平城京の導き ~古都の物語〜

 その後、藤原不比等はまだ自宅には帰らず、東院に残っていた。柱に体を預け、ひとり、外の景色をぼんやりと眺めている。
 東院は、立ち入る者の身分が限られた場所であり、日々の政から切り離された空間でもある。そんな場所に身を置くと、不比等もまた、己が政から一時解放されたような感覚に包まれた。
 時の権力者である自分が、娘と孫の行方ひとつに、これほど振り回されるとは。結局のところ、己もまた一人の人間に過ぎないのだと、改めて思い知らされるようだ。
 彼は、先ほどの出来事を思い返しては、ふとその場でため息をついた。
「結局のところ、二人の関係が変わったわけではない。だが、首皇子はどうやって安宿媛を守るというのだ」
 藤原不比等も、その件については、すぐに問いただしたい気持ちでいた。だが、娘の安宿媛があまりに嬉しそうだったため、彼はこの場ではひとまず、口にしないことにした。この件は、急いで確認するほどのことでもない。いずれまた、本人たちから後日聞けばよいだろう。
「はぁ……しかし、本当に先が思いやられる」
 藤原不比等が、娘や孫のことを脳裏に思い浮かべていた、その時である。
「お祖父さま、少しよろしいですか?」
 そう声をかけてきたのは、首皇子だった。てっきり、まだ娘と一緒にいるものだと思っていたが、彼がここに来たということは、どうやらそれも違うらしい。
「何だ、首皇子か。安宿媛はどうした?」
「はい。彼女は、先ほど自宅に戻りました。それと、お祖父さまはまだこちらで用事があると伝えてあります」
「何? となると、彼女には聞かせられない話があるというのか?」
「はい。そのつもりでしたので、彼女には先に帰ってもらいました」
 そう言うと、首皇子は不比等の隣へと並んだ。空は薄く雲に覆われて、ひどく冷え込んでいた。彼はそんな光景を見ながら、思わず肩をすくめ、小さく身震いした。
「まったく……本当に、お前たちには手を焼かされる」
「その件については、申し訳ないと思っています。元はといえば、俺の不甲斐なさが招いたことです」
 首皇子は頭を下げ、素直に謝った。その仕草からは、まだどこか幼さの残る雰囲気がうかがえた。
「だが、ここにお前が来たということは、何か決心がついたのだろう?」
「はい。俺も覚悟を決めました。どうすれば、安宿媛と共に生きていけるのかを」
「はて、その覚悟とは?」
 一瞬、東院の空気が止まったような気がした。
 首皇子はその静寂を破るべく、深く息を吸い込む。そして逃げることはせず、まっすぐ不比等を見て言った。
「俺は確かに、あなたの孫です。ですが、同時に皇族であり、いずれは天皇になる立場にあります」
「......あぁ、そうだな」
「そこで、あなたを利用させていただく……そう決めました」
 不比等はそれを聞き、一瞬、眉をひそめた。
「何だと、お前は、私を利用するというのか?」
「はい。私は、いずれ天皇に即位したいと思います。ですが、その地位を守り抜くには、あなたの力添えなくしては、実現は難しいでしょう」
「……おい、首皇子。一体、何が言いたいのだ?」
 首皇子は一度、気持ちを落ち着かせ、不比等のほうへ向き直った。そこには、彼の並々ならぬ決心の表情が浮かんで見てとれる。
「そこで、お祖父さまに一つ、お願いがあります」
 そう前置きしてから、首皇子は事の真相を、語り始めた。
 これは、この時点での、不比等と首皇子のあいだで、互いの立場と覚悟をもって交わされた、密やかな取引であった。