いよいよ、元正天皇一行は美濃へ向けて出発の日を迎えていた。
天皇や一部の皇族は、鳳輦に乗って進んでいた。四角い台の四隅に柱を立て、その上に屋根を載せ、人が担いで進む——都の祭礼でもよく見られる、あの格式ある乗り物である。
一行は平城宮を後にし、北へと道を取り、そのまま近江を横切って美濃へと向かう。
一方の安宿媛は、父・不比等の馬に同乗し、皇族たちの列の後について進んでいた。
「お父さま、今日は雨もなく、良いお天気に恵まれましたね」
「あぁ、これなら途中で足止めを食らうこともあるまい」
安宿媛にとって、美濃を訪れるのはこれが初めてのこと。もともと遠出をすることの少ない彼女にとって、この旅は良い気分転換にもなりそうだ。
「はぁ……まさかお前が、この行幸に同行することになろうとはな」
「もう、その話は何度もしましたでしょう? これは天皇のご厚意なのですから」
「ああ、だからこそ私も許したのだ。だが三千代のやつは、最後まで頭を抱えていたぞ」
「お父さまったら。ここまで来たのですから、もう良いではありませんか!」
安宿媛はそう言って、少しふてぶてしい態度をとってみせる。けれどもぷいとそっぽを向きながらも、その横顔はどこか楽しげだった。
皇族の者がいる前で、後宮勤めの経験もない安宿媛が失礼のないように――母の三千代は、そのことを最後まで案じていた。
「とりあえず、お前は出来るだけ私の側を離れるでないぞ」
「はい。道中の無事を、心のうちでそっとお祈りしております」
十一月に入り、奈良の空気も季節の頃合いが変わり始め、日に日に肌に寒さを覚えるようになってきた。本来、美濃へは春先に向かう取り決めであったが、都の地震による影響を案じ、天皇は今回の行幸を早めて行うことにした。
「まぁ、途中で休憩も挟むが、五日もあれば辿り着けるだろう。先に様子を見に行かせてもいるしな」
「確かに、先日の地震で、道中の様子がどうなっているか分かりませんから」
彼らは、山々に挟まれた盆地を北へゆっくりと進んでいった。
そばを流れる木津川沿いの道は、奈良の都と美濃を結ぶ東山道の一部であり、古くから人や物資が行き交う、この時代の重要な交通路であった。
不比等は馬を進めながら、周囲の光景を眺めていた。やがて、その脳裏にふと一つの案が浮かぶ。
「この先は場所的にも開けたところだから、ゆくゆく都の拠点のようなものが作れたら良いかもしれないな」
「え、まさか……また都を移すなんてこと、ないですよね?」
「いいや、何もそこまでは言っていない。だが将来的に新たな都を築くとなれば、さらに北へ進むのも悪くはないかもしれん」
「以前、藤原京からの遷都でも、あれだけ大変だったんですよ。私はもう懲り懲りです」
「だがな、私たち人が生きている限り、さらに良い土地が今後見つかるかもしれない」
不比等の目には、この先に広がる道の向こうに、まるで未来の京の姿が見えているかのようであった。
だが、そんな父の考えは、娘の安宿媛にはうまく理解できずにいた。
「私は、平城京のままで良いです!」
「まぁまぁ、そう言うな。心配しなくとも、今の天皇はそこまでは考えていないはずだ」
「えぇ、天皇のお考えが変わらないことを祈りたいです」
そんな親子のやり取りを交えながら、一行はさらに北へと進んでいく。
十一月の風は冷たかったが、その進む先には、日差しに照らされた東国へ続く道が広がっていた。
(これはきっと、良い旅になりそうね)
安宿媛は、この旅に微かな期待を抱いていた。



