首皇子が安宿媛のもとを訪れていた、ちょうどその頃のこと。長屋王は、外出先から自邸へと戻ってきていた。
彼は左京三条二坊に住み、宅地内には大小さまざまな建物が配され、庭には池も設けられていた。さらに、庶民には到底真似のできない、犬や鶴までも飼っている豪華さだ。
「最近、首皇子の様子がおかしい。まさか、あいつが不比等の娘のもとへ通うようになるとは」
首皇子と安宿媛が、幼い頃から同じ敷地内で、共に過ごしていたことは、長屋王も知っていた。だが、彼が皇太子となって以降、二人はすっかり疎遠になっていたはずだ。
それを思えば、ここ最近になって、彼らに何かしらの変化が起きたと見るべきなのだろう。
「不比等殿が、二人に対して何か策を講じたのか、それとも」
彼の脳裏に、以前、行幸の折に目にした安宿媛の姿が、ふと思い浮かぶ。
自分の脅しに怯えながらも、懸命に自身の意見を述べていた姿が、強く印象に残っていた。
あの場で彼女は、貴族の娘に似つかわしくないほど、立場というものを理解していた。だからこそ、長屋王の胸に、かすかな引っ掛かりが残った。
(私は、別にあの娘を嫌っているわけではない。余計な思惑さえなければ、とても聡明な者だろう)
「あの娘が、自ら首皇子に歩み寄ったのか――」
このまま首皇子のもとへ安宿媛が嫁ぐことになれば、藤原不比等の権勢は、さらに強まることになる。
長屋王としても、そうした成り行きを、黙って見過ごすというのは、どうしても避けたいところだった。
「確かに今の私の地位が守られているのは、不比等殿のお力添えによるものだ。だが、かつての豪族たちを見ても、皇族以外の者が過度な力を持つことに、良い例はない」
長屋王は、わずかな苛立ちを覚えながら、自邸の中をひとり歩いていた。今年もようやく雪が降り出したようで、庭はうっすらと白く覆われている。
北門からは所領の農産品が運び込まれてきたらしく、それを届けに来た男が、長屋王の姿を見て、思わず深々と頭を下げた。だが長屋王は、その男に目を向けることもなく、歩みを止めない。早く建物の中へ入り、冷えた体を温めたかった。
そうした考えに沈んでいた、その時である。建物の裏手から、家臣たちの話し声が、かすかに長屋王の耳に届いた。
(あれは……一体、何を話しているのだ)
長屋王は、その様子が少し気になり、ふと足を止めて、物陰から話をそっと聞いてみることにした。
家臣たちは、冷えきった体を震わせながらも、何やら重々しい口調で言葉を交わしている。
「首皇子が、不比等の娘のもとへ通うようになれば、ますます不比等殿の思惑どおりというわけだな」
「まあ、不比等殿は皇子にとって祖父にあたり、何より育ての親のような存在だ。そのような相手に、皇子もさすがに逆らえないのかもしれない」
「これでは、また藤原氏の力を強めることになるな。それでは長屋王様の立場さえ危うくなりかねない。そうなれば、我々は一体どうなるのやら……」
「せめて皇子と安宿媛の婚姻さえなければ、まだ不比等殿の脅威を抑えられるかもしれないが」
(なるほど……奴らも、私と同じ考えということか)
長屋王は、彼らの会話を思いのほか興味深く聞いていた。家臣たちにとっても、首皇子と安宿媛の婚姻は、決して歓迎すべき話ではないらしい。
「そうだな、安宿媛がもし何かの病にでもなれば、婚姻はなくなるか」
「ああ、噂によれば、皇子の母君の病も、呪詛か何かではないかと、囁く者もいたな」
「くそ。呪詛でも何でも構わない。とにかく、この婚姻だけは阻止したい」
長屋王は、そこまで聞くと、音も立てずに物陰を出て、家臣たちの前に姿を現した。
「こ、これは、長屋王様。もうお帰りになられていたのですか?」
家臣たちは、今の会話を聞かれてしまったのではないかと酷く怯え、思わず声を強ばらせて言葉を返した。
(そうか……それも、一つの手かもしれない)
彼は左京三条二坊に住み、宅地内には大小さまざまな建物が配され、庭には池も設けられていた。さらに、庶民には到底真似のできない、犬や鶴までも飼っている豪華さだ。
「最近、首皇子の様子がおかしい。まさか、あいつが不比等の娘のもとへ通うようになるとは」
首皇子と安宿媛が、幼い頃から同じ敷地内で、共に過ごしていたことは、長屋王も知っていた。だが、彼が皇太子となって以降、二人はすっかり疎遠になっていたはずだ。
それを思えば、ここ最近になって、彼らに何かしらの変化が起きたと見るべきなのだろう。
「不比等殿が、二人に対して何か策を講じたのか、それとも」
彼の脳裏に、以前、行幸の折に目にした安宿媛の姿が、ふと思い浮かぶ。
自分の脅しに怯えながらも、懸命に自身の意見を述べていた姿が、強く印象に残っていた。
あの場で彼女は、貴族の娘に似つかわしくないほど、立場というものを理解していた。だからこそ、長屋王の胸に、かすかな引っ掛かりが残った。
(私は、別にあの娘を嫌っているわけではない。余計な思惑さえなければ、とても聡明な者だろう)
「あの娘が、自ら首皇子に歩み寄ったのか――」
このまま首皇子のもとへ安宿媛が嫁ぐことになれば、藤原不比等の権勢は、さらに強まることになる。
長屋王としても、そうした成り行きを、黙って見過ごすというのは、どうしても避けたいところだった。
「確かに今の私の地位が守られているのは、不比等殿のお力添えによるものだ。だが、かつての豪族たちを見ても、皇族以外の者が過度な力を持つことに、良い例はない」
長屋王は、わずかな苛立ちを覚えながら、自邸の中をひとり歩いていた。今年もようやく雪が降り出したようで、庭はうっすらと白く覆われている。
北門からは所領の農産品が運び込まれてきたらしく、それを届けに来た男が、長屋王の姿を見て、思わず深々と頭を下げた。だが長屋王は、その男に目を向けることもなく、歩みを止めない。早く建物の中へ入り、冷えた体を温めたかった。
そうした考えに沈んでいた、その時である。建物の裏手から、家臣たちの話し声が、かすかに長屋王の耳に届いた。
(あれは……一体、何を話しているのだ)
長屋王は、その様子が少し気になり、ふと足を止めて、物陰から話をそっと聞いてみることにした。
家臣たちは、冷えきった体を震わせながらも、何やら重々しい口調で言葉を交わしている。
「首皇子が、不比等の娘のもとへ通うようになれば、ますます不比等殿の思惑どおりというわけだな」
「まあ、不比等殿は皇子にとって祖父にあたり、何より育ての親のような存在だ。そのような相手に、皇子もさすがに逆らえないのかもしれない」
「これでは、また藤原氏の力を強めることになるな。それでは長屋王様の立場さえ危うくなりかねない。そうなれば、我々は一体どうなるのやら……」
「せめて皇子と安宿媛の婚姻さえなければ、まだ不比等殿の脅威を抑えられるかもしれないが」
(なるほど……奴らも、私と同じ考えということか)
長屋王は、彼らの会話を思いのほか興味深く聞いていた。家臣たちにとっても、首皇子と安宿媛の婚姻は、決して歓迎すべき話ではないらしい。
「そうだな、安宿媛がもし何かの病にでもなれば、婚姻はなくなるか」
「ああ、噂によれば、皇子の母君の病も、呪詛か何かではないかと、囁く者もいたな」
「くそ。呪詛でも何でも構わない。とにかく、この婚姻だけは阻止したい」
長屋王は、そこまで聞くと、音も立てずに物陰を出て、家臣たちの前に姿を現した。
「こ、これは、長屋王様。もうお帰りになられていたのですか?」
家臣たちは、今の会話を聞かれてしまったのではないかと酷く怯え、思わず声を強ばらせて言葉を返した。
(そうか……それも、一つの手かもしれない)



