「あ、でもあそこには武智麻呂の兄様がいらっしゃるの。だから今は、兄様にお願いして、会わせていただいているわ」
「そう言われても、俺はやっぱり、少し納得がいかないよ」
(どうして皇子は、そんなふうにいうのかしら?)
「とりあえず、何も問題ごとなど起こっていないし、もちろんお父さまたちにも、きちんと話はしてあるわ」
そう言って、安宿媛は少しばかり、視線を下に落とした。
真備とは、首皇子とは別に、これからも気兼ねなく仲良くしていきたいと、思っている。それを、まさか彼からこんなふうに言われるとは、思ってもみなかった。
「まあ、絶対に会っては駄目とは言わないけれど、十分に気をつけるんだ」
首皇子はそう言って、わずかに表情を硬くした。彼がなぜ、この件にこだわるのか、それが彼女にはよく分からなかった。
それから二人はしばらく黙り込み、その場には何とも気まずい空気が漂った。
(とりあえず、話題を変えないと)
安宿媛は、せっかくの皇子との時間を台無しにしたくなくて、思い切って別の話を切り出すことにした。
「ところで、実は皇子に見てもらいたいものがあるの」
「え、俺に見てもらいたいもの?」
安宿媛はその言葉に小さく頷き、部屋の中に置かれた質素な木箱のもとへ行くと、蓋をそっと開けた。彼女が中から取り出したのは、どうやら何枚かの木簡だった。
その木簡を手に、安宿媛は首皇子のもとへ戻ってくる。
「え、何か歌でも詠んだの?」
皇子は彼女から差し出された木簡を、ふと手に取って、さっと目を通した。そこに書かれていたのは和歌ではなく、どうやら筆で描かれた落書きのようだった。
「安宿媛、これは……人の顔を描いたの?」
「ええ、最近、知り合いの役人から聞いたの。役所の人たちの間では、暇つぶしに木簡へ絵を描くこともあるそうで。それで、私も試しに描いてみたの」
首皇子も、その噂は何となく耳にしていた。役所には、上役の貴族から、下働きとして位を持たない人たちまで、さまざまな者が集っている。
およそ七千人近い役人たちが、それぞれの持ち場で仕事をおこなっているのだから、多くの人の姿を目にすることもあるだろう。
そうしたことを思い浮かべながら、彼は改めて木簡に描かれた絵を眺めた。筆には強弱があり、あまり途切れることなく、流れるように描かれている。
だが、そこに描かれていたのは役人の姿ではなく、どこか見覚えのある人の顔ばかりだった。
「これは、不比等のお祖父さまと三千代さま、それに君の兄上たち。それで、この一番隅にいるのは、もしかして俺?」
「あ、そうなの。皆を描いていたら、場所がなくなってしまって、首皇子だけ小さくなってしまったわ」
それを聞いた首皇子は、思わず苦笑した。これだけを見ても、自分がやや劣っているように感じられてしまう。
「まあ、とりあえず、皆の特徴がそれぞれ出ていていいんじゃないかな。次に描くときは、俺ももう少し大きくしてくれると、嬉しいよ」
首皇子はそう言って、手にしていた木簡を一つにまとめ、彼女に返した。
「最初は、皆とても興味を持って見てくれていたのだけど、最近は少し飽きられてきたみたいで。誰も見てくれないのよ」
「あはは、それで俺に見せようと思ったのか」
「そうなの。それに、書写のことも、新たにいくつか書いたものがあって」
「え?」
それを聞いた首皇子は、なぜか嫌な予感を覚えた。
そんな彼の反応などお構いなしに、安宿媛はまた別の木箱から、書写された紙を取り出してきて、首皇子の前にひとつひとつ並べた。
そこに書かれている文字は、一応女性らしい筆致ではあるものの、いかんせん貴族の娘らしくないほど、びっしりと漢字で埋め尽くされている。
首皇子でさえ、これをすべて完璧に読み通せる自信は、正直なかった。
「地震の救済や行幸での出来事など、ここ最近、いろいろと経験できたから、より一層磨きがかかったみたいなの。これも、御仏に対する日々の姿勢が、きっと良かったんだわ」
「そ、それは、とても良い心がけだね」
結果的に、安宿媛の仏教に対する信仰心は、ますます深まった様子である。
「なので、こちらも是非、首皇子に読んでいただきたいと思うの。ちなみに、これを書くのに二ヶ月も掛かってしまったわ」
首皇子は、そこでようやく状況を察した。きっとこの家の者たちも、これまで幾度となく、彼女の書いた書写を見せられてきたのだろう。そして、その役目が今度は、自分にまで回ってきたのだと。
それから安宿媛の、書写のお披露目に、首皇子は付き合わされることになった。
「そう言われても、俺はやっぱり、少し納得がいかないよ」
(どうして皇子は、そんなふうにいうのかしら?)
「とりあえず、何も問題ごとなど起こっていないし、もちろんお父さまたちにも、きちんと話はしてあるわ」
そう言って、安宿媛は少しばかり、視線を下に落とした。
真備とは、首皇子とは別に、これからも気兼ねなく仲良くしていきたいと、思っている。それを、まさか彼からこんなふうに言われるとは、思ってもみなかった。
「まあ、絶対に会っては駄目とは言わないけれど、十分に気をつけるんだ」
首皇子はそう言って、わずかに表情を硬くした。彼がなぜ、この件にこだわるのか、それが彼女にはよく分からなかった。
それから二人はしばらく黙り込み、その場には何とも気まずい空気が漂った。
(とりあえず、話題を変えないと)
安宿媛は、せっかくの皇子との時間を台無しにしたくなくて、思い切って別の話を切り出すことにした。
「ところで、実は皇子に見てもらいたいものがあるの」
「え、俺に見てもらいたいもの?」
安宿媛はその言葉に小さく頷き、部屋の中に置かれた質素な木箱のもとへ行くと、蓋をそっと開けた。彼女が中から取り出したのは、どうやら何枚かの木簡だった。
その木簡を手に、安宿媛は首皇子のもとへ戻ってくる。
「え、何か歌でも詠んだの?」
皇子は彼女から差し出された木簡を、ふと手に取って、さっと目を通した。そこに書かれていたのは和歌ではなく、どうやら筆で描かれた落書きのようだった。
「安宿媛、これは……人の顔を描いたの?」
「ええ、最近、知り合いの役人から聞いたの。役所の人たちの間では、暇つぶしに木簡へ絵を描くこともあるそうで。それで、私も試しに描いてみたの」
首皇子も、その噂は何となく耳にしていた。役所には、上役の貴族から、下働きとして位を持たない人たちまで、さまざまな者が集っている。
およそ七千人近い役人たちが、それぞれの持ち場で仕事をおこなっているのだから、多くの人の姿を目にすることもあるだろう。
そうしたことを思い浮かべながら、彼は改めて木簡に描かれた絵を眺めた。筆には強弱があり、あまり途切れることなく、流れるように描かれている。
だが、そこに描かれていたのは役人の姿ではなく、どこか見覚えのある人の顔ばかりだった。
「これは、不比等のお祖父さまと三千代さま、それに君の兄上たち。それで、この一番隅にいるのは、もしかして俺?」
「あ、そうなの。皆を描いていたら、場所がなくなってしまって、首皇子だけ小さくなってしまったわ」
それを聞いた首皇子は、思わず苦笑した。これだけを見ても、自分がやや劣っているように感じられてしまう。
「まあ、とりあえず、皆の特徴がそれぞれ出ていていいんじゃないかな。次に描くときは、俺ももう少し大きくしてくれると、嬉しいよ」
首皇子はそう言って、手にしていた木簡を一つにまとめ、彼女に返した。
「最初は、皆とても興味を持って見てくれていたのだけど、最近は少し飽きられてきたみたいで。誰も見てくれないのよ」
「あはは、それで俺に見せようと思ったのか」
「そうなの。それに、書写のことも、新たにいくつか書いたものがあって」
「え?」
それを聞いた首皇子は、なぜか嫌な予感を覚えた。
そんな彼の反応などお構いなしに、安宿媛はまた別の木箱から、書写された紙を取り出してきて、首皇子の前にひとつひとつ並べた。
そこに書かれている文字は、一応女性らしい筆致ではあるものの、いかんせん貴族の娘らしくないほど、びっしりと漢字で埋め尽くされている。
首皇子でさえ、これをすべて完璧に読み通せる自信は、正直なかった。
「地震の救済や行幸での出来事など、ここ最近、いろいろと経験できたから、より一層磨きがかかったみたいなの。これも、御仏に対する日々の姿勢が、きっと良かったんだわ」
「そ、それは、とても良い心がけだね」
結果的に、安宿媛の仏教に対する信仰心は、ますます深まった様子である。
「なので、こちらも是非、首皇子に読んでいただきたいと思うの。ちなみに、これを書くのに二ヶ月も掛かってしまったわ」
首皇子は、そこでようやく状況を察した。きっとこの家の者たちも、これまで幾度となく、彼女の書いた書写を見せられてきたのだろう。そして、その役目が今度は、自分にまで回ってきたのだと。
それから安宿媛の、書写のお披露目に、首皇子は付き合わされることになった。



