テレビの天気予報では、昨年より三日早い梅雨入りだと言っていた。

 このバンザイ測量機器メーカーの品質管理部で働く私は、畑中(はたなか)珠美(たまみ)、25歳。大学卒業後、ここで働き始めてやっと3年目。まだ、ぎりぎり第二新卒と呼べるので、転職するならいまのうち。
 壁にかかっている時計を見上げて、小さく息を吐く。

 ――あと、十分。

 あと十分で、定時のチャイムが鳴る。就業時間終了のお知らせのチャイム。

 今日の定時後、私は彼と会う約束をしていた。
 会社近くのコーヒーショップでも良かったのだけれど、知り合いに見られると面倒くさいなという思いもあった。すると、機転を利かせた彼が、個室の居酒屋を予約してくれた。
 居酒屋であれば、知り合いに見られたとしても、なんとでも言い訳ができる。

 キーンコーン、カーンコーン――。

 チャイムって、どうしてこのような音なのだろう。小学校から同じようなチャイム音を何年も耳にしている。
 その音と同時にパソコンの電源を落とし、机の中から鞄を取り出すと、急いで席を立つ。

「お先に失礼します」
「お疲れ~」

 嫌味が飛んでこなかったことに、ほっと胸を撫でおろして、更衣室へと向かう。

「おつかれさまです」
「お疲れ様です」

 定時で帰る人間はこれだけいるというのに、定時で帰ろうとすると文句が飛んでくるのはなぜなのか。
 急いで着替えた私は、あの男との約束の居酒屋へと足を向けた。
 梅雨に入ったというのは、あながち間違いではないのだろう。外へ出た瞬間、湿気の多い空気が肌にまとわりついた。少し早歩きをしただけで、じっとりと汗ばむような気温だ。
 外がまだ明るいのは、これから夏至がやってくるからだ。反対方向から歩いてくる人にぶつからないよう、人込みの中を歩く。

 ――あった……。

 彼が予約したという居酒屋は、職場からも少し離れた場所にあった。
 ちょっと小洒落た料亭のような外観で、明るい店内が印象的だった。

 割烹着姿の年配の女性に、予約をした彼の名を告げると、奥の個室へと案内された。
 掘りごたつ式になっていて、足が伸ばせるのがありがたい。
 障子戸も趣があり、どこか懐かしい気持ちになる。

 私は定時ダッシュでここに来たけれど、きっとあの人は、部下に仕事を割り振ってから来るのだろう。
 そう思い、鞄から文庫本を取り出して、彼が来るまでそれを読み始めた。

 どうやら、どっぷりと本の世界に浸っていたようだ。

「待たせて、悪かった」

 ふっと現実に引き戻されて顔をあげると、黒い髪を後ろに撫でつけた、ちょっと見目のいい男――黒須(くろす)健太郎(けんたろう)が、そこには立っていた。

「君は、また本を読んでいたのか?」
「時間は有限ですから」
 言いながら、読んでいた文庫本を鞄にしまった。

 健太郎さんは上着を脱ぎ、私の目の前に座る。
「お腹、空いただろう? 好きな物を頼んでくれ」
「好きな物って……」

 どうせなら、おフランスのコース料理とか、くるくる回る中華のコースとか。一人では食べることができないようなメニューが良かったけれど、知り合いに見つからないよう会うことが目的なので、食べたい物についてはあきらめることにしてみた。

「飲み物は……、ウーロン茶でいいか?」

 健太郎さんがそう尋ねてきたことに、私はぎょっと目を見開く。
 彼は、私が「まずは、生で乾杯」の女であることを知っているはず。

「あー、ジンジャーエールで」
「だったら、俺もそれにしよう。食べ物は、適当に選んでもいいか? ここの料理は全てが手作りだから、君の口にも合うと思うのだが」
 まるで、以前からこの店を知っているかのような口ぶりである。
「おまかせします」

 すると彼は、嬉しそうに口元を緩めた。

 ――だめだめだめ。この笑顔に絆されては駄目。

 そう。今日は彼にあのことを伝えにきたのだ。そして、同意書にしっかりとサインをもらわなければならない。
 店員を呼んだ健太郎さんは、慣れた口調でメニューを伝えた。相手の店員も、彼のことを知っているかのような口ぶりで答えている。
 少しだけ、心の中がもやっとした。

「それで、今日は何かあったのか?」

 健太郎さんは、同じ会社の部署違いだ。資材部門の部門長を務めている。年も三十代前半だったと思うけれど、この部品入手難の時代に、どこからともなく伝手を使って、部品をかき集めてくることから、神の手(ゴッドハンド)とも呼ばれている。

「何かなかったら、わざわざ会おうとはしませんよね」
「俺は、君に会いたいと思っていたが?」
「またまた~」

 こういうことをしれっと言いきっちゃう辺りが、大人なのだろうか。第二新卒の私には、わからない世界だ。

「あのですね。こちらにサインをいただきたく……」

 鞄から取り出した二つ折りの書類。料理や飲み物が届く前のこのテーブルなら、書類を広げても汚れることはない。

「何だ、この書類は。婚姻届けか?」

 この顔で、この手の冗談は面白くない。

「何でもいいですから、ここにちゃちゃっと名前を書いてください」
「何でもいいわけはないだろう? 契約をするときは、きちんと契約内容を確認すべきだ」
「契約ではありませんから」

 だけど健太郎さんは、契約をするときにはきちんと契約内容を確認する男のようだった。じっと渡した書類に視線を落としては、その顔色を変える。

 ――あ、バレたかな。

「俺は、サインをしない」
「え?」
「責任はとる」
「いやいやいや。とらなくていいです」
「だから、俺の子どもを産んで欲しい」
「いやいやいや。責任で結婚とかされても困りますし」
「お待たせしました」

 割烹着姿の年配の女性が、飲み物と食べ物を手にして部屋に入ってきた。だから、私たちの話は中断。
 だけど、その女性は食べ物をテーブルの上に並べていくときに、あの書類を見てしまったらしい。

「ケンちゃん……。あなた、何をやっているの」

 ――ケンちゃんって……、健太郎さんのことよね?

「せっかくあなたの子を授かってくださったこの子に、中絶をすすめているの? ホント、男の風上にもおけない男ね。お母さん、そのような子に育てた覚えはありませんよ」

 ――お母さん? お母さんってママ? え? 健太郎さんのお母さま?

「今、彼女と大事な話をしているのです。いいから、それを置いたらさっさと出て行ってください」
 こんな健太郎さんを初めて見た。

「あなた、お名前は?」
 健太郎さんのお母さまが、いきなりそんなことを尋ねてきた。

「母さん」
「あ、はい。畑中珠美です」
「タマちゃんね。可愛いお名前。年は?」
「25になったところです」
「ケンちゃんが32だから……。ちょうどいいかしらね? それに、素敵な髪の毛。黒くて真っすぐで、力を感じるわ」
「母さん。あなたが間に入るとややこしくなる。用が済んだなら、さっさと出て行ってください」
 こんなに声を荒げる健太郎さんも初めて見た。

「はいはい。ケンちゃん。きちんと自分の気持ちを伝えないと、彼女に逃げられるわよ」
 おほほほと、お上品に笑いながら、健太郎さんのお母さまは部屋を出ていった。

 パタン――。

 障子戸が閉められる。

「ここって……。健太郎さんのご実家なのですか?」
「実家ではないが、母の店だ」
「あぁ、なるほど」

 私は納得したような声をあげて、とりあえず目の前のジンジャーエールに手を伸ばす。
「とりあえず、乾杯しません?」
「何に乾杯する? 新しい命を授かったことか?」
「違います。今日一日、お疲れさまでした。乾杯」

 勢いよくジンジャーエールを飲んだ。空腹だったから、お腹の中で炭酸がしゅわしゅわ言っている。

「健太郎さんは、ビールじゃなくてよかったんですか?」
「君が飲めないのに、俺だけ飲むのは気が引ける」

 こういうところは律儀らしい。

「ま、とりあえず食べろ。料理は美味しい」
「見るからに美味しそうですもんね」

 私が褒めると、健太郎さんは目尻を下げた。身内を褒められるのは、やはり嬉しいのだろう。
 腹が減っては戦ができぬ、ということもあり、とりあえず私は食べた。

 だけど、食べ過ぎた。食べ過ぎるくらい、美味しかったのだ。
 後ろの壁に寄り掛かり、お腹をさする。

 そんな私を見ていた健太郎さんは、鞄の中から何かをゴソゴソと取り出していた。

「タマ。俺と結婚して欲しい」
「は?」
 開いた口がふさがらないとは、まさしくこのことを言うのだろう。彼の手の中には、何やら石が煌めく指輪がある。

「やはり君は、俺が見込んだ女性だった。俺の子を授かってくれて、ありがとう」
 あまりにもの展開の早さに、私は、ふがっと鼻を鳴らしてしまった。

「ちょっと待ってください。私たち、お付き合いも何もしていませんよね? 同じ会社で働く人。という認識なのですが」
「だが、それはあの夜までの話だろう? 俺はあのとき、君が気になっていたから、君を誘った。俺は後悔していない。まして、こうやって子を授かってくれたことには感謝しかない」

 もちろん、記憶がない。あの夜だって、気が付いたら朝だったのだ。朝チュン以上の朝チュンである。まったく記憶がないというのに、何が起こったかわかるような事後ではあった。
 だから私はあの朝、健太郎さんの目が覚める前に、あそこから逃げ出したのだ――。

「では。お付き合いから始めましょう」
「結婚を前提のお付き合いということでいいか?」
 普通のお付き合いと、結婚前提のお付き合いの違いがわかるほど、異性とのお付き合いが豊富なわけではない。

「まぁ……。そうですね。何事も無ければ、そのまま結婚で」
 ヒューっと、部屋の気温が三℃程下がったような気がした。ふるりと鳥肌が立つ。

「あ、すまない。舞い上がってしまい、霊力(ちから)が暴走した」
「はぁ……」

 何が暴走したのかよくわからないけれど、じめっとした空気の中でひんやりと吹き抜ける風は、少しだけ心地よかった。

「そういえば。なぜ、健太郎さんは、今日の私はビールを飲まないってわかっていたんですか?」
「君のお腹の中に、新しい命が宿っていることに気が付いたからだ」

 事前に妊娠したことを告げていたわけではない。にも関わらず、知っていた? なんで?
 その気持ちが、恐らく顔に出ていたのだろう。健太郎さんは、ふっと鼻で笑った。

「君のお腹の中から、俺と同じ霊力(ちから)を感じたからね。間違いなくその子は俺の子だ」
「はぁ」

 お腹がいっぱいで苦しい私は、といにかく健太郎さんの話を「うん」か「はぁ」で聞き流していた。

「タマ。手を出して。左手」
 仕方なく、黙って彼の前に左手を差し出すと、その薬指に指輪をはめた。

「俺の子だからね。君は狙われる可能性がある」
 ――何にだよ。

 そう、ツッコミを入れたかったけれど、お腹がいっぱいで何の返事もできなかった。