平城京の導き ~古都の物語〜

「もちろん、この国には古来から崇拝されてきた神々もいるけれど、より救済を広めていくうえでは、仏教の教えがきっとこの国に必要だったのよ」
「安宿媛、それは本当に素晴らしいお考えです」
「まぁ、ちょっと思って言ってみただけですけど」
 安宿媛は少し照れたようにそう答えた。だが、ここでの経験が、彼女をひとつ成長させる大きなきっかけとなったことに違いない。
「じゃあ今日も、もう一ふんばり頑張らないと。私、先に行くわね」
 そう言って彼女は、自身の持ち場へと戻っていった。毎日働き詰めで疲労も相当溜まっているはずなのに、その足取りはどこか軽やかに見えた。
 真備はそんな彼女の後ろ姿を、どこか誇らしげに、そして微笑ましく見つめていた。
 持ち場へ戻ると、周囲では他の女性たちが忙しそうに動き回っている。
 先ほど彼女が聞いた話では、ここに集まった人々の努力のおかげで、この数日間で、死者の数もかなり減らせたという。
 これも、真備たちが懸命に家々を見て回り、傷を負った者をすぐに救い出して手当てしてきた、その成果なのだろう。
(さて、次は洗い物をしないと!)
 安宿媛は木の板で作られた桶に水を入れ、その横に積まれた大量の布や衣類を手に取ると、一枚一枚洗い始めた。

 彼女が洗い物に励んでいると、少し離れた場所に馬に乗った二人組が姿を見せた。
 それは首皇子と、その従者の男性である。今日は視察のため、この付近を訪れていたのだ。首皇子は皇太子としての身分を示すため、黄丹の衣をまとっていた。
 安宿媛の噂は、彼らの耳にも届いていたらしく、しばらくはそっとその様子を眺めていた。
「ほぉ……噂では聞いておりましたが、本当に安宿媛が来られていたのですね」
「正直、今回は俺もかなり驚いている。まさか彼女がこのような行動に出るとは……」
 二人の視線の先には、貴族の娘としての品を保ちながら、泥にまみれてもなお生き生きと働く安宿媛の姿があった。本来なら、貴族の娘といえば綺麗な衣をまとい、香の匂いを漂わせているものだ。だが彼女は、そうした飾りなどなくとも、他のどの貴族の娘よりも輝いて見えた。
 やがて、新たな洗濯物を抱えた女性が彼女の元へやって来る。
安宿媛はその女性に気づくと、ぱっと笑顔を向けて洗濯物を受け取っていた。
「ここにいる人たちとも、とても打ち解けているようですね。貴族の娘としての自覚を持ちながら、あそこまで気さくに農民たちと接されるとは、何とも素晴らしい」
「それにしても、お祖父さまがこのことをお許しになるなんて、少し意外だったよ」
 首皇子はどこか柔らかな表情でそう答えた。自分の知らぬ間に、彼女がこんなにも変わっていたことに、思わず目を見張った。
「でも……何とも勿体ない気がしますね」
「え、勿体ないとは?」
 従者の男は、働く安宿媛を見つめながら静かに言葉を続けた。彼の目には、安宿媛に対する何とも言えない興味深さが宿っていた。
「あのような方がこの国を支えてくだされば、この国はもっと良き国となるでしょうに」
「彼女が……国を支える……」
 首皇子はその言葉を受け、真っ直ぐ安宿媛の姿を見つめた。今目の前にいる彼女は、彼の記憶にある幼馴染の姿とは、どこか少し違って見えた。
(彼女には、何の苦しみも味わわず、ただ穏やかに生きていてほしい。──ずっと、そう願っていたはずなのに)
「そんなこと、考えたこともなかったよ」
「彼女は身分に関係なく、多くの人に慕われています。それに、噂で聞く限りでは、とても信仰心の篤い方だとか。本当に素敵なお方ですよ」
 従者は安宿媛を見つめながら、しみじみとそう語った。
「俺も、ここへ来るまではそんな印象はなかったけど…… 今日の様子を見て、少し考えが変わった気がする」
 そう口にした瞬間、首皇子の胸の奥に、かすかな衝撃が走った。自分の知らぬ間に、彼女がこんなにも変わっていたことが、とても意外だった。
「まあ、これは私個人の意見ですので、聞き流してください」
 そう話していると、真備が安宿媛のもとを訪れ、差し入れの水を手渡していた。安宿媛はその水をありがたく受け取り、何か楽しそうに彼へ話しかけている。その光景を眺めているだけでも、二人がどれほど打ち解けているかが、自然と伝わってきた。