平城京の導き ~古都の物語〜

 安宿媛がその場を離れようと身を翻した、その瞬間だった。
 首皇子が慌てたように手を伸ばし、そっと彼女の腕をつかんで引きとめた。
「何で、ここから離れようとするんだ」
 安宿媛ははっとして、首皇子の顔を見つめた。
 彼はどこか戸惑ったような表情を浮かべていて、その視線に思わず息をのんでしまう。
「でも、ここに私がいても……」
 その言葉を聞いた首皇子の眉が、かすかに動いた。どこか不満そうに彼女を見つめたまま、彼は安宿媛の腕をそっと引き寄せ、自分の方へ向かせた。
 安宿媛は思わず足を止め、その場を離れるのをやめた。 どうしていいか分からず、視線を伏せてしまう。
 彼女が動かないと気づくと、首皇子はようやくそっと手を離した。そして、どこか戸惑いをおびた視線を横へそらしながら、口を開いた。
「今回の地震が起きた時、俺も被災地へ向かった。その時、君の姿を見かけたんだ。農民たちに交じって、懸命に人々を助けていたね。あれには本当に驚かされたし、感謝もしている」
「え、あの場にいらしていたのですか?」
「あぁ。現地の様子を確かめに行っていた。君は、本当にすごいと思うよ」
(まさか皇子に、あの場を見られていたなんて!)
 安宿媛は、あまりのことに思わず目を丸くした。あの時の自分は、衣も土で汚れ、髪も乱れていて、とても貴族の娘らしい姿ではなかった。そんなあり様を――よりによって皇子に見られていたとは。
「本来なら、ああした場に立つのは、皇族の自分たちのはずなのに」
 首皇子はそう言って、ほんのわずかに俯いた。その横顔には、彼自身のやるせない思いが、言葉にならずにじんでいるようだった。
 安宿媛はそんな彼を見つめ、胸の奥がきゅうっと切なく締めつけられるような気がした。
「そ、そんな。皇子がそこまでご自分を責めることではありません!あれは、私が勝手にやったことなのですから」
 彼女が慌ててそう言った、その瞬間だった。足元の小石に気づかずに踏みかけ、身体がぐらりと後ろへ傾いた。けれど、すぐ後ろは少しだけ崖になっていて、つかまれるような枝や岩も見当たらない。
 視界の端に首皇子の姿がよぎったまま、身体はふっと均衡を失い、そのまま後ろへ傾いていった。
「安宿媛ーー!」
 首皇子は、とっさに身を乗り出し、慌てて彼女へ手を伸ばした。しかし、掴んだ彼女の腕を支えきれないまま、二人の身体は姿勢を崩し、そのまま崖の斜面へと滑り落ちていった。
 首皇子は自分のことなど顧みず、必死に安宿媛を抱き寄せたまま、ずるずると斜面を転がるように滑り落ちていく。
 やがて、草むらの茂った場所で二人の身体はようやく止まった。
 首皇子は、安宿媛を抱えたまま身体をゆっくりと半分起こした。
 そして大きく息を整えると、周囲へと視線を巡らせた。どうやらここは獣たちが通る細い道らしく、斜面の先には、かろうじて人が歩けるほどの細い道が続いているようだった。
「ふう、何とか止まれたか。安宿媛、君は大丈夫?」
 安宿媛も必死で首皇子にしがみついていたが、その声に我に返り、はっと目を見開いて彼を見つめた。
「はい、私は大丈夫です。ですが……皇子は?」
「腕や足を少し打っただけみたいだ。痛みはあるけれど、歩けないわけではなさそうだ」
「それは、本当に良かったです。ですが、私のせいで皇子がこんな目に……」
 安宿媛は動揺のあまり、思わず涙がにじんでしまった。
 彼がそばにいてくれたことに胸をなで下ろす一方で、こんなふうに巻き込んでしまったことが悔やまれてならない。
「いや、俺が突然声を掛けたのがいけなかったんだ。とにかく、君が無事で本当に良かった」
 そう言うと首皇子は、安宿媛をそっと抱き寄せた。
 落ちていく途中で彼にとっさに守られたあの腕の力と、触れた胸の温もりがよみがえり、全身へじんわりと安堵が広がっていく。
(お、皇子……?)
 とはいえ、今は状況が状況だった。とにかく二人とも大きな怪我をしなかったのは、不幸中の幸いである。
 安宿媛は、首皇子の胸にひたすらしがみついていた。まだそうしていないと、この状況をうまく受け止められそうになかった。
 首皇子もそんな彼女の心情を察したのか、無理に引き離そうとはしない。そっと腕を彼女の背に回し、落ち着くのを待つように、そばに寄り添っていた。