こうして彼との恋の思い出に焦がれるまま、大学四回生になる前に、私は最後の恋に出会った。
「葉方さん俺といつ付き合ってくれるん?」
飲んだくれの酔っ払い状態で私に告白をしてきた男は、同じインターン先の会社で出会い仕事をしていた先輩だった。
少し前から一緒に遊んだりご飯を食べたりしていて、久しぶりに心から「この人いいな」と思えた人だ。
桐生陸との恋の思い出に散々振り回されていたと思っていたけれど、いつしか心の整理がついていたのだ。止まったままだと思っていた時間は、少しずつだけど確実に私を過去から遠ざけていた。
「いつでも、いいです」
素面の私が冷静に答えると、酔っ払いの彼は嬉しそうに目を細めた。普段は仕事ができて格好良い人なのに、酔っぱらうと無防備な姿に、年下ながら「かわいい」と感じる。
「じゃあよろしく」
「はい」
なんてあっさりとしたやりとりなんだろう。ロマンのかけらもないシチュエーションなのに、心は満たされている。ドキドキしながらメールを送ってもいなし、一度断ってやっぱり付き合おう、なんて展開でもない。だけど、ちゃんと彼を好きだと思う自分がいた。ずっと過去の恋に引きずられ囚われたままだと思っていたけれど、そうではなかった。私は前に進んでいた。
そんな彼と一年半後に籍を入れ、今年の秋に娘が生まれた。私は今年26になる。いつの間にか、桐生陸と過ごした二年間より、夫と過ごした時間の方が長くなっていた。夫は桐生陸みたいに「好き」や「愛してる」を逐一言葉にはしないタイプだった。それでも、言葉や態度の端々から私を大切にしてくれているのが伝わって嬉しくなる。
夫への気持ちは、恋から愛に変わったと思う。一緒にいるのが当たり前すぎて好きだという気持ちを忘れそうになることもある。でも、いざ目の前からいなくなられるととても辛い。私はとっくに愛に囚われていたのだ。愛は恋よりも穏やかで、刺激はほぼ皆無に等しい。あれだけ刺激的な大恋愛をした自分にとっては、新しい世界が開けた感覚だった。人はそれを時につまらないというけれど、つまらない日々がこんなにも特別で愛しく思えるなんて、高校生の自分には予想もしていなかった。

桐生陸との恋は、寂しさだけを残したわけではなかった。彼は私に愛される喜びを教えてくれた。だからこそ、もう一度別の誰かを好きになれたのだと気づく。彼はこの先一生私とはねじれの位置にいるのだろう。私はまた時々思い出して懐かしいと感じるのだろう。死ぬ前にまた振り返るかもしれない。未熟だったあの恋は、未熟ゆえに完璧だった。

また夢を見た。娘がお腹にいた時だ。約半年から一年ぶりに、夢の中に桐生陸が現れた。別れてからもう8年が経って、私も彼も大人になった。
桜並木の坂道を、私は夫と歩いている。夫がまだ現実では生まれていない娘を抱っこし、光ふる道を穏やかな気持ちで進んでいく。
すると、目の前から桐生陸が坂を降ってきたのだ。彼は私を私だと気がつかない様子でこう尋ねてきた。
「あの、この辺で桜が綺麗に見えるところってどこか知ってますか?」
桜なら、この道自体が桜並木じゃないかと言いたいところだったがそうではないらしい。もっと桜の名所的な場所のことを聞いているらしかった。
「それならあっちの方です」
夢の中の私はなぜかその桜の名所を知っていて、振り返って川のある方を指差す。川の方からは、桜を見にきた観客たちの華やぐ声が聞こえてくる。
「分かりました。ありがとうございます」
笑顔でお礼を言って、桐生陸は川の方へと歩いていった。
ついに私に気づかなかったようだ。
ふふ、と口元に笑みがこぼれる。久しぶりに彼に会ったのに、ちっとも動じない自分の心が嬉しかった。
「どうかした?」
夫が私の顔を覗き込む。
「べつに! 行こう」
夫と娘とまた、桜吹雪の舞う坂道を歩き出す。春のうららかな陽気が美しい一日の夢だった。
目が覚めてから、いつもみたいに桐生陸の夢を見たあとの寂しさが募っていないことに気づく。それどころか、心がすっきりとして心地良い。
たぶん彼は私に本当に本当の最後のお別れをしてくれたのだ。
これから娘を育て新しい家族と一緒に歩き出した私に。
あのねじれの恋は決して無駄なんかじゃなかった。
今の自分が幸せなのは、あの時彼が本気で私を好きになってくれたからだ。
彼には言えなかったけれど、私は彼に幸せにして欲しかったんじゃない。彼と一緒にいれることがもうすでに幸せだったんだよ。
多分もう二度と伝えられない。それでもいい。これからは愛する家族と一緒に、幸せになろうと思う。
「ありがとう」
あれから彼は、一度も夢に出てきていない。

【終わり】