平城京の導き ~古都の物語〜

「とりあえず火をつけて、食事でも摂ろうか」
 二人は焚き火を起こし、従者から預かっていた木の筒の水を少しだけ器に移して火にかけた。
 そして温まり始めたところへ干し飯と煎った米を加えて柔らかくし、さらに干し肉を細かくちぎって混ぜた。
「おかずと言えるものは干し肉くらいしかないけれど、我慢してほしい」
「そんな、こうして温かい食事が摂れるだけで十分ですよ」
 安宿媛は首皇子に心から感謝しながら、目の前の食事をゆっくりと味わった。ご飯はほくほくと温かく、塩気のある干し肉が体の奥まで染み渡った。
 それに、こうして首皇子の隣で一緒に食事ができるだけで、胸の奥がふわりと温かくなってくる。
 食事を終えると、二人は岩陰に横になり、夜空を見上げた。今日はよく晴れていたおかげで、星々の輝きがいっそうはっきりと見て取れた。
 安宿媛は、首皇子と一緒に一枚の布にくるまっていた。本来なら、年頃の男女がこんなにも近くにいるのは少し問題かもしれない。だが、山の夜は思いのほか冷え込む。二人が風邪をひけば、明日動けなくなる可能性もある。
「仕方ないよ。今は体を冷やさない方が大事だ」と、首皇子がほんの少し照れたように言い、安宿媛もその判断にうなずいた。
「本当は、君だけ布に包まっていてくれれば、それで良かったのに」
「もう、それは言いっこなしにしたじゃありませんか?」
「ああ分かったよ。とりあえず、明日のこともあるしね。頃合を見て、君もゆっくり休んでくれていいから」
 とはいえ、安宿媛はこのまますぐに眠ってしまうのが、どこか惜しい気がしていた。
 そのすぐ隣で、首皇子は腕を頭の後ろに回したまま、静かに夜空を仰いでいる。
 いつもは皇太子として凛々しい姿を見せている彼だが、今はどこかあどけなさを残した、年頃の青年のように見えた。
「皇子とこうして横に並んでいるのって、けっこう久しぶりですね」
「そうだね。正直、もうこんなふうに――君とこうして過ごすことはないと思っていたよ」
 その言葉を聞いた瞬間、安宿媛の胸に、何ともいえない痛みが走る。
 たしかに今回のことで、彼が自分を気にかけてくれているのは痛いほど分かった。けれど、それでも二人の間には、どうしても越えられない壁のようなものがある気がしてしまう。
「皇子にとって、私は迷惑な存在ですか?」
 安宿媛は、もういても立ってもいられず、思い切って本心を口にした。その瞳はひどく揺れていて、彼女の不安が隠しきれずに滲んでいた。
 その言葉に、首皇子は驚いたように大きく目を開き、思わず彼女の方へと顔を向けた。
「べ、別に君のことを迷惑になんて、一度も思ったことはない!」
「じ、じゃあ、どうして私のことを避けるようにされるんですか?やっぱり、私が藤原不比等の娘だから……それが原因なんですか?」
「ち、違うよ。君が不比等の娘だからとか、そんなことじゃない。それとこれとは、まったく関係ないんだ。ただ、君を巻き込みたくなかっただけで」
「巻き込みたくない? それは、どういう……?」
 その問いかけに、首皇子は諦念したように小さく息をついた。どこか気まずそうに視線をそらしながら、ゆっくりと、その理由を語りはじめた。
「俺の母は俺を産んだあと、心の病にかかってしまってた。それからは一度も会えないままだ。そのことは、君も知っているだろ?」
「えぇ、もちろんです。だからこそ、皇子は私と同じ敷地で育てられたのですから」
「母は、君の姉であり、藤原氏の娘だ。つまり、本来は皇族の生まれではない。そのことが、ずっと大きな重荷になっていたんだと思う。だから俺を産んだあと、心がすっかり疲れてしまったんだ」
「そ、それと私に、何の関係があるんですか?」
 言葉を口にしながらも、心のざわつきが止まらない。
 その問いに、首皇子はさらに言いづらそうに息を飲み、けれど覚悟を決めたように安宿媛の瞳を真っすぐ見つめて話し始めた。
「君はとても純粋な子だ。だからもし君が俺のもとへ嫁いで、権力の渦に放り込まれたら、母と同じ目に遭うんじゃないかと。それが怖かった」
「まさか……その理由で、私との婚姻を拒まれたのですか?でも、もしそうならどうして広刀自様は?」
「べ、別に彼女を妃にすると、はっきり決めているわけじゃない。それに、お互いに愛情があるわけでもないし、彼女に皇子を産んでほしいと望んでいたわけでもないから」
「そ、そんな……」
 そこで首皇子は、ふと視線を落とし、少しだけ声を低くした。
「それに、君を拒んだ理由は、もう一つある。俺の父は短命だったし、その上の祖父も若くして亡くなっている。つまり――俺も、長く生きられないかもしれないんだ」
「で、でも、それは、まだそうと決まったわけじゃないじゃないですか!」
 安宿媛にとって、これが一番の衝撃だった。
 彼の母のことは知っているから、まだ理解はできる。けれど――首皇子が短命かもしれないという話だけは、あまりに突然で、しかも根拠のない想像にすぎない。彼はそんな理由で自分を避けていたのだと思うと、胸がぎゅっと痛くなった。