(こう)白雪(はくせつ)は埃の舞う古い大部屋で、汗衫の上から先ほど渡された薄墨色の円領袍を身に纏った。布地はお世辞にもいいものだとは言えないけれど、今ここでこれを着られていることが奇跡なのだ。
 首から提げた小袋の中にある(ぎょく)の感触を、汗衫の上から確かめる。
(変では、ないですよね)
 今の立場では銅鏡を持っていることさえおかしく、自分の姿がおかしくないかどうか確認することもできない。
「お、着替え終わったか?」
 不安に思いながら立ち尽くしていた白雪に、部屋に入ってきた男が声をかけた。同じく薄墨色の円領袍を身に纏ったその男は、持っていた幞頭を白雪の頭に被せた。
「これでどっからどう見ても宦官だ」
(どこから、どう見ても)
 その言葉に安堵すると同時に、もう引き返せないところまで来てしまったのだという事実が白雪の心を震わせる。
(待ってて、瑞雪(ずいせつ)。絶対に、あなたの死の真相を暴いて――仇を討ってみせるから)
 拳を握り目を閉じる。瞼の裏には白雪と同じ顔をして笑う双子の姉、瑞雪の姿が思い浮かんだ。二度と会えない半身の姿が。


 それは屋敷の庭に、牡丹や桃といった花々が咲き誇る頃のことだった。瑞雪のいない屋敷で一人寂しく白雪はいた。父と兄たちは皆、官吏の仕事のため朝早くから家を出て不在にし、母は何やら一人忙しそうにしていた。
「あーあ。前は瑞雪と二人でいたから寂しくなかったのに」
 襦裙が皺になるのも気にせず、白雪は回廊に寝転がった。一人で花を見ても楽しくもなんともない。それどころか瑞雪のことを思い出して寂しくなるだけだ。
 双子の姉である瑞雪の後宮入りが決まったのは、一昨年の暮れのことだった。先帝が急逝したことにより、皇太子だった今上帝、()星辰(せいしん)が即位することとなり、それまでの後宮が解体され新たに後宮が設けられることになった。
 その際に白雪の家にも白羽の矢が立ったのだ。双子の姉である瑞雪か白雪か、あるいは両方を後宮に入れるように、と。
 どうしても行きたくないと言い張る白雪に、両親はそれなら、と瑞雪を送ることにした。
(好きな人以外と結婚するなんて絶対に嫌……)
 もう顔も覚えていない初恋の人の姿を思い出す。外朝で出会ったあの人は、今頃官吏にでもなったのだろうか。
「瑞雪、今頃どうしているかしら」
 後宮に入ってしまった以上、余程のことがない限り家族といえど会うことはできない。次に会えるのはいつのことだろう。
 そんなことを考えていたのに――瑞雪の近況を知らせる連絡は、思いも寄らない形で届くこととなった。
 
「――瑞雪が、死んだ?」
 数日後、母屋の房室に呼び出された白雪の目の前で両親は肩を振るわせていた。
「そんな……どうしてです……!?」
「わからん。そしてそれを知る術は私たちには、ない」
 歯切れの悪い父の言葉に、白雪は震える手を必死に抑えながら尋ねた。
「誰かに、殺されたの?」
 両親は沈黙を貫く。是とも否とも言わないその態度が、肯定しているように思えたのは気のせいではないはずだ。
 白雪は「一人にして」と房室を出ると自分の部屋へと向かう。隣の部屋は瑞雪のもので、出て行ったときのままになっていた。
 襖を開けると、白雪と同じ調度品が置かれているはずなのに、主のいない部屋は寂しく、そしてもの悲しかった。
「瑞雪が死んだなんて……」
 そんなはずはない。きっと悪い嘘で騙されているのだ。そう思いたいのに、先ほどの両親の様子を見ていると、もうこの世に瑞雪はいないと思い知らされる。
「私が、行きたくないっていったから……」
 あのとき自分が行くと言っていれば、今頃生きていたのは瑞雪だったかもしれない。
「瑞雪……ごめん……」
 白雪の頬を、涙が伝い落ち、静かに襦裙を濡らし続けた。
 
 瑞雪が死んだと言われ身も心も引き裂かれるような苦しさを覚えたとしても、夜は更け日は昇る。腹も減れば眠気もやってくる。
 涙はやがて枯れ、否が応でも日常を送ることとなった。
 ――そして数日の時が経ち、ようやく白雪が、そして家族が瑞雪の死を受け入れ始めた頃、どうして瑞雪が死ななければいけなかったのか、という疑問が再び湧き上がった。
「後宮のことだから、自分たち家族には知ることができないなんておかしいです! 家族だからこそ、知る権利があるのでは!?」
「……父上や兄たちの立場を考えなさい」
 房室に乗り込んだ白雪に、静かに母が言う。そう言われてしまうと、白雪には何も言えない。かといって父や兄たちの立場のために、大切な半身の死を無条件で受け入れることなんてできない。
「どうしたら……」
 答えが出ないまま、ただ無情にも時間だけが過ぎていく。
 そんなある日、下女の一人が白雪の部屋に顔を出した。
「白雪様、お客様がお出でです」
「私に? 人と会う気分じゃなくて」
「旦那様からのご命令です」
「……はぁ。今行くわ」
 溜息を吐くと、白雪は客人が待っている房室へと向かった。
「――失礼します」
 房室の襖を開けると、長椅子に銀色の長い髪を垂らした男性が座っていた。一目見て胡国の人間ではないとわかる風貌のその男性――水蘭(すいらん)は、白雪を見上げて柔らかな笑みを浮かべた。
「ご無沙汰しております。今日は旦那様から白雪様への贈り物ということで参りました」
「いえ、私は」
「塞ぎ込んでいるから何かいい物を見繕ってきてほしいとのご要望を承っております」
 白雪が向かいの長椅子に座ったことを確認すると、水蘭は持ってきていた包みを手に取った。卓の上に置かれた包みの中にはいくつもの玉が光り輝いていた。けれど、今の白雪にはどれも魅力的には見えない。
「いいえ、結構です」
「そうですか」
「ごめんなさい。父が私の為にあなたを呼んだのはわかっているけれど、どうしてもそんな気にはなれないのです」
 腰を折る白雪に、水蘭は静かに首を振った。
「いえ、そういうときもありますよね。……では、どうでしょう。一通り持ってきた玉の説明だけさせて頂けませんか?」
「説明?」
「はい。何もせずに帰ったとなると、旦那様から怒られてしまいますので」
 困った様に笑みを浮かべる水蘭に、白雪は頷いた。たしかにこのまま帰してしまえば、父は水蘭を叱責するだろう。それなら適当に話を聞いて、玉をどれか一つ選んでしまった方が水蘭も、そして白雪自身も面倒じゃなくていいのかもしれない。
「それでは見せて頂けますか?」
 白雪の言葉に水蘭は頷くと、持ってきていた玉を卓の上に並べた。色とりどりの玉が並べられているけれど、興味は湧かなかった。そもそも玉が好きなのは母であり、白雪でも瑞雪でもない。そんなことすらわかっていない父に笑ってしまいそうになる。
 水蘭は一つ一つ玉について説明をしてくれる。心が落ち着くとか運気が上がるなど思い込み次第で効果が変わりそうなものばかりだった。
 せっかく説明をしてもらうのだから、惹かれるものがあれば一つぐらい、と思っていたものの、父を満足させるために必要のないものを買っても仕方がない。最後の一つの説明が終わったら礼を言って帰ってもらおう。そう思う白雪の目の前で、水蘭が最後の一つを手に取った。
「こちらの玉は、持ち主の願いが叶うと言われています」
「そうですか。ありがとうございました。もう結構で――」
「もしも願いが叶うとしたら、白雪様は何を願いますか?」
「願いが、ですか」
 唐突な水蘭の問いかけ。でも、そんなの一つに決まっていた。
「瑞雪の死の真相を知りたい――ううん、仇を討ちたい」
 思わず吐露した本音に、水蘭は不敵な笑みを浮かべた。
「では、この玉でそれが叶うとしたら?」
「そんなことあるわけ……」
「これには呪術が込められています」 
「呪術、ですか?」
 水蘭は玉を二本の指で摘まみ、白雪に見える様に掲げた。真っ赤な石の中にまるでうごめく様に黒い文様が描かれたその玉は、どこかおどろおどろしいのに目が離せなくなる。
「この玉が、白雪様の願いを叶えます」
「どう、やって……」
 そんなことあるわけがない、と頭の中ではわかっているはずなのに。気付けば白雪は、水蘭に問いかけていた。
「たとえばそうですね。後宮に妃嬪として入宮する、とか」
「それだけは絶対に嫌」
 即答する白雪に、水蘭は少し考え込むような表情を浮かべ、それから真剣な面持ちで言った。
「では、宦官ですね。宦官として後宮で働くのです」
「宦官って……」
 思わず「ふっ」と笑ってしまった。女の白雪が宦官になんてなれるわけがない。きっとこれは水蘭なりに白雪のことを笑わせようとしているのだとそう思ったから。
 けれど、真正面に座る水蘭は真剣な表情のままだった。
「仇を討つためなら、呪術さえも利用する。その覚悟がありますか?」
 怖いほど真剣な水蘭に、白雪は言葉に詰まる。すると、水蘭は表情を崩すと手に持った玉を握りしめた。
「なんて、今の話は忘れてください。そんな覚悟、ない人の方が多いのですから」
 これで話は終わり、とばかりに玉を片付け始める。一つ、また一つと。そして、最後にあの赤い玉を入れようと――。
「待ってください。本当に、宦官として後宮に入ることが可能なのですか?」
「はい。呪術によってあなたの身体は男のものとなるのです」
 そんなことができるなんて。
「呪術って、便利なのですね」
「……そう便利なことばかりでもないですけどね」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
 上手く聞き取れず聞き返すけれど、水蘭にはぐらかされてしまう。もう一度聞き返してみてもよかったのだけれど、それよりも男の身体になれるという言葉が白雪の意識を奪った。
 目の前の卓に手をつくと、勢いよく水蘭に向かって頭を下げた。
 その玉があれば、男として後宮に潜入できる。瑞雪の死の真相を知ることができる。
「……いいですよ」
「本当ですか!?」
「はい」
 にこやかな笑みを浮かべたかと思うと、水蘭は白雪の目の前に右手を差し出した。手のひらの上には、赤い玉があった。
 恐る恐る白雪はそれを指で摘まむ。見た目も大きさもただの玉に見えるけれど、黒くうごめくように描かれた文様のせいで、どこか異質に思えた。
「これを一晩月明かりに当ててください。その後、肌身離さず持ち続けて頂くと三日ほどで呪術が完成します」
「ありがとうございます」
 これで宦官になれる。瑞雪の仇が討てる。そう考えて、ふと気付いてしまう。
「ですが、どうやって宦官の職に就くのでしょうか? 水蘭様には何か伝手でも?」
「ええ。そちらは私が手配を致しましょう」
「本当に?」
 あまりにも簡単に言う水蘭に不安になる。けれど白雪の不安をよそに、水蘭は話を進めていく。
「ええ。二日後の同じ時間に迎えに参ります」
「三日後ではなくてですか?」
「三日後でもよろしいですが、その場合ご家族にも男の姿形を見られることとなりますが大丈夫ですか?」
 それは大丈夫ではない。白雪が「二日後でお願いします」と頭を下げると、水蘭は頷いた。
「旦那様へは妃嬪として入宮することにしておきましょう。その方が話が通しやすい」
「入宮……」
「ええ。旦那様は止めはしないと思いますので」
「そう、ですね」
 水蘭の言う通り、父が止めることはないだろう。むしろ喜ぶぐらいではないだろうか。
 瑞雪が死に、野心の強い父が真っ先に頭を抱えたのは皇帝からの不興を買わないかどうかだった。死因について追及できなかったのも、その辺りが原因だろう。
 ただ、母や兄たちは悲しむかもしれないけど。でも今は瑞雪のことしか考えられなかった。
「よろしくお願いします」
「承知致しました。それでは二日後、お迎えに参りますのでご準備の程よろしくお願い致します」
 一礼すると、水蘭は房室をあとにする。残された白雪は、嘆息すると長椅子の背にもたれかかるようにして身を投げ出した。襦裙が皺になることなど気にする余地もなかった。
 手のひらの上には先ほど水蘭から受け取った玉が一つ。これを今晩から月明かりに当てておけば――。
「もう、引き返せなくなる」
 拳を握りしめ、手のひらの玉の感触を握りしめた。
「もう戻るつもりなんて、ない」
 たとえもう二度と、この家に戻れなかったとしても。


 煌びやかな後宮の片隅、箒を片手に白雪は無数に落ちている枯れ葉を掃いていく。
「そんなゆっくりやってたら終わらねえぞ」
 丁寧に掃く白雪を、同じく宦官である(じょ)志平(しへい)がおかしそうに笑う。豪快に箒を動かすと、辺りにあった枯れ葉は風とともに舞い散っていく。
 白雪よりも三ヶ月早く後宮に入ったという志平は、どうにも要領の悪い白雪を弟か何かのように思っているのか、何かと世話を焼いてくれる。白雪の年が志平の一つ下というのも、余計に先輩風を吹かせたいところであるのだろう。
「ここが終わったら、中庭の掃き掃除もしておけってさ。ったく、人使いが荒いぜ」
「たしかに」
 後宮内は広い。白雪の屋敷もある程度の広さはあったけれど、後宮に比べるとはるかに狭く思う。
「まあでも、寝るところがあって飯が食える。それだけで有り難いことだけどな」
「そう、ですね」
 志平の話を聞くと、白雪はいかに自分が恵まれた環境で育ってきたかを思い知らされる。志平だけではない。水蘭に連れられて屋敷を出たあと、見た景色も白雪にとって衝撃的だった。
「まあ不幸比べをしたってしょうがないしな。過去は変えられないけど今は自分自身の手で変えることができるから」
 何でもないように言う志平の瞳は、過去ではなく未来を――いや、今を見つめているように見えた。
 暫く掃き掃除を続けていた白雪と志平だったけれど、やがて一人の宦官が二人に声をかけた。
「北の書庫で人手がほしいそうだ。どちらか行ってくれ」
「あー……太監様。こいつ、新入りで書庫の場所わからないと思うので、俺が行きます」
「そうか、では頼んだ」
 拱手の礼を取ると、志平は北の書庫とやらに駆けていった。書庫があるのか、と考えていると太監と呼ばれた男性が自分のことを見つめているのに白雪は気付いた。
 たしか後宮に入った日に、水蘭が話をしていた人物だと思う。あのときは、すぐに別の宦官によって後宮内に連れてこられたから、まともに話をすることもなかった。
 その人はひょろりと背が高く、白雪の兄たちよりも大きいかもしれない。細く鋭い目で白雪を見下ろすと、太監は辺りを見回した。
「ここはもういい」
「え、あ、はい」
「この道をまっすぐ行ったところに、殿舎がある。東の方角だ、わかるか? その殿舎に新しい方が近日中に入られるので、そこの掃除をしてもらいたい」
「わかりました」
 掃除なら志平と二人でしてもよかったのでは、そう思った白雪の疑問が表情に出ていたのか、太監は眉をひそめ細い目をさらに細めた。
「徐志平は大雑把な上に、乱雑過ぎる。あいつに殿舎の掃除など任せてみろ。調度品を壊すのが目に見えている」
 太監の言葉に、白雪は乾いた笑いを漏らすことしかできない。ここ数日の付き合いではあるけれど、先ほどの掃き掃除一つ取ってみても、志平の乱雑さは庇えるものではなかった。むしろ先ほどこの辺りを見回していた理由がわかったぐらいだ。
「それでは頼んだぞ」
「わかりました」
 見よう見まねで覚えた拱手の礼を取ると、白雪は言われた殿舎へと向かおうとした。けれど、なぜか太監は白雪の隣を歩き出す。
「あの……?」
「お前一人では場所がわからんだろう」
「どなたも住まれていないところでしたら見た目でわかるかと思うのですが」
「……先日まで住まわれていた方がいらしてな。今も、外から見ただけでは主不在の殿舎とは思えない」
「ま……」
 さか、と続けそうになったのを白雪は必死に呑み込んだ。そして何食わぬ顔で、けれど震えそうになる声を必死に押さえ込んで、太監に尋ねた。
「先日まで住まわれていらした方は、今は――」
「……なぜそんなことを聞く」
「い、いえ。位階が上がると、殿舎を移ると徐志平から聞いておりましたので、そちらの殿舎の方もそうなのかな、と。申し訳ありません。興味本位です」
 不審がられると不味い。志平には悪いが言い訳に使わせてもらうと、太監は少し考えるような表情を浮かべるとため息を吐いた。
「殿舎を移るのは、基本的には位階の変動。それから何らかの事情で後宮を出られた方、あとは――お亡くなりになったとき、だな」
「そう、ですか」
 太監の苦々しそうな言い方で確信した。その部屋に住んでいたのは瑞雪だと。亡くなったので部屋が開くことになり、そしてその部屋に新しい誰かが入ってくるのだ。瑞雪がいたことなんて、なかったかのように。
「着いたぞ」
 そこはたくさんの文様が描かれた柱に、小さいながらも庭のついた殿舎だった。門の外から眺めた庭には今は牡丹や薔薇が咲き誇っているが、瑞雪が生きていた頃はきっと桜や桃といった春の花々が咲き乱れていたのだと、想像しただけで胸の奥が苦しくなる。
「白雪? どうかしたか?」
「い、いえ。それでは掃除をしておきます」
 頭を下げる白雪に、太監は眉をひそめながらもその場をあとにした。
 一人になった白雪は、瑞雪が使っていた殿舎へと足を踏み入れた。
「瑞雪……」
 名を呼ぶと、まるで呼応するように風が吹き、庭の花の香りが白雪の鼻腔をくすぐる。
「どう、して……」
 なぜ瑞雪が死ななければいけなかったのか。誰が瑞雪を手にかけたのか。
「……っ。必ず、私が暴いてみせるから!」
 溢れ出る涙を袖で拭うと、白雪は前を見据えた。もう泣くのはこれで最後だ。そう固く決意固めて。
 ――けれど。
「おい、そこで何をしている」
 宦官の少し高い声とも、女性の声とも違うその低音の声に、白雪は身体が震え上がるのを感じた。振り向いていないから、そこにいるのが誰かなんてわからないはずだ。なのに、どうしてだろう。この声の主を、知っている気がするのは。
「おい」
「は、はい」
 慌てて振り返ると、叩頭し礼を取る。その顔を決して許しなく見てはいけない。それだけで不敬となり、言葉の意味通り首が飛ぶ可能性すらある。
 震える身体をなんとか落ち着かせるように浅い呼吸を繰り返しながら、僅かな視界の隙間から目の前にいる男を見る。ただ一人にしか許されていない黄色い布地で作られた冕服、足下には笏頭履を履いていた。そんな人間は、この国にたった一人しかいない。いや、そもそもこの後宮に、宦官以外に入れる男など今上帝、胡星辰以外には存在しなかった。
「顔を上げろ」
「……は、はい」
 恐る恐る顔を上げると、その人は黄袍(おうほう)を見に纏ってはいたが、幞頭を被ることはなく、艶やかな黒髪を背に流していた。この国で唯一の存在は、獰猛な動物のような瞳で白雪を見下ろす。その瞳があまりにも冷たく見えて、白雪は思わず後ずさりそうになるのを必死に堪えた。
「お前……」
「え?」
「いや、名は何という。ここで何をしている」
 一瞬、白雪の顔を見た星辰が眉を上げた気がした。けれどすぐに詰問され、そんな些細なことは白雪の頭からは消え去った。
「は、はい。私は(そう)白雪と申します。太監様に言われ、この殿舎の掃除をしようとしておりました」
 事前に水蘭と決めておいた偽名を名乗る。珍しい姓ではないけれど、紅白雪では瑞雪との繋がりを疑われかねないから。
 星辰は「蒼白雪」と確かめるように名を呼ぶと、眉間に皺を寄せながら白雪に尋ねた。
「では、蒼白雪。なぜお前がここの掃除をしている」
「なぜと言われましても。太監様からの命で、としか」
「太監が?」
 少し考えるような素振りを見せた後「そうか」とだけ答えると、それ以上何も言うことのないままその場をあとにした。
 いったい、なんだったのか。
 星辰の姿が見えなくなったことを確認してから、白雪はその場に座り込んだ。ほうっと息を吐き出すと、緊張していた身体から力が抜ける。
(あれが、皇帝陛下)
 この胡国を統べる唯一無二の存在。そして、白雪が生き残るるために、殺さなければならない存在だった。
 

 ――その話を聞かされたのは、後宮に上がる前夜。隙間風の入る襤褸(ぼろ)小屋でのことだった。男の姿に見えるようになり、手はずも整えてもらったので、あとは翌日後宮へとむかうだけ。そう思っていた。
「そういえば」
 椀に湯菜を注ぎながら、水蘭は思い出したように、けれどまるで明日の天気の話でもするかのような気軽さで言った。
「白雪様、あなたの玉にかけた呪術の対価ですが」
「対価?」
「ええ。まさか何の対価もなく、与えられたとは思っていませんよね」
「それは……」
 さすがの白雪もそこまで世間知らずではない。人に何かを頼めば、それ相応の対価が必要だ。けれど、呪術に対する対価というものが思い浮かばなかった上に、ここまで何も言われることがなかったので、もしかしたらという思いがなかったかと言われると嘘になる。
 水蘭は椀を手渡すと、目を細めて笑みを浮かべた。
「何、そう難しいことではありません。ただ、皇帝陛下を殺めて頂きたいのです」
「はぁ。……って、ええ!? な、何を……」
『皇帝を殺す』なんて口に出したところを聞かれるだけで不敬として首を切られても不思議ではない。慌てすぎて、椀から湯菜を零してしまいそうになるのを何とか堪えると、床に椀を置き、水蘭に向き直った。
「あなたは、ご自分が何を言ったのかわかっていらっしゃるのですか?」
「当たり前でしょう。子どもの戯れ言ではこのようなことは言えません」
「ですが……そのようなこと、私には……」
「できる、できない、ではない。するのです。さもなくば、貴方自身の命が対価となります」
「どういう……」
 水蘭の言うことが、白雪には理解できなかった。いや、理解するのを拒んだと言った方が正しいかもしれない。そんな白雪に、水蘭はまるで赤子を諭すように優しく話す。けれど、その目は僅かにも笑っていなかった。
 水蘭が椀に口を付けている間も、白雪は目を逸らすことができなかった。そんな白雪の様子を知ってか知らずか、水蘭は柔らかな笑みを浮かべた。
「そう緊張しないでください。簡単な話です。あなたは私に呪術を依頼した。私は受けた。その呪術の対価として、皇帝の命を奪って欲しい。ね、わかりやすいでしょう」
 わかりやすい、といえばわかりやすいのかもしれない。けれど、対価が皇帝を殺すことなんて。白雪が言葉を発せられずにいると、水蘭はわざとらしく驚いて見せた。
「まさか対価に怖じ気づいたのですか? あなたのお姉様を想う思いはその程度だったと」
「違う!」
「なら対価がなんであろうと、そんな表情をしないでください。私はあなたの願いを叶えた。代わりに対価として、あなたが私の願いを叶える。それだけのことです」
「皇帝陛下を殺すことが、あなたの願いなのですか?」
 白雪の問いかけには答えず、水蘭は柔らかな笑みを浮かべたまま湯菜を啜る。白雪も椀に口を付けるけれど、思ったよりも大きな対価に美味しかったはずの湯菜がどこか苦々しく感じられた。


 自分が殺さなければいけない相手と思わぬ形で対峙した白雪は、あれから数日が経った今も重い気持ちを引きずっていた。皇帝陛下を殺せるわけがない。けれど、殺すと約束した。だから今自分はこの場所にいられるのだから。
「でも……私にできるのかな……」
「何の心配をしてるんだ? 何か難しいことがあればいつでも俺に相談しろよ」
「わっ、志平。いつの間に。もうお腹は大丈夫なのですか?」
「ああ。一人でやらせてしまって悪かったな」
 今日の白雪と志平に与えられた仕事は、後宮の奥まったところにある小さな庭園の草むしりだった。けれど昼に食べた何かが悪かったのか「腹が痛い」と言って厠へ向かったまま志平は半刻ほど戻ってこなかった。
「そんなに多くなかったから大丈夫です」
「そっか。あ、そうだ。さっきそこで太監様にお会いしてお前のこと探してたぞ。見かけたら書房(しょさい)に来て欲しいと伝えてくれって」
「私を、ですか?」
 太監がいったい何の用だろう、と疑問に思いつつも呼ばれているのなら行かないわけにはいかない。抜いた草の片付けを志平に頼むと白雪は太監のいる塔へと向かった。
 上級宦官ともなれば、外に屋敷を構えることもあるそうだが、この塔には事情があって外に出られない上級宦官たちの個室や、それから太監の書房があった。塔には長い階段があり、連れられるままに上がると一番上の階に太監の書房はあった。
「失礼します。あの、お呼びとのことですが」
 扉を開けると、簡素ながらも高価そうな調度品の並ぶ室内が目に入る。辺りを少し見回すと、奥の書卓に向かう太監の姿があった。
「ああ、白雪か」
 椅子から立ち上がると、白雪の真正面に立つ。そして上から下まで値踏みするように目を細めて見ると、ため息を吐いた。
「なんでこの者を」
「あの……?」
「お前は部屋を移ることになった」
「どういう……」
「主上の命だ。……気の毒にな」
 呟くように言った言葉は、白雪の耳には届かない。太監は何かがわかっているかのように眉をひそめ首を振るけれど、白雪は言われた内容を理解できずにいた。主上ということは皇帝陛下だ。その皇帝陛下の命で、白雪が部屋を――それもどうやら個室に移ることになったと。
「まあいい。荷物をまとめて移動するように。本日中だ」
「……わかり、ました」
 新入りの白雪に太監の命令に背けるわけがない。それが皇帝陛下からのものだとしたら余計にだ。
 自分の荷物を取りに行く。志平はまだ戻っていなかったようで、この数日の礼を伝えたかったのだけれど、伝えられないまま部屋を出ることになってしまった。
 今度会えたらお礼と、それから何も言わずに部屋を変わることになったことを謝ろう。大丈夫、どうせまたすぐ会える。そう思っていた――。

 荷物を持って戻った白雪を、太監から指示を受けたらしい宦官が案内する。黙ったまま何も言わないところを見ると、よくは思われていないようだった。それもそうだろう。入ったばっかりの下っ端が一人部屋を持つなんて、普通であれば考えられない。
 連れられるようにして向かった部屋は、二階の南側、日当たりのよさそうな部屋だった。
 来たときと同じように案内してくれた宦官は黙ったまま立ち去っていく。白雪は持っている荷物よりも重いため息を吐くと、目の前の扉に手をかけた。そのとき――。
「お疲れ。どうだった?」
「どうもこうもないですよ。なんであんなやつが」
「女嫌いの主上がついに宦官に手を出すってね」
(え……?)
 聞こえて来た話の意味が理解できなくて、開こうとした手が動かなくなった。
(まさか、私のこと……?)
 それ以外に考えられないのだけれど、そうではない可能性を僅かでも探してしまう。とはいえ、追いかけて『今のって私の話ですか?』と問いただす勇気もない。
 結局、答えの出ない疑問に頭を悩ませながら、先ほど止めた手に力を込めて扉を開けた。
「は?」
 一瞬、自分の見たものが信じられなくて、白雪は開いたはずの扉を閉める。先ほどまでの悩みなんて吹き飛ぶような、いや先ほどの悩みと相まって余計に頭痛の種になりそうな何かがあった気がした。
(今、誰かいた、ような)
 いや、誰かいても不思議ではない。今日から白雪の部屋になるとはいえ、この塔には他の宦官の部屋もあるのだ。だから誰かがいてもおかしくはないの、だけれど。
「いや、そんなわけない。そんなことあるわけない」
 自分自身に言い聞かせるように呟くと、先ほど見た光景が見間違いであることを願いながら深呼吸をする。そうだ、いるわけない。こんなところにいていいわけがない。だってあの人は――。
「何をしている」
「ひゃっ」
「さっさと入れ」
 目の前で突然、扉が開いたかと思うと白雪を部屋の中に招き入れる――と、いうよりは引っ張り込むようにして長い指が白雪の腕を掴んだ。
「な、何を」
 するのですか、と反射的に問いかけるよりも早く、目の前の黄袍を纏った男性は音を立てて扉を閉めた。バタンという音がやけに大きく聞こえて、途端に白雪の心臓が痛いぐらい音を立てて鳴り響く。
 どうすればいいかわからず、身動き一つ取れない白雪の身体を、星辰は自分の方に引き寄せた。
「細いな」
 星辰の長い指が、何かを確かめるように白雪の腰の辺りをなぞる。その感触に、思わずビクリと身体が震えた。
「や、め……」
 嬌声を上げそうになった白雪は、今の自分は男として見えていることを思い出す。
「……っ。そ、そういうことは妃様方にされてはいかがですか!」
 慌てて身体を押し返した白雪に、星辰はおかしそうに口角をあげる。
「お前にしてはいけないと?」
「い、いけないというか。私は男ですから、このような……」
「この後宮にいるものは全て俺のものだ。それが女だろうと、男だろうと、な」
「そんな……」
 星辰の獲物を射止めるような視線に、白雪の身体は縮み上がるのを感じた。――けれど。
「ふ、はは。冗談だ」
「じょう、だん……?」
「ああ。まあこの後宮にあるもの全てが俺のものだというのは本当だがな。だが宦官に手を出すほど女には困っていない」
「そうで、すよね」
 けれど星辰の言葉に安心できないのは、腰に当てられたままの手のせいだろう。星辰のそばへと引き寄せるように当てられた手のせいで、密着したまま身体を離せないでいた。
「あ、あの」
「なんだ?」
「荷物を置きたいので、手を……」
「ああ、しょうがないな」
 漸く離してもらえると安堵していると、星辰は白雪の手から荷物を取ると当たり前のように部屋の中へと持って行く。さすがに皇帝陛下に荷物運びをさせるわけにもいかず、慌てて取り返そうとするけれど、できるわけがなかった。
「へっ陛下!?」
「星辰と呼べ」
「え、えええ!? 名前でなんて不敬で……」
「俺が許すと言ってるんだ。不敬にも何もないだろう。むしろ『皇帝の命』に逆らう気か?」
「それは……」
 そう言われてしまうと何と言っていいか困ってしまう。逡巡ののち、白雪はポツリと呟いた。
「星辰、様」
「……まあ、いい。陛下とか主上と呼ばれるより、余程人間味がある」
「どういう?」
 首を傾げ尋ねたけれど、星辰はもう何も言うことはなかった。
 星辰の腕から逃れた白雪は持ってきた荷物を一通り片付けながら、窓際の長椅子に腰を下ろす星辰に気付かれないよう視線を向ける。いったい何をしたいのか全くわからない。
「なんだ、終わったのか?」
「あ、えっと、もう少しです」
「ふん、俺を待たせてるんだ。終わったらさっさと来い」
 どうやら待ってくれていたらしい。慌てて片付けを終えると星辰の元へと向かった。
「お待たせ、しました」
「座れ」
「え、あ、はい」
 座るように命じられ、戸惑いながらも星辰の正面に膝をつく。そんな白雪に苛立った様子で星辰は口を開いた。
「馬鹿なのか、お前は」
「どうし……ひゃっ」
 脇に手を入れ、白雪の身体を軽々持ち上げると、そのまま自分の膝の上に載せた。
「なっ、なっ……!」
「床になど座るからだ」
「申し訳ございません! あの、隣に座らせていただきますので、どうか手を……」
「駄目だ」
 駄目だ、と言われても。
 まるで横抱きにするかのような体勢で白雪のことを自分の膝に乗せたまま、星辰は目を細め白雪を見下ろす。
 こんなに密着しては心臓の音が聞こえてしまう。いや、そういう問題ではなく、そもそもこんなところを誰かに見られては。
「大丈夫だ、俺が来ている間はこの部屋には誰も近寄らないよう申しつけてある」
「なら安心――じゃないですよね!?」
「他に何が不満だ」
 座る場所、と言ってしまえば不敬になってしまうのだろうか。皇帝陛下の膝の上が不服だと言うのか、と言われてしまえば白雪に言い返すことはできない。けれど、このまま膝の上に座っているというのも。
 どうにかできないかと必死に考えた結果――。
「せ、星辰様は女の方がお嫌いだと伺いましたが……」
「ん?」
「わ、私に……そのような趣味は、なくて……」
 ポツリと呟いた言葉に、星辰は当たり前だというように鼻を鳴らした。
「俺もない。女が嫌いなのと男が好きなのは同一ではないだろう」
「そ、そうですか」
 なら、今の状況はなんだというのか。男を相手にする趣味がなく、なのに自分を膝の上に載せている。つまり白雪が女だと気付かれているという……。いや、そんなわけがない。今の白雪は誰が見ても男の身体だ。いや、宦官なので男の身体と言ってしまっていいのかはわからないけれど、少なくとも女には見えないようになっている。なら、なぜ。
「だいたい女が嫌いと言っても女に興味がないわけではない」
「どういう……?」
「誰でもいいわけではないということだ。心に決めた一人以外は、な」
「ひゃっ」
 そう言ったかと思うと、星辰は白雪の幞頭を外し結っていた紐を解く。さらりと落ちた長い髪を、星辰は手で掬った。
「緊張しているのか?」
「あ、当たり前じゃないですか」
「可愛いな」
「かっ」
 もうこれが男に対する態度とか女に対する態度とかそんなことどうでもよかった。ただこれ以上は白雪の心臓がもたない。
「あの!」
 絡められていた腕から何とか逃げ、慌てて立ち上がると解かれた髪を押さえた。
「これ、直してきます!」
「ん?」
「不格好な姿をお見せして申し訳ありませんでした!」
 星辰に頭を下げると、白雪は部屋の隅に置かれた屏風の裏に隠れた。必死に髪を結い直していると、喉を鳴らして笑うような声が聞こえた。その笑い声に、白雪は漸く自分が揶揄われていることに気付いた。
 恐る恐る屏風の端から顔を出すと、そこには口に長い指を当てて笑う星辰の姿があった。
「……何、笑っているのですか?」
 憮然とした表情を隠すことなく白雪は尋ねる。本来であれば不敬で首が飛んでも不思議ではない。けれど、そんな白雪の態度さえ可愛いと思っているのか目を細めて
「いや? 可愛いなと思って」
「かっ……可愛くなんてないです!」
 この格好でいるのに可愛いと言われるなんて。先ほどの態度から揶揄われているとわかってはいたものの、言い返さないわけにはいかなかった。なにせ、今の白雪は男なのだから。
「わ、私は宦官とはなりましたが男です。可愛いと言われるのは心外です」
「そういうものか」
「そういうものです」
 ふむ、と言って星辰は立ち上がる。近づいてくる星辰に、白雪は身構える。
 けれど白雪の元へではなく、星辰は入り口の扉へと向かった。
「星辰様……?」
「どうした? 構ってほしいのか?」
「そ、そういうわけでは……!」
「冗談だ。そろそろ戻らんと五月蠅いのがいるからな」
「五月蠅いの……?」
 疑問に思い首を傾げる白雪に、星辰は扉を開けて見せた。
 そこにはいつからいたのか、星辰の侍従らしき男性の姿があった。
「ではな、白雪」
「は、はい」
「また来る」
 そう言い残すと、星辰は扉の向こうに姿を消した。
 漸く一人になった白雪は、今度こそ深いため息を吐く。皇帝の気まぐれにしても、度が過ぎているのではないか。あんなふうにされてはこちらの身も心ももたない。
「まあ、っていってもこんな気まぐれ、そうそう起きないだろうけど」
 またな、と言い残してはいたけれど、あんなのはきっとその場限りの言葉で、本当にまた来るなんて思えない。
 そう、思っていたのに。
 まさかその日から、連日のように星辰が訪れるなんて、このときの白雪は思ってもみなかった。


 塔に部屋を移動してから七日が経った。朝餉を食べ終えると、塔の周りの掃き掃除をする。何もしてくれるな、と太監に言われたけれど、本当に何もしないでいるわけにもいかなかったので、無理矢理この場所の掃除をさせてもらっていた。
「よし、あと少し」
 早くしないと、時間がない。なぜかというと――。
「早く終われ」
「星辰様」
「だいたいどうして毎日毎日掃き掃除をしているんだ」
「私がしたくてしているのです」
「なぜ」
「なぜって……。みなさん働いている中で、私だけ何もせずにはいられません。私は宦官です。宮中で働く事の対価に衣食住を与えてもらっているのです」
 対価、という言葉に自分で言っておきながら胸の奥がざわつくのを感じる。対価としてこの人を殺さなければいけないことを、忘れた日は一日たりともない。それでも――。
「そうか、お前は偉いな」
「普通、だと思いますが」
「そうか? 人間は怠惰な生き物だ。易きに流れ、堕落していく。そういう人間を外でもここでも何人も見てきた。だが、お前はそうはならないではないか」
 真っ直ぐに言われてしまうと、どこか照れくさくさえ感じる。気恥ずかしさを隠すように、白雪は星辰に背を向け箒を持つ手を動かしながら口を開いた。
「つまり、そうなると思って仕事を取り上げたということですか?」
「ん?」
「仕事を取り上げれば、私が堕落していくと思っていたのでは?」
 少しぐらい困ればいいと思った。どこか余裕綽々なこの人の素の顔が見てみたいと、そう思った。なのに。
「いや? お前から仕事を取り上げれば俺と過ごす時間が増えると思っただけだ」
「なっ」
「なのにお前と来たら」
 星辰は白雪の後ろから抱きすくめるようにして腕を伸ばすと、その手から箒を取り上げてしまう。
「いつまでやってるんだ。そろそろ終われ」
「で、ですが」
「これ以上続けると言うなら、太監に言って仕事を取り上げるぞ」
「そ、それはやめてください!」
 慌てて振り返った白雪は、至近距離で星辰と目が合った。
「……っ」
 その瞳が、真っ直ぐに白雪を捉えて放さない。その青みがかった瞳に吸い込まれてしまいそうにさえ感じる。
「どうした? 見惚れているのか?」
「ち、違います!」
「なんでもいい。終わったなら部屋に行くぞ。ここは五月蠅すぎる」
 星辰は辺りを見回すようにして睨みつける。その視線を追いかけ、白雪はようやく周りから向けられていた視線に気付いた。妃嬪たちが、そして宦官たちが星辰と話をする白雪に好奇と苛立ちが混じった視線を向けていた。そしてその中に、志平の姿があった。
「あっ、志平……!」
「…………」
 白雪が声をかけたものの、視線を逸らすと志平はその場から立ち去ってしまう。
 塔へと移ることになったあの日から、何度か志平の元を訪れていたけれど、結局今日まで会えることはなかった。
「どうして……」
 志平が立ち去った方向を見つめていると、不意に視界が真っ暗になった。それが星辰の手のひらで目隠しされたのだと気付いたのは、暗闇を振り払おうと視界を遮る何かに触れたときだった。
 頭上にある星辰を見上げると、白雪を見つめる青みがかった瞳と視線がぶつかった。
「俺の前で他の男を見つめるなんていい度胸だな」
「そ、そういうわけでは……! と、いうか。私は貴方の妃ではございませんので、そのようなことで咎められる必要は……!」
「妃ではないが、お前は私のものだろう?」
 白雪の背を押すと、促すように星辰は歩き出す。周りで何か言っていた人たちは、星辰に睨みつけられたからか、まるで煙のようにいなくなっていた。
 言葉は横暴だったが、その口調はあまりにも優しくて何も言えなくなってしまう。それと同時に、この優しさが自分だけに向けられるものならばいいのに、と胸の奥が痛くなる。
「……っ」
 自分の思考に慌てて頭を振る。どうしてこんなことを考えてしまうのかわからない。けれど、なぜかほんの少しだけ――胸の奥がひりついた気がした。
 星辰に連れられるまま、塔の階段を上がっていく。たどり着いた部屋の前で、星辰は白雪を振り返った。
「いいか、俺以外の人間に傷つけられるな」
「……はい」
 小さく頷く白雪の後ろで、部屋の扉が静かに閉じられた。


 長椅子に座ると、星辰は隣に並んだ白雪の頭を自分の膝の上に載せた。
「なっ……い、いけません!」
「なぜだ」
「なぜって……」
「俺がしたくてやっていることを、お前に咎められるとでも?」
「うっ……」
 そう言われてしまうと、白雪には言い返すことはできない。仕方なく、されるがままに星辰の膝の上で頭を、髪を撫でられる。
 ゴツゴツとした大きな手。指が細長く女性のようだと思っていたけれど、こうやって触れられるとやはり男の人の手だ。
 星辰は、どうしてこんなに自分によくしてくれるのだろう――。
「どうかしたか?」
 黙ってしまった白雪を、星辰は優しく見下ろす。その優しい眼差しに、白雪は思わず口を開いていた。
「星辰様は、どうして私に優しくして下さるのですか?」
「……昔飼っていた白猫によく似ているんだ」
「猫に? そうだったんですか」
『飼っていた』という言葉が正しいのであれば、今はもういないのだろう。胸の奥が締め付けられるように苦しくなる。自分がそばにいることで癒やせるのなら――。
「まあ嘘なんだけどな」
「は?」
 反射的に顔を上げそうになって、星辰の手のひらに阻まれる。再び星辰の膝の上に戻された白雪は、自分を見下ろす星辰の瞳を見つめた。
「……昔、俺がまだ幼かった頃、五つ歳年上の兄上がなくなったんだ」
「お兄さんが……」
「ああ。皇太子だった兄上の急死により、突然俺が皇太子に担ぎ上げられることになった。けれどまだ十二やそこらで、しかもそれまで皇位を継ぐことなんて考えず、好き勝手過ごしてきた俺にとって青天の霹靂で不安しかなかった」
 遠い目をして語る星辰は、当時のことを思いだしているのか僅かに眉間の皺を深くした。
「だが、不安なんて言葉を吐き出そうことなら父上から叱責され母上からは涙を流される。結局、心を殺しているしかなかった」
 もしも白雪だったら、そう想像しただけで胸が押しつぶされそうになるほど苦しくなる。きっと怖くて不安で逃げ出したくて泣きたくて。けれど、皇帝になるという立場がそれを許さない。どんなに苦しかったか。
(私が、そばにいられたら)
 もしもそのときそばにいたら、今みたいにこうやって寄り添うことができたら。不安な気持ちをなくすことはできなくても、全てを受け止めることはできなくても、分かち合うことはできたのに。
「そんな顔をするな」
 星辰は白雪の頬にそっと触れると、そっと微笑んだ。その顔があまりにも優しくて、泣きそうになってしまう。
「でもどうしても耐えられなくなって一度だけ、こっそり内廷を出て外朝へと抜け出したことがあったんだ。そこで一人の女の子と出会った」
「女の子……?」
「ああ。まだ五つや六つの子どもで、父上の仕事についてきたのだが、迷子になっていたらしくてな。なのに不安そうな表情を浮かべることもなく辺りを楽しそうに散策して」
 そのときのことを思い出したのか、星辰は楽しそうに笑みを浮かべた。
「あまりにも堂々と歩いているから、最初は迷子だと気付かなくて。けれど、あまりにも一人でいるから聞いてみたら迷子だと言うんだ。『怖くないのか?』と尋ねたら『全然』と。『知らないところは怖いよりも何と出会えるのか楽しみだ』と笑うんだ。そんな考え、俺には全くなかった。知らないことは怖いこと。先の見えない不安は身動きを取れなくしていた。だからその子の言葉を聞いて――気付いたら俺は泣いていた」
「そうなん、ですね」
「情けないだろう。十二歳の男が、年下の女の子の前で泣くなんて。笑ってくれてもいい」
「笑いません。その子のおかげで、星辰様は救われたのですから」」
(でも――)
 白雪はその子のことを少しだけ羨ましく思った。幼い星辰の救いとなれたことがただただ羨ましい。
 そして、そんなふうに思ってしまう自分の感情に戸惑っていた。
「……あれ?」
 ふと気付く。そういえば白雪も昔、外朝で迷子になったことがあったことを。父に駄々をこねて連れてきてもらったものの、仕事の話ばかりしている父に拗ね、外朝を探検することにした。けれど、似たような建物がたくさんある外朝で、自分がどこにいるのかわからなくなって――。
(ああ、そうだ。それで不安な気持ちを気取られないように私は迷子じゃない、探検をしているだけだって――)
「あのとき、泣いている俺に女の子は銅鏡を差し出して、自分と俺の顔を映して見せた。笑顔を浮かべる女の子の隣で、泣きじゃくる俺はなんとも情けなくて、そのとき自分の小ささを改めて受け入れることができたんだ」
「そ、の銅鏡は……今……」
 自分の記憶と、今聞いた話が交差していくことが信じられなくて、白雪は思わず星辰に尋ねた。どうしてそんなことを、と疑問に思われるかもと不安だったけれど、星辰は気に留めることもなく口を開いた。
「その子が俺にくれて、今も私室に置いてある心が迷ったとき、少しでも不安に思ったとき、あの銅鏡が俺を支えてくれた。あの女の子だけが俺の特別なんだ。他の女などいらん」
 白雪は声を上げそうになるのを必死で堪えた。その子は自分だと言えば、正体を気付かれてしまう。今どうして男の身体となっているのか、その説明をすることはできない。
 けれど。
「お前はあの女の子に似ている」
「せい、し……」
「だからだろうか、一目見た瞬間から、お前から目を離せなくなったのは。こんなふうに閉じ込めて俺の元から離したくなくなったのは」
(気付かれている……? ううん、違う。星辰様はあの時の女の子に私を重ねているだけ。あの女の子は私だけど、星辰様が見ているのは私ではなくて――)
「白雪?」
 涙が溢れそうになるのを必死に堪えると、白雪は歪な、それでも必死に笑みを浮かべた。
「でも、私は男ですから」
「……そうだな」
「そう、ですよ」
 肯定しながらも、星辰は熱い視線を白雪に向ける。本当は白雪の正体に気付いているのではないか。気付いていて、今こうやって一緒の時間を過ごしているのでは。そんな都合のいい勘違いをしてしまいそうになるぐらい。


 その日の夜、臥牀に入った白雪は過去のことを思い出す。今にも泣きそうな顔をしているお兄さんに笑って欲しくて、色々と話をした気がする。別れ際、彼が笑ってくれたことが嬉しくて、屋敷に帰ってから銅鏡をどこにやったのかと母に怒られたけれど、そんなの気にもならなかった。それぐらい彼の笑顔は特別だった。
「あの子が、星辰様だったなんて」
 眠ろうと思って臥牀に入ったはずなのに、思い出せば思い出すほど胸の音がうるさくて眠れなくなる。星辰なら、自分の正体を話せば受け入れてくれるのでは。そんな甘い考えが脳裏を過った瞬間、自分に課せられた対価を思い出した。
「そう、だ。私は」
 白雪は星辰を殺さなければいけない。それがこの後宮に宦官として入るためにかけてもらった呪術の対価。
「星辰様を――」
 そんなことしたくない。けれど――。
 どうすればいいかわからない想いの狭間で、白雪は衾褥を涙で濡らし続けた。


 白雪が後宮に入って、いつの間にか二ヶ月が経とうとしていた。来た当初、咲いていた薔薇や牡丹はいつの間にか散り、庭園には鳳仙花の赤みがかった紫色の花や凌霄花(のうぜんかずら)の橙色をした花などが咲き誇っていた。
「おい、こっちの手伝いも頼んでいいか?」
「はい、大丈夫です」
 志平の言葉に頷くと、頬を伝い落ちる汗を拭い袖をまくった。日の高いこの時間は、随分と気温も上がる。
「あっちー。汗衫でいちゃいけねえのかな」
「さすがにそれは太監様が黙っていないのでは」
「まあ確かにそうだな。あ、それ取って」
「はい」
 地面に置いてあった道具を志平へと手渡す。またこうやって話ができるようになってよかった。隣で真剣な顔をして壊れた小卓を直す志平を見て白雪は安堵する。
(それにしても、こんな姿を星辰様に見られたら大事でしょうね)
「そんなことする必要はない」と冷たく言う星辰の姿が目に浮かんで、思わず笑みがこぼれる。そんな白雪に「どうした?」と志平は怪訝そうな表情を浮かべていた。
「よし、修理完了っと。これでまだ使えるだろう」
 手際よく直してしまった志平に感心する。白雪ではきっとこうはいかないし、なんなら余計に壊してしまうかもしれない。
「それにしても、外国のお偉いさんが来てるからっていろんな宦官が外朝の方に行ってて、こっちは閑散としてるな」
「そうですね」
 いつもなら辺りを見回せば、どこかしらに見える宦官の姿が今日はほとんどない。各殿舎付の宦官と、それから白雪たちのような役に立たない下っ端以外の、主に警備に携わる宦官たちは外朝の方へと駆り出されていた。
 そのおかげで、白雪も今こうして志平と過ごすことができているのだけれど。
「ま、いっか。そのおかげで陛下がこっちに来なくてこうやって白雪と喋れるし」
 どうやら志平も同じことを考えていたようだ。
「ずっと話しかけたかったのに陛下の護りが厳しくて、全然声かけられねえしさ」
「そうだったんですか?」
「そうだよ。お前、何も言わずに部屋も移動してしまうし。俺、部屋に戻ったら荷物がなくなってて驚いたんだからな」
「すみません……」
 白雪も志平に挨拶したかったのだけれど、急かしに急かされてそれどころではなかった上に、落ち着いてからもいつも星辰がそばにいて志平の元に行きたいなどと言える雰囲気ではなかった。
「まあ、いいよ。俺も色々あって忙しかったしな」
「そうなんですか?」
「そうだよ。俺、今世話になってる殿舎の姫君がいてさ。もしかしたらその殿舎付になれるかもしれないんだ」
「それは凄いですね。おめでとうございます」
 嬉しそうに鼻をかく志平に、白雪は心から安堵する。世話になったにも関わらず、自分一人が個室に移ってしまったことがずっと気になっていた。けれど、殿舎付となれば今よりもいい部屋で生活もできるだろう。もしかしたら塔に部屋を持ってまた一緒の場所で寝起きすることもできるかもしれない。そう考えただけで心が躍るから不思議だ。
「そういえばさ、お前陛下とずっと一緒にいるだろ? 大丈夫か?」
 ひと段落ついて、木の下に腰を下ろした白雪たちは、志平が貰ったという包子に齧り付いていた。
「大丈夫って?」
 口の端についた汁を舌で舐め取る志平に、白雪は首を傾げた。たしかに距離が近かったりよく触れたりはしてくるけれど、それは大丈夫かと言われると嫌じゃない、としか答えようがなくて。いや、そもそも志平がそんなことを知っているわけもない。と、なれば『大丈夫か?』とはいったい何のことを指しているのか。
 訳がわからず困っていると、志平は「大丈夫ならいいんだ」と言ってもう一口包子に齧り付いた。けれど、『ならいい』と言われて『はい、そうですか』と言えるわけがない。
「何が『大丈夫か?』だったのですか?」
 包子を持った手を膝の上に置くと、隣に座る志平を真っ直ぐに見つめた。
「や、その。別にたいしたことじゃねえんだ。ただの噂話かもしれねえし。ただお前が陛下に気に入られてるから心配で」
「だから何なんですか? はっきり言って下さい」
 勿体ぶった言い方をする志平に苛立ちを覚えて、少しだけ言葉が強くなる。そんな白雪に「じゃあ言うけどさ」と声を潜めると、何かを確認するように辺りを見回しそれから口を開いた。
「皇帝陛下に妃殺しの噂があるんだ」
「え……? 何、言って……」
 冗談だよね、そう続けたかったのに、志平があまりにも真剣な表情をしていたので白雪は何も言えなくなってしまう。
「東の奥の殿舎に少し前に新しい方が入ったのはお前も知ってるよな?」
「東の、殿舎」
 その言葉に、白雪の心臓が大きく鳴り響いた。
「以前いた紅昭儀という方が亡くなったんだが、その犯人が陛下らしいんだ」
「う、そ……」
「嘘なんて吐くものか。だいたいこんなこと嘘で言えると思うか? 誰かに聞かれてみろ。不敬で首が飛ぶぞ」
「それは、そう、ですけど」
 こんなことで嘘を吐くなんて思えない。でも、それでも白雪は信じたくなかった。星辰が白雪の姉である瑞雪を殺しただなんて……。
「大丈夫か?」
 黙り込んでしまった白雪に、志平は心配そうに声をかける。なんて返事をしていいかわからず、首を振る。大丈夫かと言われれば大丈夫ではない。けれど、こんな話を突然聞いて信じられるわけもない。
(でも、もしも――)
 そんなことあるわけがない、と思いながらも、もしも志平の言うことが本当で、星辰が瑞雪の仇なのだとしたら――。そんなことを考えてしまう。
 地面に生えた背の低い草を握りしめる。もしも本当に星辰なのだとしたら、自分は殺すことができるのだろうか。瑞雪を殺した犯人を殺すつもりでここに来たのに、どうして今さら迷いが生まれるのか。どうして――。


 志平から話を聞いて数日が経った。あの日から、忠告とばかりに志平は瑞雪の、そして今まで星辰が殺した女の話を何度も何度も白雪に話した。どういうふうに殺されたのか、どんな不興を買ったせいで殺されることとなったのか、殺された女たちの死体がどうなったのか。
 最初こそ星辰がそんなことをするわけがないと、そう思っていたのに。何度も何度も繰り返し聞くうちに、不信感が思いが大きくなっていく。まるで頭に靄がかかったように、上手く考えられない。『もしかしたら――』そんな思いはやがて『どうして――』へと変わっていった。
「白雪……白雪!」
「あ、え、星辰、様」
「何を呆けている」
 すぐそばで星辰の声がして、白雪は慌てて顔を上げる。後ろから白雪を抱きすくめるようにして座る星辰は、白雪の頭頂部に顎を乗せ、不服そうな声を出した。
「俺の腕の中で呆けるとはいい度胸だな。いったい何を考えていた?」
「も、申し訳ございません!」
 向き直って頭を下げようとするけれど、星辰は白雪の身体に絡めた腕を放すどころか力を込めた。
「俺の腕の中で、他のことを考えるな」
「…………」
 考えていたのは星辰のことなのだけれど。では何を考えていた、と尋ねられでもしたら余計に困る。返事に窮していると、白雪が黙っていることに痺れを切らした星辰が返事を促すようにもう一度「わかったか?」と尋ねた。
「……はい」
 白雪の答えに満足そうに頷くと、星辰は「喉が渇いたな」と呟いた。
「あ、では茶を淹れてきます」
「そんなもの誰かに命じれば――」
「いえ、それぐらい私にもできますので少しお待ちください」
 星辰の腕の中から抜け出ると、白雪は部屋に用意された風炉釜を使い湯を立て、茶を煮る。白雪は円領袍の袖に隠した小さな紙包みを手のひらに載せた。水蘭に渡された、皇帝を殺すための毒。それが包みの中には入っていた。
 目の前の茶にこの包みの中身を入れれば、瑞雪の敵討ちも、そして水蘭にかけてもらった呪術の対価を払うこともできる。けれど、いや、でも。
 何度も何度も志平から聞かされるうちに、白雪の中でどんどんと星辰に対する疑いが大きくなっていった。信じたいと思っていたはずなのに、今ではもう信じることさえできない自分がいる。いっそ問えたらいいのに。『どうして瑞雪を殺したんですか』と。
「白雪」
 背後から、星辰の声がした。白雪は驚きと恐怖で肩を振るわせると、手のひらの紙包みを握りしめた。
「ど、どうされました? 茶ならもう少しでいれ終わりますので――」
「その包みは捨てろ」
「なっ……」
 まさか、気付かれたのだろうか。紙包みを握りしめる白雪の拳に力が入る。小刻みに震える拳を、反対の手のひらで包み込んだ。
「それを入れた瞬間、俺はお前を処刑しなければいけなくなる。俺にそんなことをさせてくれるな」
「……っ」
 処刑されることなんて怖くない。だってこの人は瑞雪の仇で――。
「白雪、俺を見ろ」
 星辰は白雪の頬を両手で挟み込むと、自分の方を向かせ目を合わせた。青みがかった目に真っ直ぐ見つめられると、なぜか頭の中が鮮明になっていくのを感じた。
「あ……れ?」
「ちっ、俺の知らないところで呪術にかけられたな」
「呪術……?」
「大方誰かに俺を疑うように仕向けられたんだろう。俺が来られない間、お前のそばを彷徨いていたやつがいただろう」
「まさか、そんなこと……」
 志平の顔が思い浮かんで、慌てて打ち消した。志平がそんなことするはずがない。だって志平は、白雪が後宮に来て初めてできた友人で。
 けれど冷静になった今となっては星辰が何の根拠もなくこんなことを言わないとわかる。
「あいつの名前は」
「徐志平です……」
「お前との関係は?」
「後宮に来たばかりの頃、数日でしたが同じ部屋で生活していて……私にとって、後宮で唯一の友、です」
 白雪の答えに、星辰は舌打ちをすると苦々しそうに顔をしかめた。
「そいつがかけたかはわからんが、お前に呪術がかかっていたことは確かだ」
「それは」
 志平がかけたものではなく、水蘭にかけられたものでは。そう喉元まで出かかった。けれどそれを言ってしまえば、自分がどうやってここに来たかを話すこととなってしまう。少なくとも、星辰から『女だ』と指摘されていないのであれば、未だあの呪術は解けていないのだろう。
「俺の目には幻術や呪術を解呪する力がある」
「え……」
「嘘だと思うか?」
 星辰の言葉に、白雪は静かに首を振った。星辰の言葉に、先ほどの疑問に答えが出た気がした。星辰に言われるがままに青みがかった目を見つめたあのとき、だから頭の中が鮮明になったように感じたのだろう。
 逆に言えばそれは、何者かによって白雪に新たなる呪術がかけられていた証明にもなってしまっていた。
「徐志平は何か言っていなかったか」
「何か、とは」
「何でもいい。自分の近況についてや身の回りのことだ」
 白雪は必死に志平との会話を思い出すが、そんなことは特段聞いた覚えが――。
「あ」
「何だ、言ってみろ」
「い、いえ。大したことではないのですが……今お世話になってる殿舎の方がいると。もしかするとその方の殿舎付の宦官になれるかもしれない、と言っていました」
「どこかの殿舎、か」
 何かを考え込むように眉をひそめ、それから白雪を見つめ口を開いた。
「白雪」
 真っ直ぐに見つめてくるその瞳から、目を逸らすことができない。
「知りたいことがあるなら俺に聞け。不安に思うことも不審に思うことも全てだ。俺の知らないところで勝手に悩んで心を痛めるな」
 星辰の言葉が、白雪の胸に染み渡っていく。けれど僅かに、この言葉を本当に信じてもいいのだろうか、と思ってしまう自分がいて。
 そんな白雪の不安を感じ取ったのか、星辰は袖に手を入れると、中から何かを取り出した。
「それ、は」
「先日話した俺の銅鏡だ。これに誓う。だから俺を信じろ」
 志平ではなく自分を信じろと、暗に星辰は言っていた。友ではなく、自分を。
 白雪は、星辰が差し出した銅鏡に視線を落とす。それは、間違いなく幼い頃白雪が持っていた銅鏡だった。円形の銅鏡が多い中、白雪のものは右端が歪な形となっていた。それは瑞雪のものと対となる形だったから。二つの銅鏡を合わせると一つの文様が浮かび上がる。白雪と瑞雪を模した二匹の鳥が向かい合うのだ。
 もしかしたら白雪の正体に気付かれているのかもしれない。けれど、もうそんなことはどうでもよかった。
「あなたが、紅瑞雪を殺したのだと言われました」
「殺してなどいない」
「他の妃嬪も、何人もあなたが」
「お前は俺が殺したと思うのか」
「……わかりません。でも、あなたじゃないといいと、そう思っています」
 殺していないと言い切れるほど、新鮮のことを知っているわけではない。白雪に見せている顔だけではなく、皇帝としての顔も持っているはずだから。
 それでもこの人ではないといいと、この人ではなくてほしいとそう思うのは――。
(いつの間にか、殺さなければいけないはずのこの人を好きになっていたから)
 自分の中に芽生えた気持ちにようやく白雪は気付いた。そして同時に思う。きっともう自分にはこの人を殺すことはできないだろうと。


 星辰に連れられるままに長椅子に座る。もう定位置となったように、星辰は白雪を自分の膝の上に載せる。
「あ、あの」
「なんだ、まだ慣れないのか」
 慣れない、というよりも自分の気持ちに気付いてしまった今となっては、先日までこの場所に座っていた自分に感心してしまう。まるで全身が脈打っているのではと思うぐらい心臓の音がうるさい。頬だけでなく、星辰と接している箇所全てが熱を帯びていた。
「さっさと慣れろ」
「む、無理です」
「まあいい。恥じらっている姿も可愛いからな」
「かっ……わいく、ない、です」
 白雪が否定してみたところで、まるで聞こえていないかのように星辰は笑う。損な星辰の笑みにつられるように、白雪も思わず頬を緩める。
 背後からそっと白雪を抱きしめると、星辰はその肩に顎を乗せた。
「後宮で俺ができることはまだ少ない。正妃のいない後宮は、皇太后である母上が未だに実権を握っている」
 そう話し始めた星辰の声が今までにないほど弱々しくて、白雪は思わず振り返りそうになる。けれど。
「こちらを見るな」
 白雪を止めるその声が、まるで「見ないでくれ」と言っているように聞こえて、静かに頷いた。
「後宮だけではない。外朝も未だに父上の頃からいる重鎮たちが、俺の見えないところで甘い汁を啜っている。そのせいで内廷にも外朝にも泣いているものがいることは知っている。だから俺は一日でも早く全てを掌握したい。外朝は少しずつ動き始めた。次は後宮だ」
「星辰様……」
「そのために、隣に立ってくれる妃がほしい。俺に守られるのではなく、俺とともに歩んでくれるような」
 白雪を抱きしめる星辰の腕に、力が込められたのがわかった。そこに込められた想いに気づかないほど鈍感なつもりはない。けれど。
(私は、あなたの隣に立つことはできない)
 白雪は瑞雪の敵討ちのためにここに来た。皇帝を――星辰を殺すことを対価に。だから。
「いつか、そのような女性が現れるといいですね」
 震えないように、涙声にならないように、そう伝えるだけで精一杯だった。


 星辰を殺したくない。けれど、こうやってここにいる以上はすでに呪術による契約は結ばれているはずだ。
 星辰が出て行った部屋で、白雪は一人ため息を吐いた。窓の外はすっかり闇が広がり、月明かりが後宮を照らしているのが見えた。星辰の後宮を。
「もうどうにもできないのかな……」
 水蘭は言っていた。呪術の対価として皇帝を殺すように、と。さもなくば――。
「『私自身に対価を支払わせることになる』――つまり、星辰様ではなく、私が……?」
 きっと水蘭はそう言えば自分の命可愛さで白雪が星辰を殺すと思ったのだろう。けれど。
「なんだ、そっか。そっか……。よかった、これで星辰様を殺さなくて済む……」
 安堵の溜息を吐くと同時に、白雪の頬を涙が伝い落ちた。自分が選んだはずなのに、今さらこんなにも後悔することになるとは思わなかった。
「本当は、あの人の隣であの人と同じ未来を見ていたかった」
 それは許されることのない未来。白雪か星辰、どちらかは必ず命を落とさなければならないのだから。そして白雪のせいで星辰が命を落とすなどということは、あってはならないことなのだ。


 星辰と話をしてから数日が経った。窓際の長椅子に座って白雪は何をするでもなく、ただ外を眺めていた。
 あの日から、白雪は部屋を出ていない。星辰からそうするようにと命じられていた。けれど、言われていなくてもきっと外には出なかっただろう。外に出て志平と顔を合わせるのが怖かった。塔には近寄りにくいのか、部屋にいる限り志平がやってくることはない。ここにいれば志平と会わずにいられるのだ。
 星辰は志平が白雪に呪術をかけたのだと言う。白雪が星辰を疑うように仕向けるために。けれど、その理由が白雪にはわからなかった。どうして志平がそんなことをするのかがわからない。けれど、それ以上に志平を信じたかった。もしかしたら星辰の勘違いかもしれない。いや、もしも星辰の言うように志平がしたのだとしても、そこには何か理由があるのだと白雪は信じたかった。白雪にとって志平は、この後宮で不安で仕方がなかったときに助けてくれた唯一の存在だったから。
「……って、あれ?」
 窓の外を見つめていた白雪は、少し離れたところに見える湖に人影を見た。この塔は後宮の監視も担っているらしく、上階――特に太監の部屋からはある程度の場所が目視できるようになっている。白雪の部屋も低階なので遠くまでは見渡せなくとも、見晴らしはよかった。
「あれは、志平……?」
 距離があるので絶対に、とは言い切れないけれどあの人影には見覚えがあった。志平らしき人影は、湖の畔に座り込み動かない。
 このまま志平から逃げていていいのだろうか。本当のこともわからないまま、志平から逃げて、それでもし志平が処罰をされることがあったとしたら、逃げた自分自身を白雪は許せないだろう。
「うん、話をしよう」
 話をして、本当のことが知りたい。それが白雪にとっていいことでも悪いことだったとしても。
 白雪はそっと自分の部屋を抜け出すと塔を下りた。湖まではそう遠くない。今ならきっと星辰が部屋を訪れるまでに戻ってこられるはずだ。
 小走りで志平のいた湖へと向かう。心臓が音を立てて鳴り響く。星辰に抱きしめられたときとは違う、不安とそれから緊張のせいで。
 ようやく湖にたどり着くと、そこにはやはり志平の姿があった。けれど、一人ではない。志平の視線の先には、華美な襦裙を纏った妃嬪の姿があった。
「何を……」
 湖を眺める妃嬪の後ろから志平はそっと近づいていく。まるで妃嬪に気付かれたくないかのように。そして――。
「やめて!」
「なっ」
 志平が妃嬪の背中を押そうとした瞬間、思わず白雪は声を上げた。白雪の声に気付いたのは志平だけではなかった。妃嬪も自分がされようとしたことに気付いたのか驚いたように悲鳴を上げて、その場に座り込んだ。
「今、何を……」
「くそっ」
「志平、待って!」
 顔を伏せるようにしてその場を立ち去ろうとした志平を白雪は必死に追いかける。今、自分が見た光景全て嘘だと思いたかった。
(だって、あんなのまるで、志平があの人を突き落とそうとしたみたいで……)
 志平がそんなことをするわけがない。そう思いたいのに、自分の目で見た光景はそうではないと告げていた。
「志平!」
 漸く追いついたのは、志平と二人よく掃き掃除をしていた人気のない庭園だった。腕を掴み引き留めるけれど、志平は白雪の方を向くことはなかった。
「志平、さっきいったい……」
 歯切れ悪く問いかける白雪の手を、志平は乱暴に振り払った。
「志平……」
「何のために追いかけてきたんだよ」
「…………」
「見たんだろ? 俺があの人を湖に突き落とそうとしたところを。それで? お前のせいで失敗した訳だけど謝りにでも来てくれたのか?」
 吐き捨てるように言いながら振り返った志平は、目が血走り顔を歪め、怒鳴りつけているはずなのに今にも泣きそうな顔をしていた。
「なんで、あんなこと」
「あの人が邪魔だから消して欲しいって言われたんだ」
「誰に?」
「それは言えない。でも、あの人を消せば俺のことを殿舎付の宦官にしてくれるって。引き立ててくれるって言ってくれたんだ。お前みたいに皇帝に尻を振って得た地位じゃない。俺は俺の実力でのし上がるんだ」
 志平の言葉はまるで鋭い刃のように白雪の心に突き刺さる。そんなふうに思われていただなんて。
「私、は……星辰様に、尻を振ってなど……」
「嘘吐け。宦官どころか妃様たちもみんな言ってる。お前は汚い手を使って皇帝に取り入ったんだって」
「そんな……志平はそれを、信じたのですか……?」
「……当たり前だろ。じゃなきゃどうしてお前みたいな何もできないやつが個室なんて与えられるんだよ。俺の方がお前より劣ってるわけがない。お前が汚いやつだから!」
「私、は……あなたのことを、友だと思っていたのに……」
 白雪の頬を涙が伝い落ちる。そんな白雪から志平は一瞬視線を逸らすと、馬鹿にしたように笑った。
「友だって? 笑わせんな。俺にとってお前は目障りな存在でしかなかったよ」
「……だから、私に呪術をかけたのですか?」
「気付いたのか。そうだよ、お前が皇帝に対して不信感を持てばいいと思ってた。お前と皇帝の間に亀裂が入ればもう可愛がられることもないだろうって」
「志平……」
「でも、そっか。気付かれたのか」
 先ほどと同じように笑みを浮かべているはずなのに、なぜか志平の表情が寂しそうに見えた。
 どうして志平がそんな表情を浮かべるのか気になった。けれどそれ以上に、白雪には確かめなければならないことがあった。
「志平に命じたのはどなたなのですか」
「それ、は」
「先ほど志平は今回の件が成功すれば『殿舎付の宦官に引き立ててくれる』と言いました。あなたにそんな……酷いことを命じたのは、どこのどなたなのですか!?」
「白雪……お前……」
 勿論、志平が自分に対して呪術をかけたことや、噂を信じたことは悲しかった。けれど、それ以上に志平の心の弱いところにつけ込んで、自分の手を汚すことなく利用しようとした人間のことが許せなかった。
「言えば、お前にも迷惑がかかる」
「かけてください。私は、今でもあなたを友だと、そう思っているのです」
 白雪の言葉に、志平は俯いて黙り込んだ。そんな志平に白雪は言葉を続けた。
「それに、もうすでに迷惑はかかってるんですから、さらにかかったところで大差ありません」
 そう言い切る白雪の言葉に、志平は一瞬真顔になり「たしかに」と笑った。その笑顔は、後宮に来たばかりの頃、不安で仕方がなかった白雪の心を和らげてくれた、あの頃の笑顔と同じだった。


「李昭容様……。それがあなたに命じた主、なのですね」
 志平から話を聞いた白雪は、思わず眉をひそめた。
「ああ。でもどうするつもりだ? 陛下に言って処罰してもらうのか?」
「それは……」
 白雪が言えば、たしかに星辰は李昭容を罰してくれるかもしれない。けれどその根拠が、宦官一人の証言では弱い。せめてもっときちんとした証拠が欲しい。
「一つ、頼みがあります」
 白雪はとある計画を志平に耳打ちした。星辰が知れば激怒しそうな計画を。


 数日後、白雪は再び塔を抜け出すと、先日志平と再会した湖にいた。畔で湖を泳ぐ魚を見つめていると――不意に誰かの叫び声が聞こえた。
「死ね!」
 その声とともに、白雪の左腕に焼け付くような痛みが走った。けれど自身が負ったであろう怪我に気に留めている余裕はなく、振り返った白雪は鬼の様な形相で自分を睨みつける相手を組み敷いた。
「な、にを……! 無礼者! 離しなさい!」
「あなたこそ! その刃、を! 離してください!」
 もみ合いになるうちに、二度、三度と女の持った刃が白雪の頬や肩を切りつけた。
「死ね! あなたさえ! あなたさえいなければ主上は!」
「……っ」
 気付けば女は白雪の上に馬乗りになっていた。血走った目を向け、下卑た笑みを浮かべたかと思うと、手に持った刃を白雪へと振り下ろした。
 ――はずだった。
「白雪!!」
 襲ってくるはずの痛みを覚悟し目を閉じた白雪の身体は誰かに抱き起こされ、耳元で聞き覚えのある声が聞こえた。
「星辰、様……」
 恐る恐る目を開けると、そこには慌てた様子の星辰と、それから兵士に取り押さえられる女の姿があった。
「私、は……助かったのです、か」
「お前は馬鹿か! どうして俺に相談しない! 何故一人で成し遂げようとする!」
「あ……」
 白雪の身体を抱きしめる星辰の身体が小さく震えていた。
「泣いている、のですか……?」
「泣いてなどいない!」
「そう、ですか」
 白雪は星辰の身体をそっと抱きしめ返す。銅鏡はもう持っていないけれど、こうやって抱きしめるための腕はある。自分よりも背の高い年上の男の子の頭に手の届かなかった幼子の自分ではないのだ。
「星辰様」
「なんだ」
「……いいえ、呼んでみただけです」
 ただ呼びたかった。あと何度呼べるかわからない、愛しくて大切な人の名を。


 李昭容が処刑された、と聞いたのは腕の傷が漸く癒えた頃だった。白雪への殺人未遂だけでなく、後宮内での行方不明事件や原因不明の事故死など、李昭容が関わった数々のことが明るみに出たらしい。
 白雪の姉である瑞雪の死も、やはり李昭容の仕業だったそうだ。曰く『自分が昭儀になれると思っていたのに、瑞雪が昭儀となってしまった。瑞雪さえいなくなれば昭儀になれると思った』そうだ。けれど李昭容のもくろみは外れ、新しく入ってきた別の人間が昭儀となった。それならば、と新しい昭儀を殺そうと命じるも邪魔が入って失敗してしまう。さらに失敗の原因となったのが、星辰が夢中になっている宦官ということもあり、冷静な判断ができなくなったらしい。
「まあ冷静な判断ができなくなってもらったんだけどね」
 白雪は僅かな荷物を詰めた袋を肩に担ぐと、辺りを見回した。先日の李昭容の起こした事件のせいで、後宮内はまだざわついたままだった。今なら、白雪が抜け出したとしても気付く人間はいないだろう。星辰以外は。
「……本当に出て行くのか?」
 手引きをしてくれるのは志平。本来であれば志平も処罰の対象なのだが、白雪がどうか志平だけは、と星辰に頼み込んだおかげで、こうして今日も後宮内で宦官として働くことができていた。
「私の目的は終わりましたので」
「まさか李昭容様が手にかけた方が、お前の姉さんだったなんて」
 志平には白雪が本当は女だということを除いて、今回の事件の発端となった瑞雪のことを話した。そして、瑞雪のことが解決した今、もう後宮にいる必要はなくなったことも。
「お前がいなくなったら寂しくなるよ」
「……私もです」
「いつか俺が外に家を建てられるぐらい偉くなったら、また会おうぜ」
「……はい」
 その頃、白雪がこの世にいないことを、志平に伝えることはできなかった。
「じゃあ、元気で」
「ありがとうございました」
 外に繋がる門をそっと開けると、白雪は志平に見送られ後宮をあとにした。白雪は振り返ることなく、歩いて行く。何の因果かその門は、水蘭に手引きしてもらい後宮に来たときと同じ門だった。
「――星辰様が知ったら、きっと怒るだろうな」
「当たり前だろう」
「ひゃっ」
 思わず呟いた独り言に、すぐ後ろから返事が聞こえ白雪は思わず飛び上がった。
 この声は、まさか。
「俺に言わずどこに行こうとしている。紅白雪」
「み、見逃してください。私はもう後宮には――」
「駄目だ。俺のそばから離れることは許さん」
「駄目なんです! 私は……」
(あなたのそばで、死にたくない……)
 星辰が白雪を大切に想ってくれていることはわかっている。だからこそ、この人のそばで死にたくなかった。だからといって星辰を殺すことなんて、白雪にはできない。それぐらい、星辰は白雪にとっても大切な存在になっていたから。だから。
「私は……」
「白雪、俺を見ろ」
 無理矢理振り向かせると、星辰はくすんだ青い瞳で白雪を見つめた。
「この目は何だとお前に言った」
「呪術を、解除する、目……」
「そうだ。それから、この目に呪術は効かん。どんな呪術も通さない」
「どういう……?」
 そういえば先ほど、星辰は白雪を何と呼んだ……?
「俺は最初から知っていたんだ。お前が女だということも、それからあの時の少女だということも」
「う、そ……」
「何か目的があるんだろうと思っていたが、まさかあんな無茶をするなんて。あれでは何のために俺がお前を閉じ込めていたかわからないではないか」
 塔に個室を与え、毎日の様に通い、白雪のそばにずっといたのは、まさか守ってくれていたから――?
「私、そんなこと、知らなくて……」
「お前にかかっていた呪術はこれで全て解けた。もう対価を支払う必要はない」
「それ、じゃあ」
「お前は死なない。これからも、俺のそばで生きろ」
 そう告げると、星辰は白雪の頬に口づける。そして――。
「で、でも!」
 唇を重ねようとした星辰の顔の前に、白雪は手のひらを差し込んだ。
「なんだ」
 少し苛ついたように言う星辰に、白雪は――。
「私は、宦官で……その、男の身体……」
 おずおずと呟いた。そんな白雪に、星辰はふっと笑った。
「その身体の、どこが宦官だって?」
「え、あ……」
 気付けば平だった胸には僅かではあるけれど膨らみが見えた。
 思い出したように白雪は、首から提げていた小袋を取り出すと中身を手のひらに出した。そこには赤く光る綺麗な玉があった。その玉にはもう、黒い文様は描かれていなかった。
「呪術は解いたと言っただろう。それでもまだ問題があるというなら、続きは後宮の臥牀の中で聞いてやる。行くぞ」
 星辰は白雪を抱き上げると、先ほど歩いた道を戻り始め、やがて後宮の門の前へと立った。
 ふわり、と白雪の身体を地面に下ろすと、星辰はそっと白雪の手を取った。
「同じ未来を見て、隣を歩いてくれるか?」
 きっとこれから先、大変なことはいくつもあるだろう。でも。
 白雪は握られた手を、そっと握り返した。
「はい」
 あの日、不安な気持ちを押し殺しながらくぐった後宮への門を、白雪は再びくぐる。
 大切な人とともに、同じ未来を見つめるために。夢見た未来を歩くために。