平城京の導き ~古都の物語〜

 安宿媛は、東院から帰ってきて数日後、再び大学寮を訪れていた。
 不比等や首皇子から、呪詛を見抜いたのが真備だと聞き、どうしても直接礼を伝えたいと思ったのだ。
 大学寮の門の前では、真備が待っていてくれたようだった。彼らしく、出入りする人々の邪魔にならぬよう、少し端に立っている。そして、安宿媛の姿を見つけると、軽く手を振ってみせた。
 安宿媛はその姿を確認すると、思わず駆け足になり、真備のもとへと向かった。
「真備殿、ご無沙汰しております」
「安宿媛、お体が良くなられたようで、本当になによりです」
 真備は、安宿媛の元気そうな様子を見て安堵し、穏やかな笑みを浮かべてそう答えた。
 その後、このまま門の前で話を続けるのは憚られ、二人はその場を離れて歩き出すことにした。今日は天気もよく、真備は「川のほうが静かで良いですよ」と、さりげなく行き先を示してくれる。
 大学寮の門を出て、しばらく歩くと、ほどなくして佐保川が見えてきた。
「ここなら、人の目も気にならないでしょうから」
 そう言って、真備は人目の少ない川のほうへと、さりげなく視線を向けた。二人はその流れに並ぶようにして、草地の上にそっと腰を下ろす。
 佐保川は、都の東をなぞるように、南から北へと流れていた。あたりには、水の音がかすかに響き、人の気配はほとんどない。
 安宿媛は、水音を感じながら、ようやく肩の力が抜けていった。
 そんな光景をしばらく眺めていたが、その沈黙を破るように、真備が口を開いた。
「最初、あなたが倒れたと聞き、とても心配しておりました」
「はい、おかげさまで。呪詛の件も、真備殿の助言により解決し、本当に感謝しております」
 そう言って、安宿媛は真備に頭を下げた。
「いえ、私はただ助言をしただけ。首皇子が大学寮にまでこなければ、あなたが倒れたことすら、私は知らなかったはずです」
 真備はそう言って、視線を一瞬だけ伏せた。
「はい、皇子も、私が自分の前で倒れたものだから、相当心配をかけてしまいました」
 普通なら、家臣に探させれば済む話だ。それをあえて自ら行動に出たというのは、これまでの彼を思えば、少し不思議に感じられた。
「でも、彼があなたを嫌ってなどいないことは、分かりましたね」
「はい……本当に、そうでした。今は彼のほうから会いに来てくれるようになって、ようやく誤解も解けたんです」
 安宿媛はそう言ってから、首皇子がこれまで胸の内に抱えてきた事情と、その末に彼が出した答えを、真備にそっと語った。
 真備は、彼女の話を聞き終えると、小さく息をつき、川の流れへと視線を向ける。
「なるほど。それほど深い悲しみを抱えておられたのですね。ご本人にとっては、相当な苦しみだったのでしょう」
「えぇ、私も少し驚きました。子供の頃から一緒に育ってきたのに、分かっているつもりで、何も分かっていなかったんだと」
 そこからまた少し沈黙が続いたのち、真備は声を落とし、呟くように言った。
「私は初め、あなたとは、あまりに突然の出会いだったので……まるで天女のように思えました」
「え、私が天女?」
「えぇ。まるで天女に導かれるように、書物の話をしたり、未来を語ったり……不思議ですね。あなたは、人を導く力を秘めているように思えます」
 安宿媛は、彼のあまりに思いがけない言葉に、しばし言葉を失った。
「確かに、首皇子はいずれ天皇になる人です。この国を守り、導いていかれるのでしょう。けれど、私は違います。ただの貴族の娘にすぎません」
「ですが、この国は、首皇子お一人だけで治められるものではない。きっと、その傍らで支える人が必要になる」
「そ、それは確かにそうですが――」
 その言葉を聞いて、安宿媛は、ふと何かに気づかされたように思えた。以前、地震の災害に遭ったときも、結局、最後に動くのは人なのだと、彼女は身を以て感じさせられたのだ。
「私は、良い世の中になればと、ずっと願っていました。けれど、願っているだけでは、やはり足りないのですね。人々が互いに協力し合っていくことが、良い国作りにつながるのだと」
 そう言ってから、安宿媛は、ふと空を見上げた。今日は雲も少なく、よく晴れている。
 何ができるかは、正直、自分でもまだ分からない。けれど、願い続けながら、同時に一つ二つと進んでいけばよいのだ。
「……真備殿。私なりに、やってみますね」
 真備は、その言葉を聞き、優しくうなずいた。
 それから二人は、今後のことや、最近あった出来事を、あれこれと語り合った。