「ねぇ、律くん」
「なんでしょうか?」
「久遠さまのお仕事ってなぁに?」

 ある日のこと、百人一首の札を囲って一緒に坊主めくりをしていた律に訊ねると、耳をピクリと動かして札をめくる手が止まった。

 これほど広い屋敷に、律や安寧の他にも使用人がいて、文子まで養えるほど久遠の懐が豊かな理由が気になったのだ。

「それは、ご主人さまからお聞きください。私は口止めされておりますゆえ」

「その久遠さまが教えてくださらないから…律くんに聞いているのに…」

 以前はそのうち、と思っていたが一向に話してくれる気配がなく、律ならば、と思い聞いてみたがだめだったか、と肩を落とす。

「あ…、文子さま!そんなに気を落とされぬよう!ご主人さまのお仕事は危ないこともありますが、とても立派な誇りあるお仕事です!ご主人さまはきっと文子さまに心配を掛けたくないだけだと思います」

(そうは言っても…気になるわ…)

「お屋敷の外には、行ってはいけないのかしら…」

 番の儀を終えてからひと月が経とうとしていた。
 自身の体も気持ちも落ち着いてきた今、今度は屋敷の外の幽世という世界に興味を持ち始めたのだ。

 文子は、縁側の外、中庭に目を向ける。

「屋敷の外はまだ危険だからだめだと…ご主人さまが」

「そう…。今日は久遠さまはお仕事なのよね」

「はい、どうしても外せない仕事が出来たとかで」

 久遠は何かを心配しているようで、出来るだけ文子のそばにいるよう配慮している様子だった。

「…そう言えば、安ちゃんと寧ちゃんの姿が見えないけど」

「あの二人は今街に買い出しにいっています」

「私も一緒に行きたかったわ…」

「…そうですよね…、こっちに来られてからずっとこのお屋敷から出られず気持ちも塞がってしまいますよね…。今度ご主人さまにそれとなく伝えてみますね!さ、文子さまの番ですよ、引いてください」

「あらやだ、坊主だわ!」

 手持ちの札を全て手放して、律と顔を見合わせて笑った。


 律との坊主めくりを楽しんだ後、文子は縁側に座り一人のんびりと過ごしていた。手入れされた中庭は、どれほど眺めていても飽きない。今は楓が見事に葉を赤に染めて見頃を迎え、その姿を池に映して揺れている様は見事だ。

「はぁ…」

 美しい庭園を眺めながら吐かれたため息は、秋風にさらわれていく。

(やはり、腑に落ちない…)

 文子は、久遠が自分のことを大事に思い、心配してくれているのは理解できていた。しかし、仕事のことや心配事を教えてもらえないのが、寂しかった。

(夫婦だから全てを分かち合いたいと思うのは烏滸がましいことかしら…)

 そもそも、妖の番と人間の夫婦の関係が同じかどうかも甚だ怪しい。文子は、あまりにも妖について無知すぎた。

 だからこそ、屋敷の外の世界を知りたいと思うようになったのだった。

「文子さま」

 呼ばれて、ハッと目を上げると、中庭の池の石の上に寧が立っていた。

「ご主人さまが、屋敷の外で待ってます」

「え…、久遠さまが?」

「こちらへ」

 なぜ屋敷の外なのだろうと思ったが、さっき律が久遠に掛け合ってくれると言っていたのを思い出し、文子は弾む胸を必死に押さえて寧の後ろについていった。

「寧ちゃんはどこ?」

「寧は、屋敷の外で久遠さまと待っています」

「…」

「文子さま、どうされました?」

(違う…)

「あなた、誰…」

 文子は目の前の寧に問うた。姿も声も、寧だ。だけど、違う。

「その青色の髪飾り…寧ちゃんは、あなたのはずだもの…、それに、寧ちゃんは久遠さまをご主人って呼ぶわ」

 安寧が一人でいるところを見たことがなかった文子は、寧だけが現れたとき違和感を覚えた。

 それに言葉遣いもいつもと違う。
 文子は、目の前の寧が寧じゃないと確信した。

 言いようのない不安と恐怖が押し寄せてきて、文子は一歩後ずさる。

「あ、だ、だれーーーーーー」

 身を翻し助けを求めようとした文子は、何者かによって口をふさがれる。何か嫌な匂いが鼻をかすめた途端、視界が真っ暗になった。




 肩に痛みを感じて目が覚めた文子は、薄っすらと目を開ける。両手足を縄で縛られて座敷に横たわっていた。

 誰かの家のようだが、皆目見当がつかない。耳を澄ましても、物音一つ聞こえなかった。

(安ちゃんと寧ちゃんは無事かしら…)

 寧が一人で現れた時点で気づくべきだった、と文子は自身の行いを後悔するも後の祭りだ。

 と、その時、足音が聞こえてきて文子は瞼を閉じてじっとする。

「……遅かったか…、だが…には……に扱うんだぞ」

 スーッと襖が開き、男が二人入ってくる。文子のそばにしゃがみ、顔を覗き込むと物珍しそうに感嘆した。

「…これほど美しい人間は見たことがない。これなら確かに大金をはたいてでも欲する気持ちはわからないでもないな」

(大金…?)

「すぐに堕胎の術が使える妖を連れてこい、それも出来るだけ強い妖力のヤツだ。赤子とはいえあの久遠の子どもだからな」

「はい、1日もあれば見つかるかと」

 堕胎、という言葉に文子は震えあがった。二人が部屋から出ていくのを確認して、大きく息を吐く。無意識のうちに緊張で息を止めていたようだ。

 何よりも、誰がなんの目的で自分をさらったのかわからないことが、底知れぬ不安となり文子を飲み込む。

「…久遠さま…っ」

(会いたい…、久遠さまに)

 ぎゅっと閉じた瞼に押し出されるように涙が零れ、畳に落ちた。

 それから、時間だけが過ぎていくのを文子は畳に横たわったまま過ごしていた。陽が傾き始め、部屋の中は次第に暗くなっていく。尿意を催してきた頃に、女が一人現れた。

「お食事をお持ちしました」

 無地の着物を着た女は、盆を卓の上にそっと置いて文子のそばに座った。その声に文子は恐る恐る目を開ける。年の頃は文子と同じくらいに見えた。黒髪を結い上げて、襷をかけている。

「…厠に行かせて欲しいの…」

「承知しました。足の縄だけ解きますね」

 部屋を出ると、目の前には庭が広がり、廊下の突き当りに厠があった。体に縄を結ばれて、女がそれを握っている。

「妙な考えは起こさぬよう。私は妖です。あなた一人どうとでもできます」

 女にそう脅されて、文子は思わず振り返った。

「あなたも…」

 どこからどう見ても人間の女にしか見えない。文子は妖という存在をまだよく知らない。妖というのは、自分が思うよりもずっと人の世界に紛れているのかもしれない、と不思議に思った。


「召し上がってください」
「…」

 厠から戻ると、女が食事をするようにしつこく勧めてくるのを、文子は頑なに拒んだ。

「お腹の子に障りますよ」

(食べたほうが危険かもしれない)

 さっきの男たちは、お腹の子を殺そうとしていた。いくら女が口にして大丈夫だからと言われても文子には信じられない。

 何を言っても口を開けようとしない文子に女はため息を吐くと、そのまま部屋を出ていった。


 それから数分経った頃、けたたましい足音と男の声が文子の耳に届く。

「ーーー早くしろ!文子はどこだ!」

「そう慌てないでくださいよ、旦那…ここです」

ーーーバンッ

 乱暴に開かれた襖から姿を見せたのは、林だった。その後から、燭台を手に男が顔を覗かせる。

(どうして…)

 窪んだ目が畳に横たわる文子を捉え、覆いかぶさるように駆けてきた。文子は怖くて体を丸めて目を閉じた。

「文子ぉ!」
「…っ…」
「うぐ、…な、なにをする!」

「おっと旦那。取引はまだ終わっちゃいないぜ」

 一緒にいた男、恐らく最初に様子を見に来た男の一人が、林の襟首を掴んで後ろに転ばせたようだった。

「さっきも言ったがこいつは、妖の子を身ごもってるんだ。それもそんじょそこらの妖じゃない。今堕ろせる妖を探している最中だ。こいつを渡すのはそれが終わって、金を受け取ってからだ」

「可哀そうな文子…妖に無理やり…。だがすぐに元に戻してやるから案ずるでないぞ」

 林の哀れみの眼差しから逃れたい一心で文子は顔を逸らす。

「あぁ、文子や…何か術でも駆けられているんじゃないのか?それも一緒に解いてくれよ」

 二人のやり取りを見て男は肩をすくめて呆れた顔を林に向けていた。人間の男というものはこうも莫迦なのだろうか、と。この美しい女子が金しか能のない男に惚れるとでも思っているのだろうか。

(私を攫ったのが、林さまだったなんて…)

 祝言の日、あれほど久遠に痛めつけられたと言うのに、まだ諦めていないことが信じられない。それだけでなく、お腹の子を殺して、文子を自分のものにするつもりなのだ。考えただけで、恐ろしかった。


 縛られた手を下腹部に当てる。まだ膨らみもしていなければ当然胎動も感じないけれども、確かにそこには久遠と自分の子が宿っている。

(あなたは、絶対に私が守るからね…)

 堕胎の術とやらを持つ妖を前に自分が出来ることなどないだろう。それは文子自身が一番よくわかっていた。それでも、既に母性を感じていた文子は腹をさすってそう強く思った。

「おっ、早かったな。…妖蛇(ようだ)のばばぁか」

 男が廊下の奥を見て呟いた。コツ、コツ、という固い音と足音が聞こえる。

「この女だ」

 一人の白髪の老婆が現れた。背丈は男の半分ほどしかなく、その手には杖を携えている。垂れ下がった瞼の下、真っ赤な目が文子に向けられ、文子は息を呑む。

「ほほう…、その気は…仙狸(せんり)じゃな。しかも、相当な気の持ち主の」

「どうだ、堕ろせそうか」

 男からの問いに老婆は頷いた。

「入ってから日もさほど経っていなさそうじゃから、大丈夫じゃろ」

 コツ、コツ、と杖をついて歩き文子の前に腰を下ろす。懐から数珠のような飾りを取り出し、手に通すとその掌を文子へと向けた。赤い目は虚ろに文子の腹を見据える。

「い、いや…、やめて…」

「悪いのぉ、人間の女子。ちと苦しむかもしれんが、すぐ終わる」

 老婆がごにょごにょと何かを唱えだす。
 かざされた手がぼわんと光りだし、文子は次第に息が苦しくなってきた。

「いやっ、やめて!お願い、やめて…っ!」

(私はどうなってもいいから、どうかこの子だけは…!)

 全身が何かに締め上げられていくような苦痛に文子はもだえ苦しむ。

「や、やめて…いや!いやあぁぁぁぁっ!!」

ーーーーーーパァン!

「んがぁっ」

 さっきまで文子のそばに居たはずの老婆が、吹き飛ばされて中庭に倒れ込んでいた。

「な、なんだ?何がどうなっておる!?文子は!?文子は無事だろうな!」

 林が目を見開き、老婆と文子を交互に見やる。文子は目を閉じてぐったりとしていた。

「大丈夫だ、気を失っているだけのようだ。ーーーおい、妖蛇のばばぁ。子は堕ろせたのか?」

 腰をさすって老婆が起き上がるも、その顔には苦渋がにじみ出ていた。

「だめじゃ…赤子に弾き返された。なんと強力な気じゃろうか…。よし、もう一度試そうぞ」

 気絶して横たわる文子のそばにきて、老婆は再び手をかざした。

「ううぬ…」

「うっ…く…や、やめ…」

 文子が痛みに目を覚ますが、体は重く言うことをきかない。さっきの衝撃のせいで体がひどく疲弊していた。

(この子は…、私が守らなくちゃなのに…っ)

 締め付ける力が増していき、息ができずにまた意識が遠のいていきそうになったその時、

ーーーーードォン

 地響きのような振動と破裂音がそこに居た者を襲う。男が顔をしかめて何かを呟いた。老婆は耐性を崩し、文子は術から逃れられた。

「ーーーーよくここがわかったな…」

 男が外を向いて言葉を放つ。その顔は強張っていた。

「文子を返せ」

(この声は…)

「…久遠、さま…」

 怒りを帯びた声は低く恐ろしい響きを伴っていたが、紛れもなく久遠の声だった。文子は、安堵感を覚えると共に、助けにきてくれた喜びと申し訳なさでいっぱいになった。

「文子…遅くなってすまぬ」

 中庭の塀の上、夜空に佇む月を背に久遠が立っていた。いつの間にか、辺りは騒がしくなり、男の仲間と思われる者がぞろぞろと集まり久遠を取り囲む。

「久遠、ここは人の世だ。女は返す、だから今日のところは引き下がーーー」

 セリフの途中で男の体が消えた。ーーー否、何か衝撃を受けて家の壁を突き破りながら吹っ飛んだ。

「ひいっ」

 それを見て慌てて逃げる男の仲間が次々に何かに弾き飛ばされていく。

「ってーなぁ、久遠」

 吹っ飛ばされたはずの男がいつの間にか戻り、気づけば文子を片手に抱えていた。

「相変わらず脇が甘いんだよ、おめーは。そんなんだから仲間にやられるんだ。この女を殺されたくなければこちらの言うことをきけ。あいにく、俺はこの女には興味ないんでね」

「お、おい!話が違う!文子を傷つけることはならんぞ!」

 林が話に入ってくるが二人の耳には届かないようで、久遠はふん、と鼻で笑った。

「気が合うな、妖狐。俺もそんな女には興味がない」

「なっ!?」

 妖狐と呼ばれた男は、もう一度腕の中の女に目を向ける。するとそれは、先ほど文子の世話を頼んだ女中だった。手足を縛られ、口には布をかまされてうーうー唸っていた。

「惑わしの術成功です!文子さまは返してもらいましたよーっだ!」

 振り向けば、塀の上の久遠の隣に文子を抱えた律の姿があった。安寧と言い、律と言い、小さな体のどこに文子を抱えるほどの力があるのだろうか、と不思議だったが、これが妖というものなのだろう。

「すまなかった、文子…よく無事でいてくれた」

 謝る久遠に、文子は何も言えずただ顔を横に振った。久遠に謝られることなど一つもない。こうして助けに来てくれたのだから、感謝しかない。それに、お腹の子が無事なのかどうか、文子にはまだわからなかった。

 口を開けば、涙が溢れるに違いない。これ以上久遠を煩わせてしまうわけにはいかない、と文子は必死で耐えた。

「もう大丈夫だ、安心しろ。律、じきに世利たちも到着する。それまで文子を守るのだぞ」

「はい!かしこまりました!」

 律の返事を聞くよりも早く、久遠の姿がふっと消えた。文子は目を(しばた)かせる。そして、屋敷は男たちの怒号やけたたましい衝撃で溢れかえる。

「り、律くん…久遠さまは…」
「大丈夫ですよ。ご主人さまは、なんてったって王宮の騎士隊長さまですからね」
「王宮の、騎士隊長…?」
「あ、言っちゃった!…まぁ、もう良いですよね。どうせすぐにわかることですし」

 律は腕の中の文子にウィンクをして見せた。

「ーーー律、久遠さまは」

 突然降って湧いた声。律の隣に銀髪の痩身が立っていた。音もなく現れたその人に、文子は声も出ない。

「世利さま!妖狐の朔夜が裏で糸を引いていたようで応戦中です」

「そうか…、そちらが、お噂の…」

 世利と呼ばれた男は、律の腕の中の文子と視線が重なる。久遠とはまた違う、中世的な美しさをまとった青年だった。

 青年は文子をまじまじと見て「なるほど…隊長が会わせてくれない謎が解けました」と呟くが、文子には届かない。律は世利の独り言に一人苦笑した。

「あ…文子ともうします…」

「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。私は久遠さまの部下の世利と申します。お初にお目にかかり光栄です、文子さま。下に隊を一つ待たせているので、文子さまは律と共に先に幽世にお帰りくださいませ。ーーーでは、私は加勢します故、失礼」

「あ、どうか、お気をつけて…」

 文子の言葉よりも早く、世利は闇に消えた。

「さ、行きましょう、文子さま」

「え、えぇ」

 本当ならば、この場で久遠の無事を見届けたい一心だったが、今は律の言葉に従うしかなかった。自分には何一つ手助けが出来ないどころか足手まといにしかならないから。悔しいが、今自分が最優先すべきはお腹の子の命の安全。

「律くん…、帰ったらお医者さんを呼んでくれる?」

「もちろんです。でもきっとお腹の子は大丈夫ですよ」

「そう、なの?」

「はい、文子さまからはちゃんとご主人さまの妖気が感じられますゆえ。もし、流れてしまっていたら気配も感じられないでしょう」

「ならよいのだけど…心配で…」

「わかっています、念のためしっかり診てもらいましょう」

「ありがとう」

 律は文子を安心させるように優しい笑顔を顔にたたえた。