一方、首皇子は葱花輦に乗って移動していた。
これは皇太子や皇后が乗るための輿で、とても煌びやかな装飾が施されている。けれど、華やかな輿の中は思いのほか退屈で息苦しく、外の空気を求めて視線が自然と外へ向いていった。
彼は、屋根から垂れた布が内側を覆い隠す中、そのわずかな隙間から外の景色をそっと眺めていた。
前も後ろも従者の行列が続き、川沿いにはのどかな風景が広がっていた。だが、その穏やかさは、彼の心を晴らすものではなかった。
(つくづく、輦に乗るのは好きじゃない。やっぱり馬で進むほうが、ずっと気が楽だ)
首皇子は、あまりの退屈さに思わずあくびを漏らした。遠出そのものは決して嫌いではない。けれど、できることなら馬に跨がり、自身で思いきり駆け抜けていきたかった。
そんな光景を思い描いていた時である。ふと、輦が一度止まった気配がして、外に控える従者が布越しに声をかけてきた。
「皇子、天皇より、もしお疲れでしたらこの先で休憩を取ろうかとのお言葉でございます」
「ふん、俺よりも叔母上のほうが、よほどお疲れだろうに……。俺はこのままで構わないよ。だが、従者たちが疲れているのなら、その者たちを休ませてやりたい。そう伝えてくれないか」
「かしこまりました。では、そのようにお伝えいたします」
従者の男は小さくそう告げると、天皇のもとへと小走りに向かっていった。
皇子がふと前方を覗くと、天皇の乗る輦も、どうやら一度止まっているように見えた。
輦の揺れがふっと収まり、しばし静寂が訪れる。
首皇子は、ふと小さくつぶやいた。
「平城京のほうの被害は大きかったが、どうやらこの辺りは、まだ幾分軽く済んでいるように思える」
彼は、輦が再び動き出したのを確認してから、あらためて外へ視線を向けてみる。少し離れた場所には、ところどころ農民の家も建っているが、家の土壁が壊れかけていたり、草木が倒れたりもしてはいるものの、そこまで大きな被害が出ている様子は見られない。
季節は稲の収穫期にあたり、遠くでは田んぼの稲刈りが始まっている様子がうかがえる。どうにか今年も、稲はそれなりに実ってくれたようだ。
そんな光景を目にした首皇子は、そっと胸をなで下ろした。天皇も言っていたとおり、国というものは、農民たちの働きあってこそ成り立つのだ。
だからこそ、畑を放棄して逃げ出す者が増えているという現状は、どうにも見過ごすことができない。
(それにしても……彼女も、今この光景を見ているのだろうか)
ふと首皇子の脳裏に、安宿媛の姿がよぎった。前回の地震の被災地で彼女を見かけて以来、その姿をまったく見ていない。
彼女も、いまは自分より後方の列で、不比等に連れ添って移動しているはずだ。
「まあ……ここ何年も、まともに顔を合わせることはなかった。それが最近になって、また姿を見かけるようになったな」
彼はふと、手首に巻きつけていた布紐に視線を落とした。もう何年も経っているせいか、少し古びてはいるものの、繊細な天平文様が施されている。どちらかといえば、女性が好むような柄だ。
『これ、首にもあげるね!』
まだ十歳にも満たない彼女が、笑顔でそう言って手渡してくれたものだった。
父を亡くし、母にも会えない――そんな孤独の中で、幼い自分を支えてくれたのは、間違いなく彼女だった。
「……彼女を、自分のことに巻き込むわけにはいかないんだ」
そうつぶやくと、彼は手首に巻きつけていた布紐を、そっと袖の陰へと隠した。
それからしばらくして、一度休憩を挟むこととなった。
天皇をはじめ皇族たちは、従者とともに休息をとり、安宿媛も父のそばで腰を下ろし、従者たちとゆったり言葉を交わしている。
しかし首皇子だけは、なぜだか葱花輦から姿を見せず、ひとり輿の中に留まっているようだった。
その後も再び輿の列は進み続け、一行の疲れが重なってきた頃、夕方には近江へと入ることができた。
この日の宿として選ばれたのは、かつて近江に置かれていた旧宮である。長らく人の手が入らず荒れていたが、今回の行幸に備え、この地に暮らす者たちが、使えるようにと整えてくれていた。
一行は宮に到着すると、いくつかの組に分かれて焚き火を起こし、持ち寄った非常食を囲んで夕餉をとることにした。
安宿媛は不比等のそばで食事をとりながら、ふと空を見上げる。日はまだ完全には落ちておらず、涼やかな風がそっとその場に流れていく。平城京で感じる風とは、どこか違っているように思える。
一方で、天皇や皇族たちは宮の奥で休んでいるらしく、従者の用意した食事を囲み、酒をたしなみながら、ゆったりとくつろいでいるようだった。
その明かりの中に、首皇子の姿も見える。安宿媛は、ようやく彼の姿を見つけた。けれど、ここからでは少し距離があるため、表情までは分からない。
それでも、皇太子らしく天皇たちの言葉に耳を傾けているのは、遠目にも分かった。
安宿媛はしばらくその姿を見つめていたが、やがてそっと視線を戻した。
その後、彼らはそれぞれ眠りにつくことになった。
天皇や皇族たちは宮の中央へ移り、不比等と安宿媛は従者たちとともに、側の建物の中へ入っていく。
ほかの者たちは、できるだけ雨露をしのげる場所を探しながら、いくつかの組に分かれて横になり始めた。
一行はその夜、ここで休息をとることになる。
これは皇太子や皇后が乗るための輿で、とても煌びやかな装飾が施されている。けれど、華やかな輿の中は思いのほか退屈で息苦しく、外の空気を求めて視線が自然と外へ向いていった。
彼は、屋根から垂れた布が内側を覆い隠す中、そのわずかな隙間から外の景色をそっと眺めていた。
前も後ろも従者の行列が続き、川沿いにはのどかな風景が広がっていた。だが、その穏やかさは、彼の心を晴らすものではなかった。
(つくづく、輦に乗るのは好きじゃない。やっぱり馬で進むほうが、ずっと気が楽だ)
首皇子は、あまりの退屈さに思わずあくびを漏らした。遠出そのものは決して嫌いではない。けれど、できることなら馬に跨がり、自身で思いきり駆け抜けていきたかった。
そんな光景を思い描いていた時である。ふと、輦が一度止まった気配がして、外に控える従者が布越しに声をかけてきた。
「皇子、天皇より、もしお疲れでしたらこの先で休憩を取ろうかとのお言葉でございます」
「ふん、俺よりも叔母上のほうが、よほどお疲れだろうに……。俺はこのままで構わないよ。だが、従者たちが疲れているのなら、その者たちを休ませてやりたい。そう伝えてくれないか」
「かしこまりました。では、そのようにお伝えいたします」
従者の男は小さくそう告げると、天皇のもとへと小走りに向かっていった。
皇子がふと前方を覗くと、天皇の乗る輦も、どうやら一度止まっているように見えた。
輦の揺れがふっと収まり、しばし静寂が訪れる。
首皇子は、ふと小さくつぶやいた。
「平城京のほうの被害は大きかったが、どうやらこの辺りは、まだ幾分軽く済んでいるように思える」
彼は、輦が再び動き出したのを確認してから、あらためて外へ視線を向けてみる。少し離れた場所には、ところどころ農民の家も建っているが、家の土壁が壊れかけていたり、草木が倒れたりもしてはいるものの、そこまで大きな被害が出ている様子は見られない。
季節は稲の収穫期にあたり、遠くでは田んぼの稲刈りが始まっている様子がうかがえる。どうにか今年も、稲はそれなりに実ってくれたようだ。
そんな光景を目にした首皇子は、そっと胸をなで下ろした。天皇も言っていたとおり、国というものは、農民たちの働きあってこそ成り立つのだ。
だからこそ、畑を放棄して逃げ出す者が増えているという現状は、どうにも見過ごすことができない。
(それにしても……彼女も、今この光景を見ているのだろうか)
ふと首皇子の脳裏に、安宿媛の姿がよぎった。前回の地震の被災地で彼女を見かけて以来、その姿をまったく見ていない。
彼女も、いまは自分より後方の列で、不比等に連れ添って移動しているはずだ。
「まあ……ここ何年も、まともに顔を合わせることはなかった。それが最近になって、また姿を見かけるようになったな」
彼はふと、手首に巻きつけていた布紐に視線を落とした。もう何年も経っているせいか、少し古びてはいるものの、繊細な天平文様が施されている。どちらかといえば、女性が好むような柄だ。
『これ、首にもあげるね!』
まだ十歳にも満たない彼女が、笑顔でそう言って手渡してくれたものだった。
父を亡くし、母にも会えない――そんな孤独の中で、幼い自分を支えてくれたのは、間違いなく彼女だった。
「……彼女を、自分のことに巻き込むわけにはいかないんだ」
そうつぶやくと、彼は手首に巻きつけていた布紐を、そっと袖の陰へと隠した。
それからしばらくして、一度休憩を挟むこととなった。
天皇をはじめ皇族たちは、従者とともに休息をとり、安宿媛も父のそばで腰を下ろし、従者たちとゆったり言葉を交わしている。
しかし首皇子だけは、なぜだか葱花輦から姿を見せず、ひとり輿の中に留まっているようだった。
その後も再び輿の列は進み続け、一行の疲れが重なってきた頃、夕方には近江へと入ることができた。
この日の宿として選ばれたのは、かつて近江に置かれていた旧宮である。長らく人の手が入らず荒れていたが、今回の行幸に備え、この地に暮らす者たちが、使えるようにと整えてくれていた。
一行は宮に到着すると、いくつかの組に分かれて焚き火を起こし、持ち寄った非常食を囲んで夕餉をとることにした。
安宿媛は不比等のそばで食事をとりながら、ふと空を見上げる。日はまだ完全には落ちておらず、涼やかな風がそっとその場に流れていく。平城京で感じる風とは、どこか違っているように思える。
一方で、天皇や皇族たちは宮の奥で休んでいるらしく、従者の用意した食事を囲み、酒をたしなみながら、ゆったりとくつろいでいるようだった。
その明かりの中に、首皇子の姿も見える。安宿媛は、ようやく彼の姿を見つけた。けれど、ここからでは少し距離があるため、表情までは分からない。
それでも、皇太子らしく天皇たちの言葉に耳を傾けているのは、遠目にも分かった。
安宿媛はしばらくその姿を見つめていたが、やがてそっと視線を戻した。
その後、彼らはそれぞれ眠りにつくことになった。
天皇や皇族たちは宮の中央へ移り、不比等と安宿媛は従者たちとともに、側の建物の中へ入っていく。
ほかの者たちは、できるだけ雨露をしのげる場所を探しながら、いくつかの組に分かれて横になり始めた。
一行はその夜、ここで休息をとることになる。



