平城京の導き ~古都の物語〜

 安宿媛は、父に食ってかかった。首皇子は、自分に迷惑をかけたくないという理由で、これまで彼女を避けてきたのだ。
 だが、そんな彼が、ようやく自分と向き合うと言ってくれた。彼女も、このままおめおめと諦めるわけにはいかなかった。
「お父さま、無理を承知でお願いします。どうか、首皇子に会わせてください!」
 不比等はそれを聞いて「うーん」と唸りながら考え込んだ。なかなか踏ん切りがつかないようで、思いのほか長く唸っていた。だが彼も、ようやく決心がついたのか、少しため息をついてから答えた。
「私は個人的なことで、自身の権限をあまり使いたくはない。だが、今回は仕方ない。特別に、皇子に会わせてあげよう」
「お父さま、本当にありがとうございます!」
 安宿媛は父に深々と頭を下げ、礼を述べた。
「まぁ、あの子供(がき)にも、たまには一度、がつんと言ってやらんとな」
 藤原不比等は、少し不愉快そうにそう言って、ふいと視線をそらした。
「まずは、東宮傅の武智麻呂に話をつけてやる」
 その後、不比等はさっそく武智麻呂に今回の事情を話し、これは今後の藤原氏に大きく影響することだと言って聞かせ、彼をなんとか説得することができた。
 武智麻呂も、多少の不満は述べつつも、父である不比等の指示ということもあり、しぶしぶ納得させられた。

 それから数日後のこと、首皇子は東院内にある庭園へと呼び出された。
ここは皇族のために設けられた庭園で、首皇子にとっても馴染みのある場所である。足元の玉砂利が、靴底の下でかすかに音を立てる。傍には池が設けられ、冬の空気が、ひときわ澄んで感じられた。
 彼は、なぜ自分がここに呼ばれたのか、その詳細も聞かされないまま、ただ一人、その場に立ち尽くしている。
 一体、誰が、何のために――わざわざ庭などに呼び出すのだろう。
 今日は晴れているとはいえ、真冬の寒さが彼の肌にひしひしと刺さってくる。
「はぁ……本当に、一体なんだって言うんだよ」
 ここ最近の彼は、すっかり意気消沈していた。自分のせいで、大事な幼なじみを危険にさらしてしまったのだ。
(もう、皇位継承も、他の者に譲ったほうがいいのかもしれない)
 首皇子が、すっかり冷めた様子でいた時である。そのとき、遠くから人の足音が聞こえてきた。
 その音に、首皇子ははっとして、思わず顔を上げる。どうやら、その人物は、まっすぐ自分の方へと近づいてきているらしい。
「一体、誰がここにって……き、君が、どうしてここに?」
 彼の目の前に、さっと現れたのは安宿媛だった。
 彼女はとても動揺している様子だったが、それでも、まっすぐ首皇子のことを見つめていた。
「安宿媛が、どうしてここに……」
「首皇子、やっと会えた」
 安宿媛はそのまま首皇子のもとへ駆け寄ると、思いきり彼に前から抱きついた。
 彼のほうも、あまりに突然のことだったため、反射的に彼女を受け止める。
「安宿媛、これは一体どういうこと?」
「あなたがちっとも会いに来てくれないから......お父さまたちに頼んで、ここに連れて来てもらったのよ」
 安宿媛はそう言ってから、精一杯の力で彼をぎゅっと抱き、離れようとはしなかった。
 その突然の行動に、首皇子は完全に身動きが取れず、ただ彼女に抱きすくめられたままになる。思考も上手く回らず、彼女の温もりだけが、そのまま伝わってくる。
「安宿媛、分かったから。とりあえず、いったん離れてくれないか!」
 首皇子は、年頃の娘にこんなふうに抱きつかれた経験などなく、顔を真っ赤にして叫んだ。
 安宿媛も、これ以上はさすがにまずいと思い、あっさりと彼に抱きつくのをやめた。