平城京の導き ~古都の物語〜

 一行は思い思いの場所で休みを取り始め、安宿媛も馬を降りてひと息ついていたが、やがて彼女は、気分転換に休憩場所からさらに高い場所へ移動してみることにした。
 しばらく進むと視界が開けた場所に出て、そこからどうやら周囲の景色を見渡せそうだ。
 安宿媛は思わず崖のそばまで駆け寄り、両手を伸ばして大きく背伸びをした。高い場所ならではの澄んだ空気を、思い切り胸いっぱいに吸い込んでみる。
「わぁ、こんな場所があるのね!」
 美濃は奈良の盆地と違い、高い山々が連なり、そのあいだをいく筋もの河川や谷が走る、山と水の豊かな土地だ。
 遠くに見えるあの大きな流れは、木曽川だろうか。山から吹き下ろす風と、木曽川の谷を渡ってくる風が混じり合い、どこか草木の青い香りを運んでくる。
(美濃なんて、次はいつ来られるかわからないから、しっかりと目に焼き付けておかないと)
 足元の崖に落ちないよう気をつけながら、彼女はそばに大きく張り出した岩を見つけた。ちょうど座れそうだったので、そっと腰を下ろした。
 岩にはうっすら土がついていて、足を動かすと小石がころころと落ちていく。
「平城京は盆地だから、こういった高い所へ来ることはあまりないのよね」
 彼女はふと、子どもの頃のことを思い返した。当時、自分が遊べる場所といえば、京の外でもごく限られたところだけだった。
 遠くのほうには、昔の天皇のお墓がいくつも連なっていて、その光景を眺めながら、よくあの辺りを走り回っていたものだ。
(秋になると、蜻蛉がいっぱい飛んで、こおろぎもよく鳴いていたわね。それから、皇子と歌を詠んだりして……)
 その頃のことを思い返しながら、彼女はふとクスクスと笑みを浮かべた。ふいに、小さな頃の自分たちの姿が鮮やかによみがえる。
 当時の安宿媛と首皇子は、歌を詠むのがあまり得意ではなかった。それでも二人で顔を寄せ合い、慣れない筆を手に、何とか知恵を絞って木簡に向かっていた。
 ある日は、部屋いっぱいに広げた何枚もの木簡を前に、二人そろって真剣な表情で筆を走らせたものだ。書いては悩み、悩んではまた書き直し――そんな拙い時間が、今ではいっそう懐かしく思える。
「こればかりは、やっぱり才能が必要なのかしら。誰かに教えてもらえたらいいのに」
 その頃の記憶は、まるで最近の出来事のように鮮やかに胸へよみがえる。できることなら、あの頃がずっと続いていればよかった。そう思えてしまうほどに。
 そんなことを一人で考えていた、その時だった。
 どこからか、かすかな足音が聞こえてくる。こちらへ誰かが近づいてくるようだ。
(誰かが、ここにやって来ている?)
 安宿媛は慌てて岩から立ち上がり、後ろを振り返って、ここまで続く細い道の先へ視線を走らせた。
 すると、一人の青年がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
 相手も安宿媛の姿に気づいたようで、わずかに驚いた表情を浮かべると、そのまま彼女のほうへ歩み寄ってきた。
「首皇子……どうしてここに?」
「安宿媛、君も来ていたんだ」
 まさか首皇子がこんな場所に現れるとは思ってもおらず、安宿媛は思わず息をのんだ。
 二人は互いに視線を合わせたまま、ほんの一瞬、言葉を失ってしまう。
 近づけば言葉を交わせられる。でもなぜか胸がそわそわして、どちらも一歩を踏み出せずにいた。
 やがて首皇子が小さく息を吐き、沈黙を断つように静かに口を開いた。
「ふう、ずっと輦に揺られての移動で、少し疲れてしまったんだ。外の空気でも吸おうと思ってね。君もそうなの?」
「はい、私も気分転換をしようと思って……」
 安宿媛はその先の言葉がうまく続かず、思わず視線をさまよわせてしまう。何か言わなければとは思うのに、どうしても言葉が喉の奥でつかえてしまい、うまく話せなかった。
 そんな彼女の様子に、首皇子もわずかにため息を漏らした。
(だ、駄目だわ……こんな状況、耐えきれない)
「皇子がここで休憩されたいようでしたら、私は先に戻りますね。では、これで失礼します」
 彼女はそう言うと、慌ててその場を離れようとした。