平城京の導き ~古都の物語〜

 普段、このような獣道を歩くことのない安宿媛は、首皇子の手を強く握りしめながら、一歩一歩進んでいた。その手を離してしまえば、たちまち足元の不安が押し寄せてきそうで、とても指を離す気にはなれない。
 道は決して歩きやすいとは言えず、先ほど崖下へ落ちた時の衝撃が、まだ体に心の揺れとして残っている。いつ、また足を滑らせてしまうのか――そんな思いが頭を離れず、彼女の歩みは自然と慎重なものになっていた。まだ日中ではあるものの、この山道では日が落ちるのも早いだろう。
 だが、そんな安宿媛とは対照的に、首皇子はどこまでも冷静だった。
 彼自身も、普段からこんな獣道を歩き慣れているわけではないはずなのに、その表情には揺らぎがない。
(どうして、首皇子はこんなにも平静でいられるの?)
「皇子は、思いのほか平気そうでいらっしゃいますね。正直、少し意外でした」
「それは、なんというか。日頃はずっと東院の中に籠もりきりだからね。それに行幸の道中も、輦の中でただ座っているだけで退屈だったし。やっぱり自分の足で歩く方が、ずっと気が楽なんだ」
(やっぱり首皇子は、この状況をどこか楽しんでいるみたい)
 十一月を過ぎ、二人が歩く山道にはひんやりとした空気が漂っていた。
 木々の隙間を、たびたび冷たい風が抜けてゆく。そのたびに落ち葉がふわりと浮き上がり、彼らの足音に押されて、さらりと道の上を転がっていく。
 それでも、二人で歩くうちに体は自然と温まり、何より首皇子がしっかりと握ってくれている手の温もりが、心までも包み込むように暖かかった。
「私は皇子の手を握っていないと、本当に不安です」
「君がそんなふうに弱気になることもあるんだね。そういえば、そんな君を見るのは、初めてかもしれない」
 彼はそう言って、どこか愉快そうに微笑んでみせた。
 安宿媛は、彼の横顔を見つめながら、ふとそんな思いを胸に抱いた。
「でも、皇子がそばにいてくださって、本当に今はありがたいです。もし、あの時落ちたのが私ひとりだったら......どうしていたか分かりません」
「その時は、俺が後を追って落ちていったと思うよ。君を助けないわけにはいかないから」
「え、皇子が、どうして私を?」
 そんなこと、ほかの従者に任せればよいだろうに。何も、皇太子である彼がそこまでしてくれる必要はないはずだ。
「自分でもうまく言えないけれど……そういう時の君を、放っておけないと思ったんだ」
 そう言いながら、首皇子はほんのわずかに視線をそらした。いつもの落ち着いた表情のままなのに、その仕草だけがどこか照れくさそうにも見えた。
「そ、そうですか」
 安宿媛には、彼が何を思っているのかがよく分からなかった。自分が藤原不比等の娘だからなのだろうか――そんな考えが胸をかすめる。けれど、今はそれ以上深く追究するのはやめておくことにした。
「しかし、この道は思っていたより入り組んでいるね。少し外れただけで方角を見失いそうだ。このまま進むしかなさそうだ」
「はい、そうですね」
 それから二人は黙々と進んでいくも、だんだんと陽が暗くなり始めて来た。やがて西の空で陽がゆるやかに沈みはじめ、道の先が少しずつ影に包まれていく。このまま進めば、やがて真っ暗な闇の中へと入り込んでしまうだろう。
 二人の表情にも、次第に不安の色が浮かびはじめていた。このまま急いで進むのは、さすがに危険だろう。
「はぁ、仕方ない。今日はどこか休める場所を見つけて、夜を明かした方が良さそうだ」
 そんな折、二人は偶然、岩の下が洞穴のようにえぐれた場所を見つけた。
 岩陰は思いのほか風や雨を避けられそうで、足元には乾いた土が広がっている。
獣のすみかではなさそうだと確かめ、二人はそこでそっと身を落ち着けることにした。
 近くに積もっていた落ち葉を拾い集め、土の上に広げてから布をその上にかけた。その上に腰を下ろすと、葉が乾いているおかげで冷たさもほとんどなく、思ったよりも快適だった。
「まさか、こんな場所があるなんて。大昔に誰かが使っていたのかしら」
「まあ、そうかもしれないね。あまり人が通う場所でもないし、そのまま忘れ去られてしまったのかもしれない」