そして、世利の言っていた小隊と合流して、守られるように二人は幽世にある久遠の屋敷へと無事にたどり着く。

 疲れ果て、移動中に眠ってしまった文子は、ハッとして目を覚ます。傍らには、心配そうな眼差しを向ける久遠がいた。

「文子」

「久遠さま!?ここは…」

「私の部屋だ」

 落ち着いて見れば、そこは確かに見慣れた久遠の寝所だった。

「すみません、眠ってしまったなんて…」

 上半身を起こすのを久遠が手伝ってくれる。

「謝ることなどない。大変な目に合ったのだから仕方あるまい。それに、謝るのはそなたを守れなかった私の方だ」

「ご無事で…、あっ、お腹の子は!?」

「無事だ、何ともない。そなたが眠っている間に医者に診させた」

「良かったぁ…っ」

 文子の漆黒の瞳から涙がぽろぽろと溢れた。久遠も、お腹の子も無事で、良かった。緊張の糸が解れ、堰を切ったように涙が止まらない。

「そなたがいなくなって、生きた心地がしなかった…」

 幼子のようにぐずぐずと泣きじゃくる文子を、久遠は腕の中にかき抱いた。自分と、子どもの無事を泣いて喜んでくれるその姿に強く胸を打たれた。そしてこれほどにも愛しい大切な存在をあのような危険な目にあわせてしまった自分の甘さにどうしようもないほどの怒りと羞恥の心がこみ上げる。

「よくぞ…っ、よくぞ無事でいてくれた、文子」

「久遠さま…怖かった…、とても怖かったです…っ」

 久遠の胸の中がとても安心できて、文子は抱きしめられながら、思いのまま泣きじゃくった。

 しばらく経ち、落ち着いてきたところで、布団の足元でもぞもぞと動くものを感じて文子は目を丸くする。

 足の両脇に、二つの丸くて茶色と白と黒の三毛のもふもふがあった。

「安寧だ。そなたが心配でさっきまで起きていたのだが、疲れもあって眠ってしまったのだ。術にかけられてそなたを屋敷の外へ誘導してしまった事に責任を感じている」

「安ちゃん…寧ちゃん…」

 すやすやと眠る足元の二人を、文子は手でそっと撫でた。すべすべの毛並みが手に心地よく指の隙間を通っていく。

「目が覚めたらうんと世話を焼いてくるだろうな」

「えぇ」

 元気に飛び回る二人の姿が目に浮かぶようだった。

「文子…、今回のこと、全て私の責任だ。本当に申し訳なかった。お前を攫ったあの妖は、妖狐の朔夜と言って、現王の反対勢力の一人で…、もともとは私の同僚でもあった男だ」

「同僚…」

 王だの反対勢力だの、文子には初耳のことで、理解が追いつかない。妖の世界に王が存在することすら文子は知らないのだ。

「やつは昔から私を敵対視しておってな…。今回、人間の林からの依頼を受けたのも、きっと文子の相手が私だったからだろう…。私が傷を負ったのも、情けないが、やつの策に嵌ったせいだ」

 久遠は、ふっと自嘲気味に笑みをこぼした。

「そなたに会えたのも、本をただせばやつのおかげだと思うと、なんとも言えない気持ちだがな」

「それで、その朔夜という人は…」

「口惜しいが取り逃がしてしまった。妖狐というのはどうにもずる賢くすばしっこいやつでな…」

「そう、ですか…」

 久遠の宿敵のような相手が今もどこかに居ると思うと背筋に冷たいものが走る。それと同時に律が久遠の仕事は危険が伴うと言っていたことを思い出した。

「久遠さまは、騎士隊長さまだとお聞きしました…」

「あぁ、そうだ。そなたに要らぬ心配をかけたくなくて隠していたが、それが仇となり危険な目に…」

「久遠さま、そんなことは、どうでもよいのです!」

 文子の突然の剣幕に、久遠は気圧される。

「久遠さまが、私を大切に思って守って下さるのは、とても嬉しく思っています。…ですが、私は、守られるだけでは嫌なのです」

(私が言いたいのは…もっと…)

「私は、力もなくて何もできませんが…、久遠さまを少しでもお支えしたいと…思っております…、私とあなたは番なのですから…私のことを思って下さるのであれば、もう隠し事はしないでください…」

(あぁ、なんの説得力もない言葉だわ…)

 その証拠に、琥珀色の瞳は戸惑い揺れている。けれど伸ばされた手は、涙で濡れる頬を優しく拭ってくれた。

「そう、だな…、どうやら浮かれすぎて何も見えていなかったようだ…」

「え?浮かれ…」

 久遠が浮かれるなど、そんなことがあるのだろうか、と文子は耳を疑う。

「そうだ、神社でそなたと出会ってからずっと忘れられず、どうしたら番になれるかばかり考えていた。…念願叶って、私は浮かれていたのだ。そなたのそばを片時も離れたくなくて休暇を取りまくっていたし、部下にも誰にもそなたを見せたくなくて、祝いたいという者たちからの面会すら断っていた」

 文子の知らなかった事実がつぎつぎと明らかになる。

「屋敷の外が危ないのは本当だが、それよりもなによりも身重のそなたが心配で仕方がなかった」

 久遠が、自分をそこまで思ってくれていたとは露知らず。久遠の独占欲の現れが、なんだかとても子どもじみて思えて、文子は笑いを堪えきれなくなって吹き出してしまう。

「ふっ…、ふふふ…」

「あぁ、笑ってくれ…どうせ私は狭量だ」

 そう不貞腐る姿すらも、新鮮でいてかわいく思えてきた。

「ふふ…、ごめんなさい…。でも、良かったです…、久遠さまにも人間らしい…じゃなくて、妖らしい所があって安心いたしました。ーーー久遠さま、私と誓いを交わしてくれませんか?」

「誓いとは」

「はい、人間の世では夫婦となる時に、誓いを立てるのです」

 ご存じですか、と久遠を見上げると、静かに首を横に振った。

「三々九度と言って、散々苦労を共にしながら支え合っていきましょう、という意味を込めて盃を交わすのです。…本当は、お酒ですし、順番も殿方が先なのですが、多めに見てくださいね」

 文子は、卓の上に乗っている湯呑に茶を注いで欲しいと久遠に頼む。

「冷めてしまっているから取り替えてこよう」

「いえ、そのままで結構です」

 渡された湯呑には、時間が経って色濃く出た茶が揺れている。

「苦労を共に、か」

「はい、…私文子は、これから先、苦労も喜びも全てを久遠さまと共にしていくことを、ここに誓います」

 そう言って文子はそれを、三口で飲み干し、湯呑を久遠へと渡す。そして久遠はそれに茶を再び注ぐと、文子を見つめて言った。

「いかなる時も、そなたを愛し守り抜き、苦しみも喜びも分かち合うとここに誓う」

 文子に習って三口で茶を飲み干した久遠を、文子はとても穏やかな表情で見守っていた。

「久遠さま…、心からお慕い申し上げております」

「私もだ、文子。誰かを守りたいと、幸せにしたいと思ったのはそなたが初めてなのだ。そなた以外、考えられぬ。これから先、ずっとそばにいてほしい」

 細められた優しい琥珀色の瞳と視線が絡まり、唇が触れ合った。甘美な刺激に、文子は幸せをかみしめる。

 想い想われ、一生を共にする相手が久遠で良かった、と心から思えたことが、何よりの幸せだった。

 久遠の胸に顔を寄せて目を閉じれば、思いがけない言葉が耳元で囁かれた。

「ーーーそなたを抱きたい」

「っ!?…え、あ、…ま、待って」

「だめだ、待てない」

 抵抗も虚しく、そのまま布団に組み敷かれてしまうが、

「ご主人!だめ!」
「文子さま、疲れてる!」

 可愛い声が二人の間に割って入った。いつの間にか起きていた安寧の二人が、猫の姿のまま毛を逆立てて「しゃー!」と久遠を威嚇していた。

「安寧…、居るのを忘れていた」

 頭を抱えて大きくため息を吐き舌打ちをする久遠に、文子は苦笑を浮かべる。

 久遠のぬくもりが離れてしまったのを少しだけ残念に思ったことは内緒にしておこう、と心に思った文子だった。