その日、お昼を終えたくらいから、体が重く感じていた。

 テーブルクロスやテーブルランタンのセッティングを変えたところで、一度座り込んでしまう。

「結花ちゃん、大丈夫?」

「すみません。大丈夫ですよ」

 そのときは少し目をつぶったら取り戻すことができたのだけど、いつもの時間までは頑張らなくちゃと腰を上げる。

 季節は梅雨に入ってジメジメしているし、私の体のサイクルからして、あまり調子がいい時でなかったという理由もある。

 その日の夜は、急な夕立もあったからか、暗くなってからのお客さんはほとんどいなかった。

「今日は早く閉めるか?」

「ダメよ。結花ちゃんのお迎えがくるまではね」

 保紀さんも分かって言ってる。いつものお客さんが来るまでは閉めないと。

「結花ちゃん、まだ勇気出ない?」

 カウンター越しに小声で菜都実さんが聞いてきた。



 先日、やっぱり今日のような雨の日でお客さんが誰もいなかったときに、菜都実さんと私それぞれお互いの過去のお話になったときのこと。

 菜都実さんは保紀さんとの誓いを教えてくれた。

 お母さんが話してくれた、菜都実さんたちのお話だ。

『佳織が結花ちゃんに話したって教えてくれて。妹のことはまた別のときにするわね』

 それは私が聞いても衝撃でしかなかった。

 お二人は中学3年生という若さで宿してしまった小さな命の重さをあれから何十年経った今でも受け止め続けている。


 結果的には自然流産になったから、表向きにはその記録は残っていない。

 それでも、お二人は周囲の声をひとつひとつ説得して約束どおり結婚。二人のお子さんも育て上げた。

 今になっても毎月の月命日には、当時は何も入れてあげることが出来なかった白木の箱を、号泣する当時の菜都実さんの前で大事に炊き上げてくれたお寺に早朝に行っては、花やお菓子を手向けているのだそう。

「佳織もね、結花ちゃんが生まれる前にいろいろあったのよ……。聞いていない?」

「あの……、それってこの間お母さんが話していた、お空に帰ってしまったお兄ちゃんのことですよね?」

 あの日、私が一人っ子ではなかったと知った。

 でも、それ以上の詳しい話は聞いていない。お母さんも「結花が気にする話じゃない」と打ち切ってしまったから。



「なんだか、きっかけが難しくて……。こんな私のこと……、どう思ってくれているのか……分からないんです……」

「そうよね。三人でよく悩んだもんなぁ。『きっかけ』をどうしようって。あたしは分かるよ。結花ちゃんを見ているときの先生は違う。あれは結花ちゃんを絶対に特別だって思ってる」

「またまた。菜都実さん、期待させないでくださいよ……」

 いつもどおりの時間、ドアが開いて先生が入ってきた。

「いらっしゃいませ。一日お疲れさまでした」

 お昼と同じように、夜の時間にも常連さんというのがいる。

 いつの頃からか先生だけには言葉を追加するようになっていた。

 菜都実さんたちが他の仕事をしていても、これで私の仕事終わりの予告になると笑っていたっけ。

「雨は上がりました。よかったですよ」

「なんだぁ、結花ちゃんと一本の傘に入っていくチャンスだったのにねぇ」

 お水を持って行ったとき、先生は注文より先に私の顔をのぞき込んだ。

「なにか顔についてますか?」

「原田、おまえ熱出してないか? 菜都実さん、この子に氷を袋に入れて持ってきてもらえます?」

「えっ? 結花ちゃん本当に?」

 先生がおでこに手を当ててくれた。その触感が冷たくて気持ちいい。

「やっぱり……。冷や汗までかいてるじゃないか。自分でやるから原田はここに座ってろ」

 菜都実さんが言われたとおり、急いで袋に氷を入れて、飲み物も持ってきてくれた。

「もう、結花ちゃん無理しちゃって」

「ごめんなさい……。なんとか気づかれないで済めばと思ったんですけど……」

 先生がご飯を食べている横で冷たいアイスコーヒーを飲ませてもらった。

「先生、よく結花ちゃんの熱に気がつきましたね」

 菜都実さんがテーブルでお会計まで済ませてくれる。

「原田はもともと色白なんで他の子より気づきにくいんです。ですか、耳が赤くなるのは高校の頃と変わらないでしょう」

 その言葉を聞いて胸がドキドキする。

 あの当時からそんなところまで見てくれていたんだ。

「帰りはタクシーでも呼ぶ?」

 熱の影響と、先生に覚えてもらえていた高揚感が混じってしまって、正直その後のことはよく覚えていない。



 気がつくと、私は先生の背中に揺られてお家への道を進んでいるところだった。


「気がついたか?」

「あ、あの……」

 タクシーを呼んで待つより、この方が早いと先生が言ってくれたんだって。

「原田、軽いな。もっと食べて体力を付けないとな」

「はい……」

 恥ずかしさが加わって更に火照った顔をさらっていく海風が心地いい。

 申し訳ないと思いながら、再び顔を先生の背中に埋めて目を閉じた。