ただの使用人として、もっと辛く当たられるだろうか?
 それとも……。それとも、少しは人間として真っ当に扱ってもらえるようになるだろうか?
(……どちらにしろ、いつか名前を返してもらえるように一生懸命頑張るしかない。お母さまからもらった命を、自分だけは、大切にしたいから)
 使用人部屋に設置された安っぽい姿見に映った鈴の素肌には、これまでに呪詛をかけてきた術者の苗字と名前が、赤黒い傷となっていたるところに刻まれていた。

 普段なら一限目が開始する頃。百花女学院の講堂には、全学年の生徒や教師たちが集まっていた。
『巫女選定の儀』を前にして、講堂には静かなざわめきが広がっている。
 それもそのはず。神々が自分にとって唯一となる巫女を選ぶと言い伝えられているこの儀式が行われるのは、まさに二十年ぶりなのだ。
 この二十年間、巫女見習いになった少女たちは神々に選ばれる機会すら与えられず百花女学院を卒業し、〈準巫女〉として様々な職に就くことになった。
 しかし今ここにいる少女たちは、誰もが『もしかして私が』という夢を見る機会に恵まれたのだ。それだけでも幸運なことと、卒業生の誰もが思うだろう。
 なんと言っても、霊力のない一般人たちからも強く憧れられている儀式だ。
 神様の巫女に選ばれて、もし、もしも、自分がその神様と生まれる前から運命を約束された番であったならば――。
 神の命よりも大切な妻として娶られ、一生涯、誰よりも大切に溺愛されて生きることになる。
 神々は人智とかけ離れた絶世の美貌を持つだけでなく、その出自と家柄ゆえに、将来的には誰からも羨望されるような高い社会的地位に就くことが約束されている。
 さらには、まるで魔法としか例えようのない特殊な力である〝異能〟を操るらしい。時には、そう、大切な番だけを守るために。
 そんなすべてが理想的で完璧な神様に、たったひとりの人の子が底なしに甘く甘く愛されるなんて。
 見目麗しい神々と共に過ごせる〈巫女〉は少女や女性たちの憧れの職業で、御伽噺のような極上の幸福と深愛を一身に受けるかもしれない番様(つがいさま)は、多くの女性が一度はその立場に立った自分を想像したくなる特別な存在だった。
 テレビの報道や新聞各社の記者は立ち入り禁止とされているが、この儀式の開催自体は政府の会見で発表されている。
 ワイドショーや新聞の一面、それに各種雑誌は神様の巫女や番様の話題でもちきりだ。
 それほどの大きな話題性を持つ『巫女選定の儀』が、どうして二十年ぶりに行われることになったのか。
 それは神々と呼ばれている十二神将の幾人かが、巫女を欲しているからに他ならない。
 神々の子孫――眷属と呼ばれる者たちは神世に多く暮らしているが、十二神将の力を受け継ぎ生まれる神は一代にひとりきり。先代の十二神将が亡くなると、それから数年、時には数十年後に新たな十二神将が生まれる。
 そのため二十年前の『巫女選定の儀』を迎えた後に生まれた今代の神々は、多くがまだ未成年で、巫女を持っていなかった。
 神々本人の意志で選んだ巫女がいない場合、その存在を守るために政府はいくつもの法律を定めている。
 過去にあった事件などから、十六歳未満の神々が現世へ降り立つことは法律で禁じられているため、巫女を持っていない神々が存在しても『巫女選定の儀』は行われていなかったのだ。
 だが今年は、神々やその眷属が通う〝神城学園(かみしろがくえん)〟から政府と百花女学院へ、【『巫女選定の儀』を執り行う】と二十年ぶりに書面での通達が来た。そこで初めて、日本中に周知されることとなったというわけだ。
 神城学園高等部には、現在六人の巫女を持たない神々が在籍しているという。
(よかった、まだ始まってなかったみたい)
 他の生徒たちよりも少し遅れて講堂へ到着した鈴は、周囲の状況を見回してホッと胸を撫でおろす。
 剥き出しの黒い岩が並ぶ壇上に建てられた荘厳な鳥居の向こう側に、立つ者はいない。
 立ち並ぶいくつもの鳥居の奥には室内にも関わらず立派な滝があり、その周囲には岩肌が壁のように広がっている。ざあぁと清水が滝つぼへと落ち、今はまだ透明な水面が揺れる泉に流れ込んでいた。
 鳥居からはまるで参道のようにして、まっすぐに御影石の敷き詰められた石畳が伸びている。
 その左右の一列目には、胸を張って微笑みを浮かべる日菜子や、霊力の高い巫女見習いの生徒が並び、その時を待っていた。
「先ほど夏宮生徒会長は自主退学されたそうよ」
「日菜子様を呪わなければ、あの方も選ばれたかもしれないのに」
「きっとライバルを蹴落としたかったんだわ。三年生だもの、これを逃したらもう神々に会う機会もないでしょうから」
「そう言えば、社交の席で眷属のご令嬢たちに凄く人気が高い〝氷の貴公子〟様も、今回の儀式にご参加なさるそうよ」
「まあ! でも〝氷の貴公子〟様は冷酷無慈悲で人嫌いというお噂だけれど……」
「きっとご自分の巫女だけは特別なはずだわ。あれだけの人気ですもの、いったいどのような方なのかしら!」
「それよりも噂を聞いた? ――今日は堕ち神様もいらっしゃるんですって」
「お、堕ち神様も? 怖いわ……。その方だけには選ばれたくないわね、穢れそう」
 使用人でしかない鈴はできるだけ気配を消して、末席に並んで噂話に興じる巫女見習いの生徒たち、そして使用人たちの人垣の後ろに静かに並ぶ。
 良家の子女は神世と現世の境で催されるパーティーに出席する機会もある。日菜子も祖父や両親と一緒によく出かけていた。その時に数人の巫女見習いが見聞きした噂話が、末席のここまで広がってきているのだろう。
 でなければ、神域でもある神世に住まう神々の情報を、一般家庭出身の巫女見習いたちが知るよしもない。
 未成年の神々の情報はすべて秘匿されている。成人した神々は顔見せなどがあるが、稀にいる芸能活動をしている類の神様でなければ、学生のうちに現世へ情報が漏れることはない。
 まあ、人の口に戸は立てられないので、まことしやかに囁かれることは多々あるようだが。
「堕ち神様は、生贄の血を吸うんですって。それで神としてのお力を取り戻すそうよ」
「そのお話、準巫女をしていたお祖母様から聞いたことあるわ。生贄はそのまま亡くなったって」
(もしも日菜子様が堕ち神様に選ばれたら、きっと、私が生贄にされて……――日菜子様はお力を取り戻した神様と幸せに暮らすんだろうな)
 鈴はなんとなくそう思って、諦めに似た気持ちですっと目を閉じる。
 霊力が最も強い日菜子が、最も霊力を欲しているだろう堕ち神に選ばれないわけがない。
 堕ち神を穢れから浄化した日菜子は、きっと神々に祝福された陽向(ひなた)の道を行く。
 その時、鈴は、この世にいないだろう。
(どれだけ生きていたくても、私の命を握っているのは結局いつだって春宮家だから)
「――静粛に」
 しわがれていても厳しさに満ちた学院長の声が響く。
 巫女装束に身を包んでいる九十五歳を超えた老齢の女性が、壇上と生徒たちが並ぶ上座との間に立った。
「本日、二十年ぶりに行われる神聖な儀式を、心待ちにしていた〈巫女見習い〉たちが多くいることでしょう。一年生、二年生、三年生と学年を問わず、神様に選ばれた者だけが、本日から〈神巫女〉としての一歩を踏み出します」
 しんと静まり返った講堂が、学院長の言葉によって緊張感で満ちていく。
「神巫女になった巫女見習いは当女学院の特別科に編入し、卒業まで神の巫女としてのしきたりやいろはをしっかりと学んでいただきます。主人が神巫女に選ばれた使用人科の方も、これまで以上に忙しくなることでしょう」
 鈴はごくりと息を呑む。
 忙しいだけならまだいい。それ以上のことがあったらと思うと、さあっと血の気が引いていく。
「大正生まれのわたくしがここで先代の天空様に選ばれ、〈天空の巫女〉となった日のことを昨日のように思い出せます。わたくしがそうであったように、きっと皆さんも緊張や不安で胸がいっぱいでしょう。皆さんは巫女見習いとして日々励んでいます。神々の皆様への敬意と畏怖を忘れずにいることで、立派な〈神巫女〉になれるとわたくしは信じています」
 学院長の挨拶が終わると、生徒たちから静かな拍手が送られた。
 その拍手が終わると、ますます緊張の糸がぴんと張りつめられ、講堂に満ちる空気がガラリと変わる。
 すると、待っていましたとばかりに日菜子が一歩進み出た。
御神楽舞(みかぐらまい)、奉納!」
 日菜子の声を合図に、神楽殿には緋色の長袴(ながばかま)白衣(はくえ)千早(ちはや)と呼ばれる特別な衣装を身にまとった四人の巫女見習いたちが次々に上がっていく。
 彼女たちは今日のために行われた『巫女神楽』の実技試験において、優秀な成績を収めた巫女見習いだ。
 十二の神々が生き神様として降り立った頃より受け継がれている演目は、伝統的で特別な乙女舞である『百花の舞』。
 額には天冠(てんかん)をかぶり、各々が神楽鈴を手に優美に舞いながら、これから神々をお呼びする神聖な場を清めていく。
 龍笛(りゅうてき)和琴(わごん)鳳笙(ほうしょう)による優雅な調べを演奏するのは、雅楽部に所属する巫女見習いたち。
 その奉納は実に数分間に渡った。
 シャラシャラシャラと神楽鈴が幾重にも重なるようにして鳴り響いたのを最後に、御神楽舞の終焉が告げられる。
 いよいよ全校生徒たちの視線が、今もっとも〈神巫女〉に近い存在となった日菜子のもとへと集まった。
 日菜子はいかにも『本日の主役は私よ!』と言わんばかりの我が物顔で拝礼して見せてから、柏手を打ち鳴らす。
「〝神世に(おわ)す十二の神々、御照覧(ごしょうらん)ましませ!〟」
 本来ならば夏宮生徒会長が務めていた祝詞の一言目。
 それを唱えられた日菜子は、高揚感でいっぱいだった。
 日菜子に続くようにして、巫女見習いたちが皆タイミングを揃えて、丁寧に頭を下げて拝礼をし柏手を打つ。
 そして毎朝お祈りの際に唱えているのと同じ祝詞を奏上するため、すうっと息を吸った。
「〝ご照覧ましませ! 十二の神々を尊み敬いて、(まこと)のむね一筋に御仕え申す。四季幸いを成就なさしめ給えと、(かしこ)み恐み(もう)す〟」
 日菜子や幾人もの少女たちの声が重なり、講堂に溶ける。
 その祝詞に呼応するかのように、シャン、シャン……と、どこからともなく神楽鈴の音が響き始めた。
 鳥居の向こうにある滝には、日光が当たっているわけでもないのに煌めきを帯びている。
 滝つぼに落ちる間際に水面に集まった光が蕾の形になり、滝つぼに流れ落ちながら次々に大輪の花を咲かせていく。数多の花々が咲き誇る様子は、まさに百花繚乱という言葉が相応しい。
 これが百花女学院の校名の由来である。
 巫女見習いたちの霊力はこの清らかで穢れのない滝によって、ひとりひとり、色や形、大きさ、種類が異なる様々な花の形をとる。
 泉の水面に浮かんでいる、一際大きくて目立っている赤い牡丹の花が、日菜子の霊力の象徴だ。
(綺麗……)
 祝詞とともにこの滝に集まり花の形をとった霊力は、霊力の欠片もない無能な鈴にも見えている。きっと一般人もここに来る機会があれば、この幻想的な『百花の滝』の壮麗さに感動することだろう。
 この『百花の滝』で花々の姿をとった巫女見習いたちの霊力は、神城学園にある『百花の泉』にも、同じように届いているという。
 神々はその泉に咲いた花の霊力を時に手に取り、時に感じながら、自らの巫女を決めるのだそうだ。
 つまり、今から現世のこの場へやってくる神々は、すでに心を決めているかもしれないということで――。
 巫女見習いたちは祈るようにして、自分の霊力を注ぎ続ける。
 シャン、シャン、シャン――!
 神楽鈴が一際大きく鳴り響いた、その時。
 まばゆい光が立ち込めたかと思うと、鳥居から逆光に照らされた数人の人影が歩み出てきた。
 青年だろうか。その人影たちがいくつもの鳥居をくぐりこちら側に近づいてくるにつれて、この世のものとは思えぬ美貌を持つ彼らの姿が(あら)わになる。
 その瞬間、講堂内にいた巫女見習いや使用人の少女たち全員が息を呑んだ。
(なんて麗しい方々……)
 末席の人垣の後方にいた鈴には、神々の姿は遥か遠くに見える程度であったが、この世のものとは思えぬ美貌を持つ彼らの存在感に圧倒されてしまう。
 一瞬だけでも神々の姿を目にできたことは、鈴の人生の中でもっとも幸福な時間と言えた。
 鈴がその幸福を噛みしめている時も『巫女選定の儀』は進み、軍服のような詰襟の制服を着た青年たちは鳥居が立ち並ぶ石畳の上を進みながら、巫女見習いたちが待つ場所へと降りてくる。
 その中でも、巫女見習いの少女たちの目をひと(きわ)惹きつけたのは、先頭を歩いていた美青年だ。
 それはまさに、恐ろしいほどに美しい男だった。
 暗闇のような漆黒の髪に、凍てつく氷のように冴え冴えと輝く青い瞳。
 長い睫毛に縁取られた切れ長の二重瞼の目元は鋭く、すっと通った鼻筋と形の良い薄い唇と合わせて、冷酷な印象を感じざるをえない。
 他の神々とは違い彼だけが上質な黒革の手袋をつけているのも、周囲の存在を拒絶しているようで近寄りがたい雰囲気を(かも)し出している。
 身長は百八十センチを超えているだろうか。細身だけれど、腰の辺りはほどよく引き締まっており、制服の上からでも筋肉の均整が取れていることがわかる。
 どこか威圧的ながらも、老若男女を惑わせる色気を放つ容姿は、誰よりも神々しい。
 彼こそが、冷酷無慈悲と名高い〝氷の貴公子〟なのだろう。
 まるで最高傑作と呼ばれる彫像のごとく完璧な美しさを携え、堂々と歩みを進めている彼に、全ての巫女見習いたちは心を奪われていた。
『この方の巫女になりたい』
『たったひとりの巫女としてこの方をお支えし、君こそ特別な存在だと、大切にされたい』
『それだけじゃ足りないわ。私はこの方に最愛の番として娶られて、世界中の誰よりも幸せになりたい!』
 日菜子を筆頭とした巫女見習いたちの心は、そんな想いで溢れかえっていた。
 そして、誰もが見惚れるその男が、日菜子の前までやって来た時。
「あ、あなた様の巫女! 春宮日菜子でございます!」
 勝ち誇った様子で微笑みを浮かべた日菜子が、美しい神へと手を差し出した。
 ――が、彼はその名乗りを無表情で無視して、何事もなかったかのように通り過ぎる。
「……なっ、なによ……っ!」
 悔しさと羞恥心で顔を真っ赤にした日菜子は、そう小さく呟いてから、奥歯を噛み締める。今まで、人生で一度だって誰からも傷つけられた経験のない日菜子のプライドに、ひびが入ったみたいな気持ちだった。
 引っ込める手が、怒りとも悲しみともつかぬ感情で小刻みに震える。
 日菜子を無視したこの(おとこ)を、どうしても諦めきれない。――そう、どうしても。
 去りゆく背中に視線を向けたまま、日菜子はギリギリと奥歯を噛みしめる。
 その間も、彼は他の優秀な巫女見習いの前を通り過ぎ、普通の成績を収める程度の巫女見習いたちが並ぶ場所も過ぎ去って行く。
 誰もが息をひそめる中、美しすぎる彼が石畳を歩く革靴の音だけが響いていた。
 鈴はこの美しい神様に不敬を働きたくない思いでさっと頭を下げ、その姿を目に入れないようにする。
(まさかこんなに末席にまで神様が近づいてくるなんて……っ。私の存在を目にしただけで、神様の神気を穢す毒になったら大変)
 巫女見習いの使用人という、本来ならば神の目に触れるべきではない立場もそうだが、鈴は今朝は呪詛を受けたばかり。鈴がそう考えるのも当然だ。
 教師陣から儀式への立ち入りを禁止されたわけではないので、大きな問題はないのかもしれない。
 だが時に、認識すること(・・・・・・)は呪詛や怪異を目覚めさせる力を持つ。
(念には念を入れておかなくちゃ)
 ()の美しい神様の視界に映らないようにする。それは、霊力もなく巫女見習いでもない鈴が、神様を敬う気持ちだけでできる唯一の行動であった。
 けれどもここで、誰もが予想していなかった出来事が起こる。
 彼はうつむいていた鈴の姿を目にした途端、冷たい色を宿して現世を写していた鋭い双眸をかすかに見開き、そして――そして今までずっと無表情だった美貌に、ふっと甘い微笑みを浮かべたのだ。
 それは周囲の誰が見てもわかるほど、甘く優しい微笑みだった。
 一部始終を見ていた巫女見習いたちはそれが神々への不敬に当たるなど忘れて、「そんな!?」「嘘よっ!」と口々に叫び出す。
 人垣の中でうつむき続ける鈴の前に彼が立つ。
 すると周囲にいた使用人科の生徒たちは、混乱した様子ながらも、彼のために道を開けるようにして左右に割れた。
(どうしたんだろう?)
 周囲のざわめきでようやく顔を少し上げた鈴は、――自分の目の前に立つ美しい神の姿に、言葉もなく息をのんだ。
(……えっ!?)
 まるで、長年恋い焦がれていた少女をようやく見つけたと言わんばかりにとろけた色を帯びた青い瞳と、視線が交じりあう。
 彼は鈴の手を優しく取ると、神々しか歩くことの許されていない神聖な石畳の上に鈴を強引に引き寄せた。
「ひゃっ」
 あまりの突然な出来事に、思わず唇から驚きの声が零れてしまう。
 たたらを踏みそうになった鈴を彼は力強い腕で支えると、その勢いのままに胸元で抱きとめる。
 今は軍服のような制服に隠されている彼のほどよく鍛え上げられた肉体は、鈴が勢いをころせずにぶつかろうともびくともしない。それどころか、鈴の腰のあたりに回されていた彼の腕は、さらにぎゅっと鈴を抱きしめた。
「ああ、やっと見つけた。〈青龍の巫女〉……いや、俺の唯一の〝番〟」
「…………っ」
「今日から君は俺のものだ。これから先、俺から片時も離れることは許さない。いいな?」
 甘く見つめられる中、低く耳触りの良い美声が鈴だけに語りかける。
 だが鈴は大混乱の思考の渦の中にいた。
(あっ、え……っ? ど、どういうこと……っ?)
 目の前の美しい神様は、どうやら自分のことを〈青龍の巫女〉であり、彼の〝番〟であると認識しているらしい。
 極度の混乱と緊張に晒されて、鈴の心臓はこれ以上にないくらいドキドキしていた。
 神々を招く場で、神々の許可なく発言をしてはいけない。それはこの百花女学院に通う生徒の中では周知の事実。『否』を唱えたくてもできずにいた鈴に、彼は「……まさか、喋れないのか?」と心配そうに眉根を寄せながらも、鈴の答えを欲しがった。
 ドキドキと混乱のさなかにいた鈴は、ふるふると首を横に振る。喋れないわけじゃない。
「そ、その……」
「ん?」
 甘い声音で問われて、頬が熱を持ってくる。
 鈴の胸のドキドキは依然として激しいが、意を決して、美しい神様――十二神将は六人の吉将のひとり、〈青龍〉であろう彼に向かって真実を告げることにした。
「なにかの間違い、です。私は、巫女見習いでは……っ」
(だから、その、『いいな?』と有無を言わさぬ問いかけを投げかけられても、困ります……!)
 なにせ鈴は日菜子のもので、霊力の欠片もない。『無能な名無し』と呼ばれるだけの、ただの使用人なのだ。
 鈴の否定の言葉を聞いて、すかさず、「そうよ! なにかの間違いだわ……っ!!」と一際大きな抗議の声がどこからか上がった。
 日菜子だ。
 巫女見習いとして一等特別な場所で彼の背中を見つめたまま立ち竦んでいた日菜子は、いつもの高飛車な勢いを取り戻したらしい。
 鈴が神域に招かれたことで、その道が神々にしか歩むことが許されていないのをすっかり忘れてしまっているのか。
 日菜子はぴんと背筋を伸ばして、アイボリー色の制服のプリーツスカートを揺らしながら、肩で空気を切るようにして早歩きで美しい神様の数メートル近くまでやって来る。
「尊き四季幸いをもたらされし十二の神々がひとり、青龍様。先ほどの非礼をお詫びいたしますわ」
 そうして堂々とした面持ちでカーテシーを披露し、彼の前で非礼を詫びて見せた。
 神に呼ばれたわけでもない巫女見習いによるカーテシーは、社交場でもないこの場において不釣り合いな挨拶だ。
 だが、春宮家という上流階級の令嬢の完璧な所作に、女子生徒たちは神々への不敬を批難するのも忘れて目を奪われるしかなかった。
「青龍様。どうかこの巫女見習いの、差し出がましいお申し出をお許しくださいませ」
「……なんだ」
 日菜子の言葉に、彼は鈴へ向けた声音とは到底似つかないほどの冷たい声で応じる。
 しかし日菜子は動じず、凛とした面持ちで淑女然として、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「彼女の言う通り、彼女は巫女見習いでありませんわ。春宮家を代表する巫女見習いである私の、使用人でございます」
「……そうか」
「そ、それに幼少期にすでに大罪を犯したため、当主に真名を剥奪された『名無し』ですわ!」
「…………それで?」
「そっ、それで? それでもなにも!」
 彼の短くそっけない返答に、日菜子は余裕のある笑みから一転、切羽詰まった形相をする。そして。
「霊力の欠片もない無能な使用人を、どうしてお選びになるのでしょう!? 『百花の泉』から春宮家の霊力を感じ取られたのでしたら、それは……それは私のものですわッ!!!!」
 肩を怒らせながら、日菜子はとうとう言い切った。
 その瞬間、鈴は頭から冷水を浴びせられたかのように、背筋がさっと冷たくなった気がした。
(日菜子様は間違ったことなんて言ってない。全部、日菜子様の言う通り)
 そう、ずっと理解していたはずなのに。
(私は、青龍様に側にいることを望まれるような価値がある人間じゃない。――間違えられたんだ、日菜子様と)
 何者でもない自分に、間違えて手をのばしてしまった美しい神様のぬくもりを感じる腕の中で、鈴はとっさにうつむく。
 心の奥底で小さく膝を抱えていたはずの自分が、緊張した面持ちで、『もしかしたら、本当に……?』なんて顔を上げているのを感じて、あまりのおこがましさに鈴は自身を恥じた。
 どんな状況下で間違えて判じられたのかはわからない。
 けれどこの状況は誰が見てもおかしい。
 青龍様が日菜子と鈴の存在を取り違えているのだと言われた方が、よほど納得できた。
「……っふ。くくく」
 彼はなにがおかしいのか、小さく吹き出すと笑いをこらえるようにして、軽く握った指先で口元を隠す。
 鈴は――ああ、やっぱり間違えられていたみたい、と思った。きっとそう思ったのは鈴だけでなかっただろう。
「わ、わかっていただけましたか? よかったですわ、青龍様の誤解が解けて! 無能な名無しは取るに足らない使用人。私こそが、あなた様のたったひとりの巫女であり番にふさわしいと、やっと誤解に気がついていただけたのですね……!!」
 日菜子はやっと美しい自分だけの神様に話が通じたことに安堵する。
「そこをどいてちょうだい、名無し。無能なあなたとは違って、私こそが、清らかな霊力を豊富に持つ巫女見習いだものね!」
 高飛車な笑みを浮かべた日菜子が、鈴に命令する。
 鈴が彼の側から退きさえすれば、今度は自分にその甘い微笑みと、こちらがとろけてしまいそうな焦がれた視線が視線が向けられるものだと、日菜子は信じて疑わなかった。
 しかし。
「誤解? 笑わせないでくれ」
 彼は底冷えがするような声で応じ、口角をあげる。
 初めて日菜子をその青い瞳に映した彼の美貌には、甘い微笑みなど欠片も浮かんでいなかった。
 途端に氷点下に下がった周囲の空気に触れて、思わず顔を上げた鈴は、足元から本当に氷が張り始めていることに気づいて驚く。
(これが青龍様の、異能)
 空気中の水分が凍り、きらきらと輝いている。感嘆のため息は、すぐに白くなった。
 すでに足元どころか講堂を覆い尽くしてしまった氷は、見るからに危険そうな尖った氷柱をいたるところに創り出しており、天井からは大小様々なつららが垂れ下がっている。
 一瞬で氷の青い洞窟と化した世界に、鈴は、なんて綺麗な世界なんだろうと魅入らずにはいられなかった。
 こんな状況下でもいまだに鈴を抱きしめたままの彼を、鈴は恐る恐る見上げる。
(まるで凍てついた冬の湖みたい)
 生気の宿っていない、美しい人形のような双眸。
 けれど鈴は、この抱き寄せられた距離からしか見えないだろう凍てついた冬の湖の奥深くを見て――はっと、目を見張る。
(もしかして、青龍様は怒ってるの?)
 だとしたら、なんのために。
 まさか、日菜子に鈴を侮辱されたからだと言うのだろうか?
(どうして見ず知らずの私のために、ここまで怒れるのだろう?)
 そう疑問を感じずにはいられなかった。
 そんな中、まだ神の怒りに触れたことに気がつかない日菜子は、急激な寒さに息を白くしながら両手を胸に抱きつつ、「あ、その、せ、青龍様?」とこの状況を作り出した神の名を呼ぶ。
 彼は無表情からさらに生気を削ぎ落としたような冷たい顔で、こてりと首を傾げた。
「あれがお前の霊力だと本気で言っているのか?」
 氷の青い世界を支配するかのような、底冷えのする声。
「その言葉に、嘘偽りはないな?」
「そ、それは……ッ!」
 さらには急激に禍々しさを帯び始めた神気の圧力に、ようやく彼の怒りを感じ取った日菜子は、恐怖で顔を強張らせる。
 一方、神の異能によって創造された世界に飲み込まれ、強すぎる禍々しい神気に当てられた多くの生徒や教師たちは、ガタガタと震え上がっていた。
【十二神将の中でも凶将は苛烈で激しい気性の神様が多く、吉将は穏やかで繊細な気質の神様が多い。】
 なんて、教科書に綴られた解説や授業で習った知識は当てにならない。
 神は、神だ。
 人の身で彼の神を直視するなど、正気の沙汰ではない。
 足元から崩れそうな畏怖を感じずにはいられないほど恐ろしいと、多くの生徒や教師が感じていた。
 しかもこの状況は、危険だ。
 禍々しい神気を感じられるだけの者もとっさにそう考えたが、目に視えている者たちはその紫から黒へと転じていく色合いに強い危機感を抱いていた。
 こんなに禍々しい色の神気が、はたして神気と言えるのだろうか? ――こんなのは、きっと瘴気だ。
「お、堕ち神よっ! か、彼が、彼が堕ち神様だわ……ッ!!」
 一年生の席から上がった悲鳴じみた声が、静かな氷の世界にこだまする。
(青龍様が、堕ち神様なの?)
 霊力のない鈴には、神気も瘴気もわからない。
 ただ、異様な寒さの中、彼がなにか深く傷ついているのだと感じ取った鈴は、彼の腕の中で自分の役割を悟った。
(そっか。私は堕ち神様に生贄として選ばれたんだ。……だけど唯一、私を選んでくれた彼に人生を捧げるのなら、それも運命かもしれない)
 春宮家の使用人として一生を終えるより、この強い悲しみを抱えている神様を癒す生贄になれるのなら、本望だ。
「せ、青龍様……。霊力のない『無能な名無し』の私でも、青龍様のお役に立てるでしょうか……?」
「今までのことはすべて忘れろ。俺にとって、君が君でありさえすればいい」
 鈴の問いかけに、生気のない氷の彫像のようだった美しい神様は、先ほどまで纏っていた空気を和らげて微笑みを浮かべた。
 そして、彼は鈴を強引に抱き上げた。いわゆるお姫様だっこだ。
 彼は甘い蜂蜜のようにとろけた青い瞳で、鈴のすべてを絡め取るように見つめると、
「俺の番様に、未来永劫の愛を――」
 そうするのが当然のように、他人へ見せつけるかのごとく鈴の唇を奪ってみせた。
「…………っ!」
 鈴は神様からの容赦のない口付けに、顔を真っ赤に染め上げて、目を白黒させてながらはくはくと言葉にならない声で抗議する。
 彼はそんな鈴を愛おしげに見つめると、青い氷の世界でうっとりと笑う。
「嫌だと言うのなら、今すぐ君を攫って閉じ込める。神の独占欲をなめないでくれ」
 美しい神様は、鈴を本当に現世から連れ去るつもりなのだろう。
 彼は中断された儀式にも構わず、鈴を抱き上げたまま来た道を帰っていく。
 その前方には、『巫女選定の儀』のために神世からやって来た他の神々が、こちらの状況を見守っていた。
 鳥居付近で歩みを止めていた他の神々たちは、どうやら神域となる道をそれ以上進んでまで自らの巫女を探す気はないらしい。
 神々たちが自らの巫女の霊力を感じなかったのか、興味すら湧かなかったのか。それはわからない。
 ただ、見目麗しい神々たちはそれぞれに鈴への興味や反応を小さく示し、無言のまま(きびす)を返して神世へと戻っていく。
 神々たちの一番後ろで歩みを進めている鈴を抱く彼の、神気と瘴気が入り乱れる様子に、わずかに緊張を走らせながら。
 鈴は彼のことが自分のことのように心配になった。
 火照った頬の熱がはまったく引かないままだったが、彼の腕の中から彼を見上げて、気遣うようにして様子をうかがう。
 すると、甘さを含んだうっとりとした青い双眸が再び向けられる。
(ううう、恥ずかしい)
 鈴がハッと視線を逸らす。と、神域でいつまでも立ち尽くしていた日菜子とちょうどすれ違うところだった。
 鈴は意図せずして視線が合ってしまった日菜子の形相を見て、身を固くする。
「……名無し。あなたのことは、絶対に許さないんだから」
 鈴にしか聞こえないような声で囁かれる。
 日菜子の目には烈火のごとき怒りと嫉妬心が浮かんでいた。


   ◇◇◇


 この日。『巫女選定の儀』で〈神巫女〉に選ばれたのはただひとり。
 四季姓を戴く春宮家の長女ではあるが、霊力もなく巫女見習いでもない――ただの使用人の生徒にすぎない〝無能な名無し〟だった。
 しかも、〝無能な名無し〟があの美しく恐ろしい青龍様の〝番様〟なのだという。
 このことに驚き激昂したのは日菜子だけでなく、巫女見習いとしてこの時を待っていた多くの生徒たちだ。
 どれほど期待に胸を膨らませ、どれほどこの奇跡に近い選定の日を待ちわびたことだろう!
 彼女たちは誰も、『巫女選定の儀』で起こった出来事を認めようとはしなかった。
 そんな彼女たちの話題は、〝無能な名無し〟に関する噂で当分のあいだ持ちきりだった。
 儀式で起こった出来事は、決して外部には漏らしてはいけない秘密。
 だからこそ……彼女たちは百花女学院内で、全国に散らばった〈準巫女〉や〈巫女見習い〉たちが集う研修で、神世と現世の境で催されるパーティーで、ひそひそと囁きあう。
「十二神将がひとり〈青龍〉は、『巫女選定の儀』にてあろうことか霊力のない使用人を番様として選んだらしいわ」
「でも青龍様は堕ち神になる寸前の状態で、危険な状況だったらしいじゃない?」
「次の本命巫女を選ぶために生贄を娶ったというのが、百花女学院の巫女見習いたちの見解だそうよ」
「無能な使用人の少女は、不幸にも堕ち神様のために捧げられというわけね」
 百花女学院の生徒たちから始まった噂話は、瞬く間に神世に関係する人の子のあいだで囁かれ、その場を賑わせる。
 ――〝龍の贄嫁〟。
 そんな言葉が、あたかも真実のようにして広まり始めていた。