「ここの学生で、少し調べものがあって来たのです」
相手の青年は、とても穏やかな口調で声をかけてきた。手にはいくつかの書物を抱えており、どうやら講義で使っていたものらしい。
首皇子は、薄暗い部屋の中で、そっと相手の顔を窺った。すると、その顔に、どこか見覚えがある気がした。
「あれ……あなたは、まさか下道真備?」
「え、どうして私の名を?……その面影は、もしかして首皇子でいらっしゃいますか?」
真備は、まさか首皇子がこのような場所に、一人で来ているとは思っておらず、思わず目を見開いた。その驚きを、彼は隠しきれない様子だった。
(まさか、大学寮でこの者に会うとは)
首皇子は、ひとまず手にしていた書を棚へ戻し、改めて真備に向き直った。
「ええ。私は元正天皇(げんしょうてんのう)の甥で、皇太子でもある首皇子です」
「そうでしたか。これは大変、失礼いたしました。ですが、皇子はなぜ、このような場所に?」
そう問われ、首皇子は少し気まずそうにしながらも、理由を言葉にして述べた。
「実は、原因の分からない病に、どう対処すべきか悩んでおりまして。ここなら、何か手がかりとなる書が見つかるのではないかと思ったのです」
「なんと、それはお知り合いに、そのような方がおられるのですか?」
首皇子は一瞬、本当のことを言うべきかと迷った。だが今は、彼女の容態が回復することのほうが、何よりも大事だった。
「それが、実は安宿媛が、先日、急に自宅で倒れたのです。しかも、俺の目の前で」
「な……それは、どういうことですか!」
真備は、それを聞いてひどく動揺した様子を見せた。そして、手にしていた書物が、勢いよく床に落ちた。
真備の噂は、首皇子もそれなりに耳にしていた。彼はとても優秀な学生で、他の学生からの信頼も厚い人物だとされている。その彼が、安宿媛の話を聞いただけで、これほどまでに取り乱しているのだ。
それほどまでに二人のつながりが深いのだろう。首皇子は、心にわずかな引っかかりを覚えたが、それを悟られまいとして、言葉を続けた。
「その後、薬師を呼び、祈祷もしている。だが、それでも彼女の容態は良くならず……居ても立ってもいられなくなって、ここへ来たんだ」
首皇子は、こみ上げる悔しさをぐっと堪えながら、そう話した。
「なるほど……そんなことになっていたのですね。おそらく、食事やその直前の様子も確認されているはず。それでも原因が分からない、と」
「ええ。それに、彼女以外の者は皆、健康なままだ。本当に、どうしてこんなことが起きたのか」
(本当に、安宿媛はどうして、こんなことになったんだ)
あれほど囲碁に勝って、嬉しそうにしていた彼女は、つい先ほどまで元気そのものだった。彼の脳裏には、そのときの光景が、今も鮮明に思い返される。
その場には、しばし、しんとした沈黙が降りた。
やがて真備は、首皇子の話を手掛かりに、一人で思案を巡らせ始める。
「急に容態が悪化し、原因も分からない。それでいて、周りの者には異変がない」
真備はふと、棚に置かれた書物に一度だけ目を向けた。ここにあるのは、医書や薬方が主である。だが、これらだけで安宿媛の病の解明につながるかといえば、いささか難しい気がした。
真備はしばらく思案を巡らせていたが、やがて、ふと何かに思い当たった様子で、首皇子に向き直った。
「首皇子……それは、もしかすると呪詛かもしれません」
「え、呪詛?」
「はい。皇子のお話を伺う限り、その可能性が考えられます」
相手の青年は、とても穏やかな口調で声をかけてきた。手にはいくつかの書物を抱えており、どうやら講義で使っていたものらしい。
首皇子は、薄暗い部屋の中で、そっと相手の顔を窺った。すると、その顔に、どこか見覚えがある気がした。
「あれ……あなたは、まさか下道真備?」
「え、どうして私の名を?……その面影は、もしかして首皇子でいらっしゃいますか?」
真備は、まさか首皇子がこのような場所に、一人で来ているとは思っておらず、思わず目を見開いた。その驚きを、彼は隠しきれない様子だった。
(まさか、大学寮でこの者に会うとは)
首皇子は、ひとまず手にしていた書を棚へ戻し、改めて真備に向き直った。
「ええ。私は元正天皇(げんしょうてんのう)の甥で、皇太子でもある首皇子です」
「そうでしたか。これは大変、失礼いたしました。ですが、皇子はなぜ、このような場所に?」
そう問われ、首皇子は少し気まずそうにしながらも、理由を言葉にして述べた。
「実は、原因の分からない病に、どう対処すべきか悩んでおりまして。ここなら、何か手がかりとなる書が見つかるのではないかと思ったのです」
「なんと、それはお知り合いに、そのような方がおられるのですか?」
首皇子は一瞬、本当のことを言うべきかと迷った。だが今は、彼女の容態が回復することのほうが、何よりも大事だった。
「それが、実は安宿媛が、先日、急に自宅で倒れたのです。しかも、俺の目の前で」
「な……それは、どういうことですか!」
真備は、それを聞いてひどく動揺した様子を見せた。そして、手にしていた書物が、勢いよく床に落ちた。
真備の噂は、首皇子もそれなりに耳にしていた。彼はとても優秀な学生で、他の学生からの信頼も厚い人物だとされている。その彼が、安宿媛の話を聞いただけで、これほどまでに取り乱しているのだ。
それほどまでに二人のつながりが深いのだろう。首皇子は、心にわずかな引っかかりを覚えたが、それを悟られまいとして、言葉を続けた。
「その後、薬師を呼び、祈祷もしている。だが、それでも彼女の容態は良くならず……居ても立ってもいられなくなって、ここへ来たんだ」
首皇子は、こみ上げる悔しさをぐっと堪えながら、そう話した。
「なるほど……そんなことになっていたのですね。おそらく、食事やその直前の様子も確認されているはず。それでも原因が分からない、と」
「ええ。それに、彼女以外の者は皆、健康なままだ。本当に、どうしてこんなことが起きたのか」
(本当に、安宿媛はどうして、こんなことになったんだ)
あれほど囲碁に勝って、嬉しそうにしていた彼女は、つい先ほどまで元気そのものだった。彼の脳裏には、そのときの光景が、今も鮮明に思い返される。
その場には、しばし、しんとした沈黙が降りた。
やがて真備は、首皇子の話を手掛かりに、一人で思案を巡らせ始める。
「急に容態が悪化し、原因も分からない。それでいて、周りの者には異変がない」
真備はふと、棚に置かれた書物に一度だけ目を向けた。ここにあるのは、医書や薬方が主である。だが、これらだけで安宿媛の病の解明につながるかといえば、いささか難しい気がした。
真備はしばらく思案を巡らせていたが、やがて、ふと何かに思い当たった様子で、首皇子に向き直った。
「首皇子……それは、もしかすると呪詛かもしれません」
「え、呪詛?」
「はい。皇子のお話を伺う限り、その可能性が考えられます」



