「ーーー空いているか?」
声と共に店のドアをくぐる長身の男が現れ、ソアの胸はトクンと弾む。
「ソジュンさま、いらっしゃいませ!どうぞ、こちらへ」
彼は頻繁に店を訪れる常連の上客で、名をソジュンと言った。年のころは恐らくソアより少し上の20そこそこだろう。色素が薄いのか、薄い栗毛に良く似合う白い肌は美しく、反して目鼻立ちは殿方らしく凛々しかった。
着ている服も上等で言葉遣いや立ち居振る舞いからも両班だろうと一目でわかる御仁だったが、店主とその女将もなぜそんな高貴なお方がうちみたいな大衆酒場に来るのか見当がつかない、といつも首をかしげている。
もともと、ソジュンがうちの店に来るようになったきっかけはソアだった。奉公先からこの酒場に来る途中、道をさまよう彼に声をかけたのが始まりだ。
『何かお困りですか?』
突然後ろから声を掛けられて驚いたのか、ソアを見つめたソジュンは目を見開いて固まっていた。
『…あ、いや…、その、この辺りで酒が飲めるところはどこだろうか、と…』
『えっと…、旦那様のような高貴なお方の行かれるようなお店は存じ上げませんが…町の酒場で良ければすぐそこにありますよ。私が働いている所なんですけど、豚肉とにらの包子が美味しいいと評判のお店なので良かったらどうぞ』
『そうか…、では、案内してくれるか』
それ以来、ソジュンはソアの働く店によく足を運ぶようになった。
いつも一人で静かに酒を飲み、時折つまみや食事を注文して、会計の際には決まって釣銭はいらないと言って帰っていく。
そんな懐の広いソジュンが来ると女将は上機嫌だし、いつもソアに優しく話しかけてくれる彼との時間はソアにとっても楽しみになっている。
「何か良いことでもありました?」
なんとなくいつもより表情の明るいソジュンは、「バレたか」と頬を緩ませる。
「あぁ、仕事が捗ってな」
「それはそれは、お酒も進んじゃいますね、ふふ」
冗談めかして言うと、「こやつめ」とおでこをトン、と突かれた。
ソジュンは、ソアを下女ではなく一人の人間として相対してくれる数少ない相手だった。いつも言葉を交わすのはほんの僅かな時間だけれど、ソジュンと話していると日頃の嫌なことを忘れられた。
それともう一つ、ソアはソジュンに幼き記憶の中にいるシウという男の子の面影を見ていた。
ソジュンの、きりっとした涼しい目なのに、ソアを見つめる優しい眼差しがシウを思い出させ、ソアを懐かしくさせた。
(シウは、今頃どうしているかしら)
おぼろげな記憶の中にいるシウという男の子とは、ソアがまだ両班だった頃、毎年夏の休暇で訪れる避暑地で出会った。
静かな湖畔を囲む避暑地で、ソアはシウと水遊びやかくれんぼをしてよく遊んだ。他に子どもがおらず、退屈だったソアには良い遊び相手で、シウもまたソアに懐いていた。
『ーーーソア、伽耶琴を弾いて聴かせて』
湖畔にかかる桟橋の上、シウにねだられたソアは、伽耶琴を膝にのせると見事に音を奏で始める。ピンと張られた弦がソアの細い指先に弾かれる度に、芯の通った清らかな音が白樺に囲まれた湖畔の空気を震わせた。
心地よい風が白樺の葉を揺らし、伴奏してくれているようだし、水面はソアのメロディに合わせるようにゆらゆらと陽の光を返している。
ソアは、とても静かなここで奏でる伽耶琴が一等好きった。
『間違えずに弾けた!』
最後の音まで勢いよく弾き終わると、ソアは晴れ晴れとした気持ちでシウを振り返る。
『まぁ、悪くはない、かな』
それは、シウの中ではまずまずの誉め言葉。ソアは、素直じゃないシウを、ふふふと笑う。
『嬉しい!』
そしてなにより、ソアの伽耶琴を弾いてほしいとねだるシウが純粋に愛おしかった。
『調子が良いからもう一曲ね』
『眠くなってしまうな』
『まぁ、シウったら酷い』
『ーーーシウさま、そろそろお屋敷に帰る時間でございます』
その声に二人はがっくりと肩を下ろす。
振り向けば、桟橋の入り口でシウの従者が立っていた。
その従者は、腰に刀を下げて常にシウとその周りに目を光らせているた。その鋭い目つきがソアは苦手だった。
周りの大人たちはシウのことを「さま」付けで呼んでいるのを、ソアはなんとなく好きじゃない。きっと自分なんかよりも位の高い家の子どもなんだろう、と思っていたけれど、子どものソアにそんなことは関係ない。
一度両親にも「シウさま」とお呼びしなさい、と言われたが、ソアは聞かなかった。というのも、シウ本人がそれを望んでいなかったから。
『シウさまシウさまって呼ぶけど、みんな俺のことなんか見ちゃいないんだ』
そう言って悲しそうに歪められた綺麗なシウの顔に、ソアは彼の心の叫びを垣間見た気がしたのを覚えている。
『シウ、また明日会える?』
渋々立ち上がった彼に投げかければ、『もちろんだ』と返ってきてソアの心は上を向いた。
別れの挨拶を交わして、シウと従者の姿が白樺の林に消えるまでずっと伽耶琴を奏でていた。
二人は毎日のように湖畔で会い、仲を深めていった。休暇の終わりには『大きくなったらソアと結婚する!ソアは俺が守るからな!』と半べそをかきながら離れるのを嫌がったほどだ。
ソアと背丈が変わらないくせに、いつも大人ぶってソアを守ろうと奮闘していたのを思い出してふふ、と笑った。
「なんだ、にやけて。何を思い出していたのだ?」
「昔のことを少し。仲の良かった人は元気にしているかな、と懐かしんでおりました」
「…仲の良かったその者とは男か?」
「えぇ、そうですけど」
「もしや、恋仲だったとか?」
「まさか、…でも、そうですね、今になればあれは恋心だったのかもしれませんね。今となってはもう会うことすら叶わないですけど」
休暇の後は、両親同士が交流があったことから、時折手紙のやり取りをしてシウの様子を知ることができていた。しかし、ソアが10歳の時に下女となってからは会うことはもちろん、便りすら送ることは叶わなくなった。
「…そうか…。それは、寂しいことだな…」
ソジュンは、まるで自分の事のように悲し気に呟く。それを見て、ソアは胸の奥が温まっていくのを感じる。
(ソジュンさまは、心の優しい人だわ…)
穏やかな物腰でやわらかさを纏ったソジュンの優しいまなざしに、ソアは癒されそして自分でも気づかないうちに惹かれていた。
「毎度ありがとうございます、旦那さま」
会計を済ませ、ご機嫌な女将に挨拶をしたソジュンは店を出た。ソアは、見送ろうと一緒に外へとでた。
「いつもありがとうございます。お気をつけてお帰りくださいね」
「あぁ、そなたも帰り道は気を付けるのだぞ。それと、何か困ったことがあればいつでも私に言え。力になってやる」
「はい、ありがとうございます」
「あぁ、それと、これを」
手に置かれたのは、先ほど土産にと注文していた餅菓子。まだほんのりとあたたかく、甘い香りがする。
「えっ、でも…」
「女将に見つからぬようにな」
ソジュンはこうしてこっそりソアに恵んでくれることが多々あった。毎日の食事を満足に取れることが少ないソアにとっては有難い恵みだ。
「いつもすみません、ありがたく頂戴します」
ぽん、と頭にソジュンの手が置かれ、撫でられた。優しい手はくすぐったい。
(妹みたいに思ってくれてるのかな…)
瘦せこけた体を見て不憫に思っての事とはわかっていたが、それでもこうして気にかけてもらえるのは嬉しかった。
「ソア…」
名を呼び、見つめる深い茶色の瞳は、何か言いたげに揺れている。頭を撫でていた手が耳を掠め、頬を包む。
ふと、視界が影ったと思えば、ソジュンの顔が近づいた。
「え…?え?…今…」
(おでこに…なにか…)
「ソアが他の男の話をするものだから、妬けてしまったではないか」
「妬ける…って、どういう…」
「ーーーーおやすみ、ソア」
ソアは驚きのあまり口をパクパクとさせ、柔らかな感触の残るおでこを手で押さえた。
(ええぇっーーーー!?)