僕が体育館を出ると、まだ氷野の背中は見えていた。

 体育館シューズ入れを腕に引っ掛け、両手をズボンのポケットに入れて歩いている。

「氷野!」

 絶対聞こえているはずなのに、氷野は足を止める素振りを見せなかった。

 直接引き止めないことには、止まってくれそうにない。

 こういう、急いでいるときに限って、僕の上履きはなかなか見つからなかった。

「氷野、待って」

 僕は言いながら、上履きに履き替える。

 顔を上げると、氷野の姿はない。

 ただ、向かっていた先は学年棟だとわかっていたから、僕は走って追いかける。

 予想通り、氷野は廊下を歩いていた。

「氷野、止まってって」

 氷野の肩に手を置くと、ようやく氷野は立ち止まった。

 少しだけ顔を動かしたことで見えたその視線は、鋭い。

「……夏川栄治はお呼びじゃないんだけど」

 迷惑そうに、僕の手を払う。

 あまりよく思われていないだろうという気はしていたけど、ここまで敵意をむき出しにされるとは思っていなかった。

「なんでそんなに、僕に敵意を向けるんだ」

 氷野は大きなため息をついて、僕と向き合った。

 真正面で睨みつけられると、みっともなく圧倒されてしまう。

 ただ、その瞳に込められた感情は、怒りだけには見えなかった。

 その中に、悲しみが揺れ動いているように感じた。

「夏川栄治、依澄に言ったんでしょ? 依澄の言葉は正しすぎるって」

 一瞬、なんのことかわからなかった。

『正しすぎる言葉は、ときに他人を傷付けるんだよ』

 古賀が泣きそうになった、あの言葉のことだろうか。

「……言った。でもそれは」
「それのせいで」

 氷野は僕の言い訳すら聞いてくれなかった。

 僕の言葉を遮ったその声は、感情を押さえ込んでいるように思えた。

「その言葉のせいで、依澄からまた(・・)笑顔が消えた」
「また……?」

 氷野は、さっき女子二人に向けたような、冷たい眼をする。

 それだけではない。

 隠れていたはずの悲しみが伝わってきて、僕まで苦しくなる。

「もう、依澄には近寄らないで」

 ここまではっきりした拒絶をされるのは、初めてだった。

 氷野はまた僕に背を向ける。

 今までの僕だったら、このまま氷野の背中を見送っただろう。

 でも、不思議と僕は動き出し、氷野の前に立って道を塞いだ。

 氷野は目を見開いて、僕を見上げる。

「あんな古賀を見て、はいそうですかって頷けないよ」
「……どうして」

 少し面倒そうに見えるのは、きっと気のせいではない。

 だけど、大人しく引き下がることはできそうになかった。

「放っておけないから。僕は、古賀には笑っていてほしいんだよ」

 氷野はただ黙って、僕を見つめてくる。

 僕の想いが少しでも伝わっていると思ってもいいのだろうか。

 僕は若干不安になりながら、話を続ける。

「お願いだ、古賀になにがあったのか、教えてほしい。それを知らないと、僕はまた、古賀に間違った言葉を言ってしまう」