明日の世界が君に優しくありますように

 そんなある日、張り詰めていたものがぷつんと切られてしまうような出来事が起こった。小学生のころからいちばん仲の良かった友達が、陰で『真波っていい子ぶりっこ、うざい』と言っているのを聞いてしまったのだ。
 その瞬間、悲しいという感情よりも、まず怒りが沸き上がってきた。とにかくものすごく腹が立った。いつもにこにこしながら『真波、大好き』と抱きついてきていたくせに、あれは全部うそだったのか。
 許せないという思いが抑えられなくて、聞かなかったふりなどできず、私は彼女を呼び出して話をした。
『言いたいことがあるなら、面と向かって言えば? 陰口とか卑怯だよ』
 そんなふうに思ったことを歯に衣着せずに相手にぶつけたのは初めてだった。でも、自分でも驚くほどきつい口調で、演技をしていない私は本当はすごく気が強くて嫌なやつなんだな、と知った。
 私に陰口を聞かれていたことに気がついて、彼女はひどくばつの悪そうな顔をしたあと、
『……でも、真波が悪いんだよ』
 と言った。私はそれまで仲がよかったはずの彼女を傷つけたり怒らせたりするようなことをした覚えがなかったので、『どういう意味?』と訊ねた。彼女は眉をひそめて私を睨み返し、無言のまま立ち去った。悔しまぎれの捨て台詞だったのかと解釈して、私はもやもやした思いを抱きつつも、なんとか怒りを抑えて帰宅した。
 その翌日から、彼女の仕返しが始まった。
 私がクラスのある男子に一方的な好意を向けていて、しつこくつきまとっている、という根も葉もない噂を、クラスの女子たちの間に流したのだ。勉強も運動も得意で、明るく気さくな彼はクラスの人気者だったので、私は女子全員から疎まれ、無視されるようになった。空気のように扱われるのに、教室のいたるところから一日中ちらちらと視線を送られ、そしてSNS上ではあからさまな陰口を叩かれるようになった。
 あとから知ったことだけれど、彼女はどうやら彼に好意を寄せていたようで、たまたま彼と話す機会の多かった私に対して嫉妬や憎悪を募らせていたのだという。
 その男子とは、ただ係が同じで席が近くなったから他の人よりもよく話をしていただけで、別にお互い特別な感情なんて抱いていなかった。そもそも私は当時、家のことや家族のことで頭がいっぱいで恋愛どころではなかったのに、彼女の目には私が彼に近づこうと媚を売っているように映ったらしかった。
 そんな勘違いが原因で、何年もかけて築いたはずの信頼関係が崩れてしまうことがあるなんて、思いもしなかった。女子同士の関係に恋愛感情が絡むとろくなことはない、と思い知らされた瞬間だった。だから私は、高校で女子たちから好意的に見られている漣が私に構うことに拒否感を覚え、女子たちからまた疎まれてしまうのではないかと警戒したのだ。
 容赦ない彼女の攻撃は、クラスの男子や先生たちには決して気づかれないように巧妙に仕組まれていた。クラス中の女子を巻き込んで、毎日繰り返される陰湿な嫌がらせと陰口。味方は誰もいなかった。
 ずっと仲良しだった彼女が、明るい笑顔の裏で実は私のことをそれほど憎んでいたのだと知り、私は足下の地面ががらがらと崩れていくような感覚に陥った。
 お父さんも真樹も祖父母も、裏で私のことを悪く言っているのかもしれない。私の前では口に出さないけれど、邪魔な存在だと思っているのかもしれない。そんな思いが胸をいっぱいにした。
 そのときから、世界中の誰も信じられなくなった。邪気のない言葉や笑顔の裏に、誰もが私に対する不満を隠しているかもしれないと思うと、会話をすることさえ怖くなった。
 孤立した中で、それでもなんとか学校には通い続けていたけれど、ある日の病欠をきっかけに、だめになってしまった。朝起きて家を出る時間になると、激しい腹痛に襲われて動けなくなった。
 体調不良を理由に欠席を続ける私に、お父さんは険しい顔で『どうして学校に行かないんだ』と訊ねてきた。親友と思っていた子に裏切られたことや、クラス中の女子から無視されていることを知られたら、失望されて、今よりもっと〝いらない子〟だと思われてしまうだろうと思った。
『本当に具合が悪いから』
 そう答えると病院に連れていかれ、当然『なにも異常はない』と診断された。お父さんは怒りを隠し切れない様子だった。
『学校をさぼっているのか。どうしてだ』
 もちろん本当の理由など言えるわけがなく、何度訊かれてもなにも答えない私に、お父さんはさらに苛立ちを募らせていった。一ヶ月が経ったころには、かなりきつい口調で叱られた。
『いつまで甘えてるつもりだ?』
 甘えと言われても仕方がないとわかっていても、その冷たい言葉は痛かった。
『真樹に悪影響が出るだろう』
 やっぱりお父さんにとって大事なのは真樹だけで、不登校になった私を心配していたわけではなく、ただ真樹まで休んだりするようになっては困ると思っていただけだったのだ。
 自分は大事にされていないのだと、はっきりと目の当たりにして落胆した。
 真樹は悪気なく何度も『お姉ちゃん、学校行かないの? 学校楽しいよ』と言ってきて、その無邪気さが当時の私にはかなりこたえた。お父さんの言葉への不満もあり、ずいぶん冷たい態度をとってしまっていたと思う。

 今までどうして、なんのために頑張ってきたのかまったく分からなくなってしまった私は、すべてに対して無気力になってしまい、そのまま中学校を欠席し続けた。お父さんも数ヶ月経つころには諦めたのか、なにも言わなくなった。
 なんとか鳥浦の高校に合格したときも、春からまた学校に通わなくてはならないと考えただけで眠れなくなった。きっとまた同じようなことになる、としか思えなかった。
 そして春休みになり、引っ越し予定の前日に、私はわざと階段を踏み外して、最上段から転がり落ちた。足首に激痛が走った。
 病院に連れていかれて、重症の捻挫で全治一ヶ月、という診断が下ったときは、怪我を理由に登校を一ヶ月先延ばしにできると、心からほっとした。
 でも、一ヶ月はあっという間で、怪我が治ってしまったので言い逃れができなくなり、とうとうお父さんに言われるがまま鳥浦に引っ越してきた。
 そして、母方の祖父母と再会し、ユウさんと漣に出会ったのだ。



 長くまとまりのない話を、漣は黙って聞いてくれた。
 雨風は次第に弱まり、波の音が耳に届くようになっていた。濡れた肌が不愉快だったけれど、気温が高いので寒くはなかった。
 でも私のせいで漣が風邪を引いたら嫌だな、と思っていたら、彼が海を見ながら「俺はさ」と口を開いた。
「俺はお前の親も、そっちのじいちゃんばあちゃんのこともちゃんと知らないから、あれだけど……」
 少し口を閉ざしてから、また続ける。
「お前の言うように、お前の親が本当にしょうもない親だとして、本当にお前のことを大事に思ってないとして……」
 漣が振り向き、そのまっすぐな瞳に私を映した。
「それは、もう、どうしようもないことだろ。そのしょうもない親がお前の親なんだから、しょうがないだろ」
 まさかそんなふうに言われるとは思っていなかったので、私は目を丸くする。ありきたりな綺麗事が返ってくると予想していたのだ。
 でもさ、と漣が続けて、いきなり強く私の手を握った。
「そんな親に、自分の人生まで壊させんなよ。しょうもない親のせいで、『私なんかだめだ』って自分のことないがしろにしちゃったら、どこまでも親の呪縛から逃れらんねえじゃん」
 漣の手のひらが、火傷しそうなくらいに熱い。私は大きく息を吸い込み、彼を見つめ返した。
「当てつけに死ぬよりも、お前がお前を大事にすることが、いちばんの仕返しだよ。お前がめちゃくちゃ幸せになるのが、いちばんの運命への反撃だよ」
「幸せになるのが、反撃……?」
 そうだよ、と漣がうなずいた。きっぱりと、迷いなく、確信に満ちた眼差しで。
「真波の人生は、真波のものだろ。親なんかにお前の人生、左右されるな。壊されるな、つぶされるな、奪われるな。ここまでの人生が親のせいでむちゃくちゃだったって言うなら、これから先の人生は、思いっきりやりたい放題やって、お前の好きに生きてやれよ」
 ——なんて強い言葉だろう、と思った。こんな考え方、私は知らない。
 だって、子どもの世界は親がすべてだ。親が子どもを否定したら、子どもは自分を否定するしかない。愛してくれない親のもとに生まれたら、不幸になるしかない。親からは逃げられないし、運命からも逃れられない。私はずっとそう思っていた。
 でも、違うのだろうか。親に愛されなくても、幸せにはなれるのだろうか。ぐちゃぐちゃに壊されてしまった私の人生は、直すことができるのだろうか。
 分からない。確信もない。でも、漣のまっすぐな瞳を見ていたら、そうなのかもしれない、と思えるから不思議だった。
 彼の言葉には、うそがないから。裏表がなくて、いつだってまっすぐで、その場しのぎの慰めなんて言わない。
 きっと今の言葉は、彼が心の底から信じていることなのだ。だから、こんなに心に響くのかもしれない。
「……うん。ありがとう……」
 言いたいことはたくさんあったけれど、湧き上がってきた思いが胸をいっぱいにして、込み上げてきた涙が邪魔をして、それだけしか言えなかった。
 漣もそれ以上なにも言わず、ただ手を握ってくれた。痛いくらいに強く、強く。


 夏休みになった。
 部活も補習もない私は、図書委員の当番がある日以外はナギサに行くのが日課になっていた。長い長い夏休みの時間を持て余した子どもたちが遊びにやって来るので、忙しそうなユウさんを手伝うという名目で。
 正直なところ、ユウさんに失恋してしばらくは、彼の顔を見るのもつらいという気持ちが確かにあった。でもそれ以上に私は、自分が変わるきっかけをくれたナギサという店のことを大切に思っていて、ユウさんとお店のためにできる限りのことをしたいという気持ちが強かったのだ。
 それに、ナギサさんとの思い出が詰まっているのだと、この前こっそり教えてくれた桜貝を、一日に何度も見つめているユウさんの横顔に気づいてしまったら、ふたりの間に私の入る隙間なんかないと痛いほどに思い知らされて、日に日に自分の気持ちと折り合いがついていった。今はただ、親しくしてくれている兄のような存在だと思うようにしている。
 くるくると動き回るユウさんの背中を見ながらそんなことを考えていると、ふいにスマホが音を鳴らした。見るとお父さんから、【いつ帰ってくる?】と相変わらず愛想のない短いメールが届いていた。
 あの雨の日、漣と一緒に家に戻ると、お父さんはすでにいなかった。嫌みのひとつでも言ってやろうと意気込んでいた私は拍子抜けしてしまった。
 あれほど漣との同居に難色を示していたお父さんがなぜあっさり引いたのか不思議に思っていたら、私と漣が家を出たあとにちょうど帰宅したおじいちゃんが説得をしてくれたのだと、おばあちゃんが教えてくれた。
 漣はちゃんとした身元の知人の息子だということ、今まで一緒に暮らしてきて人に危害を加えるような人間ではないと確信できるということ、それでも不安なのは分かるのでおじいちゃんたちが責任を持ってしっかり様子を見るということ。それらのことを保証するから信じて任せてほしい、と話してくれたという。普段は無口なおじいちゃんがそんなふうにお父さんと対峙する姿を、ぜひ見てみたかったなと思った。
 とはいえ、次の日の朝、お父さんからメールで、
【今後の進路についてちゃんと話がしたいから、夏休みに一度帰省するように】
 と連絡が来たので、まだ納得はしていないようだ。私は【気が向いたら】とだけ返した。漣の言うように、親の言葉や意見に縛られるのはやめにしようと思ったのだ。別に親の言うことは絶対ではないし、納得できなければ反論していい。それでも分かり合えなければ、自分の人生は自分のものだと割り切ってもいいのだと、考えられるようになった。
 今日も短く【まだ分からない】と返信して、カウンターでお絵描きをしている小学生の女の子ととりとめのない話をしていたとき、龍さんと真梨さんがやって来た。
「こんにちは……あっ」
 彼女の腕に小さな赤ちゃんが抱かれているのに気がついて、私は思わず声を上げた。
「わあ……生まれたんですね」
「うん、今日で生後一ヶ月。初めてのお出かけはナギサに行くって決めてたんだ」
 おくるみに包まれてすやすや眠っている赤ちゃんの頬を撫でる真梨さんと、それを隣で見つめる龍さんの顔は、眩しいくらいに輝いていた。
「あっ、龍、真梨、いらっしゃい」
 ユウさんがキッチンから出てくる。そして赤ちゃんに気づいて、「わあっ!」と声を上げた。
「連れてきてくれたんだ! こんにちはー、初めまして!」
 嬉しそうに赤ちゃんを覗き込んで話しかけるユウさんの肩を、龍さんが軽く小突く。
「優海、起きちゃうだろー」
「あっ、そうかごめん! いやでも、嬉しすぎて声のボリューム抑えらんないって……!」
 ユウさんが自分の口を塞ぎながら、でもやっぱり興奮を堪えきれないように笑った。
「そうかあ、龍もとうとう父親かー。頑張んないとな!」
 ユウさんはひそひそ声で言いながら、龍さんの背中をばしんと叩いた。龍さんは「うるさいし、痛いし」と言いながらも、「頑張るよ」と笑った。
「コーヒーと玉子焼きでいい?」
 ユウさんがキッチンに向かいながらふたりに訊ねる。
「あっ、でもあれか、真梨はカフェインだめか。栄養つくからバナナジュースとかにする?」
「あ、うん、ありがと。じゃあバナナジュースお願い」
「はいよー、ちょっとそこ座ってゆっくりしててな」
 テーブル席に腰かけた真梨さんの腕の中を、私も思わず覗き込む。
「赤ちゃん、見てもいいですか……」
「うん、どうぞ」
「うわあ、小っちゃーい……」
 目も鼻も口も、顔の横でぎゅっと握りしめられている手も、作りものみたいに小さかった。真樹が生まれたときも、こんなに小さかっただろうか。あまり覚えていないけれど、自分も小さかったからそれほど小さいとは思わなかったのかもしれない。
「そうだよね、生まれたての赤ちゃんってこんなに小さいんだーって、私もびっくりしちゃった。こんなに小さいのにちゃんと生きてるなんて、不思議な感じがするよね」
 真梨さんが小さな手をそっと指先でつつきながら言う。
「この子の寝顔を見てたら、無事に生まれてきてくれただけで本当にありがとうって思う。勉強ができなくたって、運動が苦手だって、立派な仕事につけなくたって全然いい。とにかく大きな怪我も病気もしないで、無事に生きていってくれたら、それだけで嬉しい」
 囁くように語った彼女の目は、少し潤んでいた。
「うん、俺も本当にそう思う」
 隣で龍さんもうなずいている。
「この気持ちを、忘れないでいたいね」
 彼の言葉に、真梨さんは優しく微笑みながら「そうだね」と答えた。
「こんにちは」
 声がしたので振り向くと、ドアを開けて入ってきたのは、制服姿の漣だった。部活帰りに直接寄ったらしく、大きなスポーツバッグを肩にかけている。
「うわっ、赤ちゃん!」
 真梨さんたちの姿に気づくと同時に駆け寄ってくる。
「生まれたんですね、すげえ!」
 ユウさんに負けないくらいきらきらとした目で言う漣の肩を慌てて叩き、私は「しー」と人差し指を立てて小声で言う。
「漣、声が大っきい。赤ちゃん起こしちゃうから、ボリューム落として」
「あっ、そっか!」
 彼はうなずいて赤ちゃんから少し顔を離した。
「なんか、ふたり、仲良くなった?」
 訊ねてきたのは、龍さんだった。すると真梨さんも、「私も思った」と笑う。
「真波ちゃんと漣くん、前はちょっとぎこちない感じだったのに、すごく距離が縮まった感じ」
「だよな、やっぱり。いやー、いいなあ、若いって」
「青春だねえ」
「俺たちにもこんなころがあったよなあ」
 私たちを置き去りに盛り上がるふたりの会話に入ることができなくて、私は口をぱくぱくさせた。なぜか一気に顔が熱くなり、慌てて下を向く。
「なに、照れてんの?」
 漣がおかしそうに顔を覗き込んできた。
「お前も可愛いとこあんじゃん」
「は、はっ!? なにそれ、ていうか照れてないし!」
 なぜか裏返ってしまった声で急いで否定する。前も漣から同じようなことを言われたことがあったはずなのに、どうして今回はこんなにも心臓がうるさいんだろう。焦る私をよそに、彼はさっきの私と同じように唇に人差し指を当てて言った。
「声でけーぞ、赤ちゃん起きたらどうする」
 そう言われると黙るしかなくて、言葉を引っ込めたせいかさらに頬に熱が集まるような気がした。私はうつむいたまま、勢いよく席を立つ。
「……なんか、あれだね、暑いね。窓開けようかな」
 誰にともなくそう言って、反対側にある窓に向かった。こんな顔を見られたら絶対に漣に馬鹿にされる。
 音を立てないように窓を開けたとたん、風にのって、遠くからかすかに太鼓のような音が聞こえてきた。
 真梨さんにも聞こえたらしく、「あ、太鼓」と呟く。
「そういえば、もうすぐ龍神祭だもんね。練習が始まるころだよね」
 耳慣れない単語に私は動きを止めて振り向く。すると、漣が隣にやって来て、窓の外に目を向けながら「八月の頭にある鳥浦の祭りだよ」と教えてくれた。
「鳥浦の海に住む神様の祭りなんだってさ。夜にみんなで灯籠持って町内を回ったあと海岸まで行って、灯籠を燃やすらしい。そうしたら願いが叶うって言われてるんだって」
 そう説明してから、
「まあ、俺もまだ見たことないけどさ。引っ越してきたばっかりだし」
 と笑った。その顔を見てふと思いつき、気になっていたことを訊ねてみる。
「漣って、前はどこに住んでたの?」
「N市だよ」
 その答えに、私は目を見開いた。
「えっ、そうなの? 私と一緒ってこと?」
「実はな」
「ええー、そうだったんだ、知らなかった……」
 ということは、漣はわざわざN市から、身内のいない鳥浦へと引っ越してきたわけだ。
 親の転勤というわけでも、私のように不登校という事情があるわけでもなく、親戚の家があるわけでもないのに、なぜなんだろう。
「なんで漣は、ひとりで鳥浦に引っ越してきたの?」
 思わず疑問を口に出すと、彼は少し唇を引き結んでから、ゆっくりと口を開いた。
「……会いたい人が、いて……」
 初耳だった。鳥浦に誰か会いたい人がいて、そのためにわざわざ引っ越してきたということか。そこまでして会いたいなんて、一体どんな人なんだろう。
「……それって、誰?」
「恩人」
 漣は短く答えた。
「じゃあ、その人に恩返しとかするために、わざわざここに下宿してるってこと?」
「まあ、な。どこにいるか分かんないから、とりあえずこのあたりに住みたくて、父さんに頼んでつてを探してもらって、真波のじいちゃんに行き着いたんだ。事情があってどうしても鳥浦に住みたいって相談したら、快く引き受けてくれてよかった」
「そうなんだ……それで、その人には会えたの?」
 何気なく訊ねると、彼の顔がぴくりと強張った。
「……怖くて捜せてない。でも、ここに住むことが、償いだと思うから」
 怖い? 償い? 恩人という言葉とはかけ離れた単語に、私は眉をひそめた。
 でも、張り詰めたような彼の横顔を見ていると、なぜだか言葉を失ってしまい、訊き返すことができなかった。
「……ちょっと俺、外出てくるな」
 急に漣がそう言って、店を出ていった。いつもより小さく見えるうしろ姿を、私は呆然と見送る。
 追いかけてなにか声をかけたほうがいいだろうか、でももしかしたらひとりになりたいのかもしれない、と思いあぐねているうちに数分が過ぎたころ、慌ただしい足音とともに、漣が戻って来た。
「誰か! 子どもが溺れてる!」
 悲鳴のような声に、店内にいた全員が驚いて腰を上げた。
「俺、泳げないんだ! 子どものとき溺れてから水が怖くて泳げない、助けられない! 誰か助けて、誰か……!」
 漣は今にも泣き出しそうな声で叫んだ。
 お客さんたちが動揺したように顔を見合わせ、窓の外に目を向けながら携帯電話を手に取ったりしている。
 ユウさんがキッチンから駆け出してきた。手には、ロープのついた浮き輪とバスタオル数枚、AEDと白く印字された真っ赤なバッグを持っている。
「どこ!?」
 ユウさんが漣に訊ねる。
「海水浴場……!」
 答えを聞くと彼は大きくうなずき、
「真梨、一一九番! 龍、ついて来て! あと走れる人みんな!」
 きびきびと指示を出しながら、ものすごい勢いで店を飛び出していった。私と漣、そして龍さんも慌ててあとを追う。
 外に出ると、ユウさんは遥か先を走っていた。その速さに目を疑う。店を飛び出したときも、ひとつも無駄のない動きだった。
「大丈夫、きっと大丈夫」
 隣で龍さんが、不安そうな漣を安心させるように声をかけていた。
「優海はこういうときのために、ちゃんと準備してるから。それに昔から誰よりも足が速かったんだ。絶対に間に合うよ」
 漣は青ざめた顔で何度もこくこくとうなずいた。
 私たちが海水浴場に着いたときには、すでにユウさんが子どもを浮き輪に乗せて、泳いで岸に向かっているところだった。砂浜の波打ち際には、一緒に遊んでいたらしい子どもたちが泣きそうな顔で集まっている。
 龍さんが腰まで海に入って浮き輪を引き寄せ、あとに続いた漣が子どもを抱き上げる。そして砂浜まで走って横たわらせた。ユウさんが海から上がって追いかけてきて、かたわらに膝をつく。
 溺れた男の子は意識がないようで、ユウさんが肩を叩きながら耳元で話しかけても反応はなかった。全身が怖いくらいに青白くて、ぞっと背筋が凍る。
 ユウさんは男の子のあごをつかんで顔をあお向かせると、口許に耳を当てて呼吸を確認した。すぐに心臓マッサージを始め、全身を使って強く胸を押しながら、てきぱきと私たちに声をかける。
「龍、AEDのふた開けて。真波ちゃん、服脱がせてバスタオルで上半身拭いて。漣くん、上に行って、救急車が来たら場所案内して」
「分かりました……!」
 漣は全速力で走っていった。
 ユウさんが次に人工呼吸を始める。その間に私は男の子のシャツのボタンを外し、ユウさんが持ってきたタオルを拾って胸のあたりの水気を丁寧に拭き取った。
 AEDの機械が起動して、なにかを喋っている。龍さんがその指示に従って準備を始めた。
「こことそこにパッド貼って」
 ユウさんが心臓マッサージを続けながらも手早く場所を教える。
「分かった。ここでいいか?」
「うん、大丈夫」
 パッドを貼ろうとしたそのとき、男の子の身体が痙攣するように大きく震えて、ごほっと咳き込みながら水を吐いた。しばらく激しい咳が続く。
 ユウさんが今度は子どもを横向きに寝かせ、背中をさする。
「大丈夫? 苦しいよな、もうすぐ救急車来るからな」
 しばらくむせながら水を吐き出したあと、男の子は力なく地面に横たわった。まさかと不安になったけれど、肩で大きく息をしているのを見て、ほっと安堵する。
 しばらくするとサイレンの音が近づいてきて救急車が到着し、担架を持った救急隊員が漣に導かれてやって来た。
 男の子の顔色が少しよくなり、受け答えも少しできているのを見て、ふっと全身の力が抜けていく。
「よかった……」
 漣がうずくまり、かすれた声で呟いた。私も隣に腰を下ろし、「よかったね」と言う。漣の肩は震えていた。

 ユウさんが男の子に付き添って救急車に乗っていったあと、私たちはナギサに戻った。
「大丈夫だった?」
 入り口の前に立って待っていたらしい真梨さんが、心配そうな顔で訊ねてくる。龍さんがうなずき返すと、彼女は腕の中の赤ちゃんをぎゅっと抱きしめて頬を寄せた。もしも自分の子どもだったら、と考えているのかもしれない。
「ユウさん、すごかったです。なんか、慣れてるような……」
 少しずつ落ち着きを取り戻した店内で、椅子に座って思わず呟くと、龍さんと真梨さんが目を見合わせた。
 少し沈黙が流れたあと、真梨さんが静かに口を開いた。
「実はね……昔、三島くんの恋人が、海で亡くなったの」
「え……」
 私と漣は同時に息を呑んだ。
 真梨さんの顔に、悲しげな笑みが浮かんでいる。
「このお店と同じ名前……、凪沙っていう子。三島くんの幼馴染で彼女で、私の親友でもあった。三島くんはね、子どものときに家族を一度に事故で亡くしちゃって、でもそのときに凪沙がずっと支えてくれて、そのおかげで三島くんは元気になったの。中学生になったら、ふたりは自然に付き合い出した」
 どくどくと心臓が暴れていた。前にユウさんから聞いた話と、どんどん繋がっていく。
「でも、高校生のとき凪沙は、海で溺れて……」
 真梨さんの声がかすれて小さくなり、龍さんが彼女の肩を抱いた。ふたりとも、泣いていた。
「俺も高校で同じクラスだったんだ。期間は短かったけど、大事な友達だった」
 嗚咽を洩らす真梨さんに代わって、龍さんが話を続ける。
「優海と日下さんは、本当に仲が良くて、いつもふたりでひとつみたいに、本当にずっと一緒にいた。日下さんが亡くなったとき、優海は脱け殻みたいになってたよ。俺たちの前では明るく振る舞ってたけど、立ち直れてないのは見てれば分かった。でも、何ヶ月かして突然、『凪沙みたいな人を助けるために水難救助の勉強をする』って言い出して、講習を受けたり資格を取ったりし始めた。それ以来ずっと、いざというときにすぐに行動できるように、全部準備してるんだ」
 龍さんが真梨さんの背中を撫でながら、「すごいよな」と呟いた。
「そのおかげで、今日、あの子を救えたんだ。すごいやつだよ、優海も、日下さんも……」
 言葉にならなかった。ただ、涙が溢れ出した。
 手の甲で顔を拭いながら、隣に目を向ける。漣もきっと同じような顔をしているだろうと思った。
「え……」
 でも漣は、乾ききった目を呆然と見開いていた。
「高校生……ナギ……サ……」
 上の空でそう呟いた彼の顔は、ぞっとするほど色を失っている。私は驚いて声をかける。
「漣、どうしたの? 大丈夫?」
 すると彼が、聞き取れないほどの小さな声で、「なんでもない」と呻いた。
 どう見ても、普通ではなかった。言いようのない不安が込み上げてくる。
 でも、そのときの私は、まるで言葉を忘れてしまったみたいに、なにも言えなかった。



 漣がおかしい、と確信したのは、翌朝だった。
 いつもは私よりかなり早起きで、身支度を終えた私が居間に行くとすでに朝食の準備を手伝っている彼が、なぜかいつまで経っても起きてこない。
「どうしたんかねえ、漣くんは。珍しくお寝坊さんかねえ」
 おばあちゃんが料理を並べながら首を傾げている。昨日の夜ナギサから帰ったあともどこか様子がいつもと違った。妙に口数が少なくて元気がなかった。
 溺れた男の子を救助したあとだったので、疲れているのだろうと私もあえて話しかけたりしなかったけれど、今思えば、いくら疲れていたにしてもおじいちゃんたちに声もかけずに部屋に上がった姿は、いつもの彼とは全く違っていて異様だった。
 私は「様子見てくるね」とおばあちゃんに告げて二階に上がった。
「漣、起きてる?」
 彼の部屋の前に立ち、声をかける。反応がなかったので、もう少し強めにノックをした。すると中から呻くような声が聞こえてきて、しばらくしてふすまが開いた。中はまだカーテンが閉まっていて薄暗い。
「……ごめん」
 姿を現した漣が、うつむいたままぽつりと呟く。なにに謝っているんだろう、と思いながら彼を見て、息を呑んだ。
「ちょっと……なんで着替えてないの!?」
 漣は、昨日海で男の子を抱き上げたときに濡れた制服を着たままだったのだ。半日以上経っているのですでに乾いてはいるけれど、濡れたまま寝たのか服はしわくちゃになっていた。いつも自分できちんとアイロンをかけて身綺麗にしている彼からは考えられないことだ。
「……昨日帰ってから、ずっとそのままだったの?」
 私の問いかけに、漣は自分の身体を見下ろして、今初めて気がついたというように「ああ」と声を上げた。
「漣……」
 なんと声をかければいいか分からない。一体どうしちゃったの、なんて気軽に訊ける雰囲気ではなかった。
「着替える」
 片言のようにぎこちなく言うと、彼はのろのろとふすまを閉めた。
「おばあちゃん……漣が、なんか、変なの」
 一階に下りてすぐにおばあちゃんに声をかけた。
「変? あらまあ、風邪でも引いてまったんかねえ」
「うん……どうかな……」
 でも、ただの体調不良には見えなかった。かといって、それを口にするとおばあちゃんに余計な心配をかけてしまうかもしれない。
「ちょっと台所使うね」
 私がそう言うと、おばあちゃんが嬉しそうな顔をして「あらっ」と声を上げた。
「漣くんになにか作ってあげるんかね」
「……まあ、うん」
 そう言われると、なんだか急に恥ずかしくなってくる。
「あらあ、いいねえ、いいねえ。好きな食材なんでも使っていいからね」
「ありがとう」
 私はそそくさと台所に入り、炊いてあったご飯を使って、細かく刻んだシイタケと、ショウガとネギをたっぷり入れた玉子雑炊を作った。
 お盆にのせてれんげを添え、居間に持っていこうとしたものの、二階からなんの物音もしないので、そのまま階段を上がった。
「漣、ご飯持ってきたよ」
 また反応がない。「入るよ」と声をかけてふすまを開けた。
 漣はTシャツと短パン姿で布団の上に転がっていた。脇にはさっきまで着ていた制服が乱雑に脱ぎ捨てられている。いつも必ず洗濯かごに入れているのに。
「……食べれそう?」
 枕元にお盆を置いて訊ねると、彼はのろのろと身体を起こし、雑炊の入った小鍋を見て「ありがとう」と呟いた。
「無理しなくてもいいからね」
 彼は小さくうなずき、布団の上にあぐらをかいてれんげを手に取った。そんな仕草も、いつもきちんとしている漣らしくない。
「……これ、お前が作ったの?」
「あ、うん。口に合うといいんだけど」
 ひとくち含むと、漣は小さく笑った。
「やっぱ、ばあちゃんの味に似てるな。うまいよ」
 かすかな笑顔と何気ない言葉が、ひどく嬉しかった。少しでも元気が出たのなら、作ったかいがあった。
 でも、ゆっくりと三分の一ほど食べたところで、彼は急に口許を手で抑えた。それから勢いよく立ち上がり、部屋を飛び出して隣のトイレに駆け込む。
 驚いてあとを追うと、中から嘔吐する音が聞こえてきた。
「漣、大丈夫!?」
 しばらくして、漣が口許を拭いながら出てくる。
「……ごめん」
 申し訳なさそうに謝られて、たぶん私が作ったものを吐いてしまったと気に病んでいるのだろうと思い、「気にしないで」と返した。
 漣は弱々しくうなずいて、よろよろと部屋に戻っていく。
「やっぱり具合が悪いんだね。今は無理して食べないほうがいいね。なにか飲みもの持って来ようか?」
「大丈夫、水ならあるから……」
 かすれた声で答えて、彼は力尽きたように布団に倒れ込んだ。
 私はお盆を持って部屋を出て、階段を下りる。台所で、漣がいつも部活に持っていっているスポーツドリンクをコップに入れて、二階に戻った。
 でも、漣はもう声をかけても反応してくれなくて、枕元に置いてそっとふすまを閉めた。

 その日を境に、漣は家から出なくなった。あんなに真面目に頑張っていた部活もずっと休んでいて、ナギサにも行かない。
 それどころか、食事にもほとんど手をつけず、トイレやお風呂など最低限のことをするとき以外はずっと部屋にこもっている。自分から話しかけてくることはなく、こちらがなにかを訊いても、小さくうなずいたり首を振ったりするだけで、まともな会話にならない。
 おじいちゃんとおばあちゃんも漣の異変に気づいて、しきりに気を揉んでいた。居ても立ってもいられなくなったおばあちゃんは、「実家に連絡しようか」と漣に訊ねた。でも彼は実家と聞いたとたんに顔色を変え、そのときだけはきっぱりと「それは絶対にやめてほしい」と答えた。
 別人のように沈み込んでしまった漣のことが心配でたまらなかったけれど、どうして彼がこうなったのか原因が分からないし、どうすればいいのかも分からない。
 今まで自分のことばかり考えて生きてきた私は、誰かを励ましたり、慰めたり、優しくしたりする方法を知らなかった。ただ様子を見て、答えは期待できなくても声をかけて、食事を用意するくらいしか、できることが見つからない。
 漣のことが心配でナギサに行く気分にもなれず、三日目の朝に私はユウさんに電話をかけた。
『お電話ありがとうございます、ナギサです』
 受話器からいつもと変わらない明るい彼の声が聞こえてきた瞬間、安心感に包まれた。このところ家の中はずっと異常な状態だったので、普段通りの声を聞けただけでもひどくほっとした。
「ユウさん、おはようございます。真波です」
『あ、真波ちゃん? どうしたの、珍しいね電話なんて』
「突然すみません……。あの、しばらく店のお手伝いに行けそうになくて」
 私の言葉に、電話の向こうでユウさんが首を傾げるような気配を感じた。
「ごめんなさい、自分から言い出したことなのに」
『いや、それは全然いいんだけど。……なにかあった?』
 ユウさんが声を低くして訊ねてきた。やっぱりいつもと様子が違うことに気づかれてしまったか、と思う。子どもみたいに無邪気なようでいて、実は常に周りをよく見て相手の感情に敏感な彼をごまかすのは難しそうだった。
 いえ、と否定しかけた言葉を呑み込み、「あの」と口を開く。
「……実は、漣がちょっと……」
『え、漣くん? 漣くんがどうかしたの?』
「あの、体調を崩してるっていうか、具合が悪いっていうか……」
 あまり説明しすぎても余計な心配をかけてしまいそうなので、曖昧な言い方になってしまった。
「そういうことで、ちょっと、なるべく家にいたくて」
『そっかあ、大変だね……。急に暑くなったからなあ。うん、側にいてあげたほうがいいと思うよ。店のことは全然大丈夫だから、真波ちゃんは漣くんがよくなるまでついててあげて』
「ありがとうございます。……また連絡しますね」
 そう言って電話を切ってから三十分ほどが経ったころ、突然チャイムが鳴った。
 誰だろうと思いながら出てみると、驚いたことに、ユウさんが玄関先に立っていた。
「え? ユウさん!?」
「こんにちは。突然ごめんね」
 彼はにこにこしながら少し首を傾けて言った。
「ど……どうしたんですか」
「うん、ちょっと渡したいものがあって」
 彼が紙袋からタッパーを取り出して、こちらに差し出した。呆気にとられたまま受け取り、ふた越しに中を見てみると、黄色いものが入っている。
「もしかして、玉子焼きですか?」
「うん。体調悪いときにどうかなと思ったけど、漣くんに。食べられそうだったら食べてって伝えてくれる?」
「わあ、ありがとうございます……」
 それから私は「ちょっと待っててください」とユウさんに告げて、タッパーを持ったまま慌てて二階に駆け上がる。
「漣、入るね」
 どうせノックをしてもまともな反応はないと分かっていたので、声だけかけてドアを開ける。
 彼は布団の上にだらりと座り、窓の外の海を見ていた。
「今ちょっと大丈夫?」
 答えはないまま、彼の目がのろのろとこちらに向けられる。ぽっかりと穴が開いたような瞳。
 初めて漣に会ったとき、なんて強い瞳なんだろう、と思った。あまりにも強くてまっすぐで、私には眩しすぎて、直視できなかった。
 でも、今は、こんなにも暗くうつろな目をしている。
 こんなの漣じゃない、と胸が苦しくなった。
「ねえ漣……できたら、下に来れない?」
「……なんで」
 漣がぽつりと答える。私はタッパーを見せながら言った。
「今ね、ユウさんがこれ持って来てくれたの。まだ玄関にいるから、挨拶だけでも……」
 もしかしたら、ユウさんと会うことで漣の気持ちも少しは浮上するかもしれない、と思ったのだ。
 でも、その予想は外れた。私が彼の名前を口にした瞬間、漣ははち切れそうなほどに目を見開き、まるで喉を絞められたように激しく息を呑んだ。
「え、漣……?」
 強張った顔がみるみるうちに青ざめ、色を失っていく。
 まさかこんな反応が返ってくるなんて思ってもいなかった。むしろ喜んで、笑顔を見せてくれるのではないかと思っていた。
 私は動揺して漣のかたわらに腰を下ろす。
「漣、大丈夫?」
 すると彼はなぜか怯えたような目で私が持っている玉子焼きを見つめ、じりじりと後退りをしながら首を横に振った。
「……かない」
 震えた声をよく聞き取れなかったので、私は「え?」と訊き返す。漣は顔を歪めて苦しげに言った。
「行かない……行けない」
 それだけ言うと、膝を抱えてうなだれ、ぴくりとも動かなくなってしまった。
 突然の変貌に唖然とした私は、しばらく彼の背中を見つめたあと、「ごめん」と謝って部屋を出た。
 玄関に戻り、待ってくれていたユウさんに「すみません」と頭を下げる。
「漣を呼んで来ようと思ったんですけど、あの……寝てました。せっかく来てくれたのにすみません……」
 彼はあははと笑って、
「そんなのいいよ、気にしないで」
 と顔の前でひらひら手を振った。
「元気になったらまた顔見せて、って漣くんに伝えといて」
「分かりました。ありがとうございます」
 ユウさんはいつものようににこにこと笑って、「じゃあまた」と帰っていった。
 彼のうしろ姿が見えなくなってからも、私はしばらく玄関に立ち尽くして、動くことができなかった。
 ユウさんが来てくれたことを告げたときの漣の様子を反芻する。
 どう見ても尋常ではなかった。突然の来訪に対する驚きや動揺とは思えず、むしろ怯えているようにしか見えなかった。
 どうして漣がユウさんと会うことを怖れるのだろう。あんなに彼に懐いていたのに、どうして急に? いくら考えても分からない。分からないけれど、でも、なにかとても重大な理由が隠されていることは分かった。
 ユウさんは全くいつも通りだったけれど、漣は明らかに様子がおかしかった。
 一体ふたりの間になにがあったのだろう。漣はどうしてこんなふうに変わってしまったんだろう。なにが起こっているのだろう。
 答えの見つからない疑問について考えれば考えるほど、得体の知れない不安と恐怖が私を包み込んだ。

 その不安感がさらに色濃くなったのは、翌日の夜のことだった。
 夕食のあと、近所の人からもらったすいかをおばあちゃんが切り分けてくれて、これなら漣も食べられるかも、と思った私は、皿にのせて二階へと向かった。
 まだそれほど遅い時間ではないのに、ノックをしても反応がない。なんとなく不安になって、「ごめん、入るね」と声をかけてふすまを開けた。
 漣は布団に横になっていた。動かないので、寝ているらしいと分かる。
 少し迷ったけれど、目が覚めたら食べてくれるかもしれないと考えて、すいかを枕元に置いた。
 そのとき、漣が身じろぎをした。起きたのかと視線を向けると、瞼は固く閉じられている。
 寝返りを打った拍子にタオルケットが肩からずり落ちてしまったので、かけ直そうと手を伸ばしたとき、突然、「うう……」と漣が唸った。見ると、目を閉じたまま苦しげに顔を歪めている。なにか悪い夢を見ているのかもしれない。
 起こしたほうがいいかどうか迷っているうちに、漣の額に脂汗がにじみ始めた。
 驚いて、やっぱり起こそうと肩に手をかけたとき、薄く開いた唇の隙間から、「……なさい」とかすかな声が洩れた。
「ごめんなさい……許して……」
 どくりと心臓が音を立てる。あまりにも悲痛な声だった。
「漣……漣?」
 肩を揺さぶって声をかけるけれど、彼はうわごとのように「ごめんなさい」と繰り返している。
「ごめんなさい……ゆ、さ…、なぎ……さん……」
 ユウさん、ナギサさん、と聞こえた気がした。どうして漣がふたりに謝るのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 ナギサさん。今から十年ほど前、高校生のときに、鳥浦の海で溺れて亡くなった人。ユウさんの恋人。その彼女に、彼に、すがるように謝り続ける漣。
 そういえば、彼の様子がおかしくなったのは、真梨さんたちからナギサさんの話を聞いたときからだ。そして彼は、『子どものとき溺れて、水が怖くて泳げない』と言っていた。初めて子ども食堂の手伝いをしたとき、びっくりするほど真剣で深刻な顔で、『海は怖い、危ない』と何度も繰り返していた。
 どくどくと鼓動が速まり、胸が苦しくなった。頭が真っ白になっていく。
 考えたくないけれど、まさか、という嫌な予感が、私の心を支配していた。

 荒い呼吸をなんとか整えてから、私は一階に下りた。おばあちゃんが気づいて声をかけてくる。
「漣くんの様子はどうだったね?」
 私は首を横に振り、それから「ねえ、おばあちゃん」と呼びかけた。
 頭の中で計算する。ユウさんは私の十歳上だから、彼が高校生のときということは。
「だいたい十年くらい前に……このあたりの海で、女子高生が溺れて亡くなったって話、聞いたことある?」
 おばあちゃんが目を見開き、何度か瞬きをしてから、「そういえば」と声を詰まらせた。
「そんな悲しい事故があったねえ……。溺れとる子どもを見つけた女の子が海に飛び込んで、子どもはなんとか助かったんやけど、女の子は力尽きてまってねえ、そのまま……。たしか、助けられたのは幼稚園くらいの子だったかねえ……」
 頭の中で、点と点が繋がっていく。でもそれは少しも嬉しいことではなくて、胸がぎりぎりと痛んで、苦しくて、吐きそうだった。
「亡くなったのは、たしかおばあさんとふたり暮らしをしとった女の子やったって聞いたよ。たったひとりの大事な大事なお孫さんを若くして亡くして、おばあさんはどんな気持ちやったかねえ……」
 おばあちゃんの言葉で、あの日のことを思い出した。お父さんが訪ねて来て、自分のすべてを否定されたような気がして、激しい雨の中、投げやりな気持ちで荒れた海に行き、死んでもいい、と思ったこと。もしもあのとき漣が来てくれなかったら、今ごろどうなっていたか分からない。
 そして彼に連れられて帰った私の濡れた身体を、おばあちゃんが泣きながら強く強く抱きしめてくれたこと。おじいちゃんも、「心配しとったよ」と頭を撫でてくれたこと。あのときふたりは、どんな気持ちだったんだろう。
「自分の子どもや孫に先立たれるゆうんは、本当に、考えただけで胸がつぶれるくらい、悲しいねえ……」
 涙をにじませるおばあちゃんを見ていて、ふいにお母さんの顔が浮かんできた。
 お母さん——おじいちゃんとおばあちゃんのひとり娘。お母さんが事故に遭い、意識不明になったと聞いて、ふたりはどれほど絶望しただろう。
 自分のことばかりだった私は、そんな当然のことにも考えが及ばなかったのだ。
 涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。訊かなくてはいけないことが、もうひとつある。
「……亡くなった女の子の名前は、分かる?」
 なんとか声を絞り出すと、おばあちゃんは首を横に振った。
「違う町内の子やったから、名前までは……」
 そっか、とうなずいてから、「ありがとう」と呟く。
「ありがとね、おばあちゃん。本当に、いろいろ、ありがとう……」
 上手く言葉にならない思いを込めて告げたあと、私はなにかに追い立てられるような気持ちで家を飛び出した。
 私になにができるか、なにをどう訊くか、なにを言うべきか。なにひとつ分からないけれど、私は無我夢中で足を動かした。どうすればいいかなんて全く分からないけれど、とにかく走らずにはいられなかった。
 漣は私にたくさんのことをしてくれた。たくさんのことを言ってくれた。心を閉ざして殻に閉じこもっていた私には、あまりにも辛辣で厳しい言葉ばかりだったけれど、でも、それは確かに優しさだったのだと、今なら分かる。漣が教えてくれなかったら、きっと私は今でも気づけずにいたことがたくさんあった。
 今度は私が彼のためになにかをする番だ、と思った。

 ナギサの店内には、まだ明かりがついていた。
 窓から中を覗いて、奥のテーブル席にユウさんが座っているのを確認すると、入り口のドアをノックする。
「こんばんは。夜遅くにすみません」
 声をかけると、すぐにユウさんがドアを開けてくれた。
「真波ちゃん。どうしたの、こんな時間に」
「すみません……どうしても、ユウさんと話したいことがあって……」
 彼は目を見開き、それから「どうぞ」と中に入れてくれた。
 店内に足を踏み入れると、テーブルの上に置かれた四角柱のような形の木枠と、丸められた和紙の束が目に入った。私の視線に気づいたのか、ユウさんが説明してくれる。
「明日は龍神祭だからね、灯籠を作ってたんだ」
「そうなんですか。忙しいのに、ごめんなさい」
「いいよ、いいよ。もうほとんど終わってるから。それで、話って?」
 促されて、私はなにを伝えればいいのか逡巡する。ただとにかくユウさんに会わなきゃ、という思いだけで走ってきたので、なにを訊くのか考えていなかった。
 どう話せばいいのかと迷いながら目を泳がせて、キッチンの戸棚に飾られた桜貝のネックレスを視界にとらえた。
「あのネックレスって……」
 思わず呟くと、彼は「ああ」と微笑んだ。そして、愛おしげな眼差しをネックレスに向けながら口を開く。
「凪沙と俺の桜貝だよ。子どものころに海岸で拾った貝殻を、ふたりで分けて持ってたんだ、ずっと……」
 ナギサさんの名前を聞いた瞬間、ぎゅっと心臓をつかまれたような気持ちになった。
「……あの、急にすみません。よかったら、でいいんですけど……」
「うん?」
 唐突な私の言葉に、ユウさんは首を傾げて軽く目を見張った。
「……ナギサさんが亡くなったときのこと、聞かせてもらえませんか……」
 どこまで話していいのか分からず、ひどく不躾な質問になってしまった。それでも彼は、ぱちぱちと瞬きをしてから、「うん、いいよ」と笑ってくれる。
「凪沙は、高校一年の夏休み……龍神祭の前日、海で溺れて亡くなった。……ちょうど今日が十回目の命日なんだ」
 彼は目尻に優しい笑みを浮かべながら言った。
「海に落ちてしまった男の子を見つけて、助けようと飛び込んで……ちゃんと男の子を父親に引き渡したあと、自分は力尽きて、溺れちゃったんだ」
 ああ、やっぱり、と目の前が暗くなる。想像が当たってしまった。絶対に当たってほしくなかったのに。
「そして、俺の目の前で、亡くなった……」
 ひゅっ、と喉が鳴った。呼吸を忘れたまま、これ以上ないくらいに目を見張り、言葉を失って彼を見つめる。
「俺は遠くから、溺れた子を助けるために海に向かう凪沙を見つけて、必死に追いかけた。そして凪沙が溺れて海に沈んだあとすぐに追いついて、なんとか引き上げたんだ。でも、凪沙はもう意識がなくて……」
 ユウさんの目に、じわりと涙がにじんだ。ゆっくりと溢れて、頬に伝い落ちる。微笑みながら、泣いていた。
 目の前でたったひとりの大切な人の命が失われていくのを見届けるのは、どんな気持ちだったろう。私には想像することすらできない。
「でも、救急車の中で、一瞬だけ意識が戻ったんだ。目を開けて少し喋ってくれて……。でも、すぐにまた意識を失って、そのまま二度と目覚めなかった」
 ユウさんは幾筋もの涙をこぼしながら続けた。
「あのとき俺があと一分でも早く追いついてたら。そしてちゃんとした救助の方法を知ってたら、ちゃんと心肺蘇生をやれてたら、凪沙は死ななくて済んだかもしれない……何度も何度も何度も、そう思った。でも、今さらそんなこと思ったって、遅いんだ。……俺は全部、なにもかも、間に合わなかった」
 静かな口調だったけれど、その奥には、どうにもならない激しい後悔と、大きすぎる悲しみが秘められているのが分かった。
 私はもうなにも言えなくて、唇を噛みしめていることしかできない。
「……真波ちゃんは、今日、きっと、大切な誰かのために、そんなに必死な顔をして、息を切らしてここに来たんだよね」
 しばらくして涙を拭ったユウさんが、じっと私を見つめて言った。
 私は声も出せないまま、こくりとうなずいた。
「俺は凪沙を……すごくすごく大切な人を守れなかった。絶対に俺がなんとかする、絶対に助けるって思ってたのに、できなかった。失敗した」
 彼はひとつ息を吐き出して、切なくなるほど静かに続ける。
「……死ぬほど後悔したよ。今もずっとしてる」
 あまりにも重い言葉が、私の胸に深々と突き刺さった。ユウさんの痛みが伝わってきて、息が苦しい。
 だからね、とユウさんが優しく微笑んだ。
「真波ちゃんには、そんな思いをしてほしくない。自分にできる限りのことを全部やって、後悔しないようにしてほしい」
 私は堪えきれずに嗚咽を洩らしながら、何度も何度もうなずいた。
 ユウさんは涙に潤んだ声で、「頑張ってね」と囁いた。
 翌朝、目を覚ました私はすぐに漣の部屋に行き、「おはよう」と勢いよくドアを開けた。
 彼は昨日と同じ姿勢で寝転がっていた。服もそのままだ。生きているのに、死んでいるみたいに見えて、背筋が寒くなる。
 それを振り払いたくて、わざと強い声を出した。
「漣、話をしよう」
 相変わらず反応はない。次はもっと声を大きくする。
「漣、起きて。話がしたいの」
 かたわらに膝をついて肩を揺すると、彼はやっとわずかに身じろぎをした。
 ねえ漣、と呼びかけた声は、まるですがるような声音になった。
「漣の話を、つらさを、聞かせて……」
 そう呟いたとき、彼がゆっくりと顔を上げた。青白く生気のない、憔悴しきった顔だった。
「……ひとりじゃ抱えきれないことも、誰かに話すだけで、楽になることもあるんだよ……漣が私の話を聞いてくれたみたいに」
 私の言葉でなにかを悟ったのか、彼は大きく目を見開いて身体を起こした。
「——なにか、知ってるのか?」
 怯えたような声色だった。
 怖がらないで、と伝えたくて、刺激しないようにそっとその手を握る。
「はっきりとは知らないけど、たぶん……私の考えが正しいなら」
 触れた部分から、漣の身体の力が抜けたのが分かった。
「……そうか。知られちゃったか……」
 なにかを諦めたように、彼は言った。
 きっと、誰にも知られないように、自分の心の中だけに秘めてきたことだったのだろう。これからも誰にも打ち明けずに背負い続けるつもりだったのだろう。
 でも、もう限界が来ているのだと、その様子を見れば分かった。抱えきれないほどに大きく膨らんでしまった荷物を下ろさないと、そのまま倒れて、二度と立ち上がれなくなってしまいそうだった。
 だから私が、漣を助け出さなきゃいけないんだ。
 その気持ちを上手く言葉にできる気がしなくて、握った手に力を込める。思いよ伝われ、と祈りながら。
 しばらく呆然としたように黙り込んでいた漣が、ゆっくりと口を開いた。
「……俺が、ユウさんから、ナギサさんを、奪った」
 絶望に塗りつぶされたような声だった。
「ナギサさんを愛していた人たちから、俺が、ナギサさんを奪った。ナギサさんが死んだのは、俺のせいだ……」
 ああ、とうとうすべてが繋がってしまった。目の前が真っ暗になる。
 どうか私の思い違いでありますように、と心から願っていたのに、推測が当たってしまったのだ。
 言葉を失った私に、漣がぽつぽつと語り始めた。
「六歳のとき……父親と弟と一緒に、鳥浦の港に来たんだ。父親は釣りをしてて、俺と弟は近くで遊んでた。父親からは、海に落ちたら危ないから絶対に離れるなよ、って言われてた。でも、しばらくしたら俺も弟も飽きてきて退屈になって、追いかけっこを始めたんだ。最初は気をつけてたんだけど、だんだん夢中になって……気がついたら、海に落ちてた。泳げないわけじゃなかったのに、足が着かないからパニックになって、そのまま溺れた」
 漣は感情を失くしたように淡々と言葉を続けた。
「……まだ子どもだったし、ショックが大きかったからか、溺れたときのことはほとんど記憶がないんだ。どうやって助けられたのかも分からないし、救急車で運ばれてるときのことも、意識はあったはずなのに、断片的にしか覚えてなかった。病院で目が覚めたとき、両親が泣きながら『お姉さんが助けてくれたんだよ』って教えてくれた。そのときは、優しい人がたまたま近くにいてよかったな、ってくらいにしか思ってなかった」
 ひとつひとつ確かめるようにゆっくりと話す漣。
 私はただ、それを聞くことしかできない。
「でも、退院した日に、『実は助けてくれたお姉さんは死んじゃったの、今日がお葬式だから、お礼とお別れを言いに行こう』って言われて、鳥浦に来たんだ。なにがなんだか分からないうちに、親に言われるがまま棺桶の中の女の人に『ごめんなさい、ありがとう』って声をかけた。そのときのことも記憶はぼんやりしてるけど、ナギサって名前と、父親と母親が土下座して泣きながら謝ってたことと、棺の前に小さいおばあさんと、壊れた人形みたいにへたりこんでた男の人がいたのは、なんとなく覚えてた」
 漣がふっと息を吐く。そして、震える声で呟いた。
「……今思えば、あれは、ナギサさんのおばあさんと、ユウさんだったんだよな」
 私はなにも言えなくて、ひたすら涙を堪えていた。漣が頑張って話してくれているのに、私が泣くわけにはいかないと思った。
「小さいうちはそれくらいしか分かってなかったんだ。でも……成長して物事が分かるようになってきたとき、ある日突然、自分のせいで人が死んだんだ、っていう事実が、どうしようもないくらい重くのしかかってきて、忘れられなくなった」
 漣が唇を噛み、ゆっくりと瞬きをする。
「心配かけるから親には言わなかったけど、家にいても学校にいても、なにをしてても、その人のことが頭から離れなくなった。でも、もう何年も経ってて今さらその人にできることなんかないと思ったから、せめて、『こんなやつ助けなければよかった、無駄死にだった』なんて思われないように、いい子だと思ってもらえるようにしようって、勉強も部活も人間関係も全部全力で頑張ろうって思ってた……」
 その言葉が胸に突き刺さり、ちくちくと痛んだ。
 誰もが認める優等生で、文武両道で、誰からも信頼されている漣。そんな姿を見て私は、生まれながらに恵まれているだとか、悩みなんてなさそうだとか、勝手なことを思っていたし、本人にもそう言った。
 でも、それは誰よりも誠実に頑張ってきた漣の努力の賜物だったのだ。彼の行いの裏に、まさかこんなにも苦しく切実な思いが隠されていたなんて、思いもしなかった。考えなしに本当にひどいことを言ってしまった。過去の自分を殴りたい。
「中学三年で受験が近づいてきたとき、鳥浦に行かなきゃ、って急に思いついた。俺のせいで亡くなった人が生きてた町に行って、その人の家族にちゃんと謝って、それで海の近くでその人に感謝と謝罪をしながら祈り続けることくらいしか、俺にはできないと思った……」
 そこで一度口をつぐんだ漣が、ふいに自嘲的な笑みを浮かべた。
「……でも、いざここに引っ越してきたら急に怖くなって……その人の家族を捜す決心がつかなかった。あの子を返してって責められるかもしれない、どんなに謝っても許されないかもしれない、って思ったら、怖かったんだ」
「それは、当然だよ」
 私は初めて彼の話に口を挟んだ。
「誰だってきっとそう思うよ。私だって、漣と同じ立場ならきっと、怖くて動けない。たぶん、なかったことにしよう、忘れよう、って考えちゃうと思う。だから、漣はひとりでこの町に来て、今も暮らし続けてるってだけで、本当に本当に、すごいことだと思うよ……」
 なんとか慰めようと思って必死に語りかけたけれど、漣は小さく笑っただけで、また苦しみに満ちた顔に戻ってしまった。
「でも、俺がユウさんの大事な人を、誰かの家族を奪ったことには変わりないよ。そもそも、人を死なせた俺には、幸せになる資格も、笑って暮らす権利もなかったんだ。今までのうのうと生きてきたけど、今さらそのことに気づいた……」
 だから漣はこんなふうになってしまったのか。自分の幸せや笑顔を許せなくなってしまったのか。
 なんでそんなふうに考えるの、と叫びたかった。でも、きっと今の漣には、部外者の私の言葉なんて届かない。
 だから、私は言った。
「漣、ユウさんに会いに行こう」
 その瞬間、彼の顔がさっと血の気を失った。
「嫌だ」
 ほとんど聞き取れないくらいにかすれ、震えた声だった。
「どんな顔して会えって言うんだよ!」
 恐怖と不安に満ち、怯えきったような表情だった。それは、彼が初めて見せた弱さだった。
 みんなから信頼され、慕われ、いつも自信に満ちていて、常にまっすぐに強く生きているように見えた漣の裏側に、私は初めて触れた。
「それでも、行こう。このままじゃ、だめだよ……」
 私は漣の手をつかみ、言葉にならないすべての思いを込めて、ぎゅうっと握りしめた。

 昼過ぎにユウさんに電話をかけると、今日はナギサの定休日ということで、彼が買い出しを終える夕方に会ってくれることになった。
 待ち合わせ場所の砂浜に私と漣が佇んでいると、ユウさんは約束の時間より十分も早くやってきた。
「こんにちは」
 いつも通りの人懐っこい笑顔で、私たちにそう声をかけてくれたけれど、漣は凍りついたようにぴくりとも動かず、うつむいたまま顔を上げない。
「今日は龍神祭ですね。私、初めてなんで、けっこう楽しみです」
 少しでも場の空気を和らげたくて、私はとりあえず世間話をしてみる。
「そうだよね、真波ちゃんは越してきたばっかりだもんね。灯籠行列も、最後の篝火も、すっごい綺麗なんだよ。乞うご期待」
 ユウさんも、きっと漣の様子がいつもと違うことには気づいていると思うけれど、なにも言わずに話を合わせてくれる。
「真波ちゃん、灯籠は作った?」
「あ、はい、おばあちゃんに教えてもらって。でも、絵付けはまだやってないんですけど……」
 龍神祭で使う手作りの灯籠には、絵や文字を書くのが習慣になっているらしい。おばあちゃんと一緒に灯籠作りをしていたときに、『まあちゃんもなにか書いたら? 願いごとを書く人もいるよ』と言われたけれど、いろいろと悩んでいるうちに時間が経ってしまい、結局今も真っ白なままだった。
「そっかそっか。まあ、なにも書かない人もいるからね。願いは自分だけの秘密にするってのもいいと思うよ」
「いや、そういうわけでもないんですけど……」
 そんな会話をしていたとき、私の隣でうつむいて立ち尽くしていた漣が、唐突にユウさんのほうを向き、勢いよく頭を下げた。
「——ごめんなさい!」
 ユウさんが驚いたように「わっ」と声を上げる。
「えっ、急にどうしたの、漣くん」
 身体を深く折り曲げ、膝をつかんで頭を下げ続ける漣の肩は、小刻みに震えていた。
「……俺なんです」
 呻くように言った彼を、ユウさんは不思議そうに首を傾げて見て、「え?」と訊き返した。
 漣がごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。私は思わず彼の背中に手を置いた。少しでも力を送ってあげたかった。
 しばらくして、漣が意を決したように大きく息を吸い込んで、口を開いた。
「……ナギサさんに助けてもらったのは、……俺なんです」
「……!」
 ユウさんが息を呑み、目を大きく大きく見開く。
「凪沙に、助けられた……? もしかして、海で溺れた……?」
 漣がうつむいたままこくりとうなずいた。
 私は固唾を呑んでユウさんを見る。その口からどんな言葉が出てくるのか、怒りか、恨みか、予想もできない。
 しばらくの間、まるで時が止まったかのように硬直していたユウさんが、ふっと目元を緩めて呟いた。
「そうか……。漣くんが、あのときの子だったのか……」
 囁くように言ったユウさんが、ふいに漣に向かって足を踏み出し、同時に両手を伸ばした。
 漣の肩がびくりと震える。もしかしたら、殴られると思ったのかもしれない。
 でも、ユウさんは、彼の身体に両手を回して、きつく抱きしめた。
 今度は漣が、これ以上ないくらいに大きく目を見開く。
「……ありがとう。教えてくれて、嬉しい」
「え……?」
 その瞬間、漣の両目から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。喉から苦しげな嗚咽が洩れる。
「ごめ、ごめんなさい……!」
 ほとんど声にならない悲鳴のような声で、漣が謝り続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、俺のせいで……ナギサさんが……」
 するとユウさんは、ふふっと小さく笑った。
「漣くんはなんにも悪くないんだから、謝らなくていいよ」
 包み込むような優しい声で囁きかけ、落ち着かせるように漣の背中をとんとんと叩く。
 驚いたように目を丸くした漣が、でも必死に否定するように首を横に振る。
「違います、俺のせいなんです。あのとき俺が、親の言うこと聞かずに、馬鹿なことして溺れたりしなければ……。俺が、ナギサさんを、死なせてしまったんです……」
 聞いているだけで胸が苦しくなる。彼が今までどれほどの後悔と罪悪感を抱えて生きてきたのか、その表情から、言葉から、震える身体から痛いくらいに伝わってきて、苦しかった。
「……きっと俺のこと恨んでる……」
 漣が両手で顔を覆い、絞り出すような声で言った。
 すると、ユウさんが「ねえ、漣くん」と彼の手をつかんで顔から引き剥がし、その目を真正面からまっすぐに見つめた。
 そして、漣に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「凪沙が漣くんのせいで死んだなんて、思わなくていい。漣くんが悪いんじゃない、漣くんが死なせたわけじゃない」
 ユウさんがきっぱりと言った。
 確信に満ちた口調と、迷いひとつないまっすぐな眼差し。
「凪沙は絶対に、漣くんを恨んだりしてない。漣くんのせいだなんて、絶対に言わないし、思ってもないよ。俺が保証する。ただ、凪沙は、目の前で苦しんでる子を助けずにはいられなかっただけ。見過ごすなんて絶対にできなくて、自分の命も危ないって分かってても、飛び込まずにはいられなかっただけ」
 そう言いながら、ユウさんは本当に愛おしそうに微笑んだ。
「……そういう子なんだ、凪沙は。優しい、本当に……優しすぎるくらい優しくて、自分を犠牲にして人を助けちゃえるくらい、深い深い愛をもってる子なんだ」
 まるで彼女がまだ生きているかのような口調で、ユウさんは語る。
 だからね、と彼は漣の手を強く握りしめた。
「漣くんがそんなふうに自分を責めながら生きてたら、凪沙はきっと悲しむ——」
 そこまで言って、ユウさんはふいに口をつぐんだ。それから、おかしそうにくすりと笑って、「いや」と言い直す。
「きっと、怒るよ」
「……えっ。怒る?」
 私は思わず声を上げて訊き返してしまった。するとユウさんは噴き出して私を見る。
「そう。めっちゃくちゃのめっためたに怒るよ。激怒する。凪沙は、怒らせるとすっごく怖いんだ」
 激怒するとか、怖いとか、私が思い描いていた〝ナギサさん〟の聖母のようなイメージとはあまりにも違って、唖然としてしまう。
 俺もよく怒られてたよ、とおどけて、ユウさんは懐かしむような目つきで微笑んだ。
「バランスのいい食事をしろとか、部活ばっかりじゃだめ、ちゃんとテスト勉強しろとか、しょっちゅう怒られてた。全部俺のためだったけどね。凪沙は自分のために怒ったことなんて一度もなかったよ」
 ユウさんが漣を見て、突然、怒ったような表情を浮かべた。
「漣、あんた、なにいつまでも大昔のこと気にしてうじうじしてんの! 私はそんなこと望んでない、馬鹿みたいに笑って楽しく生きろ! そしてちゃんと幸せになれ!」
 私は固唾を呑んで彼を見つめる。
「——って怒り狂うよ、きっと凪沙は。そういう子なんだ」
 どうやら、ナギサさんの口真似をしてくれたらしい。
 今までぼんやりとしていた彼女の姿が、ユウさんの話を聞いてどんどん形をはっきりさせ、生き生きと輝きだした。いつも優しく穏やかに微笑みながら、すべてを許して受け入れる聖母のイメージはどんどん霞んでいき、代わりに、なにものにも臆せずはきはきとものを言う、しっかり者で生気に溢れた少女の姿が立ち上がってくる。
 ——ああ、ナギサさんは、生きていたんだ。
 そんな当たり前のことを今さらながらに実感して、胸がいっぱいになった。
 私は目を閉じて、ナギサさんのことを思う。ユウさんを叱り、でも自分のためには怒らず、目の前で溺れる子どもを助けるために危険も顧みず海に飛び込んだ人。
 なんて、なんて優しい人なんだろう。海のように深い優しさ。この気持ちを表す言葉が見つからない。ただただ、胸が熱くなった。
 きっと彼女は本当に、自分が助けた子どもがいつまでも罪の意識に苛まれることなんて、少しも望んでいないだろうと思えた。
 かたわらの漣に目を向ける。彼は項垂れたまま、ひとりごとのようにかすかな声で囁いていた。
「でも、俺は……、幸せになる資格なんかない、許されない……だって、ナギサさんは俺のせいで……」
 この期に及んで、まだそんなことを言っているのか。そう思った瞬間、
「——いい加減にしなよ、漣!」
 そんな言葉が口をついて出た。