平城京の導き ~古都の物語〜

「そこでだ、先日君が東院に来たあと、お祖父さまにお願いしたんだ」
「え、あの時に?」
「あぁ、安宿媛を俺自身が守っていくため、彼女を俺の妃にしたいと」
「......え」
 安宿媛はそれを聞いて、あまりのことに、心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
「そ、だからそのためにお祖父さまと、ある取引をしたんだ」
 首皇子は、ひどく動揺している安宿媛の様子を横目に捉えながら、言葉を続けた。
「俺は安宿媛を迎える。その代わりに、お祖父さまには、これまで通り朝廷で強い権限を持ち続けられる――そういう話さ」
 首皇子は、不比等が安宿媛を妃に迎えさせることで、なおも権勢を握ろうとしている、その思惑を逆手に取ったのだった。
「お、お父さまに、なんてことを。それで、向こうは何て言ったの」
「いやあ、あの時のお祖父さまは、かなり驚いた顔をしていたよ。でも、そのあとすぐに、その場で大笑いされたかな」
(あの、お父さまが、そこまで)
 安宿媛にとって、不比等はどちらかといえば厳格な父である。その彼が腹を抱えて笑うなど、娘の彼女でさえ、にわかには想像できない。
「まあ、そんなわけで、思ったより、あっさりと了承はもらえた感じだったよ。それで安宿媛……君は、この件をどう思う?」
「え、どう思うって?」
「一応、俺は今、君に求婚してるわけだから。何か返事をもらえないと……俺の立場がなくなる」
「でも、首皇子は本当にそれで良いの?私たち、夫婦になるってことなのに」
「うん、俺は君なら構わない。あとは君の返事次第だよ」
(こっちは胸がどきどきしているのに、こんなふうにあっさり言ってしまって。首皇子は、私のことをどう思っているのかしら)
 それでも、彼にそう言ってもらえて、安宿媛は素直に嬉しいと思った。まずは正直な気持ちを彼に伝えようと心を決める。互いの想いは、これから少しずつ通わせていけばいいのだから。
「分かったわ。私も、首皇子なら構わない」
 安宿媛は少し照れたように、にっこりと笑ってそう答えた。
「ああ、良かった。ここまで来て君に断られたら、さすがに困ってしまうからね。でも、こういう話をするのって、本当になんだか照れてくるよ」
「それは私だって、そうよ。急にこんな話をされたら、心臓がどきどきしてしまうもの」
 そう言って、二人は互いに照れたように視線を逸らし、くすくすと笑い合う。
「それと、この件を先日、広刀自に話したんだ。すると彼女が、ひどく怒ってきてね」
「え、広刀自が?」
「一応、周りからは広刀自も俺の妃候補に挙がっていたから、それを伝えようとしたんだ。けど――」
「けど?」
「俺がその説明をしようとしたら、途中で話も聞かずに、その場を離れていってしまってね」
(広刀自が、そこまで取り乱すなんて……)
 これは広刀自本人のことなので、安宿媛にはどうすることもできない。
「広刀自も、きっといろいろと思うことがあったのね。真相は本人にしか分からないものだし、また時期を見て聞けばいいと思うわ」
(この問題も、きっとこれから向き合っていくことになるんだわ)
 それを聞いて首皇子は、いまいち理解できていない様子である。だが、今ここで色々考えても、どうにもならないので、彼もこれ以上、その話をするのをやめることにした。

 やがて、どちらからともなくその場に寝転び、顔を向け合い、何の言葉もなく互いを見つめ合っていた。ススキの揺れる音しか聞こえない中で、まるでこの世にいるのは二人だけのような、そんな錯覚を覚えた。
「何だろう。本当に、今は不思議な気がする」
「ええ、私もそう思うわ」
 首皇子は、ただ彼女に優しい眼差しを向けていた。その視線を受け、安宿媛の胸の奥で、鼓動が次第に高鳴っていく。
 ずっと会えずに、寂しいと思っていた相手が、こうして目の前にいる。その事実だけで、胸がいっぱいになるほど嬉しくなるなんて、安宿媛は思ってもみなかった。