◇
海から寄り道することなく帰宅すると、すでにハル兄の靴があった。
一気に心臓の音が早くなる。
ここ最近の出来事から、身体が逃げたい衝動に駆られているけど、自分に“逃げるな”と言い聞かせながら、靴を脱ぐ。
リビングが近付いてくると、母さんとハル兄の話し声が聞こえてくる。
「……ただいま」
心臓が動きすぎて、上手く呼吸ができている気がしない。
母さんはいつも通りに「おかえり」と返し、ハル兄は静かに僕を見る。
「おかえり、映人」
その絶妙な間が、怖かった。
でも、逃げないって決めたから。ちゃんと向き合って、自由に写真を撮りたいから。
『私が好きになった写真を、本人にそう言われると悲しいです』
古賀の言葉と、太陽のような笑顔が、僕の心を支えてくれる。
彼女の笑顔を思い出すと、一気に心が落ち着いた。
「ハル兄も、おかえり」
おかげで、僕は自然に、そう返すことができた。
ハル兄は数回、ゆっくりと瞬きをする。
「映人、なにかいいことでもあった?」
「まあ、少しね。そのことで話があるんだけど、ハル兄、時間ある?」
「まあ、あるけど……」
ハル兄はまだ僕の変化に混乱しているようで、僕と母さん私交互に見ている。
母さんはただ微笑むだけで、なにも言わない。
僕たちのわだかまりには、関わるつもりはないみたいだ。
「じゃあ、僕かハル兄の部屋で話したいんだけど」
「遥哉の部屋にしたら?」
そんなことを思っていたのに、母さんがそんな提案をしてきた。
僕もハル兄もその提案に首を傾ける。
「なんで俺の部屋?」
「だって、映人の部屋は座るところがないもの」
図星で、返す言葉もない。あんな場所で、ゆっくり話すことなんてできるわけがない。
しかしながら、どうして僕の部屋が散らかっているのを知っているのかは、今は聞かないでおこう。
「ハル兄、いい?」
「……わかった」
ハル兄はまだ理解が追いついていない状態で、許可をしてくれた。
「手を洗ったら行くから、部屋で待ってて」
僕は洗面所に言って手を洗うと、ハル兄の部屋に向かった。
ノックをすると、ハル兄の返事が返ってくる。
なんとなく、恐る恐るドアを開ける。
同じ家でも、ハル兄の部屋なんてほとんど踏み入れることのなかった場所だから、変に緊張する。
大学進学をきっかけに始めた一人暮らしにほとんどの荷物を持っていったようで、ハル兄の部屋には物がない。
「そんな、物珍しいものを見るような目をするなよ」
キャスター付きの椅子に座るハル兄は、戸惑う僕を見て、穏やかに笑った。
ハル兄は僕が変わっていたことが信じられなかったみたいだけど、僕だって、ハル兄の雰囲気が変わっていたことに驚いた。
数ヶ月前のハル兄は、こんなに穏やかな表情を見せることは少なかったし、結べるほどまで髪を伸ばしていなかったし、今まで以上に、服がかっこよくなっている。
「ハル兄も、雰囲気が変わったよね。なんか、遊んでそうというか……浮気とかしてない?」
僕はそんなことを言いながら、空の本棚に背を預けるようにして、床に座る。
不思議と、僕は流れるように本題に触れた。
「はあ?」
僕の言葉に、ハル兄は当然、不機嫌そうに僕を睨む。
「あのな、俺は一途なんだよ。浮気とかありえないから」
ハル兄こそ正直に、はっきりと言った。
でも、すぐにバツが悪そうにした。
堂々と本心を言えるのに、こんなふうに言葉に困ってしまうのは、僕のせいだ。
それがわかっているから、僕もハル兄から視線を逸らしてしまう。
僕は、ハル兄のこの表情を見たくなかった。
だけど、このままでは堂々巡りで、結局また逃げることになる。
「……知ってるよ。ハル兄が一途だってことは、僕が誰よりも知っているつもりだ。だからこそ、僕が花奈さんを好きだなんて、ありえないんだ」
真っ直ぐにハル兄を見るけど、ハル兄は、僕の言葉が信じられていないようだった。
それもそうだろう。
『夏川映人は夏川遥哉の彼女、楪花奈のことを奪おうとしている』
こんな噂が流れても、僕は否定も肯定もしなかったのだから。
この場合のしない否定は、肯定と同意だった。
一気にその噂は広まり、僕の周りから人も笑顔も減っていった。
僕のそばに残ってくれたのは、佐伯だけ。
僕が作り上げてきた人間関係が、こんなにも脆かったのかとショックを受けたのは、今でも覚えている。
「映人、無理してるとかなら、はっきりと言ってほしい」
当時の苦しさを思い出していると、ハル兄がそう言った。
あれだけ言葉に迷っていたのが嘘みたいに、ストレートに言ってきた。
「してないよ」
今度こそハル兄に信じてもらえるように、少しだけ強気で言う。
ハル兄は僕がそんなふうに言うとは思っていなかったようで、数回、瞬きをする。
その反応を見て、つい笑いながら、去年の文化祭が終わってからのことを思い返す。
今でも、あの噂の出処はわからない。
ただ、聞けば、きっかけは花奈さんの写真ということだった。
『あんな花奈さんの表情を撮ったのは、好きだからに違いない』
いつ思い返しても、くだらない。
でも、そういった話題を好む人たちからしてみれば、そんなことはなくて、僕はあっという間に好奇心の的となってしまった。
『違うよ』
初めは否定していたけど、信じてくれた人は少なくて、何度も噂の真偽を問われた。
その場の空気は、僕が頷くことしか認めてくれそうになかった。
あの異様な空気と、異物を見るような目は、二度と味わいたくない。
「……あのとき、僕の声は誰にも届かなかった。誰も聞いてくれなかった。だから僕は、ハル兄にも届かないんだろうって、勝手に諦めたんだ」
だけど、今なら、その選択が間違っていたのだとわかる。
いや、本当はもっと早くから、わかっていた。
すぐにでも訂正すべきだって。
でも、一度逃げてしまったことで、この話題に触れるタイミングを失っただけでなく、逃げ癖のようなものが付いてしまったんだ。
こればかりは、後悔してもしきれない。
「どんなことがあっても、ハル兄にはわかってもらおうとするべきだった」
僕はハル兄のほうを見て、頭を下げる。
「……ごめん」
僕の捻り出したような声の後に、沈黙が訪れる。
僕には重たすぎる沈黙の中で、ハル兄はため息をついた。
僕は思わず、身体をビクつかせる。
「心配して損した」
険悪なムードになるだろうと身を構えていたから、ハル兄の安心したような声に、僕は反応に遅れる。
「心配って、なんで……」
「映人は昔から、周りの様子を見て、状況次第では自分の言葉を飲み込むクセがあるだろ」
そんなことはないと、言い切れなかった。
僕が黙っていることで穏便に済むのなら、僕は進んで口を噤むことを、僕が一番わかっている。
今回だってそれが原因だから、余計に否定できない。
「俺はその沈黙を、花奈が好きだとバレて困っているんだって思ってた」
勘違いされているだろうとは思っていたけど、ハル兄から直接聞くと、余計に早く言えばよかったと思う。
もう一度謝りたくなるけど、それは互いに困る空気になると思って、言わなかった。
ハル兄は改めてため息をつくと、天井を見る。
「映人と花奈を取り合う覚悟まで決めてた俺、バカだな」
そんな覚悟をしていたなんて、知らなかった。
でも、ハル兄が僕を避けるようになった理由が、少しわかった気がした。
ハル兄は僕に怒っていたんじゃなくて、これ以上気まずくなりたくなくて、僕と距離を置いていたんだ。
「ハル兄、ごめん……ありがとう」
「いや、俺のほうこそ勝手に決めつけて、避けてごめん」
言葉数はどちらも少なかったけど、なにを言おうとしているのか、今度こそ間違えずに受け取った。
しかし、互いに謝って、気恥ずかしくなる。
「でも、なんで急にこの話をしようと思ったんだよ。俺の顔を見ると、すぐに逃げてたろ」
耐えられなかったハル兄は、無理やりその空気を変えてきた。
内容が意地悪だけど、そういえば、さっきそれの話があると言った気がする。
僕がハル兄とちゃんと話そうと思った理由は、一つだ。
話そうとしたとき、ふと、古賀の笑顔を思い出す。
「写真を撮りたいって、思ったから」
僕が言うと、ハル兄はまた信じられないものを見るような目をした。
そして、穏やかに微笑んだ。
「映人、好きな人ができただろ」
予想外の発言と表情に、僕は呆気に取られる。
ハル兄がこんなことを言うなんて、思っていなかった。
「好きな人って、なんで……」
「表情が柔らかくなってたから。今、絶対その人のこと思い出したろ?」
この、ハル兄の意地の悪い表情を、クールなイケメンと言っていた女子たちに見せてやりたい。
こういう表情をすると知れば、ハル兄の人気も下がって、花奈さんも安心できるだろうに。
まあ、ハル兄は変なところで抜かりないから、この一面はきっと、誰にも見せなさそうだけど。
なんて、そんな現実逃避をしながら、なんとか話題をそらせないだろうかと思ってしまう。
ただ、この流れで本心を隠すのは、気が引けた。
ハル兄の視線から逃げながら、言葉を探す。
「好きかどうかはまだよくわからないけど……少なくとも特別、だとは思ってる」
はっきりと言葉にすると、一気に自覚してくる。
心拍数が上がり、顔が熱い。
自分でもわかるほどの反応をしてしまったから、またからかわれてしまうと思ったのに、ハル兄はなにも言わない。
それどころか、なぜか、ハル兄のほうが恥ずかしそうにしている。
「やっぱり、兄弟で恋愛話はないな」
ハル兄が噂の真偽を曖昧にでも聞いてこなかったのは、その考え方があるからなのかもしれない。
僕としては、この話題が終わってくれるならなんでもよくて、適当に頷く。
「話を戻すけど、写真を撮りたいなら、好きに撮ればよかっただろ」
「それはそうかもしれないけど……」
次々に本心をさらけ出していかなければならない時間に、そろそろ耐えられなくなる。
でも、まだハル兄は逃がしてくれなさそうだ。
純粋にそれについて知りたいという目をして、僕を見ている。
「僕は、僕の写真で誰かが喜んでくれるのが、一番嬉しかったんだ。だからこそ、あのとき僕の写真で、誰かに嫌な思いをさせるような噂が流れてしまったことが嫌だったし、それがハル兄だったっていうのも、耐えられなかった」
なにより、ハル兄はいつも、花奈さんの写真を見て微笑んでいたのに、あのときだけは、苦しそうにしていた。
僕にとって望まない光景が、そこにはあった。
「それからはカメラを見るとハル兄のことを思い出して、写真を撮るのが……カメラを触るのが、怖くなった」
ハル兄がまた、申しわけなさそうにしているのを見ると、僕だってそう感じてしまう。
一応話が終わって、また静寂の時間に戻る。
「……なるほどな」
ハル兄はそう言って、身体を伸ばした。
「それで、写真を撮りたいと思ったから、か」
ハル兄は納得しているみたいだけど、僕の言いたいことがきちんと伝わったのか、若干の不安があった。
ここまでの流れからして、『僕が古賀が好きで、古賀を写真に収めたくて、でも今のままだとカメラに触れられないから、トラウマを克服した』と捉えられていそうだったか。
ハル兄の表情的にも、そう考えている可能性は高い。
だけど、また恋愛話に繋がってしまうため、確認をする勇気がなかった。
「花奈が喜びそうだな。映人の写真、好きだから」
ハル兄は嫉妬の混ざった視線を向けてくる。
花奈さんが好きなのは、僕が撮った“ハル兄”の写真なのだけど、それは言わない約束だ。
だから僕は、笑って流した。
海から寄り道することなく帰宅すると、すでにハル兄の靴があった。
一気に心臓の音が早くなる。
ここ最近の出来事から、身体が逃げたい衝動に駆られているけど、自分に“逃げるな”と言い聞かせながら、靴を脱ぐ。
リビングが近付いてくると、母さんとハル兄の話し声が聞こえてくる。
「……ただいま」
心臓が動きすぎて、上手く呼吸ができている気がしない。
母さんはいつも通りに「おかえり」と返し、ハル兄は静かに僕を見る。
「おかえり、映人」
その絶妙な間が、怖かった。
でも、逃げないって決めたから。ちゃんと向き合って、自由に写真を撮りたいから。
『私が好きになった写真を、本人にそう言われると悲しいです』
古賀の言葉と、太陽のような笑顔が、僕の心を支えてくれる。
彼女の笑顔を思い出すと、一気に心が落ち着いた。
「ハル兄も、おかえり」
おかげで、僕は自然に、そう返すことができた。
ハル兄は数回、ゆっくりと瞬きをする。
「映人、なにかいいことでもあった?」
「まあ、少しね。そのことで話があるんだけど、ハル兄、時間ある?」
「まあ、あるけど……」
ハル兄はまだ僕の変化に混乱しているようで、僕と母さん私交互に見ている。
母さんはただ微笑むだけで、なにも言わない。
僕たちのわだかまりには、関わるつもりはないみたいだ。
「じゃあ、僕かハル兄の部屋で話したいんだけど」
「遥哉の部屋にしたら?」
そんなことを思っていたのに、母さんがそんな提案をしてきた。
僕もハル兄もその提案に首を傾ける。
「なんで俺の部屋?」
「だって、映人の部屋は座るところがないもの」
図星で、返す言葉もない。あんな場所で、ゆっくり話すことなんてできるわけがない。
しかしながら、どうして僕の部屋が散らかっているのを知っているのかは、今は聞かないでおこう。
「ハル兄、いい?」
「……わかった」
ハル兄はまだ理解が追いついていない状態で、許可をしてくれた。
「手を洗ったら行くから、部屋で待ってて」
僕は洗面所に言って手を洗うと、ハル兄の部屋に向かった。
ノックをすると、ハル兄の返事が返ってくる。
なんとなく、恐る恐るドアを開ける。
同じ家でも、ハル兄の部屋なんてほとんど踏み入れることのなかった場所だから、変に緊張する。
大学進学をきっかけに始めた一人暮らしにほとんどの荷物を持っていったようで、ハル兄の部屋には物がない。
「そんな、物珍しいものを見るような目をするなよ」
キャスター付きの椅子に座るハル兄は、戸惑う僕を見て、穏やかに笑った。
ハル兄は僕が変わっていたことが信じられなかったみたいだけど、僕だって、ハル兄の雰囲気が変わっていたことに驚いた。
数ヶ月前のハル兄は、こんなに穏やかな表情を見せることは少なかったし、結べるほどまで髪を伸ばしていなかったし、今まで以上に、服がかっこよくなっている。
「ハル兄も、雰囲気が変わったよね。なんか、遊んでそうというか……浮気とかしてない?」
僕はそんなことを言いながら、空の本棚に背を預けるようにして、床に座る。
不思議と、僕は流れるように本題に触れた。
「はあ?」
僕の言葉に、ハル兄は当然、不機嫌そうに僕を睨む。
「あのな、俺は一途なんだよ。浮気とかありえないから」
ハル兄こそ正直に、はっきりと言った。
でも、すぐにバツが悪そうにした。
堂々と本心を言えるのに、こんなふうに言葉に困ってしまうのは、僕のせいだ。
それがわかっているから、僕もハル兄から視線を逸らしてしまう。
僕は、ハル兄のこの表情を見たくなかった。
だけど、このままでは堂々巡りで、結局また逃げることになる。
「……知ってるよ。ハル兄が一途だってことは、僕が誰よりも知っているつもりだ。だからこそ、僕が花奈さんを好きだなんて、ありえないんだ」
真っ直ぐにハル兄を見るけど、ハル兄は、僕の言葉が信じられていないようだった。
それもそうだろう。
『夏川映人は夏川遥哉の彼女、楪花奈のことを奪おうとしている』
こんな噂が流れても、僕は否定も肯定もしなかったのだから。
この場合のしない否定は、肯定と同意だった。
一気にその噂は広まり、僕の周りから人も笑顔も減っていった。
僕のそばに残ってくれたのは、佐伯だけ。
僕が作り上げてきた人間関係が、こんなにも脆かったのかとショックを受けたのは、今でも覚えている。
「映人、無理してるとかなら、はっきりと言ってほしい」
当時の苦しさを思い出していると、ハル兄がそう言った。
あれだけ言葉に迷っていたのが嘘みたいに、ストレートに言ってきた。
「してないよ」
今度こそハル兄に信じてもらえるように、少しだけ強気で言う。
ハル兄は僕がそんなふうに言うとは思っていなかったようで、数回、瞬きをする。
その反応を見て、つい笑いながら、去年の文化祭が終わってからのことを思い返す。
今でも、あの噂の出処はわからない。
ただ、聞けば、きっかけは花奈さんの写真ということだった。
『あんな花奈さんの表情を撮ったのは、好きだからに違いない』
いつ思い返しても、くだらない。
でも、そういった話題を好む人たちからしてみれば、そんなことはなくて、僕はあっという間に好奇心の的となってしまった。
『違うよ』
初めは否定していたけど、信じてくれた人は少なくて、何度も噂の真偽を問われた。
その場の空気は、僕が頷くことしか認めてくれそうになかった。
あの異様な空気と、異物を見るような目は、二度と味わいたくない。
「……あのとき、僕の声は誰にも届かなかった。誰も聞いてくれなかった。だから僕は、ハル兄にも届かないんだろうって、勝手に諦めたんだ」
だけど、今なら、その選択が間違っていたのだとわかる。
いや、本当はもっと早くから、わかっていた。
すぐにでも訂正すべきだって。
でも、一度逃げてしまったことで、この話題に触れるタイミングを失っただけでなく、逃げ癖のようなものが付いてしまったんだ。
こればかりは、後悔してもしきれない。
「どんなことがあっても、ハル兄にはわかってもらおうとするべきだった」
僕はハル兄のほうを見て、頭を下げる。
「……ごめん」
僕の捻り出したような声の後に、沈黙が訪れる。
僕には重たすぎる沈黙の中で、ハル兄はため息をついた。
僕は思わず、身体をビクつかせる。
「心配して損した」
険悪なムードになるだろうと身を構えていたから、ハル兄の安心したような声に、僕は反応に遅れる。
「心配って、なんで……」
「映人は昔から、周りの様子を見て、状況次第では自分の言葉を飲み込むクセがあるだろ」
そんなことはないと、言い切れなかった。
僕が黙っていることで穏便に済むのなら、僕は進んで口を噤むことを、僕が一番わかっている。
今回だってそれが原因だから、余計に否定できない。
「俺はその沈黙を、花奈が好きだとバレて困っているんだって思ってた」
勘違いされているだろうとは思っていたけど、ハル兄から直接聞くと、余計に早く言えばよかったと思う。
もう一度謝りたくなるけど、それは互いに困る空気になると思って、言わなかった。
ハル兄は改めてため息をつくと、天井を見る。
「映人と花奈を取り合う覚悟まで決めてた俺、バカだな」
そんな覚悟をしていたなんて、知らなかった。
でも、ハル兄が僕を避けるようになった理由が、少しわかった気がした。
ハル兄は僕に怒っていたんじゃなくて、これ以上気まずくなりたくなくて、僕と距離を置いていたんだ。
「ハル兄、ごめん……ありがとう」
「いや、俺のほうこそ勝手に決めつけて、避けてごめん」
言葉数はどちらも少なかったけど、なにを言おうとしているのか、今度こそ間違えずに受け取った。
しかし、互いに謝って、気恥ずかしくなる。
「でも、なんで急にこの話をしようと思ったんだよ。俺の顔を見ると、すぐに逃げてたろ」
耐えられなかったハル兄は、無理やりその空気を変えてきた。
内容が意地悪だけど、そういえば、さっきそれの話があると言った気がする。
僕がハル兄とちゃんと話そうと思った理由は、一つだ。
話そうとしたとき、ふと、古賀の笑顔を思い出す。
「写真を撮りたいって、思ったから」
僕が言うと、ハル兄はまた信じられないものを見るような目をした。
そして、穏やかに微笑んだ。
「映人、好きな人ができただろ」
予想外の発言と表情に、僕は呆気に取られる。
ハル兄がこんなことを言うなんて、思っていなかった。
「好きな人って、なんで……」
「表情が柔らかくなってたから。今、絶対その人のこと思い出したろ?」
この、ハル兄の意地の悪い表情を、クールなイケメンと言っていた女子たちに見せてやりたい。
こういう表情をすると知れば、ハル兄の人気も下がって、花奈さんも安心できるだろうに。
まあ、ハル兄は変なところで抜かりないから、この一面はきっと、誰にも見せなさそうだけど。
なんて、そんな現実逃避をしながら、なんとか話題をそらせないだろうかと思ってしまう。
ただ、この流れで本心を隠すのは、気が引けた。
ハル兄の視線から逃げながら、言葉を探す。
「好きかどうかはまだよくわからないけど……少なくとも特別、だとは思ってる」
はっきりと言葉にすると、一気に自覚してくる。
心拍数が上がり、顔が熱い。
自分でもわかるほどの反応をしてしまったから、またからかわれてしまうと思ったのに、ハル兄はなにも言わない。
それどころか、なぜか、ハル兄のほうが恥ずかしそうにしている。
「やっぱり、兄弟で恋愛話はないな」
ハル兄が噂の真偽を曖昧にでも聞いてこなかったのは、その考え方があるからなのかもしれない。
僕としては、この話題が終わってくれるならなんでもよくて、適当に頷く。
「話を戻すけど、写真を撮りたいなら、好きに撮ればよかっただろ」
「それはそうかもしれないけど……」
次々に本心をさらけ出していかなければならない時間に、そろそろ耐えられなくなる。
でも、まだハル兄は逃がしてくれなさそうだ。
純粋にそれについて知りたいという目をして、僕を見ている。
「僕は、僕の写真で誰かが喜んでくれるのが、一番嬉しかったんだ。だからこそ、あのとき僕の写真で、誰かに嫌な思いをさせるような噂が流れてしまったことが嫌だったし、それがハル兄だったっていうのも、耐えられなかった」
なにより、ハル兄はいつも、花奈さんの写真を見て微笑んでいたのに、あのときだけは、苦しそうにしていた。
僕にとって望まない光景が、そこにはあった。
「それからはカメラを見るとハル兄のことを思い出して、写真を撮るのが……カメラを触るのが、怖くなった」
ハル兄がまた、申しわけなさそうにしているのを見ると、僕だってそう感じてしまう。
一応話が終わって、また静寂の時間に戻る。
「……なるほどな」
ハル兄はそう言って、身体を伸ばした。
「それで、写真を撮りたいと思ったから、か」
ハル兄は納得しているみたいだけど、僕の言いたいことがきちんと伝わったのか、若干の不安があった。
ここまでの流れからして、『僕が古賀が好きで、古賀を写真に収めたくて、でも今のままだとカメラに触れられないから、トラウマを克服した』と捉えられていそうだったか。
ハル兄の表情的にも、そう考えている可能性は高い。
だけど、また恋愛話に繋がってしまうため、確認をする勇気がなかった。
「花奈が喜びそうだな。映人の写真、好きだから」
ハル兄は嫉妬の混ざった視線を向けてくる。
花奈さんが好きなのは、僕が撮った“ハル兄”の写真なのだけど、それは言わない約束だ。
だから僕は、笑って流した。



