平城京の導き ~古都の物語〜

「そ、そんな事って......」
 首皇子とは、子どもの頃からよく一緒に遊んだ間柄で、誰よりも仲が良かった。だが、さきほどの彼は少し違って見えた。安宿媛に対して、どこか冷たさを帯びていた。あれが、本当にあの頃の彼なのだろうか。
(それに、首皇子は立ち去るときに私の顔を見ようともしなかったわ)
 そのことが、彼女の心に小さな痛みを残した。
「とりあえず、この件はしばらく様子を見るとしよう。藤原氏の行く末を思えば、娘を皇室に嫁がせるのは、避けては通れぬ道だ」
 不比等の声は、淡々としていたが、そこには確かな決意があった。
 やはり彼は、この国の権力を握る者なのだ。安宿媛はそう実感せずにはいられなかった。
 安宿媛と首皇子は叔母と甥の関係にあたるが、年も同じで、幼い頃はとても仲がよかった。周囲から見れば、ひどく釣り合いの取れた二人に映っていたでのあろう。
「お父さま、そのようなことを考えていたのですね」
「お前は私の娘だ。皇族に嫁がぬなどということ、まさか三千代から聞いていなかったのか?」
「お母さまは、時がくれば、それなりに力や権威のある方のもとへ嫁がせたいとおっしゃっていましたが……」
「そうか。三千代は、そのように話していたのだな」
「はい、そう言っておりました」
 安宿媛は、しばらく何も考えられなかった。久しぶりに首皇子に会えたというのに、その言葉は、まるで自分の存在を否定されたように感じられた。彼女は、首皇子の態度を思い返し、どうしようもない悲しみが込み上げてきた。
「それとな、実は平城宮に急ぎの用ができてしまった。悪いが、お前は三千代と先に帰っておいてくれぬか」
 父の表情を見るに、わずかに苛立ちを覚えているようで、眉間にはかすかな皺が寄っていた。
「わかりました。では、私はお母さまと一緒に先に帰らせていただきます」
 安宿媛はそう言って父に軽くお辞儀をし、そっとその場を後にした。
(首皇子が、あんな冷たい態度を取るなんて、本当に信じられない)
 彼が皇太子に立てられる数年前から、彼の態度がどこかよそよそしく感じられていた。けれど、その理由はわからぬまま日々が過ぎ、やがて彼の立太子が正式に決まったのだった。
「……私、本当は、とても寂しかったの」
 彼女はそう呟くと、思わずその場に立ち止まった。そして両手で顔を覆い、こらえていた涙を、誰にも見られぬようそっと流した。
(首皇子に会いたくて、時々、東院のあたりをこっそり覗いたこともあった。それでも、彼は立場のある方だからと、自分に言い聞かせて、ずっと我慢してきたのに……)
「首皇子、どうしてなの。私、あなたに何か悪いことをしてしまったの?」
 声に出した瞬間、彼女はひどく胸が締め付けられる気がした。そして彼女の頬を流れる涙が、衣の袖をそっと伝っていく。
 その後、安宿媛は母と再会し、父のことを伝える。けれど、もう少しひとりでいたいと思い、平城宮のあたりをゆっくり歩いてから帰ることにした。
 母の三千代も娘の様子の不自然さに気づいていたが、ふだんあまり我儘を言わない彼女がそう願うので、渋々ひとりで帰ることにした。

 安宿媛は母を見送ったあと、行き先も定めぬまま、平城宮のまわりをふらりと歩き始める。すると、彼女の横から風が吹いてきた。袖に触れて、頬のあたりが少し冷たい。
 その感覚で、安宿媛は、自分が先ほどまで泣いていたのだと、遅れて気づく。
彼女は思わず、空を見上げてみる。すると、雲がゆっくりと流れていくのが見えた。