それから一行は、養老の地にある、多度山に湧く美泉へも立ち寄ることにした。
かつてこの水を口にした者は、白髪が黒くなり、顔の皺まで薄れたという、不思議な言い伝えが残されているからだ。
元正天皇は岩から流れ落ちてくる水をすくい、そっと顔にかけてみる。
冷たい水の滴が彼女の肌を伝い、そのまま冷たさがしんと染みていった。すると、天皇の顔がどことなく明るさを増したふうに見えてきた。
伝承の通りとまではいかないが、それでも肌がいくぶん滑らかになったような気さえしてくる。
「なんと……顔を洗っただけで、これほど滑らかになるとは」
そう呟くと、今度は傷のあるところに水を少しかけてみる。すると、わずかではあるが、そちらも傷が癒えていくように感じるのだ。
横で見ていた者たちも、その変化を目の当たりにして目を丸くし、その場には思わずどよめきが広がった。
この様子をそばで見ていた安宿媛は、今回の行幸の道中で、ふと首皇子に傷を負わせてしまったことを思い出す。
「そうだわ……首皇子も、今は体に傷を負っていたのだったわ」
そのことを思い出すと、彼女はすぐさま首皇子の元へと駆け寄り、そっと彼の腕を取って、この水に触れさせようと考えた。
「皇子、あなたも一緒に水に触れてみては?」
「え、俺も......?」
彼は半信半疑ではあったが、そのやり取りを聞いていた天皇からもぜひと言われてしまう。
そこで渋々ながら岩水の前に立った。そして袖を巻き上げ、足の裾もたくし上げて、素肌のところへ水をかけてみる。一瞬、傷口に痛みが染みて「うっ」と唸ったものの、天皇と同じように、体の傷が徐々に癒え始めていった。
「まさか……こんなことが」
さすがの彼も、この状況にはかなり驚いているようで、自分の肌のあちこちを凝視し始めた。
「この泉の水は本当に素晴らしい。ぜひとも、この素晴らしさを広めたいものだ」
天皇がそう述べられると、その場にいる者たちも深くうなずき、自然と手を叩いた。
「これは、大々的にお触れを出されてみては?」
「いや、それより先に、まずは水を都へたくさん運ぶべきだろう」
皆は歓喜のあまり、少々興奮気味になり、それぞれが思い思いの意見を語り始める。
「そうですね、まずは養老という名を、大勢の人に知ってもらうのはどうでしょうか?」
首皇子は、濡れた自分の肌を布で拭きながら、岩から湧き出す水を見つめ、そして天皇にそう話した。
「なるほど、それは名案だ。では、国の元号を養老に改めるとしよう」
天皇の言葉を聞き、人々はその瞬間に一斉に歓喜の声を上げた。
ある者は飛び跳ねて喜び、また別の者は思わず涙を浮かべる。
そして口々に「それは何とめでたいことだ!」と、思い思いの言葉を発した。
天皇も、そんな様子にうっすらと微笑み、その場は大いに盛り上がっていった。
安宿媛は思わず、人々の群れの中をかき分けて、首皇子のもとへ歩み寄る。そして互いに顔を見合わせ、共に笑みを浮かべて喜んだ。
(まだいろいろと問題も多いけれど、こうして一つ一つ前に進んでいけば良いのよ)
安宿媛は、何となく希望の光を見いだせたようで、ふと心が弾んでくる気がした。
だが、そんな彼女の姿を横目に、首皇子は安宿媛を見つめながら、何やら一人で考え込んでいるようだった。
そんな彼の様子が気になって、安宿媛はふと問いかけてみる。
「皇子、どうかされましたか?」
首皇子は突然に声をかけられたことで、はっとしたように小さく肩を揺らした。そして次の瞬間には、どこか気まずげに視線をそらしてしまう。
「あ、いや……何でもないよ」
そしてそれ以上は語らず、いつもの様子に戻ったかに見えると、そのまま歩いて天皇の側へ向かっていってしまった。
(どうしたのかしら......)
安宿媛は一人、その場にたたずみ、彼の後ろ姿を目で追った。何か気になることでもあったのだろうか。
そして天皇は、この地の国司らに物を与えることにし、不破・当耆・方県・務義の諸郡の農民には、減税などの恩恵が施されることとなった。
その知らせが伝わると、人々は心の底から深い感謝の念を抱き、これまで以上に仕事に励む気持ちを強くした。
そして一行は数日間この地に滞在し、その後、ようやく宮へ戻ることとなった。
だがそのあいだ、安宿媛は首皇子とゆっくり話をする機会がなかなか得られず、結局それきりになってしまう。そのことだけが、彼女には少し残念でならなかった。
こうして今回の行幸は多くの成果を挙げることができ、天皇の取り決めにより、この日を境に元号が改められることとなった。
かつてこの水を口にした者は、白髪が黒くなり、顔の皺まで薄れたという、不思議な言い伝えが残されているからだ。
元正天皇は岩から流れ落ちてくる水をすくい、そっと顔にかけてみる。
冷たい水の滴が彼女の肌を伝い、そのまま冷たさがしんと染みていった。すると、天皇の顔がどことなく明るさを増したふうに見えてきた。
伝承の通りとまではいかないが、それでも肌がいくぶん滑らかになったような気さえしてくる。
「なんと……顔を洗っただけで、これほど滑らかになるとは」
そう呟くと、今度は傷のあるところに水を少しかけてみる。すると、わずかではあるが、そちらも傷が癒えていくように感じるのだ。
横で見ていた者たちも、その変化を目の当たりにして目を丸くし、その場には思わずどよめきが広がった。
この様子をそばで見ていた安宿媛は、今回の行幸の道中で、ふと首皇子に傷を負わせてしまったことを思い出す。
「そうだわ……首皇子も、今は体に傷を負っていたのだったわ」
そのことを思い出すと、彼女はすぐさま首皇子の元へと駆け寄り、そっと彼の腕を取って、この水に触れさせようと考えた。
「皇子、あなたも一緒に水に触れてみては?」
「え、俺も......?」
彼は半信半疑ではあったが、そのやり取りを聞いていた天皇からもぜひと言われてしまう。
そこで渋々ながら岩水の前に立った。そして袖を巻き上げ、足の裾もたくし上げて、素肌のところへ水をかけてみる。一瞬、傷口に痛みが染みて「うっ」と唸ったものの、天皇と同じように、体の傷が徐々に癒え始めていった。
「まさか……こんなことが」
さすがの彼も、この状況にはかなり驚いているようで、自分の肌のあちこちを凝視し始めた。
「この泉の水は本当に素晴らしい。ぜひとも、この素晴らしさを広めたいものだ」
天皇がそう述べられると、その場にいる者たちも深くうなずき、自然と手を叩いた。
「これは、大々的にお触れを出されてみては?」
「いや、それより先に、まずは水を都へたくさん運ぶべきだろう」
皆は歓喜のあまり、少々興奮気味になり、それぞれが思い思いの意見を語り始める。
「そうですね、まずは養老という名を、大勢の人に知ってもらうのはどうでしょうか?」
首皇子は、濡れた自分の肌を布で拭きながら、岩から湧き出す水を見つめ、そして天皇にそう話した。
「なるほど、それは名案だ。では、国の元号を養老に改めるとしよう」
天皇の言葉を聞き、人々はその瞬間に一斉に歓喜の声を上げた。
ある者は飛び跳ねて喜び、また別の者は思わず涙を浮かべる。
そして口々に「それは何とめでたいことだ!」と、思い思いの言葉を発した。
天皇も、そんな様子にうっすらと微笑み、その場は大いに盛り上がっていった。
安宿媛は思わず、人々の群れの中をかき分けて、首皇子のもとへ歩み寄る。そして互いに顔を見合わせ、共に笑みを浮かべて喜んだ。
(まだいろいろと問題も多いけれど、こうして一つ一つ前に進んでいけば良いのよ)
安宿媛は、何となく希望の光を見いだせたようで、ふと心が弾んでくる気がした。
だが、そんな彼女の姿を横目に、首皇子は安宿媛を見つめながら、何やら一人で考え込んでいるようだった。
そんな彼の様子が気になって、安宿媛はふと問いかけてみる。
「皇子、どうかされましたか?」
首皇子は突然に声をかけられたことで、はっとしたように小さく肩を揺らした。そして次の瞬間には、どこか気まずげに視線をそらしてしまう。
「あ、いや……何でもないよ」
そしてそれ以上は語らず、いつもの様子に戻ったかに見えると、そのまま歩いて天皇の側へ向かっていってしまった。
(どうしたのかしら......)
安宿媛は一人、その場にたたずみ、彼の後ろ姿を目で追った。何か気になることでもあったのだろうか。
そして天皇は、この地の国司らに物を与えることにし、不破・当耆・方県・務義の諸郡の農民には、減税などの恩恵が施されることとなった。
その知らせが伝わると、人々は心の底から深い感謝の念を抱き、これまで以上に仕事に励む気持ちを強くした。
そして一行は数日間この地に滞在し、その後、ようやく宮へ戻ることとなった。
だがそのあいだ、安宿媛は首皇子とゆっくり話をする機会がなかなか得られず、結局それきりになってしまう。そのことだけが、彼女には少し残念でならなかった。
こうして今回の行幸は多くの成果を挙げることができ、天皇の取り決めにより、この日を境に元号が改められることとなった。



