平城京の導き ~古都の物語〜

「もし相手が俺でなければ、君を悲しませることもなく、もっと幸せに生きられるかもしれない」
 そう言いながら、首皇子は袖口からそっと腕を抜き出し、安宿媛の前へ差し出した。その手首には――細い布紐が、きつすぎない程度に巻かれている。
 それを目にした瞬間、安宿媛は思わず息をのんだ。言葉が出ず、胸が強く締めつけられる。それは、幼い頃、彼女が皇子へ渡した天平文様の裂き布を、そのまま紐にしたものだった。
「それは、私が子どもの頃に、あなたにあげた物では」
 安宿媛が震える声で問うと、首皇子はほんの少し目を伏せ、優しい声音で、そっと語りかけた。
「君は俺にとって、本当に大事な子だったから」
「み、皇子。そんなこと言わないでください!私の幸せくらい、自分で、ちゃんと自分で決めますから!」
 その言葉を吐き出した瞬間、張りつめていた気持ちが一気にあふれ出した。安宿媛はもうこらえきれず、首皇子の胸へと飛び込むように抱きつき、抑えきれない声を漏らして泣き出してしまった。
 彼の自分に向けてくれる優しさはよく分かっている。その気持ちは胸が熱くなるほど嬉しい。けれど、それでも首皇子の考えだけは、どうしても受け入れられないと、安宿媛は強く思った。
 首皇子は、そんな安宿媛の悲しみを直に感じ取ると、そっと腕を回し、彼女を優しく抱きしめてくれた。
「安宿媛……本当に、ごめん」
 その声は、普段の彼からは想像できないほど弱く、聞いているだけで胸が締め付けられる気がした。
(首皇子、どうして)
 悲しい気持ちでいっぱいのはずなのに、こうして彼に抱きしめてもらうと、不思議と心が少しずつ落ち着いていく。その温もりに包まれているうちに、安宿媛の意識はだんだんと薄れていき、ついには、まぶたがそっと閉じていき、世界はゆっくりと遠のいていった。
 しばらくして、首皇子は彼女が自分の腕の中で眠ってしまったことに気づき、そっと身を離そうとした。
 だが、まだ眠りが浅いのか、安宿媛は無意識のまま彼の衣をきゅっとつかみ、その手を離そうとしなかった。
(あれ、完全には眠っていないのかな?)
 首皇子がそんな彼女を見て、どうしたものかと少し戸惑っていたその時、安宿媛はふいに寝言のような声で、彼に語りかけてきた。
「お願い、皇子……私のそばにいて。あなたに会えなくて……本当は、すごく寂しいの」
「え?」
 首皇子は思わず彼女の顔をのぞき込んだ。先ほどまで泣いていたせいか、長いまつげの先に、まだ涙がひと粒だけ残っている。
 それに気づいた彼は、ためらいがちに手を伸ばし、その涙をそっと指先で拭い取ってやった。
「安宿媛……そんなに、君は俺のことを」
 そんな彼女を前にして、首皇子の胸にふと迷いが生まれた。このまま彼女を遠ざけることが、本当に互いのためになるのだろうか。
 安宿媛のかすかな寝息を感じながら、首皇子は心のうちでひそかに揺れるものを感じていた。
「本当に君って子は。俺が誰のために、ここまで距離を置いてきたと思ってるんだよ」
 小さい頃から、十分な親の愛情を受けて育ったとは言いがたい彼にとって、これが何の感情なのかは――正直、本人にもよく分からない。
 そんな中でも、安宿媛の存在が自分にとってどれほど大きいのかを、今さらのように痛感していた。
 ただ自分に向かって「寂しい」と漏らす彼女の声が、どうしようもなく愛おしく思えたのは、間違いなかった。
(とりあえず、この件は一旦保留にしよう。今は明日に備えて休むべきだろう)
 首皇子はそう心の中でつぶやくと、そっと安宿媛の体を仰向けに戻し、彼女が布からはみ出さないよう調えた。
 そのあと、自分も彼女のそばに横になり、目を閉じた。だが、不思議なことに、首皇子は彼女の手をそっと探り、指先を絡めるようにして繋いだ。その方が彼女が安心して眠れるような気がして、離すことができなかったのだ。
 こうして二人は言葉にできない思いを抱えたまま、焚き火の揺らぎと夜の鳥の鳴き声の中で、山の夜は更けていった。